ep29 ――継承の時――
ガイアは走り続ける。
自分の出せる最大限の力を振り絞って――走り続ける。
既に雨は止み、地平線の彼方から朝日が立ち昇りかけている。ドルガとコレットと別れて、もう二時間以上が経過しているようだ。
歩み慣れた岬へと辿り着き、そのまま海岸沿いをひたすら走り続け、目的の桟橋へと向かう。
――疲労はもう限界に達している。
世間を賑わせた英雄も、歳には勝てないものだ。こうして走っただけでも息切れを起こし、心臓が張り裂けそうなのだから。
……だが、あともう少しだ。
桟橋はすぐそこだ。あの崖下の壁を曲がれば、桟橋は――――
ザシュッ
「――ッ。ぐ、は……ぁッ!」
突如、ガイアの背中に激痛が走る。
あまりの痛さに態勢を崩してしまい、浜辺へと倒れ込む。
「ガイアおじいちゃんッ!?」
身を投げ出されたゼノスは泣きもせず、激痛に苦しむガイアの傍へと寄る。
――その背中から、大量の血を流していた。
背中にはあの女が……セラハの持っていたナタが刺さっていた。
「鬼ごっこはそこまで……ご苦労様。うふ、うふふふ」
――案の上、後方にはセラハが佇んでいた。
全身は真っ赤な鮮血に染められ、始原旅団の持つ戦闘衣は純白の色から一転、紅色になっていた。
……その鮮血は、セラハのものだけでは無い。
鮮血はとある勇敢な騎士達のものであり、混じり気の無い純潔を帯びた血。猛き証であって、その血はどこまでも紅く……生暖かい。
血はセラハの全身を塗りつぶし――そして、
――彼女が両手に持つ長い銀髪と、短い金髪をも染め上げる。
「……………………ッッ!」
ガイアの視界は一気に歪む。
今垣間見える光景が信じられなくて、信じたくなくて……これは夢だと。これは嫌な夢だと、目前の現実を否定しようとする。
その髪は間違いなく――愛しき弟子達の髪であった。セラハはあえて髪を見せつけ、ガイアを絶望の淵へと落とそうとする。
信じたくない。信じたくないが――
……事実は事実なのだ。
絶望に苛まれるガイアを見て、セラハはニヤリと笑む。
彼女にとって、人の絶望は蜜の味。人が悲しむ姿は、彼女に至高の喜びを与えてくれる。
「――あの二人、中々の腕前だったよ。特にあの男、しぶとく食い下がってさあ…………。結構時間は掛かったけど、何とか殺してあげたよ」
詩人が悠長に語る様に、ありのまま全てを語る。
「…………貴様。貴様ぁッ!――ぐっ」
ガイアの怒りは空しく、激痛には勝てなかった。
……無念だ。今日ほどこの老体を恨んだ日は無いだろう。こんな傷一つで、満足に立ち上がれもしないなんて……。
立ち上がれ……あの頃の自分は何処に行った!?
冥界の覇王と一騎打ちをした時も、最高神との死闘の時も苦戦した。けれども、それでも自分は立ち上がり、勝利してきたではないか!
何故立てないッ。何故……何故ッ!
「ふふ、動けない?――でもさ、『あんた』はこれで終わりじゃないよね?私はまだ満たされていない、まだあんたに恋い焦がれている。……さあ、全てをぶちまけよ?」
セラハはゆらり、ゆらりと近づいてくる。
まるで悪鬼の如し。その言動と行いは、およそ人間の所業とはかけ離れている。……流石、始原旅団の『忌むべき悪魔』と言われただけある。
「ち、近寄るな!おじいちゃんに何をしたんだよッ!」
「……おやあ」
ゼノスの叫びに反応し、セラハはガイアの傍にいる小さな少年を見る。
その少年はガイアにすがり付きながら、涙目の状態でセラハを睨みつけている。勇ましさとは程遠いが、内には秘めたる強い何かが存在している。
その何かを悟り、セラハはある事に気付く。
「…………その目、ガイアと同じ目だねぇ。……あたしが世界で一番大嫌いな瞳だよ………」
セラハは憎悪を込めて、ゼノスとガイアに呟く。
「……そうか。嗚呼、そうか。ガイアはよく分かっているねえ……このあたしの為に、美味しい犠牲を一つ追加してくれたわけか」
「……」
ガイアは息を荒げたままで、答える気は無かった。
彼はどこまでも冷静に、そして強固な意志をセラハにぶつけてくる。
「――――何だよ、その態度。ねえ、何で襲ってこないのさ?…………ああ気に入らない。気に入らないねえ。……まさか、老いがそこまで体を弱らせているなんてね」
セラハは顔を歪ませる。
彼の全てに幻滅し、思い描いていたガイアとは違ったらしい。
戦いに全てを委ね続けてきたセラハ。喜びも、苦しみも、その全ては戦いから生まれていく。
だから、聖騎士であるガイアに期待していたのに。
……がっかりだ。
最強の騎士も、今では名ばかりか。
「…………そんなお前に飽きちゃったから、そのガキ諸共すぐに殺してやるよ」
途端、セラハの声質が下がる。
恐ろしい程の殺気が周囲を包み込み、セラハは腹立たしげな様子で首を鳴らす。
――そして、一直線にこちらへと向かってくる。
「……シネ」
セラハは拳を握り締め、ガイアとゼノスを殴り殺さんと掛かってくる。
早い。傷を負っているにも関わらず、何て速さだ。
今のガイアは深手を負っていて、その速さには付いて行けない。どう抗った所で、このまま行けば殴り殺されるだろう。
……だが、ガイアは恐れない。
まるで勝利を確信したかの様に、薄く笑む。
…………セラハ。お前には分からないのか?
