ep35 ランドリオの皇帝
あのイルディエがいとも容易く力尽きる。
これは驚くべき事態だ。……いや、当然の結果と言ってもいいかもしれない。相手は同じ六大将軍の地位につきし存在。しかもその全員が相手となれば、例えイルディエでも勝ち目など無い。
「あら、所詮はこの程度でしたの。……六大将軍のくせして、何とも情けない話ですわ」
イルディエを見下ろし、今まで傍観していたエリーザがせせら笑う。
他にもゲルマニアが意識を失っている状態で、事実上アリーチェだけが一人残されている。
――彼女を取り巻くのは、敵。
ギャンブラーであるエリーザ、忠実なる六大将軍……そして、あのゼノスでさえも、アリーチェに対して刃を向けている。
自分が情けないばかりに、自分が弱いばかりに……最強の資格を持つ彼等を、苦しめる結果となった。
自分があの時、披露宴を断ってさえいれば――こんな事には。
全ての責任は……この自分にある。
「……う、うう」
もう何も考えたくない、何も見たくない。
自分の後ろにいるのは――――『虚無』だ。
何も存在しない、誰も味方してくれない。こんな弱い皇帝に、誰も付き従ってくれる者はいない。
泣いても叫んでも…………孤独。
「――――ほう、素晴らしい光景じゃないか」
と、エリーザとは違う男の声が聞こえてきた。
アリーチェが顔を見上げると、エリーザの横にマーシェルが佇んでいた。
「マーシェル様、ようこそ来て下さいましたわ。……ふふ、壮観でございましょう、この光景は」
「ああ、よくぞやってくれた。少々華やかな革命を期待していたが……まあこれも良かろう」
二人は不気味に微笑み合う。
彼等に侍る六大将軍の姿、悪夢に苦しむ屋敷の者達、情けない醜態を晒すアリーチェを見て、興奮を抑えきれないようだ。
「……いかがでしょうかな、皇帝陛下。自分の弱さに取り入れられ、呆気なくその体制を崩された感想は?」
「…………そ、それは」
マーシェルの問いに、何も返す事が出来ない。
「ふふ、何を言っても無駄なようですわ。彼女は皇帝陛下としての器に欠け、自分が何者かさえも理解出来ていない。……正真正銘の愚者ですわね」
愚者――確かに的を射ている。
自分は皇帝陛下という地位に即位しながら、今まで皇帝らしからぬ態度を取り続けてきた。
円卓会議では自己の主張を貫けず、普通の女の子になりたいと願って酒場で働き、挙句の果てには六大将軍に頼りきる。愚者と呼ばれても仕方ない事だし、反論する気にもなれない。
それを聞いたマーシェルは、鼻で笑う。
「下らぬな、アリーチェ皇帝。貴様は皇帝どころか、人間としても劣る存在よ。そして、貴様を選んだ世間もまたどうしようもない。……次期皇帝となる私の妻になど、なれるわけが無い」
マーシェルはエリーザを促す。
すると彼女は、自分のカードを天へと掲げる。
カードの周囲に闇の霧が発生し、それは渦となって上昇していく。
――響き渡る音色は、竜巻の風切り音だけではない。
あらゆる怨念の声が耳をつんざく。その声を発する亡霊共は、この部屋全体へと蔓延り、アリーチェを見下ろしている。
世にも恐ろしい光景だ。
「――では、これにてお別れ致しましょう。エリーザの魅せる亡霊共によって、全てを蝕まれてください」
マーシェルの邪悪な宣告。
すると――六大将軍が反応を示す。
彼等が少し呻いた後、猛烈な勢いでアリーチェへと接近する。
洗脳された彼等は主など関係無い。例え敵が主君であっても、彼等六大将軍が思い留まる事は無い。
迫る――。どんどんと、着々と。
死を目前にして思い起こされる記憶は、数週間前の出来事。
ランドリオ皇帝リカルドが処刑され、アリーチェもマルスの手によって殺されかけたあの日。自分はあの時、死を前にしても怯えず、どこか達観した様子で現実を受け止めていた。
でも、今は違う。
今こうして危機に陥っているのは、全て自分のせいだ。
不甲斐ない失態続きで、全てを失っていく。
……皇帝とは何か?
