ep6 memory② ―出会い―
とある晩の事、ロザリーは自室に備えられた窓枠の上へと佇み、真下に広がる光景を見下ろす。
とても高く、風もやや強い。寝間着の姿では非常に寒く、心の奥底まで凍りつきそうだ。
でも……これしきの寒さは、今までの寒さと比べれば生易しいもの。
「……うっ」
――怖い。死ねば楽になれる筈なのに、どうして自分は死を恐れるのか?生きていれば、また母に叩かれる。また父に冷たい視線を向けられる。
ロザリーはまだ九歳の少女である。けれども、体験してきた世の不条理さは……もはや一生分経験してきた。
死ぬ恐ろしさと生きる恐ろしさ、どちらを選べと言われたら……九歳のロザリーはこう答える。
「し、死んじゃえば……本の中の子みたいに……幸せに、なれるんだよね?」
震える声を出しながら、彼女は死ぬ恐ろしさを選択した。
「早く行かなきゃ……こんな所はもう嫌だ。――もう生きたくないっ!」
虚空に向かって叫び、思いの全てを打ち明ける。
「誰も私を見てくれない……誰も私を愛してくれないっ!」
ロザリーは訴える。それが誰に対して発せられているかは分からない。
ただ、彼女は本気だった。本気で世の中に絶望し、孤独という世界で生きる事を拒否した。
「――私は、私は本気だよっ!今ここで、ここで死んでやる!窓から飛び降りてやるんだからっ!」
ロザリーは尚叫ぶ。本気で死ぬつもりの彼女は、その最後に悲鳴にも似た救いの願いを叫んだ。
もしかしたら、この声を聞きつけて誰かがやって来るかもしれない。まだ自分を必要としてくれる人がいて、その人が必至に私を止めてくれるかもしれない。
そう、思っていたのだが――
数分が経過しても、誰も来る気配が無かった。
この声の大きさならば誰かが気付く筈なのに……事実上、ロザリーの悲鳴を聞き流していたのである。
「……う、ううっ」
嗚呼、また姫は泣いている。
自分が本当に孤独だと知り、ほんの微かな希望も……今打ち砕かれた。そうだ、例え救ってくれる人がいたとしても、その人に何の利得がある?
今まで孤独を強いられてきた自分が……よくもまあ、そんな馬鹿な想像をしたものである。
ロザリーの足は、すり足のまま窓外へと近づいていく。ゆっくりと、しかし止まることなく。
そして――その身はグラつき、全身は一気に外へと放り出された。
死んだ、ロザリーは恐怖に抗い、必死に瞳を閉じる。
だが――
「早まらないで、ロザリーッ!」
絶望の淵に堕ちようとしたロザリーは、有るはずの無い救いの手によって腕を掴まれる。
幻想?否、これは現実だった。宙吊りの状態で顔を見上げると、そこにはロザリーよりも五か六歳年上の少女が鬼気迫る表情で、自分を助けようと努めていた。
でも……何故こんな事をする?
「……離して」
「えっ?」
「離してよっ!どうせ生きたって何も変わらない!私が金色の髪だから、皆と違うから意地悪されるだけ…………それ以外に楽しい事なんて、無いんだよ!?」
ボロボロと涙をこぼしながら、彼女は初めて人に対して本音を吐露した。
楽しい事なんて無い。友達も出来ず、家族からも愛されず、民にも嫌われ、ロザリーに入り込む余地など存在しない。
物心ついた頃に父から死ねば良かったのにと言われ、母に関してはロクに口さえも聞いてもらえない。兄や妹からも執拗な虐めを受け、そんな自分を助ける理由が何処にある?
