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「スヌーピー、どこに行ったの? スヌーピー」

 日の暮れかかった公園で、武彦は犬を探していた。

 一週間前に拾った子犬に、母親の好きなキャラクターの名前をつけた。なのに飼うことを禁じられた。どうしても捨てられなかった武彦は、両親に黙って公園で飼い続けていた。

 その日は土曜日。めったに雪の降らない街に、昼過ぎから雪が舞い始めた。積もるという天気予報を聞いたので、今夜だけ犬をつれて帰るつもりだった。なのにスヌーピーはいない。

 寒さを避けられる場所にいればいいのにと心配しながら、草むらやベンチの下を探した。どこにも姿をみつけられず肩を落としていると、別荘地に続く山道の方で犬の吠える声がした。積もり始めた雪の上を転ばないように気をつけながら、武彦は走った。雪が頬に当たり、吐く息が白く凍った。

 十五分ほど探しまわったところで、ようやくスヌーピーを見つけた。声をかけると尻尾をふって答える。武彦は子犬を抱き上げ、来た道を戻ろうとした。だが――。

「ここ、どこ?」

 何度か来たことのある山道は、黄昏時の中で未知の場所に変わっていた。歩き慣れた道から外れてしまったようだ。すでに雪が数センチ積もり、車も通らない。助けを呼ぼうにも人影もない。武彦はスヌーピーを抱き、途方に暮れながら知った道を探して歩いた。

 両親が探しに来ていることを期待し、大声で呼んでみたが、反応がない。やがて日が落ち、あたりは闇に包まれる。幼い武彦はどうしようもない絶望感に襲われ、体が動かなくなった。だが悪いことばかりではない。暗くなったおかげで、遠くに明かりがともされているのを見つけた。

「スヌーピー、行ってみよう」

 疲れと空腹で、武彦の体力はほとんど残っていなかった。気力だけで歩き始めたが、明かりまであと少しという所でとうとう足が動かなくなった。最後の力で踏み出した一歩は体を支えられず、武彦は地面に倒れ込んだ。その寸前、スヌーピーが武彦の腕から飛び出した。

 犬の鳴き声が遠ざかる。武彦はそれを目で追うこともできない。雪でぬかるんだ冷たいはずの道は、不思議と暖かだった。冷えきった体の感覚は完全に麻痺していたのだろう。ひどい眠気に襲われて、武彦はゆっくりと目を閉じた。


 目を開けたとき、見覚えのない天井が見えた。

「ここは……どこだろ?」

 木のにおいのするリビングで、武彦は毛布をかけられてソファベッドに寝かされていた。部屋の一角にはテーブルといすがある。暖炉で燃える火が部屋を暖めていた。雪の中で凍え死んで、天国に来たんだろうか。試しに自分のほおをつねってみた。

「いたっ」

 少なくとも夢ではなさそうだ。

「あら、目が覚めたようね。もう寒くない?」

 扉が開いて、女性が入ってきた。透けるような真っ白な肌に黒い髪をした、きれいな人だ。白いワンピースが目に眩しかった。女性は武彦の着ていた服を枕元においた。そのとき初めて、だぶだぶのTシャツを着せられていることに気づいた。

 知らない人に話しかけられ、武彦はなんと返事をすればいいのかわからない。黙ったまま俯いていると、鳴き声とともに子犬が入ってきた。

「スヌーピー!」

 武彦が呼ぶと犬は駆け寄り、嬉しそうに腕に飛び込んだ。

「この子偉いわね。倒れてるきみのところに私を引っ張っていったのよ」

「スヌーピーが?」

 武彦は子犬を抱きしめた。温もりが優しくて涙が出てきた。

「命の恩人ね」

「でも、スヌーピーはぼくの犬じゃない。お母さんが飼っちゃダメって。うちマンションだから……」

 武彦は手の甲で涙を拭いながら答えた。

「そうなの」

 女性は寂しそうに頷いて、真っ白なハンカチを渡してくれた。武彦はいい匂いのするそれで、涙を拭いた。

「ねえ、おなか空いてない?」

 女性の視線を追うと、テーブルの上にサンドイッチとおにぎりを見つけた。とたんにおなかの虫が鳴った。

「お食べなさい」

 武彦は椅子に座り、サンドイッチを食べた。暖かいココアを飲むとようやく落ち着いて、いろいろなことを考える余裕が生まれた。

「ここは天国ですか? お姉さんは神さまですか?」

 おそるおそる訪ねると、正面に座った女性は驚き、そしてくすりと笑った。

「ここは日本ですよ。坊やはちゃんと生きてます」

「坊やじゃないです。もう小学生だし……」

「ごめんね。じゃあ名前は?」

 武彦はためらった。知らない人には名前や住所を言わない。それが学校や家で教えられたことだった。でもこのままでは坊や扱いされる。それはごめんだ。武彦はしばらく悩み、名前だけ告げた。

「名字は? 家の電話番号は?」

 それ以上は答えられなかった。黙って俯く武彦を見て事情を察したらしく、女性は腕を組んで軽くため息をついた。

「今どきの子供は大変ね。どこに不審者がいるかわからないもの。もっとも電話番号を聞いたところで、携帯も固定電話もないから一緒か」

「ごめんなさい……」

 視線を落とす武彦に、女性はとがめるようなことは言わなかった。

「そんなことより、もう寝なさい。朝には雪もやんで、家に帰れると思うわ」

「はい……」

「家の人には申し訳ないけど、一晩だけ心配かけるしかないわね」

 困ったように眉をひそめ、軽いため息を残して女性は部屋を出た。

 武彦はまたベッドに潜り込んだ。スヌーピーはソファベッドの足下でミルクを飲んでいる。疲れたふたりはやがて眠りに落ちた、


 どのくらい時間が過ぎただろう。夜中に人の気配を感じ、武彦は目を覚ました。自分のすぐそばに立っているのは、先ほどの女性だ。何をしているのか気になって顔を向けようとした。だが体がいうことをきかない。寝返りどころか、首を動かすこともできない。せめて声を出したかったが、それもかなわない。自分が鉛の塊になったように、どんなに力をふりしぼっても指一本動かなかった。