お前の背後に――――お前にとっての『死神』がいる事を。
……ようやくセラハもその殺気を感じ取った。
そして振り返ろうとする直前――――
「――死ぬのはお前じゃよ、セラハ」
「……は?」
セラハはその声を聞き、呆気に取られる。
それはガイアとはまた違った、しわがれた声。しかし抗いきれぬ覇気が含まれており、セラハの殺気はその覇気によって掻き消される。
……その現象は一瞬だった。
かの声音と共に、セラハの両腕は瞬時にもぎ取られる。
「――――――ッッ。あ、あああああああああああああああああッッ!」
さあ、今度はセラハが苦しむ番である。
絶叫を鳴り響かせ、彼女の血潮は白き浜辺に舞い散る。
「い、痛い……痛い、よお…………」
セラハの声は一変、年頃の少女らしき声音に変わる。
――だがそれでも、しわがれた声の主は容赦などしない。
ドルガ以上に大きな体を持つ声の主――アルバート・ヴィッテルシュタインは、怒涛の勢いでセラハへと接近し、その脇に蹴りを入れる。
「ぐ、あ…………」
重い。とてつもなく重い。
セラハの脳が揺れ、肋骨を何本も折られる。
その身体は吹っ飛びそうであったが、アルバートは更なる攻撃を加える。
彼女の首を掴み、力強く締め上げる。
「かッ……は」
本当に容赦がない。
心を鬼にしたアルバートに、孫娘への思いやりは皆無であった。
「…………これも運命じゃ。――死んでくれ」
――アルバートは、何の感情も出さないままそう告げる。
「あ…………お、おじい……ちゃ…………――――ッ」
彼女は何かを言おうとする。
――だが、はっきりとは言えない。口に出せないと分かったセラハは、乞う様な瞳をアルバートにぶつけてくる。
「ッ。――――はあああああああああああああッッ!」
アルバートは慈悲を投げ捨てる。
セラハが言い終える前に、アルバートは残酷にも彼女の心臓を手で貫く。
それで終わりだった。あのドルガやコレットでさえ弄ばれ殺されたのに……アルバートはセラハを他愛も無く仕留めた。
「…………全く、相変わらず……非道な男、だ」
――そう、全ては必然。ガイアは最初から分かっていた。
この親友が来てくれると理解した上で、勝利を確信していた。
…………しかし、
「うっ……ごほッごほっ。……はあ、はあ……」
セラハの死体を打ち棄て、アルバートがガイアの容態を見る。
「……傷が深い。聖騎士であろうお前が……なぜ」
アルバートは変わり果てた友の姿を見て、愕然とした思いで呟く。
彼の知るガイアは、それはもう気高く素晴らしい騎士の一人であった。どんなに傷付いても立ち上がり、意にも介さず敵へと向かっていく。
それこそが白銀の聖騎士、ガイア・ディルガーナ。
だが今目の前にいる老人は……アルバートの知るガイアでは無い。
これではただの老いぼれだ。
――認めたくない。これが宿敵の末路など……断固として。
「……老いには勝てぬものだよ。…………というか、お前の方が……異常だよ」
ガイアはその思いを察したのか、静かに答える。
薄々感じてはいた。
日々自分の身体が衰えている事を。ここ最近では剣を振るう所か、歩く事さえやっとなものだった。
すぐに息切れを起こし、事あるごとに古傷が疼く。
――そして最後に、セラハの一撃。
老人を殺傷する力としては、十分なものであった。
「……もういい、話すんじゃない。とにかく傷の手当だけでも」
と、アルバートが手当をしようとした瞬間。
ガイアは震えるその手で彼の腕を掴み、首を横に振る。
「……無駄だよ。傷は思ったよりも……深いようだ。…………それに、私がこうなる事ぐらい……君も分かっていた、だろ?」
「…………」
アルバートは無言のまま、荒い溜息を吐く。
ああそうだ。そんな事、話を聞いた時から承知していた。
「――じゃが、お前はまだ生きとる!何を死に急ぐ必要があるッ!?」
「……死に急ぐ、か」
