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見えない色

作者: のり

 世界は色彩に満ちていた。

 窓から射し込む陽の光も、野に咲く花々も、同じものなど二つと存在しないと思える程の豊かな色で溢れていた。見上げる空は一秒だって同じ色をしていない。刻々と移り変わっては色彩のシャワーを地上に降り注いでいる。

 子供の頃の私は、飽く事なく一日中そんな色彩達を眺めていた。

 けれどある日突然見知らぬ大人が父と母を訪ねて来て言った。

『お嬢さんを地元の学校へやるのはもったいない。国立アカデミーに入学させるべきだ』

 その一言で両親は私を街の小学校へやるのをやめた。私は嫌だと泣いて駄々をこね両親を困らせたけど、いざアカデミーでの授業が始まってしまえば今まで知らなかった事を知る事が楽しくて、勉強にのめり込んだ。

 そうして知的好奇心を満たしていく内にアカデミーの授業が退屈になってきた。授業で習う内容などとっくの昔に知っていたからだ。

 もっとずっと先の事が知りたい。私は教師にそう訴えた。するとしばらくしてクラスメイトの顔ぶれが変わった。私よりも年上の生徒達と机を並べる事になったのだ。けれどそれも束の間でまたすぐに退屈になった。私はそんな事を何度か繰り返した。

 やがて十二歳で迎えた卒業式で手渡された卒業証書には『国立アカデミー大学院科修了』とあった。

 そして私は十三歳で世界最年少のエージェントとして初ミッションに挑んだ。結果は失敗だった。私はバディのライ・ウーを失った。同時にあらゆる人間が私を非難し、私から様々なものを取り上げた。

 そう、私の人生はその時に終わったのだ。


 ロウ・ラドルははっきり言って問題児だ。

「あれフラン。何で眼鏡なんか掛けてんの」

 出会い頭にロウが顔を覗き込んでくる。もうすぐ授業が始まるのに、どうしてこいつは教室ではなく、次の授業で使う資料を取りに実習準備室へ向かう私の隣を歩いてるんだ。しかも私よりも身長が高いのをいい事に、教師である私を呼び捨てにするのも腹立たしい。

「近い、離れろ」とロウの顔を押し戻してから私はビシッと言ってやった。

「ロウ・ラドル。私の眼鏡の理由は、君が私の授業を妨害するせいで、私の睡眠時間が極端に減少した為の眼精疲労のせいだ」

「え、もしかしてストレスで眠れないとか」

「残念だがそれはない。私は自作の進行計画に沿って授業をしている。君のせいでその計画が大幅に遅れ、その修正計画を立て直すのに睡眠時間が削られるんだ。わかったなら今この時からそのふざけた態度を改めろ」

「うわ、つまんねー理由!」

 ロウはげんなりした顔で言う。

「つまらなくない。これ以上授業が遅れたら、私がこのアカデミー高等科をクビになるのは必至だ。まあ君にしたら本望だろうけど」

 一瞬ロウが口をへの字に曲げ不機嫌な顔になる。私はおや、と思った。思わず教室へ向かう足を止め、彼の顔をマジマジと見上げた。

「……まあクビにはならないんじゃねーの? アカデミーも手放さないだろうし」

 微妙な表情からは彼の思惑は読み取れなかった。……まあ元々私は人の表情や顔色を窺うなんて事は大の苦手で、他人が何を考えていようと気にならない人間だったが。

「そんな事は無い。ウー夫妻、いや理事夫妻は私に同情的で教員としてここに置いてくれてはいるが、違う考えの者もいるだろうし。現にロウ、君は私が嫌いだろ?」

 ロウ同様、教師の私自身もこのアカデミーにとって問題児に他ならなかった。

「何だ、俺に嫌われてるって知ってたのか。それと気付かれないようにフレンドリーにしてたのに」

「……そのフレンドリーさが嫌がらせの域に達してるんだ。いくら鈍い私でも気付く」

 私はため息をつく。

「ちぇっ、作戦失敗か!」

 悪びれる事無くロウが笑った。廊下のガラス窓から射し込む光がロウの明るい赤毛を輝かせる。私は思わず眼鏡の奥の目をすがめた。

 ロウ・ラドルは目立つ生徒だった。光の加減でオレンジに輝く赤毛、嵐の前の空色をした意志の強そうな瞳、少し日焼けした肌。だらしなく着崩した伝統あるアカデミーの制服も、ロウに掛かれば着こなしているように見えるのは、バランスのとれた上背のある体格のせいかもしれない。けれどそれだけではないオーラのようなものを、彼は持っていた。

