NEO UNIVERSE
祝福を。
最初に受けたのは衝撃だった気がする。
痛みはなく、ただ、酷く体が熱くて、だるくて、眠くなってきた。誰かが大きな声で呼んでいるけど、目を開けることすら億劫だ。それでも僕は眼を開ける。朝起こされて起きるように気だるく、ゆっくりと。そんなに大きな声を出さなくても、起きるよ。ゆっくり瞼を開ける。目の前、顔面蒼白で僕の名を呼び続ける女性がいた。その声もだんだん遠く消えていく。酷く……眠い。
『おやすみ、ママ』
?
あれ? 何してたんだっけ?
あれ? あれ? 思い出せないな。
えっと確か……。
鼻腔をくすぐる木とニスの香りに私は目を覚ます。そう、ここは。
「学校」
呟き顔を上げる。目に前には白い文字が書き綴られた黒板、スピーカーを携えたアナログ時計、ぬるい風に巻き上げられ、日差しにきらめく埃。
並ぶ机のまん中で私は一人机に向かっていた。寝過ごしたのかな? 周りには誰もいない。ただ、ゆるい空気だけが流れている。
帰らなきゃ。
一回大きく伸びをしてから立ち上がる。机に掛けた鞄を手にし、私は席を立った。一瞬、日差しに眼が眩んだと思う。世界は優しくて、何もかも包み込み、ただ、漠然と温かい。気がつけば、私は桜並木の中にいた。
どうやってここまで来たっけ?
そんな思いが頭を過ぎったが、すぐに忘れた。どうでもいいことだったから、不必要なことだったから。ただ、今ある現実だけが、全てだったから。
どこに向かってるんだっけ?
舞い散る花びらを眺めながら、私は不意に立ち止まる。世界は優しく私を包み込み、睡眠を促す。誘われるように芝生の上に寝転がり、私は宙を仰いだ。青と薄紅色のコントラストが美しくて、私は静かに目を閉ざした。
「おい、寝んなよ」
影がかかり、私はゆっくりと目を開ける。覗き込むように屈む人影。ぼやける視界が焦点を取り戻し、人影の輪郭を浮き彫りにする。無精ヒゲに銀色のネックレス、眠そうな目をした男が私の視界を遮っていた。
「行く途中なんだろ、寝てたら亀に、追い抜かれるぜ」
男は笑いながらゆっくりと体を起こす。私も促されるように体を起こした。視界は一面新緑でむせ返るような緑の匂いと湿気が世界を支配していた。
「誰?」
「俺か? 俺は昇太郎。さぁ、行こうぜ」
「何処に?」
「そりゃ、新しい世界だろ」
優しく微笑み、昇太郎は手を差し伸べる。私は、一瞬戸惑ったが、その手をとらず、自分の力で立ち上がった。
「……まぁ、いいや、ついて来いよ」
そういって昇太郎は私に背を向ける。私はその場に立ち尽くし、じっと新緑を見詰める。ゆっくりと暖気が身体を包み、蝉の声のオーケストラが心地よく響く。目を閉じれば、身体かとろけ、大地に染み渡るような感覚を覚えるほどのまどろみに襲われる。不意に腕を掴まれ、私の意識は覚醒した。
「捉まってんじゃねぇよ」
まどろむ視界に落ち葉が過ぎり、新緑は朱に染まっていた。
「もぉ、時間がねぇ。行くぞ」
手を引かれ、私はつんのめるように歩き出す。視界の靄が消え、意識が覚醒する。足元を支配する落ち葉、軽い音を立てながら、私たちは歩く。
「いいか、ここは確かに心地いい、だがな、永遠にはいれねぇんだよ」
「なんで?」
「そういう決まりで期限がついてんだ」
「ずっと居たらどうなるの?」
「……全て消える。だから、その前にここを出る」
「出て、何処に行くの?」
「出ればわかる」
「……」
「不安そうな顔をするな、出れば最愛の人が、お前を待っているさ。に、しても」
吹き付ける風が、身を切るように雪を叩きつける。視界はすでに白一色。容赦なく吹き付ける吹雪が感覚を次第に奪い去っていく。
「そこまで行かせたくねぇのかよ。まったく、過保護すぎるぜ」