こんな状況の中でも、未だにその疑問が解決されない。
……自分の後ろには、一体誰がいるのか?
分からない。皇帝が何なのかさえも分からない自分にとって、その質問はどんな問題よりも難しい。
全てが謎に包まれている。その全てに対し答えを見つける事など……出来るわけがない。
視界が真っ暗になる。
それは自分で閉ざして、全てを見ない様にする為。
目を瞑り、現実から逃れようと。
あの幸せだった日々を思い起こす。
幼いアリーチェは、笑顔で父の居る王座へと駆け寄る。
今では無い何年か前の話。まだアリーチェが物心を覚え始め、父と母が存命だった頃の記憶。
アリーチェの意識は、過去の記憶へと浸っていた。
「父様!」
「おおアリーチェか。丁度公務も終わった所だ、もっと近くに来なさい」
父の優しい言葉に甘え、アリーチェは父の目前にまでやって来る。
そして中庭で摘んできた花々を、父の前に差し出す。これはいつも公務で疲れている父の為に、先日から行っている行為。いつも父が喜んでくれるので、今日も花を集めてきた。
「はい父様、また花を摘んできました!」
純粋無垢な笑みで、彼女は父を喜ばせようとする。
それを見た父は頬を綻ばせ、その花々を受け取る。花の香りを堪能し、公務の疲れを癒す。
「……いつもすまないな、アリーチェ」
「うん!…………あれ、父様」
「どうした?」
何かを察したアリーチェは、疑問に思った事を素直に口にする。
「……泣いていたのですか?」
彼女の不安めいた言葉は、父に強張った表情を作らせる。
花の香りを吸うのを止め、彼の視線は床へと落ちる。誰にも見られまいと努力しているようだが……アリーチェからは丸見えだ。
――父は、涙を零していた。
「あ、ああ。…………少々、悲しい事があってな」
「……悲しい事。父様でも、そのような事があるのですか?」
いつもと違う父の様子に、アリーチェは困惑を隠しきれない。
自分の知る父とは、皇帝の鑑であった。周りから信頼され、その期待に応える素晴らしい態度を示している。時に優しく、時に厳格な面持ちで接する……それが父である。
父は涙を拭いた後、アリーチェの頭を撫でる。
「……アリーチェよ。お前が思っている程、この父はそこまで強くない」
「え?」
「…………私は弱い存在だ。幾ら体裁を繕おうと、ボロが出れば自然と失敗を繰り返してしまう。……全く、情けないな」
初めて聞く、父の弱音。
なら何故その地位から逃げ出さないのか。全てを投げ捨てて、皇帝という身分から離れればいいではないか。
……幼いアリーチェは思う。
父を支えている意思は、一体何なのかを。弱音を吐いているにも関わらず、涙を零しているにも関わらず――どうしてそこまで真っ直ぐな瞳でいられるのかを。
――――そもそも
――これは……本当に自分の記憶なのか?
――こんな光景、全く覚えていない
「……え」
幼いアリーチェは、ふと周囲を見渡す。
ここは確かにハルディロイ王城の中であるが……現実とはどこか雰囲気が違う。更に言えば――今の自分は、何故か幼い姿でいる。
これは自分の記憶じゃない。これは――――――
「これは――君の父親の記憶だよ、アリーチェ」
瞬間、世界が停滞する。
色を失い、時が止まった世界。そんな世界の中で――
幼いアリーチェの横に、一人の少女が佇んでいる。
シルクのローブ姿に、どこか幼さを併せ持った少女――始祖アスフィが、自分の横に存在していた。
「……どういう、事?」
「今現実世界では、エリーザが無数の亡霊を召喚している。……その中に君の父親がいて、君に自分の記憶を見せているらしいね」
「……自分の記憶、を?」
そんな……どうして?
有り得ない。そんな非現実的な事が、あっていいのか?
父があの場所にいた、それだけでも驚きなのに――
――父は何を伝えたいのか。こんな自分に、死んでもなお伝え残したい事があるというのだろうか?