「まあ自分よりも年下の教師なんかと思う気持ちもわからなくはない…事もないが、今年一年と諦めて真面目に授業を受けるんだな」

「わかんのわかんないのどっちだよその言い回し。けど今年だけで教師も辞めんの? 話題のアカデミー教員とか騒がれてるくせに」

 ――ずきん。

 胸の奥の方が鋭い針で突かれたみたいに痛んだ。私は自分の表情が強張るのを自覚した。何気に見上げたロウの顔に楽しげな笑みを見つけて、気持ちが沈んだ。ロウはわざと私を傷つける為に、こんな事を言うのだ。

「……やっとそういう顔してくれた。俺、フランのそういう傷付いた顔を見たくて、こうして毎日サボらずアカデミーに来てんのに」

 満足そうに笑いロウが私の頬に手を伸ばす。大きくて温かな手のひらが頬に触れた。私は思わず泣きそうになった。そうして私の頬に触れる手のひらは、彼が初めてではなかった。

「フランはさ、ただの十六歳の女の子なんだよ。法律まで改正して最年少エージェントなんて呼ばれてたけど、初ミッションで失敗して引退させられてるのがその証拠だろ」

 残酷な言葉。でもそれは本当の事だ。優しいとさえ聞こえるその声音に反し、私を覗き込むロウの瞳の奥は冷たかった。

「背だってこんなちっぽけで、手足だって小枝みたいに折れそうで頼りない。フランはまだ子供でしかない。幼い時から天才児とかもてはやされて英才教育を受けて、知識だけ大人よりも多く身につけたからってそれは曲げられない事実なんだ。でもそのとばっちりでフランのバディは死んだ。フランが殺したも同じだ。わかってるだろ、自分でも」

 ロウの瞳の奥が妖しく揺れた。私はその瞳を見つめながら、そこにロウではない別の人物を重ねて見ていた。

 ――ライ・ウー。私の最初で最後のバディだった人物を。

 私とライ・ウーの出会いは三年半前の事だった。本来なら十八歳で国立アカデミーの過程を修了するところを、私は異例の飛び級を繰り返し十歳でそれを終えた。それから更に二年で大学科と大学院科の過程も修了した。

 国立アカデミーはエージェントを専門に育成する機関だ。エージェントとは枯渇した化石燃料に代わり、古来人間が使っていたとされるほんの僅かの量で一つの国の一年分のエネルギーを生み出す事の出来る夢のような古代資源「鉱石」を採掘する特殊技能者の事だ。

 私は十三歳で難関のエージェント試験に合格した。本来なら未成年者保護法により、十六歳以上でないとエージェントの資格を与えられないという法律を改正してまでの特例措置だった。それ程までにこの国のエネルギーに対する危機感は強かったのだ。

 そんな風に特例ずくしでエージェントとなった私のバディに選ばれたのがライ・ウーだった。彼はアカデミー初等科理事のサリー・ウーと、高等科理事のデル・ウー夫妻の息子だった。当時二十歳だったライは、若手の中でも特に優秀なエージェントだった。性格は温厚、優しげな風貌。けれどその見た目を裏切る鍛えられた肉体と迅速で的確な判断力は、誰もが一目置く存在だった。

『やあフラン。君もこれからは我がエージェントチームの仲間だ。でも君が十三歳だからって誰も君を子供扱いはしない。そこだけは覚悟して。さあ、僕達は君を歓迎するよ!』

 初めてチームのメンバーとの顔合わせの時、ライはそう言って人懐こい笑顔で私をハグした。スキンシップに慣れていなかった私が思わず身体を引いてしまっても、ライは嫌な顔をしなかった。逆に私を気遣って「ゴメン、びっくりさせた? でもハグは僕達のチームでは重要なコミュニケーションの手段だから、出来るなら慣れて」と笑って教えてくれた。