どうせこの人だって、何か裏があって助けているのかもしれない。自分が嫌いで、これから生き地獄を見せようと企んでいるんだ。
そうだ、そうに決まっている。どうせ、どうせ、どうせ――ッ
「――楽しい事なんて、これから見つけていけばいいじゃないっ!」
「――え」
彼女の冷静な言葉と共に、ロザリーは勢いよく宙吊りの状態から救い出される。
そして――その救った少女と対面する。
どこまでも凛々しい素顔、鮮やかな銀髪。どこまでも透き通った翡翠の瞳。
他の人とは違う、ロザリーが初めて目にする顔だった。怨嗟の欠片も無く、自分に向けるその顔は……忌み子としてでなく、ロザリーという少女に向けられたものだと分かった。
彼女はロザリーを抱き締めた。強く、そして優しく……まるで子供をあやす様な抱き方だった。
――暖かい、これが……人間の温もり?
「……諦めたら、もう楽しい事なんて二度と見つからないわ。今は思いっきり泣きなさい。思いっきり泣いて――今は耐え忍ぶのよ」
それは凛々しい彼女らしい、前向きな助言だった。
死を選べば、明るい未来は存在しない。絶望を味わったのなら、精一杯に思いと感情をぶちまけろ。そして…………前へと進もう。
その言葉に、ロザリーの涙は勢いを増す。
精一杯に声を張り上げ、彼女に抱かれながら、彼女の服に涙を滲ませながら泣き続けた。
その様子を見守り、彼女はロザリーの頭をずっと撫でていた。
「……どう、もう涙は止まった?」
しばらくして、ロザリーは彼女のおかげで落ち着き始めた。彼女の質問にこくりと頷く。
彼女は笑みを見せ、そっとロザリーを離す。
「良かった……一時はどうなる事かと思ったわ」
「……あの、貴方は一体」
ロザリーは震える声音で、彼女が何者かを問う。まだ信用しきれていないせいか、自然と身構えてしまう。
銀髪――その髪のおかげで、ロザリーは彼女がギルガント王家だという事は分かっていた。しかし、ロザリーは今まで彼女を見た覚えがない。
彼女はそうだった、と呟き、問いに対して答えた。
「私の名前は――ノルア・セレウコス・ギルガント。今さっき五年ぶりにギルガントに帰って来たのよ。――第一王女として、ね」
「第一……王女?」
ノルア――聞いたことも無い名前だった。
ロザリーは身内と話す機会が全く無かったので、第一王女がいたという事実にさえ瞠目していた。
驚いた理由はそれだけでは無い。ギルガント王家は、ロザリーにとって全てが恐ろしく、人の皮を被った悪魔だという認識である。自分に向けられる視線も冷たく、自ずと恐怖を覚える存在――。
しかし、ノルアに対しては違った。
初めて知る感覚……その手は暖かくて、発せられる声は優しい音色で……凄く落ち着く、ノルアといると。
――これが……安らぎ?これが、人と触れ合うという感覚?
今まで感じた事の無い経験に、ロザリーは終始戸惑うしかなかった。
そんな妹の様子に、ノルアは最上の笑みを見せる。
「怖がらなくても大丈夫よ。私はロザリーを嫌わない……絶対に、絶対にね」
例え全ての人が嫌おうと、自分だけはロザリーを見捨てない、嫌悪しない。ノルアは何があろうと……ロザリーだけは守って見せる。
ノルアの決意を込めた表情は、ロザリーの記憶に一生留まる事になる。
自分を救ってくれた姉――こんな自分を守ってくれると約束した家族の言葉が、心の寒さを吹き飛ばしてくれる。
「あ……ようやく」
「……え?」
ノルアが発した驚きの声に、ロザリーは疑問符を浮かべる。
「ロザリー、今微笑んだわよ?とても綺麗で――そっちの方が可愛らしいわ」
「……」
自分が……微笑んでいた?
……でも、それは不思議な事じゃないのかもしれない。だって今の自分は嬉しいのだから、悲しくないのだから。あの絵本の子みたいに、誰かと触れ合うという事が出来た。
――ノルア姉様、私を救ってくれた……恩人
その微笑みが眩しくて、その笑顔を曇らせたくなくて――。
ロザリーはもう、泣かないと誓った。何があっても微笑んでいると誓った。
ノルアには嫌われたくないから……ノルアには、ずっと笑って居て欲しいから。