……だとしたら、自分の事を蔑むに違いない。
「――大丈夫だよ。君の父親は、そんな事を伝えに来たんじゃない」
「……なら、父は何を伝えたいのですか。こんな、こんな私にーーッ」
と、そこでアスフィが静かにと口に人差し指を当てる。
「……アリーチェ。君の生きるべき世界を――父親が教えてくれるんだよ」
「――――ッ」
アリーチェは息を呑み、そっと前を向く。
すると、横にいた始祖アスフィが霧散する。停滞していた世界がまた動き出し、父もまた色を取り戻す。
自分が忘れた記憶。しかし、父は覚えている記憶。
記憶の中の父は――厳格な表情であった。
「よいか、アリーチェ。……皇帝はとても弱い存在だ。周りの協力無しには生きていけない、頼らなければいけないのだ」
「…………」
「――しかし、皇帝は弱く見せてはいけない。己の宿命を受け入れ、全てを従えなければならない。その豪気な振る舞いが、例え様々な反感を買ったとしても…………時として、国を救う力ともなる」
「――」
皇帝は弱い。しかし、弱く見せてはいけない。
父の言葉は重かった。ひどく疲れていた。
皇帝は優しさだけでは務まらない。条理を切り捨て、不条理を貫く事もまた必要であり、それが国を救う事もある。
……皇帝は、どんな辛い判断をも下さなければならない。
「アリーチェよ。……いつか皇帝という地位を纏うならば、全てを支配する意思を備えよ。――――それが、弱い我等の宿命である」
「……父様」
嗚呼、また世界が停滞する。
全ての景色が色褪せ、白黒の世界と化していく。それは記憶の終焉であり、現実世界へ戻ろうとする兆候だ。
――記憶の父は、微笑んだまま止まっている。
それが果たして遺言なのかは、未だに分からない。
アリーチェは踵を返し、無言のまま王座から離れる。様々な思いを孕みながら、静々と。
「――決心はついたかな、弱いアリーチェ」
「……正直、まだ分かりません」
脳内に過るアスフィの問いに、潔く返事する。
「…………でも父様の仰る言葉が本当ならば、それに従ってみましょう。本当の意味で皇帝になれるならば――――――」
その言葉を皮切りに、アリーチェは後ろを振り向く。
既に玉座は消え、何も無い真っ白な空間が広がっている。
だがアリーチェの視線の先には――二人の夫婦がいた。
紛う事なき、亡きアリーチェの父親と母親。彼等二人は寄り添い、暖かな目でアリーチェを見つめていた。
そんな二人に、はにかんだ笑みを見せる。
「――皆を救えるならば、この宿命を受け入れてみようと思います」
……アリーチェはそう言い残し、もう振り返る事は無かった。
固い決心と共に、思い出に浸る事を止めた彼女。
そのまま、眩い光を放つ扉の先へと歩んで行った。
迫り来るはランドリオの六大将軍達。
過去の記憶から目覚めたアリーチェは、ただジッとその場に立ち尽くす。ふと上を見上げ……スッと目を閉じる。
無言。冷静沈着。……且つ、言い知れぬ雰囲気を放ち始める。
そして、今までのアリーチェとは違う。
慈愛に満ちていたその表情を――――厳格なそれへと急変させる。
「いるのでしょう、アスフィ。――早く私を守りなさい」
その時だった。
神風の如く過ぎ去る連撃……目にも止まらぬ速さ。
それが間近に迫っていた彼等の武器を跳ね返し、それぞれの武器は宙を舞う。六大将軍達は驚愕して距離を離す。
――アリーチェの前には、始祖アスフィがいた。
「ふうん……中々良い風格を帯びているじゃない。それもまた、王者たる資質を持つ証なんだろうね」
「……」
アスフィの言葉は聞いているが、今は返すつもりは無い。
余りに唐突な出来事に、一方のマーシェルとエリーザは唖然としていた。
「……始祖、アスフィッ!」
「――くっ。何をしているエリーザ!早く六大将軍を使って、奴等と戦わせろッ!」
「しょ、承知しましたわ」
エリーザは気を取り戻し、アリーチェと始祖を殺すよう心中で命じる。
しかし、六大将軍が動く気配は無かった。
「な、何故ですの。この……亡霊共、さっさとしなさいな!」
幾ら声を掛けても、彼等は反応しない。