 そんなライはもうこの世にはいない。私のせいでライは命を落としたのだ。

 不意に涙が溢れそうになった。目の奥がつんと痛み、私は涙を見られたくなくて頬に触れるロウの手のひらを振り払って俯く。

「何で俯くの。せっかくの顔が見えない」

 振り払ったはずの手が顎をすくい、私はロウの前に情けない顔を晒す事になった。

「や……っ!」

「その氷みたいな仮面を外せよ、フラン・ルーイ。自分の為に命を落とした人間の為に、あの時本当は何があったか、真実を明らかにする義務があんたにはあるはずだ」

 はっとした。さっきまでの優しげでさえあったロウの声は、今やひやりと心の奥底を撫でるような冷たさを含んでいた。

 あの時。それはライが死んだ時の事だとすぐにわかった。三年前のミッションの失敗の後、私は世間から糾弾されエージェント資格をはく奪された。その一連の経緯はテレビや新聞、雑誌に至るまであらゆるメディアで面白おかしく書き立てられ、世間を賑わした。

 当局は、あの時に何があったのか真相をマスコミに発表しなかった。勿論私もそれを明らかにする事を望んでいなかった。だから沈黙を守った。ただ、ライの両親でありアカデミーの理事であるウー夫妻にだけは、おおよそ何が起こったのかを話した。彼らにはそれを知る権利があると思ったからだった。

 ウー夫妻とはライのバディとしてそれなりの付き合いがあった。彼らはライに似て気さくで明るい夫婦だった。私がライを死なせた事を詫びた時にも、彼らは涙を流し嗚咽を漏らしながらも、私を一言も責めなかった。それどころかまるで私を家族の一員のように労い慰め、共に悲しむ事を許してくれたのだ。

 私は彼らに感謝していたし、恩義を感じていた。だから十六歳の誕生日の夜、彼らが突然私の元を訪れアカデミーの教員になってみないかと言った時には、とても驚きはしたが私はそれに頷いたのだった。少しでも彼らの役に立ちたかったし、そうする事が彼らへの罪滅ぼしになるかもしれないと思ったのだ。

 例えそれが世間で言われるように話題作りの為だったとしても。けれど、こんな年下の資格をはく奪された私に教えられる生徒にしてみれば、ただの災難でしかないだろう。

「義務なんてよく言う! ただ他人の不幸を面白がって騒ぎ立てたいだけのくせに。私はそんな輩の為に一言だって口を開かない」

 私は萎えてしまいそうな気力を振り絞り、ロウをまっすぐに見た。他人から非難される事にはある程度慣れてしまっていたけれど、何故かロウだけは違った。彼は正攻法で私を責めない。優しさを見せながらもその奥で私をなじるのだ。しかもそれとわかるように。

 そうした彼のやり方を私自身心のどこかで受け入れていた。自分がライを死なせた事をロウには許して欲しくなかった。他の誰でもなく、ロウ・ラドルという生徒に憎まれる事を、私は望んでいたのだ。

「――フランの罪は他人を知ろうとしない事だ。人が何を考えて、何を感じているかなんて一切どうでもいいって思ってるんだろう」

「それのどこがいけない? 人が他人に干渉するのは、ただ自分の好奇心を満たしたいだけ。他人のプライバシーを覗き見して満足したいだけだ。それを拒否したり否定する事は罪なのか?」

 ロウは私を気の毒な猫の死体を見るような目で見て言った。

「そうじゃない人間もいる、とは考えないのかよ。人が人に関わるのはただの好奇心からだけじゃない、そいつの事を心から思っているから放っておけない。だから心の中を知りたいんだってフランは思わないのかよ?」