ぼやきながら、昇太郎は私の手を強く握る。その手の体温がやけにリアルに伝わり、息を吹き返す。すごく身近に感じる体温に、私は安らぎを得ていた。目も開けられぬ吹雪の中、昇太郎だけが私を導いてくれる、私を守ってくれる、そんな錯覚を感じる。永遠に続くような歩み。突然始まったそれは、終わるのも突然だった。
「ここからは、ついていけねぇ。お前一人で行くんだ」
立ち止まり、昇太郎は優しく言った。
「真っ直ぐ、ただ、真っ直ぐ行けばいい。お前の未来は、向こうだ」
目を開くと、そこには大きな扉があった。私が手をかざすとその扉はゆっくりと開かれ、中には闇が敷き詰められていた。
「ねぇ、何処に行くの?」
不意に声を掛けられ、振り返る。そこには黒い服を着た、長髪の女性が佇んでいた。
「貴方の世界はここよ。ここだけにしかないの。だから、そっちに行ってはダメ」
女性と私との間に昇太郎が遮るように入る。
「決め付けて、押し付けるなよ。そんなものじゃ、支配できないぞ」
「邪魔、しないで。何も知らないくせに」
「知っているさ。だからこの愚行を止めにきたんだ」
「愚行? 私は、ただ、愛しているだけよ」
「あぁ、知ってるさ。でも、ずっと腹ん中閉じ込めて全てから守りたいなんて考え、正気とは思えねぇ。俺は、あんたも、こいつも守りたいんだ」
昇太郎は振り向かないで私に言った。
「さぁ、行け」
その合図と共に私は走り出す。果て無き闇の中へ。
「あぁ、私の……赤ちゃん!」
闇に消える後姿に女性は手を伸ばす。昇太郎は立ち塞がりそれを遮った。彼女を失った世界は途端に色褪せ、意味を失っていく。
「私の、私の!」
闇の中まで追いかけていこうとする女性を昇太郎は抱きしめ、引き止める。
「わかっている、あんたが愛していること。愛してくれたこと。ずっとずっと、僕を愛してくれたこと。苦しい思いをさせてごめん、悲しい思いをさせてごめん……でも、生んだことを、愛したことを、後悔はしなかったでしょ?」
昇太郎の頬に一筋の雫が伝う。
光が溢れ、昇太郎の姿を小さな男の子に変えていく。
「……ママ」
「……昇太郎?」
何処まで走ったのだろう?
闇は色を濃くし、私の身体すら奪っていくように思える。それでもただ前に進んできた。何処まで行っても、闇闇闇。息苦しく、動きづらいその闇の中で、私は手を伸ばした。また、誰かが引いてくれるような気がして。私は力いっぱい手を伸ばした。かすかに光明が見え、何かが手の先に触れた。誰かの、手? 温かく柔らかい、それは、ただ、優しく私に差し伸べられている。私は迷うことなくその手を、掴んだ。
「その手を絶対に離すんじゃないぞ」
昇太郎の言葉が頭の中に響いた。
後は、何もない。
本当の闇の中に放り出され、満足に動けず、言葉も出せず、ただ、孤独に支配された。私は消えそうなその中で、力の限り声を上げた。
「私は、ここにいるよ!」
分娩室に泣き声が響く。
誰もがその命を祝福するだろう。
愛され生まれたその子を。
病室で赤子を抱く母、母は一枚の写真に微笑みかける。
「昇太郎、あなたに妹ができたわよ」
雑踏の中で、泣き声が響く。
小さきその目には愛すべき者を見失った絶望か、孤独は大きく。世界で独りぼっちになってしまったかのような恐怖をその小さな身体に受けきれず、ただ、涙を流していた。
「ったく、絶対に離すんじゃねぇぞって、いっただろ?」
泣きじゃくる少女の頭を軽くなで、男は微笑む。少女は泣き止み、男を見上げた。どこかで見た顔、でも、思い出せない。男は少女の手をとり、雑踏をかき分ける。その手は力強く、全てから守ってくれる気がした。
「あ、ママ!」
少女は歓喜の表情を浮かべ、男の手を離れる。
「もぉ、絶対に離すんじゃねぇぞ」
男は微笑み、雑踏の中に消える。少女が振り返ってもそこには誰もいない。少女は小さく頭に浮かんだ名前を呟いていた。
「昇太郎……おにいちゃん?」
全ての命に、幸せあれ。
終