たたジッと虚ろな眼のまま、アリーチェを見ていた。
彼等は葛藤していた。目前にいる少女が、自分達の主なのか、または殺すべき敵なのかを。
悪夢から、目覚めかけていた。
「…………今まで申し訳ありませんでした、皆さん。私が不甲斐ないばかりに、こんな事態を引き起こしてしまった。――ですが」
アリーチェはそんな彼等に、冷静に言葉を投げかける。
今自分が出来る事はそれだけ。
だが普通に声を掛けるだけでは、変わる事は出来ない。
……そう、アリーチェは全てを思い出した。
幼き頃、自分は父である前皇帝からあらゆる事を教わってきた。皇帝とはどうあるべきか、皇帝が成すべき事は何なのか……一生懸命に説いてくれた。
父の記憶のおかげで、アリーチェに固い決意が芽生えた。
――もう泣かない。もう助けを乞わない。
弱音を吐くぐらいならば――――強く在ろう。
どんな苛酷な状況でも、虚勢を張って見せよう。
「…………いい加減、目を覚ましなさい。貴方達は六大将軍なのでしょう?民を、そしてこの皇帝を守る為に在るのでしょう?――なら、自らの責務を全うしなさい!」
刹那、アリーチェの叱咤が全てを圧倒する。
青天の霹靂、エリーザとマーシェルに衝撃が走る。
「……そんな、馬鹿な」
エリーザがその顛末を見て、思わず目を見張った。
六大将軍達に憑りついていた亡霊達が憑依を止め、急いで抜け出る。その様子はもがき苦しんでいて、必死に這い逃れようとしていた。
しかし、それは叶わぬ夢。
アリーチェの声が、六大将軍達を目覚めさせた。
「――――――ここは」
困惑した声音が響く。
その瞬間亡霊達は、彼等によって斬り裂かれていく。甲高い悲鳴を上げて、現世から消失していく。
――亡霊を斬り裂いたのは、他でも無い。
意識を取り戻した――ゼノス達であった。
「……ようやく起きましたね。全く、イルディエやゲルマニアも苦労したのですよ?」
それを聞いても、ゼノス達はまだ状況を飲み込めなかった。
「…………アリーチェ、様?」
だがそれだけでは無い。
ゼノス達は、アリーチェに対しても驚愕していた。
逆らえないオーラが彼女を包み、およそ慈悲深さとは相容れない何か……皇帝として相応しい態度だ。
一体何が彼女をそうさせたのか、それは分からない。
しかし周りの状況から判断するに、自分達はギャンブラーによって操られ、そしてアリーチェの叱咤によって覚めたのだろう。……流石のゼノスでも、それぐらいは大体判断出来る。
今が危機的状況だと分かったゼノス。そして、他の六大将軍も把握しつつあるようだ。
「……不覚。これ以上の失態は存在しない」
「じゃな、ユスティアラよ。……全く、嫌な夢を見せられたわい」
「頭いてえ。くそ、一体どこのどいつがやってくれたんだ?」
「……嘆かわしい事ですが、今この場にいる我が同族がやってくれたのでしょう。嗚呼、恥ずべき事です」
完全に元通りとなった彼等は、鋭い目つきでマーシェルを睨む。
今まで平静を装っていたマーシェルは、冷や汗をかきながら後退る。
「な、何だこれは……。ア、アリーチェ貴様……一体どうやって彼等を目覚めさせたんだ!?」
「これが在るべき姿ですよ、マーシェル。ただ皇帝として振る舞っただけ……ランドリオは、最強でなければいけません」
アリーチェはゆっくりと歩を進める。
ユスティアラ、アルバート、ホフマン、ジハード、そしてゼノスの脇を通り過ぎ、彼女は一番前へと出る。
「…………ゲルマニア。ようやく分かりましたよ。自分の後ろに――一体誰がいるのか」
皇帝とはただ守られる存在。しかし、弱い姿を見せてはならない。
彼女は六大将軍に、ゼノスに助けられるだけの姫では無い。
今それを悟った。
だからこそ、堂々と言える。
「私の後ろにいるのは――――従えるべき騎士達。さあ六大将軍よ、その地位に見合うだけの力を振るい、あの逆賊を倒しなさい!」
猛々しく、そして優雅に。
皇帝として在るべき姿を知った少女は、自分を捨てる。
ただ優しいだけの自分を捨てて――
今ここに、気高くも美しい皇帝陛下が誕生した。