 私はそんなロウの言葉に答える事ができなかった。そんな風に自分から関わり合いを持とうと思う人間が私にはいなかった。

「……でも今こうして君が私に構うのは、そういう意味でじゃないだろう?」

 質問に質問で返したのは、ただ私が答えに窮したからで他意は無かった。けれどロウは何故か驚いたように私を見た。

 その時だった。ガシャン、と廊下の奥の教室からガラスの割れる硬質な音が聞こえたのは。直前までの遣り取りを忘れ、私とロウは顔を見合わせた。

「――何の音だ? この時間はこの実習棟で授業をするクラスはないはずだけど」

「この先は実習準備室だ。行こうフラン」

 私は頷くと廊下を足早に進んだ。

 実習準備室は実習棟の二階の奥まった場所にある薄暗い教室だった。私が職員室から持ち出した鍵で解錠すると、ロウが扉を開けた。

「おい、生徒は危ないから下がっていろ」

 こういう場面において教師は生徒を守る立場にある。けれどロウは従わなかった。

「はいはい、こういう時はまず男が身体張って危険に飛び込むもんなの」

 言うが早いか私を背後に庇うように、自らが先に立って暗幕の引かれた薄暗い準備室に足を踏み入れたのだった。反論の言葉が喉から出そうになるが、私はとりあえずそれを飲み込んだ。今はそんな事をのんびりと討論する場面ではなかった。

 暗幕は完全に準備室を暗闇に沈めてはおらず、所々隙間から外の光が採れるようにとの配慮が見て取れた。お陰で私達はかろうじて照明が無くても室内を歩く事ができた。

 けれど準備室の内部は、様々な器具や標本が置かれたスチール棚でまるで迷路のように視界が遮られていた。しかも背の高いロウが先に立ってその迷路を進んでいくものだから、その背後を行く私にはロウの歩く先に何があるのかさっぱりわからなかった。

「――ああ、犯人はあれだ」

 突然ロウが前触れなく立ち止まった。左右の棚に気を取られていた私は、思わずその背中にぶつかりそうになってたたらを踏む。それに気付いたロウが身体を端に寄せると、ようやく私も彼の言葉の意味を理解した。

 最奥の一角の暗幕が風ではためいている。その近くに設置されたスチール棚の足元に、標本用の瓶が割れて転がっていた。

「天窓が開いてる。誰か閉め忘れたんだろ。風で暗幕があおられて標本が倒れたんだな」

 そう言うとロウは壁に立て掛けてあったモップを手に取った。そして開いたままの天窓をモップの柄で閉めようとする。

「まだ窓は閉めるな、これはホルマリンだぞ。片付け終わるまで換気しておいた方がいい」

 私の言葉にロウは頷き、天窓を閉める代わりに暗幕を開いた。太陽の光が射し込み、辺り一帯を明るく照らし出す。私は割れた瓶と床にこぼれたホルマリン液を片付ける為に、備え付けの使い捨て衛生用ゴム手袋をはめた。

「――『鉱石』の標本か」

 太陽の光に照らされて床に転がるのは、ほんの一かけらの『鉱石』だった。けれどその僅かな大きさで、同じ体積の石油とは比べ物にならない程のエネルギーを生み出すのだ。

「……俺はコイツが嫌いだ」

 ロウが『鉱石』を見下し言った。意外だった。でもその気持ちは私にもわかった。

「――私も嫌いだ。だけど世界はもう『鉱石』無しには成り立たない」

 ゴム手袋をはめた手で、私は割れたガラスの欠片を手早くバケツに放り込んだ。後は標本を新しい瓶に移し、床にこぼれたホルマリンを無毒化処理すれば私達に出来る事はもう無いはずだった。

「ロウ、そこの棚にある透明の瓶を取ってくれ。……そう、その白い粉の方だ」

 床に転がるただの小石のような『鉱石』を拾い上げながら、私はロウに指示を出す。

「それを床のホルマリンに撒いて――」

 ロウがモップを戻し、棚から指示された薬品の入った瓶を手に取るのを確認した時、不意に私は視界に違和感を感じた。

「フラン?」

 突然指示を止めた私にロウが怪訝な目を向ける。けれどそれには答えず、私は手の中の『鉱石』の標本を信じられない思いで見た。

「――ロウ。準備室の入口に設置された緊急通報システムを起動してくれ」

「は? フラン、何言って……」

 間の抜けた声でロウが私を見る。

「いいから早く行け!」

 私は怒鳴った。その声が余程切羽詰まっていたのか、ロウは「はいはいわかったよ。行けばいいんだろ」と渋々ながらも準備室の入口へ向かおうとした。けれどロウはほんの僅か進んだだけで、何故か足を止めた。

