ep12 苦悩を選ぶ乙女
ヴェルネイル一座の祭りが終わり、翌日を迎えた。
とはいえ、日はまだ昇っていない。外は薄暗く、空気は未だ冷えている状態だ。眠らない町とは言われるが、流石に午前四時となれば町も静かである。
――そんな誰もが寝静まる中、イルディエは目を覚ました。
別に早起きして料理をしようだとか、早朝の空気を吸いたいだとか、決してそのような理由で起きたわけでは無い。しかし、単に寝覚めが悪かったわけでも無い。
理由はある。それも、極めて重大な理由が。
眠気も失せた所で、イルディエは表情を引き締めて隠れ家の中庭へと向かう。
……そして案の定、中庭には先客がいた。
「はっ!せいっ!」
気合の籠った声を上げ、小刻みに槍を振るう女性。
それは紛う事なくレイダであった。拳闘士である筈の彼女だが、今日は槍を使って稽古しているらしい。
これは先日知った事だが、レイダはゼノス達よりも早い時間に朝稽古を行っている。……拳術、剣技、ナイフ術、弓術、そして今日は槍術を磨いているらしい。
とても洗練され、動きに無駄が無い。力任せに槍を振るわず、全身を使って穂先を突き出す。……それはまるで、舞踏のようだ。
「……ん?あれ、イルディエ嬢ちゃんじゃないの」
と、そこでイルディエの存在に気付き、レイダは稽古を止める。
「あ、そのすいません。盗み見るつもりは無かったんですが」
「いいの、いいの、気にしないでくれよ。……んで、どうしたんだい?寝付けなかった……というわけでも無さそうだね」
「……はい」
イルディエは神妙に頷く。
彼女の異様なまでの気迫を感じ、レイダもまた真剣な表情をする。
「あの、レイダさん。実は折り入って相談が」
「――あたしに武術を教えて欲しい。そんな所かい?」
苦笑しながら言うレイダに、イルディエは面を食らう。まさか即座に読み取られるとは思わなかった。
レイダは手ぬぐいで汗を拭き取り、イルディエへと近付く。
……近くに立つレイダは、とても背が高い。イルディエは彼女を見上げ、一瞬だが委縮してしまった。
その様子に、レイダは溜息を漏らす。
「……生憎、戦いは教えられないね」
「ッ!で、ですが覚悟は出来ています!もう弱いだけの自分は嫌だ……力が欲しい!自分で生きていけるだけの力を!」
「気持ちは分かる。いずれこうなるとも予想が付いていた。……まあ今回の場合は、あの劇を見て感化されたのだろうねえ」
レイダは祭りには行っていないが、ゼノスから昨日の出来事は全て聞いている。だから、彼女がどうして態度を急変させたのかも理解出来る。
把握した上で、彼女は静かに語り出す。
「白銀の聖騎士、か。確かに彼は、奴隷という身分でありながら英雄にまで上り詰め、幾多もの戦果を残してきた。他にも何人かの英雄が、元は奴隷だったという記録もある。――けどね」
奴隷もまた人間だ。苛酷な環境の中でも、天賦の才能を発揮して下剋上をする者もいれば、哀れにもすぐに朽ちる奴隷も多い。いやむしろ、後者の方が圧倒的な数を占めるだろう。
更にレイダは、イルディエに武術を教えたくはない。それには幾つかの理由が存在する。
「……嬢ちゃんは、あたし等にとっちゃ保護対象の人物だ。まず無暗に戦場へと駆り出す真似はしたくない。そしてこれは……優しいお姉さんからの老婆心だが」
――瞬間、レイダの顔から笑みが失せる。
それは彼女本来の素顔。刃物の如く鋭い瞳、そこから発せられる絶対零度の視線。獲物を捕らえる狩人……もしくは、全てを殺戮する鬼の出で立ち。
威圧的な空気に呑まれ、息をするのも忘れる。
そんな中、レイダは顔を近づける。そして囁くように……告げる。
「――あんたに、『血の歴史』を歩む覚悟があるか?」
たった一言、彼女はそう呟く。
だがそれだけなのに、イルディエの背筋が凍る。その言葉は余りにも重くて、現実味を帯びているからだ。
「……聖騎士の成した栄光を掴むなら、あんたは体験しなければならない。
私の様に、そしてゼノスの様にね」
「…………ゼノスの様に?」
「そうさ。……ああ丁度いいから、一つ昔話を語ってあげようか。これは嬢ちゃんの聞いた英雄譚とは程遠い話だけどね」
レイダは慈しみ、そして雄弁に語る。
血の歴史を歩み続けた……ゼノスの物語を。
彼の人生は、グラナーデ王国の辺境に位置する寒村から始まる。それ以前の記憶は無く、ただ浮浪児として冷たい石畳に横たわっていた。