 唐突に、夏の日に上級生から聞かされた話を思い出した。

 ――知ってるか? 幽霊が出たら、金縛りにあって体が動かなくなる。そうなったらもう逃げられない。殺されるんだぜ。

(殺される?)

 そう思ったとたん、体は動かないのに、震えだけが起きた。

 女性がスヌーピーを抱き上げたのが、気配で分かった。

(だめだ。命の恩人を連れていかないで。スヌーピーを殺さないで)

 そう叫びたかった。だがどんなにがんばっても声ひとつたてられない。女性は犬を連れて部屋を出た。武彦はひとりで残された。

 次に女性が入ってきたら、それが自分の死ぬときかもしれない。そう思うと恐くてたまらなかった。

 動けない恐怖。大切な友だちを連れ去られた悲しみ。指一本動かせない自分、何もできなかった自分が心底情けなかった。

 涙が耳を伝って落ち、枕を濡らした。動けないのに泣くことだけはできるのが不思議だった。武彦は、連れ去られた友達と死の足音を思って、ずっと泣き続けた。


 夜が明けた。

 武彦はゆっくりとソファベッドから起き上がった。体は普通に動く。まだ生きているようだ。

 夕べ見たあれは夢だった。いつの間にか眠っていたらしい。

 昨日は両親にも連絡できなかった。心配して、眠れぬ夜を過ごしたに違いない。帰ったらひどく叱られるだろう。それでもいいから、早く帰りたかった。両親が恋しかった。

 武彦は何気なくソファベッドの足下に視線を落とした。

「あれ?」

 一緒に寝ていたスヌーピーの姿がない。ベッドの下、テーブルといすの影、カーテンの中。部屋の隅々まで探したが、どこにもいない。

「スヌーピー……」

 真夜中の出来事は夢ではなかったのか。ならばもう会えないかもしれないと思うと、また涙が出てきた。

 武彦は泣きじゃくりながら、窓にかかるカーテンを開けた。外は雪で真っ白だったが、歩けないほどではない。それに夕べはわからなかったが、太陽の下で見ると、ここは知らない場所ではなかった。

 逃げなきゃ。今がチャンスだ。

 武彦は大急ぎで着替えて、リビングの扉を開けた。

「うわあっ」

 昨日の女性が立っていた。ドア越しに様子を伺っていたのだろうか。

「おはよう。夕べはよく眠れた?」

 優しい言葉とは裏腹に、上から見下ろされて威圧感があった。口元に笑みを浮かべても、目が笑っていない。大切な友達のスヌーピーを連れていった人。次は自分の番だ。武彦は少しずつ後ずさりした。

「あら、心細くなって泣いてたのね。かわいそうに」

 女性は屈み、武彦に目の高さを合わせた。透き通るように真っ白な肌をしていて、唇だけが異様に赤い。それはさながら、雪の上に落ちた一点の血のようだった。

 そのとき武彦は、母親に読んでもらった昔話を思い出した。

 雪のような肌をして、真っ白な着物を着たきれいな女性。氷のように冷たい息を吐き、人間を凍え死にさせる。体だけでなく心までも氷に被われ、里に雪を降らせる物の怪。

「ゆ、ゆき……おんなだ」

 スヌーピーは殺された。なんとかして逃げないと、自分まで同じ目にあう。

 武彦は思い切って女性の横をすり抜けようとした。

「待って」

 すれ違い様に腕を強くつかまれた。氷のように冷たい手だった。

「放してっ」

 振り切ろうとして暴れたが、子供の力は弱い。簡単に動きを封じられた。震える武彦をじっと見つめていた女性は、つかんだ手の力を緩めた。

「一人で、帰れるの?」

 武彦はおそるおそるうなずいた。すると女性は少し困った目で武彦を見て、やがて口を開いた。

「わかったわ。お行きなさい。でも、ここで私に会ったことは、だれにも話さないで」

「だれにも?」

「そう、家の人にも、友達にも、絶対にだれにも話してはいけない」

「もし、話したら……」

 女性はほんの少し言葉を考えた。そして独り言のように呟いた。

「そのときは、困ったことになるわね」

 話したら殺される。雪女は、自分の秘密を漏らされないように、いつもどこかで武彦を見ている。この先ずっと雪女に見張られる。

 幼い武彦にとって、一生を監視されることは絶望的な未来と同じだった。

「お姉さんのことだれにも言いません。だからもう、帰らせてください」

 涙でくしゃくしゃにならながら頼んだ。女性はため息にも似た笑みをもらすと、武彦を放した。解放された武彦は、山荘を飛び出した。

 外は昨日の天気が嘘のように晴れていた。冬の陽射しは弱かったが、日が出ている間は雪女に襲われないような気がした。

「スヌーピー……」

 殺されてしまった友だち。助けたかったが、何もできなかった。犬を思うとまた涙があふれてきた。手の甲で何度も拭いながら、武彦は一目散に走った。そしてやっとのことで家にたどり着いたのだった。




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