「うわっ、すっげー! 見ろよフラン」

「……ロウ! いい加減に――」

 ロウの余りの呑気さに私は苛立って振り返った。そしてロウの指し示したものを目にした途端、体中の血がすうっと冷えるような感覚を覚えた。そこには猫程の大きさをした巨大なネズミが一匹、こちらをじっと見ていた。

「実習準備室にクソでかいネズミが出るって噂は耳にしてたけど。本当にいるとは思わなかったな。ドブネズミって奴?」

 感心するロウの声に、私は怒りすら覚えた。

「馬鹿か!?そんな噂があったのなら、何故疑わないんだっ!?」

「疑うって何を……」

「『鉱石』は周囲に生息する生物の成長に影響を与え、巨大化させるのを忘れたのか!」

 ロウがはっと息を飲む。この異常な大きさのネズミはドブネズミなんかじゃない、『鉱石』の影響を受けた巨大化だ。

「まさか! だって『鉱石』ったってこのアカデミーには生きた『鉱石』なんかないだろ。ここにあるのは標本だけ……」

「その標本が原因だ! この『鉱石』は生きて意志を持っている。どこぞの標本作りの誰かがずさんな仕事をしたみたいだな」

「何だよそれ! じゃあ今フランの手の中にある『鉱石』は標本じゃないって事かよ」

「そういう事だ。わかったならさっさと通報システムを起動して来い!」

「……あー、つかもう無理だろ。ケーブル繋がってるようには見えないし!」

 ロウの指差した先には不自然に断裂したケーブルがあった。更にその先には緊急通報システムの端末があった。私は思わず舌打ちした。きっと巨大ネズミの仕業だ。既にこのネズミは『鉱石』の支配下にあるのだろう。

「……仕方ない。ロウ、君は他のアカデミー職員にこの事を知らせて来てくれ」

「待てよ、その間フランはどうするんだよ」

「人の心配よりも自分の心配をしろ。ここから出るのもひと仕事だぞ」

 私の言葉にロウの意識がネズミへと向けられる。巨大なネズミの目はまるで乳白色の膜が張ったように濁っていて、油断なく耳と髭を動かしこちらの様子を窺っている。げっ歯類特有の前歯で噛まれれば、肉をえぐられる位の事は覚悟しておいた方がいいだろう。

「冗談じゃない。ここにフランだけを残していけるかよ!」

 怒鳴るように言うと、ロウは再び立て掛けたモップを手に取るや否や巨大ネズミ目掛けてそれを薙ぎ払った。

 ――グギュウッ……!

 ネズミが奇妙な鳴き声を上げ、壁に打ち付けられ痙攣する。しかしまだ死んではいない。

「今のうちに。さあ、フラン!」

「私に構うな! 早く行け!」

「だからフランを残して行けないっつってんだろうが!」

 言うが早いか私の手をロウが強く引き、準備室の奥にある実習室へと繋がる扉へ走った。「君は馬鹿か!?私は『鉱石』を持っているんだぞ!『鉱石』ごと外へ出るつもりか!」

「じゃあそんなもん放り出せよ! 外へ出て準備室を封鎖すればいいだろうが!」

「それじゃダメだ! こいつは自分を咥えて持ち去るようにネズミを操れる!」

隣の実習室へ繋がる扉にロウが手を掛けた。けれど鍵が掛かっていて開かない。

「くそ! ちっぽけな欠片のくせに!」

 忌々しげにロウが怒鳴った。

『鉱石』は決して夢のような優れた資源ではない。鉱物でありながら生物のように意志を持ち、繁殖するのだ。人間がエネルギー源として利用するのはそうやって『鉱石』が新しく生み出した子供の『鉱石』だった。生まれたての『鉱石』はまだ意志を持たず、純粋で無害なエネルギーとなる。しかし一度意志を持ってしまった『鉱石』は人間を外敵と認識し、排除しようとするのだ。それ故昔の人類も一度は『鉱石』を資源として利用していたにも関わらず、それを放棄したのだった。