そこで彼は、ガイア・ディルガーナという老騎士と出会う。
老騎士は彼を保護し、ゼノスを孫のように育ててきた。二人の弟子と共に、彼は幸せな一時を過ごした。
――しかし、運命とは何と残酷な事か。
突如、始原旅団を名乗る侵略者に国を襲われ、ゼノスはそこで老騎士と弟子達を失う。……アルバートに連れられ、彼はグラナーデを後にした。
もうこんな悲劇を繰り返したくない。いずれガイアの説く騎士となり、聖騎士の名を継承するつもりだった。その為に剣を取り、ゼノスは戦いに身を投じた。
レイダがゼノスと出会ったのは、丁度その始まり。旧知の仲であるアルバートに頼まれ、団長であるレイダの夫はゼノスを傭兵団に入れた。
団長の手ほどきによって剣を学び、ゼノスは着々と技術を伸ばしていく。飲み込みの速さは人一倍であり、僅か入団二カ月にして戦場へと駆り出される事となった。
だがそれは、同時に苦悩の始まりでもあった。
騎士の現実、罪無き者達の報われぬ最期。不条理な事実が怒涛の勢いで襲い掛かり、ゼノスの心を病ませた。
戦とは常に人の心を変え、人間の醜悪さを露わにさせる。
英雄はそんな世界で生き延び、絶望と苦痛を伴いながら自分の意思を貫く。……常人ならば、すぐ音を上げるというのに。
「あんたが求める世界というのは、単純に言うならば地獄。相当な覚悟があったとしても、生き抜ける保障は無い。大人しくマハディーンに保護されるのが、あたしとしては利口だと思うけどねえ」
「……つまり、一生弱いままで在り続けろと?」
震える声で問うイルディエに、レイダはしばし間を置いてから答える。
「そうさね、その方が平穏に過ごせる。――人殺しも、貴族の計略も、傭兵の野蛮さも、何よりも死を毎日見ずに済む」
「……」
彼女は嫌味で言っておらず、本音を以てそう示している。
多少遠回しな言い方だが、要はイルディエを戦場に出したくないのだ。自分達と同じ道を行かなくても、それ以外の輝かしい道は存在する。
レイダとしては、違う道に走って欲しい。
――だが、そんな願いも次の一言で打ち砕かれる。
「全て覚悟しています、レイダさん。……今の私は、ゼノスや聖騎士に感化されている。――この決意は、何よりも固いです」
「……」
てっきり折れるかと思ったが、事もあろうにイルディエはそう反論する。
しばし絶句した後、神妙な面持ちで尋ねる。
「…………それは理解した上で言っているのかい?」
「当然です」
即答するイルディエ。
そこに迷いはない。そんな彼女の豹変ぶりにも、レイダは十分驚かされていた。
「……勿論、人を殺したくはありません。誰にも自由を奪われたくありません。ですがそれ以上に、私は確信しているのです」
「……確信?」
訝しむレイダに、イルディエは断言する。
「――強くなれば、その先で今以上の平和が掴めると。私とゼノスが共に強くなれば……罪なき者が死なず、争いのない世界が創れると」
「……」
突拍子に紡がれたその一言に、思わずレイダは思考を停止させる。
だが次の瞬間には、彼女は豪快に笑っていた。
腹を抱え、笑い過ぎて涙が止まらない。静粛たる空間の中で、彼女の声だけが響き渡る。
「ふ、ふふ……随分と面白い答えじゃないか」
「……都合の良い答えなのは分かっています。馬鹿にされても不思議では無いと思います」
「い、いや何、別に馬鹿にしているわけじゃない。――むしろ、素晴らしい答えだと思う」
予想もしなかった言葉だけに、今度はイルディエが拍子抜けする番だった。
レイダの意図が掴めないが、その疑問はあっという間に消え去る。
彼女は愛嬌ある微笑みを見せ、イルディエからまた距離を離す。そして自分の持っている槍を彼女の足元へと放り投げる。
突然の事に、槍とレイダを交互に見るイルディエであった。
「――気が変わった。その覚悟と高い理想に免じて、イルディエ嬢ちゃんに槍術を教えてやろう」
「……え」
「ふふ、どうしたんだい?言っとくけど、気が変わらない内に槍を取った方がいいさね。……それで、ゼノスと同じ願望を掴みたいのなら」
「…………」
――願望。
それは全てを救う事。善を愛し、悪を滅ぼすという単純な願い。
もしゼノスと同じ道を歩むならば、槍を手に取れ。彼女は単純に、そして明確にそう促していた。
イルディエは躊躇せず、槍を拾う。
――イルディエはそのまま、レイダから稽古を受ける形となった。