ガイアは朝焼け空を見上げる。もはや視界は霞んでいて、その雄大で美しい光景を堪能する事は叶わないが、それでも見上げ続ける。
「…………なあ友よ。……これは、『必然』なんだよ」
「必然、じゃと?」
「ああそうだ。……私が死に行く時は、今ここに。――そして、次なる世代が活躍する時が、今ここから……始まるのだよ……」
そう言ってガイアは懐を漁り、ある古びた書物を取り出す。
「……ゼノ、ス。どこに……いる?」
「ここだよ……うぐっ。ちゃんと目の前に…いるよ」
ゼノスは涙声のまま、小さな手でガイアの手を握り締める。
一方のガイアは、既にゼノスの姿も見えていない。だがその手の温もりを感じ、近くに居るのだと認識する。
――生の灯が消える直前。まだ幼いゼノスでも、ガイアという大切な存在が死ぬのだと分かっていて、嗚咽を漏らし続ける。
涙が止まらない。悲しみが消えない。
……でも、ここで泣き叫ぶ事は出来ない。
今ガイアは、ゼノスに何かを渡し、何かを伝えようとしている。
……ゼノスはぐっと堪える。ガイアの期待に応える為にも……ジッと。
書物を持つガイアの震える手は、ようやくゼノスの胸元へとやって来る。渡し終えたガイアの手は、そのまま地面へと落ちる。
一刻、また一刻と。
彼の生命が、段々と消えて行く。
「…………いいか、ゼノス。……これから先、お前は様々な困難に出会うだろう。……喜びもあれば、苦しみもある。そして……人生に迷う時が、必ずやって来る筈……。その時はこの本を、その目で括目するがいい……」
人生は長い。長ければ長い程、辛い事は沢山ある。
ゼノスは騎士になりたいと言った。あの誇り高くも、どんなに苛酷な運命をも跳ね除ける、あの悲しき存在に。
結局の所、ガイアはゼノスに何も教える事が出来なかった。勿論幼いからこそ教えなかったという理由もあるが、重要な所はそこでは無い。
――出来る事ならば、ゼノスには普通の人生を歩んで欲しかった。
ガイアには分かるのだ。この少年の本質が……手に取る様に分かってしまったのだ。
……ゼノスは戦いに向いていない。彼は優し過ぎる。
この先過ちを犯したら、ゼノスという騎士は間違いなく壊れるだろう。
ガイアはそんな騎士の人生を歩んで欲しくない。――それは今でも思っている事。
……だが、やはりこれも必然なのだ。
聖騎士ガイアの死により、ドルガとコレットの死により……ゼノスはこれから、一人で生きていかなければならない。
――そうなれば、いつか必ず騎士になってしまうだろう。
だから、ガイアはこの書物を託した。この書物には騎士道精神の何たるかを自身の手で執筆し、書き上げた物だ。
騎士道精神、剣術の心得、騎士としての基本的な作法。
――そして、『聖騎士流剣術の心得』と『聖騎士の鎧の在り処』も――
……今ここに、聖騎士ガイアは全てを託し終えた。
「――ッ。はあ……はあ」
駄目だ、もう何も見えない。何も感じない。
死の恐怖が、ガイア・ディルガーナに襲い掛かってくる。
「ッ。おじいちゃん、しっかりしてよ!」
ゼノスは一生懸命ガイアの身体を揺さぶる。一方のアルバートは、友の死をただジッと見据えていた。
「…………は、はは」
ふと、ガイアは微かな笑いを零す。
罪悪感で満ち溢れるこの心。ドルガとコレットの死を悔やみ、聖騎士としての宿命を果たせなかったこの自分を笑う。
何と情けない事か。
――自分の人生は、呆気なくも寂しいものだった。
「……すまないなあ、ゼノス。…………聖騎士としての宿命を…………どうか、どうかお前の手で……終わらせて……く、れ……」
…………。
……。
その瞬間、一つの生が消える。
眩い朝日と共に、その魂は天へと召されていく。
「おじいちゃんッ!おじいちゃんッ…………うあああああああああああああああああッッッ!!」
ゼノスの絶叫が、浜辺中に響き渡る。
……嗚呼。
白銀の聖騎士ガイア・ディルガーナの人生が、今幕を閉じた。