 ロウは私を下がらせると扉を蹴破った。バリンと耳障りな音を立ててガラスが割れる。

「ホルマリンに浸かっていたせいでこいつはまだ本来の力が出せないようだが、ここから持ち出してホルマリンの効果が切れでもしたら大惨事になる。ロウ、わかるだろ?」

 ロウは悔しげに唇を噛んだ。誰かが『鉱石』をここに留めておかなければならないのだ。私はロウの背中を実習室へと押し出した。

「できれば三分以内にエージェントを連れて来てくれると助かるが、高望みはしないよ」

 三分という時間は冗談でも何でもなく、それが私一人で持ちこたえられるタイムリミットだった。既にホルマリンの効果は薄れ始めている。その証拠に私の右手の『鉱石』が発する赤紫の光が、徐々に強くなり始めていた。

「頼んだぞ、ロウ」

 未だそこに留まるロウに私は背中を向けた。

「――待てよ。エージェントならもういるだろ、ここに」

 ロウの力強い腕が私の肩をがしっと掴んだ。私は驚いて振り返った。

「通報してないのに誰が駆けつけるんだ!」

 振り返った先にロウの不敵な笑みがあった。

「フラン・ルーイ、元最年少天才エージェント様がここにいるじゃないか」

 言葉も、声さえも出なかった。それ以前に私は呼吸すら忘れてただロウの顔を見た。

「――なっ、何を馬鹿な事を言って……」

「馬鹿馬鹿うっせー! どうせ俺は落ちこぼれだっつの。けどフランは違うんだろ?」

 我に返って反論する私を、ロウは有無を言わせぬ言葉でねじ伏せようとする。

「き、君は私の事を、子供だって……」

「ああ言った。ちなみに今もそう思ってる」

 あっさりと認めるロウに、私は開いた口が塞がらなくなる。だったら何故!

「でもさ、子供でも何でも今この状況でこの『鉱石』を一番迅速に処理できんのって、俺達以外にいないんじゃね?」

「処理ったって、機器類も道具も……」

「――あるだろ、フランの目と俺の腕が」

 嵐の前の空の色をしたロウの目が、射抜くような目で私を見た。ロウは知っているのだ、私の目の事を。私は眼鏡を外した。

「……知っていたのか。かなりの極秘情報だぞ、それは」

「まあいろんなコネがあるからね、俺にも」

 それだけ言葉を交わすだけが限界だった。

「……っつ!」

 『鉱石』を持つ右手に異常な熱さを感じ、私は思わすそれを放り出した。

「大丈夫か、フラン!?」

「何とか動く。だが運が悪い事に利き手だ」

「フランは見る事に集中して。そっちは俺が引き受ける!」

 言うが早いかロウが実習室の奥からレーザーガンを取り出した。

「実習用だから少し出力が低いけど、二度に分ければ大丈夫だろう」

 『鉱石』は常に身体から電磁波を出している。戦闘時にはその出力を上げる事でシールドとしてこちらの攻撃を防いだり、放射して攻撃したりするのだ。そのシールドが途切れる一瞬をついて、こちらは高出力レーザーで『鉱石』の核を打ち抜くのだ。

「一度で決められないとなると、攻撃を受けるリスクは高いぞ、ロウ」

「そこはフランを信じてるよ」

「!」

 どくん、と心臓が音を立てた。その遣り取りをするのは二度目だった。

「シールドが途切れたら合図して」

 私は動揺を押し隠して頷いて見せると、視線をロウから『鉱石』へと移した。

 幼い頃から私の目は人とは違うものを映す。人には見えない色が見えるのだ。子供の頃はそれが当り前だと思っていた。けれどアカデミーに入って色々な事を知るうちに、それらが当り前ではなく特殊な事だとわかったのだ。赤外線、紫外線など一部の電磁波を私の目は色として認識するのだ。

 その特殊な体質はエージェントの素質として歓迎された。電磁シールドを持つ『鉱石』に対して、機器類を使わず肉眼でそれらを察知できるからだ。どうしても機械類は電磁波の影響を受けたり測定にタイムラグが出るが、私の目はそれらに影響される事はないのだ。

