藤本さんの場合 その1
私は30代目の勇者としてこのイツカミテイロ国に召還された元カレー屋の店主です。少々特殊な生い立ちでして、親父は教会の理事をしている人物でした。司祭の資格を持っていないのでただのオーナーのようなものになるのでしょうか。教会の教派は数多いプロテスタントやカトリックだとか言うものではなく歴史の教科書で見ることがあったかもしれないロシア聖教というものになります。
小学校に上がるとき自分の生まれが特殊だということに気づきました。レアなんですよね。地元に教会あるのに。というか、私の家は教会の裏にあるのに。多くの子供が桃太郎を聞いて育つ時期にアダムとイブが林檎をね、なんて聞かされて育った私はぼんやりとしていて抜けている子供だったかもしれません。
ある日給食にカレーが出ました。多くの子供が大喜びで、私は初めてのカレーに大興奮でした。そんなときです。
「ふじもとくんは ろしあなのに いんどじんみたい!」
私もよくわかっていませんでしたが、カレーはインドという概念が子供達には当たり前で、ロシアというのは色白というイメージなのに私の父親譲りの浅黒い肌と一心不乱にカレーを食べる姿をみた友人達は私に「本当はインド人」もしくは「前世はインド人」というイメージを付随させたようでした。
カレーが給食に出るたび興奮し、ロシアなんて知らない国よりインドのイメージが強く根付いた私は「インド人インド人」と呼ばれるようになり、私自身も「僕、将来インド人になってカレー鍋のお風呂に入るんだ!」なんて言う有様でした。
月日は流れ高校3年生のある日、父が私に示した進路はロシアへの留学でした。父曰く、「本国で司祭になったほうが超いけてるし、健一(兄)は教会継ぐ気ないらしいし。」でした。私は18にもなるのにまだカレー中毒でして、ロシアに行くくらいならインドに行くと宣言しアルバイトをはじめてついにインドに渡ることとなりました。
予想以上に貧富の差が激しく宗教に対してあまり興味のなかった私は「生きるために必要なところもあるのだ」と痛感する旅になりました。同時に豊富なスパイスに魅せられながらも「あのどろっとしたジャガイモがないものは僕の求めるカレーではない」と絶望もしました。インドのカレーはさらさらだったのです。
インド留学から帰った私はカレー屋をはじめ、ある程度の規模になれば売却し、海外にどろっとしたカレーの店を作り、また売却し、帰国してカレー屋を開く。こういう生活を続けていました。ちなみに教会は何故かロシア人と結婚した兄が継ぎました。父はコレで老後も出て行かなくて済むと大喜びでした。家の敷地は教会のものでした。
帰国するたびに実家である教会に顔を出し、30を超えてもカレー中毒だった私は2011年の12月、スペインへカレー屋を作りにいくために関西国際空港にいました。突然眩い光に包まれ、私はこのイツカミテイロ国へと来界することになったのでした。