ラジックの相談所 第一話
少し俺の住んでいる町、エベストルについて紹介したいと思う。
でもまあ、紹介すると言ってもこのエベストルはどこにでもあるような普通の町だ。話すことなんてそんなにはないんだがな。この町は大きな人口を抱える大都市でもなければひなびた田舎町というわけでもない。交通の要所にあるわけでもなければ特に産業が発達しているわけでもない。名所と呼べるような場所も少ないから観光客もたいして訪れては来ない。
ただこの町から数十キロ離れたところには電化製品の会社やそこがスポンサーのサッカークラブなんかで有名な大きな街があって、このエベストルにはその街で仕事を持っている人が多いらしい。
だから言ってみれば大都市のベッドタウン、それがこの町エベストルの一般的な印象だろう。
町の名物はクッキー、その名もトルトルクッキーだ。薄くて丸い小さなクッキーで袋の中に妙にたくさん入ったものが駅、公園の屋台、宿屋の軒先などで売られている。
味の方はと言うと……あまり期待しない方がいい。例えるなら何かの肉と何かの薬草を混ぜたものを後から無理矢理に甘くしたような味で、常識的なクッキーの味を想像して食べると軽いショックを受けることになる。パサパサし過ぎていて食感もあまり良くない。俺にはなぜこんなものが名物なのかさっぱりわからない。そんな感じのものなのでもちろん町の人たちには評判が悪く、買う人は旅行客を除いてそう多くはない。
ただし、このトルトルクッキー、人間たちの舌にはまずくてもなぜだか動物たちの舌には評判がいいようなのだ。一つ二つ自分で食べたあとにあまったものを犬や猫に与えてあげると、彼らはこのクッキーをがっつくようにバリボリと食べてくれる。与えれば与えるほど無心に食べ続ける。どうやらこのクッキーは彼らにとってはよほどおいしいものらしい。人には不評でも動物たちにこれだけおいしそうに食べてもらえるなら作った人は本望かもしれない。
そのことと関係があるかどうかは知らないがこの町にはやたらと猫が多い。公園の木陰、民家の屋根、レンガ塀の上、通りの端っこなど町のいたるところで猫たちの姿を見かける。駅前の公園などでは旅行客や暇な町人からトルトルクッキーをもらう野良猫たちであふれている。普段は鳥たちを本能で追い回している猫がここでは鳩なんかとうまく共存していて、これは少し不思議な光景だ。猫好きの人が多いのもこの町の特徴と言えば特徴かもしれない。
あとは……そうそう、大切なことを言い忘れていたよ。この町にはほかとは大きく違うところが一つだけあったんだっけ。まあ、けっこうどうでもいいことなんだけどな。いちおう話しておこうかな。
それは――この町には神様がいるということなんだ。
第一話
朝の八時。
この時間の俺はほぼ毎日、職場へと続く田舎道を歩いている。歩いていても、うとうとと眠くなってしまうような心地良い風が肌を撫でていく。
今の季節は初夏、六月の上旬だ。気温はちょうどいいし気候も穏やか、今が一年を通して最も過ごしやすい時期じゃないだろうか。これなら毎日の通勤時間もそんなに嫌じゃない。ただしこの時期、一つだけやっかいなものがある。それは、ポプラの綿毛だ。
「ポプラという木、知っているだろうか?」
やけに背が高くて枝が多くて下の方からびっしりと葉っぱが生い茂る、なんかぼさっとした感じの木だ。ここエベストルにはなぜかそのポプラがたくさん植えられていて、大きな道の脇なんかではまず間違いなく見かけることができる。
そして、ポプラはこの時期ぐらいになると種子だか何だかのついた綿毛を飛ばすんだ。それも尋常じゃないぐらいの量を。ちょうどタンポポの綿毛みたいなやつが風に乗ってそこら中に漂い始める。これが見た目は雪が降っているみたいでとてもきれいなんだが、実際にはくしゃみだとか眼のかゆみだとかを引き起こして大変なんだ。おっと、言ったそばから……鼻が……、
「ふえっ……くしゅん!」
失礼。俺はこうゆうのは大丈夫な方なんだがそれでも鼻がむずむずしてたまらないな。花粉症とかこうゆうのに弱い人にとっては地獄なんだろうな、この時期は。せっかく過ごしやすい時期なのにこれでは大変だ。どうも世の中、うまくいかないものだな。
「ああ、そうだ」
遅れたが自己紹介をしよう。
「俺の名前はユトー・モンドペリ、年は二十歳だ」
見た目は中肉中背、痩せてもいないし太ってもいない、背も高くもないし低くもない。顔立ちもいたって普通だ。自分で自分のことをかっこいいなんて思うほどうぬぼれてはいないが、鼻とかはけっこうシュッとしてるかもしれない。全体的にいつもやる気がなさそうに見えるのは大きなマイナス点ではあるかな。
さて、次は俺のやっている仕事について話すとしようか。あまりこの話はしたくないのだが……そうもいかないな。仕方ない、話すか。
「俺はこの町では公務員のような仕事をしているんだ」
公務員と言えば聞こえはいいのだけれども、実際はちょっと変わった仕事をしている。はっきり言って仕事と呼べるかどうかも怪しいものだ。何かを作るわけでもなくずっと接客をするわけでもない。既存の職業で言うと何が一番近いかな……探偵? なんでも屋? そうだな、そんな感じのとりとめのない仕事だな。
まあ、とにかく変な職業だ。詳しいことはまた後で話すとしよう。
