ep19 ――ガイア・ディルガーナ――
ゲルマニアは知らぬ場所で佇んでいた。
――白い粉雪が降り落ち、素朴な石畳に雪化粧を施した小さな街。曇天故に太陽の光も差し込まない街は、とても淀んでいて……人々もまた暗い印象を以て闊歩していた。
皆が一様に疲れ切っている様で、ただ前を見て歩く事しか出来ない。
道端の何をも見ず……そして、
「……」
ゲルマニアの目前に座り込む、小さな少年をも見ずに……。
――少年は大体六歳ぐらいだろうか。寒空の中、その身を震わせながら、小さな街の小さな路地裏にいる。全身は薄汚れていて、薄い麻布の服は灰色に染まっていた。
……どう見ても、少年は死にかけていた。
全身は痩せこけていて、およそ三日以上は食事を摂っていないのだろう。更にこんな服装で居れば……間違いなく凍死してしまうか、その前に餓死するかの二択だ。
ゲルマニアは急いで少年を保護しようと、手を伸ばす。――だが、
『……あ、あれ』
――何故か、自分の手は少年を貫通してしまう。
気付けば自分の身体は半透明となっており、少年もゲルマニアの存在に気付いている様子では無かった。
……変な感覚だ。
これは夢なのか?自分は確かに眠りに落ちた筈だが、ここまで明確な夢が見られるものか。いやそもそも、こんな場面は体験した事も無い。
――これは、誰の夢?
ゲルマニアは気を取り直し、改めて少年を見下ろす。
嗚呼、もう少年の体力は限界だ。
このままでは死んでしまう。道行く人々にも声を掛けられず、誰にも気付かれないまま息絶えてしまう。
誰か――――誰かッ。
この子に救いの手を――この可哀想な運命から。
「――――これは」
……そのよく通った声音は、救済の兆しだろうか。
ゲルマニアの懇願と共に、まるで図ったかのように告げられる。その声は道行く馬車の音よりも、ざわめく人々の雑音よりも明確に聞こえてくる。
灰色の雲に覆われた陰気臭いこの街。石畳はとても冷たく、立ち並ぶ建造物は明るみに欠け、暗い雰囲気を更に助長させているこの世界。
そんな中で、声を掛けてきた老人だけは違った。
ゲルマニアが見る限り、その老人は既に齢六十を過ぎているのかもしれない。白髪の長い髪、しわがれた声音に痩せ衰えた身体付き。
――だが老人は、その貧弱な外見を覆す覇気に満ちている。
少年を見下ろす眼は真っ直ぐで、全身から放たれるオーラはどんな英傑よりも激しく、眩しささえ感じるそれだった。
……生気に満ちた老人と、気力を失い欠けている少年。
この追憶は……ゲルマニアに一体何を見せたいのだろうか。一体誰の、そして何の為に――。
ふと、老人はしゃがみ込む。
少年と同じ目線となり、皺のある顔を綻ばせる。
「大丈夫だよ。私は君にとっての死神でも無ければ、肉に飢えた野犬でも無い。そんなに怖がる事はない」
「…………おじいちゃんは……誰……なの?」
少年は初めて、その枯れた声を響かせる。
疑心暗鬼に満ちた問いかけ。……恐らくだが、老人の言う例え以前の問題であるのだろう。少年にとって、目前の光景全てが畏怖の対象なのだ。
「……これはまた。この歳で、一体どれほどの体験をしたのだろうか」
さしもの老人も、少年の反応に哀れみを覚えていた。
身体を小刻みに震わせ、紫色の唇を噛み締める小さき存在。心を打たれたのは老人だけでなく、ゲルマニアも同様だ。
――胸の底から湧き上がる不快感、だが老人はそれを押し殺し、尚も笑顔を保ち続ける。
この運命から救う為に、老人は優しく答える。
「――私の名はガイア。この身は既に老い朽ちてしまったが……志すものは未だ果てておらず。故に、君に対して誓おう」
どこまでも明白で、衰えを知らない老人。
彼はその場にて片膝を付き、握りこぶしを胸に当てる。その姿勢はゲルマニアの知る……最も馴染み深いものだ。
「騎士道精神において、私は君を助けようと思う。悪は忌むべき存在であり、私はそれを滅してきた。それに準じ…………元ではあるが、この騎士ガイア。君を救う光となりたい」
――偽りの無い、正義感に満ち溢れたその生き様。
これが騎士の鑑といわずして、一体何を言うのだろうか。絵に描いた様な誇らしい騎士の姿を、今この老人――ガイアは示している。
……少年は心打たれた。その正直な意志に、面喰っていた。
この子は何を経験したかは知らない。仮に知り得たとしても、ガイアにはどうしようもない。
……むしろ、ガイアはどうでも良かったのだ。
少年の過去や、少年に刻まれた複雑なる思いを気にするよりも……ガイア自身は彼をただ救いたかった。純粋に少年を路頭の冷床から立ち上がらせ、一刻も早く暖かい茶と食事を摂らせたかった。
そんな思いを察知したからこそ、少年は驚き戸惑っていたのかもしれない。
「ここは寒いし、何も無い所だ。……だが強制はしない。君の行きたい所に行くが良い」
「………………」
少年は無言だったが、その小さな手を伸ばしてくる。
何かを求める様に、純粋無垢の眼差しをガイアに向けたまま……。
「……そうか。君は強いんだな」
そう言って、ガイアはニコリと微笑む。
――今まで曇天が拡がっていた空の合間に、小さな光が差し込む。
光の行く先は、少年とガイアの元へ。まるで二人の出会いを祝福するかの如く、天におわす神々が称え喜んだかの様に…………神々しくも厳かな一面だ。
「立てるかな、少年……っと。そういえば君の名前をまだ聞いていなかったな。言えるかな?」
名前――少年の名前。
ゲルマニアは次の言葉で、全てをを察する。
何故こうも、この出会いが特別なのかを。……何故この少年とガイアの出会いを、ゲルマニアに見せるのかを――――
「…………僕の名前は……ゼノス」
『…………ゼノ、ス?』
その名前を耳にした瞬間、戸惑いと同時に理解する。
ここが何処で、今自分がどのような立場にいるのかを把握した。この体験の理屈や云々はともかく……嗚呼そうか、そう言う事だったのか。
「――じゃあゼノス。共に行こうか」
ガイアは少年を立ち上がらせ、ボロ絹のマントを翻す。
正義の騎士はその場の陰気な空気を押し退け、威風堂々たる足取りで少年の手を引く。
「――神よ、今は亡き主よ。老いたる白銀の聖騎士、ガイア・ディルガーナにまた新たな使命を下さった事…………誠に感謝申し上げます」
白銀の聖騎士――ガイア・ディルガーナ。
ゲルマニアはこれから目にし、そして見届ける事となる。
――ゼノスが白銀の聖騎士となる所以を。美しくも悲しき英雄の半生を、不可思議な力によって映し出される……彼の過去を。
――――ゼノス・ディルガーナの、悪夢を。