「シールドが薄くなってきた。気を付けろ」

 注意を促す。シールドが消えるのは『鉱石』が攻撃する直前の一瞬だからだ。

「――今だ、撃て!」

 私の合図でロウがレーザーの照射レバーを引いた。細く鋭い光の筋が一直線に床に転がる『鉱石』に伸びる。

「くそっ! やっぱり出力が足りない!」

 ロウが叫んだ。思わず私は手近にあったシュミレーター用の小型端末を引っ掴んで構えると、ロウの前へ飛び出した。その瞬間手にしていた端末が火花を散らして弾け飛んだ。『鉱石』の攻撃だった。

「フラン、攻撃を弾くなんて無茶だ!」

「でも機器がないんだから、ロウには攻撃が見えないだろう! でも私には見えるんだ。だったら私が盾になる!」

 噛みつくように私は言った。ロウが一瞬虚を突かれたような表情をした。その直後、ロウは私の腕を引いて机の陰に伏せた。

「……そうやってライの時も盾になろうとしたのか」

 低い声が耳元でした。背中から覆い被さるようにロウが私を庇ってくれている。

できれば思い出したくなかった。けれど今の状況は、あまりにも三年前のあの時と酷似していた。

「あの時も今と同じように機器類が使えなくて、私がライの目になった。でも『鉱石』を仕留められずに反撃されて……ライは――」

「……そうか。そういう事か。……フラン泣くなよ。泣くのはあいつを倒してからだ!」

 とうに枯れたと思っていた涙が、知らず頬を伝っていた。私はロウの言葉に頷くと頬をぬぐい、机の陰から鉱石を窺った。

「シールドが弱まってる。攻撃してくる気だ……もう少し、あともう少し――」

 同じように机の陰に腹ばいになってロウが『鉱石』に照射口を向けて構える。

「――シールドが消えた、撃って!!」

 ロウがレバーを引いた。レーザーが『鉱石』を打ち抜く。けれどもロウはその手を止める事無く、レーザーを照射し続けた。


 床に転がるただの石ころのような『鉱石』を手に、私は何の感慨も湧かない自分の心に軽い失望を覚えていた。

「やっぱり私はどこかおかしいのかな。『鉱石』を仕留めたはずなのに虚しいのって」

「さあね。でも俺だって同じ様な気分だし、特別おかしいって訳でもないんじゃね?」

 隣に立つロウが、疲れの滲んだ声で言った。

「でもライの仇は取ったし、あの時何があったのかもほんのちょっとは分かった」

「仇って。ロウ、君はライの知り合いか?」

 ふと疑問に思った私はそう尋ねた。

「――あ、言ってなかったっけ? ライは俺の兄貴だって。姓が違うのは母方の姓を名乗ってるから……って、何で殴りかかって来るんだよ、フラン!」

「ロウ! 君は、君って生徒は~~っ!!」

 処理班が忙しく立ち働き、管理課の職員が破損個所の見積りに頭を抱えるすぐ横で、私とロウは束の間のぬるい空気を満喫していた。

「でもきっとライは、フランとバディを組めて良かったと思ってるよ」

「……何を今更。私のせいでライは命を落としたんだ。弟の君がそんな事を言うなんて」

「しゃーないじゃん。あの場面で俺自身が今一緒に戦ってるのがフランで良かったって思ったんだから。ライと俺は不思議なくらい物の考え方が似てるって言われてたから、絶対ライだってそう思ってたね」

 私は返事に困って黙ってしまった。ロウはそんな私の頬に手を伸ばし優しく触れると、

「もう一度エージェントを目指してみろよ。今度は俺がバディになるから。俺も本気でエージェントを目指すから」

そう言った。不意に涙が溢れて、ロウの顔が歪んだ。涙越しにもう一度見上げたロウの顔は、三年前私の頬に手をやって、同じように励ましてくれたライの顔に重なった。

『君は生きてエージェントを続けてくれ。僕の分まで――』

 私はロウの手に自分の手を重ねた。その手は温かく私の頬を伝う涙をぬぐった。


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