俺は少し前までは町役場で普通の事務の仕事をしていたんだが、どうもミスが多くて上司を怒らせてばかりだった。それでついには今の仕事に回されてしまったというわけだ。いわゆる左遷とか窓際送りってやつだな。役所の中でもまともに仕事ができない連中が送られてくるような場所、それが今俺が働いている部署だ。
「この年で早くも出世をあきらめないといけないなんて……。ああ、最悪だ。人生になんの光も見えない……」
そんな陰鬱なつぶやきを漏らして今日も俺はその仕事場へと向かう。仕事場までは俺が今住んでいる町役場の寮から歩いて三十分ほどの距離だ。町の南側にある中心部からはずれて北の方へと歩いていく。いつも賑やかな商店街を抜け、閑静な住宅街を横目に通りを歩いて行き、眼に入る建物が少なくなって畑が広がってきたようなところまで行く。
「すると、小さな山の入り口に着くんだ」
山と言っても本当に小さな山でこんもりとした丘程度のものだ。山の頂上まではきちんと階段が作られてあってほんの五分も登れば頂上までたどり着ける、そんな山だ。ちなみに俺が通勤に車や自転車を使えずに徒歩で行かなければならないのは、この山を登らなければいけないからだ。
「あー、めんどくさいな。朝っぱらから山登りかよ、まったく。まあ、この時期は涼しいからまだましな方なんだけどな」
六月のさわやかな風が吹く中、緑の木々に囲まれたその階段を登っていく俺。すぐに目的地は見えた。
「おっ、着いたか。相変わらず派手な建物だ」
山の頂上の部分にその建物があった。何本かの石の太い柱が立ち並び、同じく石でできた大きな屋根を支えている。そしてその柱に囲まれた中央にはなにか祭壇のようなものが設けられている。
「いつ見てもなんか場違いな建造物だよな、これ」
それは紛れもない神殿であった。神様をまつっていろいろな儀式とかをするあれだ。神殿と言われるとさも巨大なものを想像するかもしれないが、ただしこの神殿の場合はそれほどの大きさではない。せいぜい一般の民家ほどの敷地の広さで、柱の高さも三メートルほどしかない。柱や天井などの装飾もあまり凝ったものではなく神殿としての威厳のようなものはあまり感じられない。
それに、この神殿は何でも千年以上も昔に作られたものらしくって損傷も激しい。いちおう崩れない程度には補修してあるらしいが、それでも外見は誰が見てもかなりみすぼらしいと思うほどのものだった。そこは神殿というよりかはちょっとした集会所といったほうが適切かもしれない場所だった。
「まあ、神殿の方はどうでもいいや。用があるのは隣の方だ」
また、その神殿の隣にはもう一つ別の建物が建てられていた。ニット帽のような丸い屋根と明るい色をしたレンガの壁がよく目立つ、おもちゃの家のような建物だ。こちらもあまり立派な建物ではなくちょっと見た目を整えただけの小屋という風情だ。神殿とこの建物のまわりには少し背の高い植物が植えられている。ひまわりだ。今は六月なのでまだ花は咲いていないが七月ぐらいになると一斉に開花して辺りを明るい黄色で埋め尽くしてしまう。
「山の頂上にこんな神殿と小屋が建ってるとなんかサーカスでも開きたくなるな」
この場所は何か現実離れしていて、ついついそんなことを考えてしまうような雰囲気をまとったところだった。
「実際は町が運営しているただの公共施設にすぎないんだけどな。まったく、税金を使ってこんなものを維持していくなんて。とんだ酔狂だぜ」
神殿とその小屋の間には石畳の道が通っている。その道の脇には大きな木でできた看板が立てられており、そこにはこう書いてあった。
『ラジック神殿 & ラジック相談所』
ここが俺の毎日通う仕事場だ。
「さあ、今日もがんばるか」
俺は神殿の横の小屋、つまり相談所へと入っていく。鍵を開けてキィキィと鳴る少し建て付けの悪い扉を開く。中は広い一間の部屋になっていて真ん中には部屋を横に仕切るように大きな長机が備えられている。長机の奥にはいくつかの机と棚が並んでいて小さなオフィスになっている。銀行や郵便局などと同じでよくある公共施設の窓口のような部屋だ。
俺は奥の壁際にある自分の机に鞄を置いて隣の別の部屋に入っていく。その部屋はキッチンやトイレなどしっかりもあって、この建物の中ではあまり不自由することなく生活もできるようにもなっている。
キッチンでコーヒーを淹れると俺はそれを持ってまた自分の机へと戻っていく。どっかりと椅子に腰掛けて朝のコーヒーを楽しむ。
忙しくなるにはまだ時間があるからな。今のうちにゆっくりして英気を養っておこう。
俺は一口二口とコーヒーのカップに口をつける。
と、そこへ。
「あの、すみませんが……」
不意に入り口のドアが開く。
「ラジック相談所というのはここですか?」
見るとそこには一人の中年のおばちゃんが立っていた。どうやら俺の仕事のお客さんのようだ。
「はい、そうです」
俺は立ち上がる。
「ここがラジック相談所で間違いないです」
もう少しゆっくりできるかと思っていたが、今日はさっそくお客さんが来たようだな。ちょうどいい、みんなには俺の仕事の様子を見てもらおう。俺は部屋の奥の自分の机からドアの前に立つおばちゃんのもとまで行く。
「ラジックのご相談ですか?」
ラジックとは地名や人名ではない。とある物事のことだ。それも常識では考えられないとんでもない物事だ。ここでそのラジックに関する相談を人々から受け付けるのが俺の仕事というわけだ。
「……はい、そうなんですけど」
少しためらってから口を開くそのおばちゃん。
「昨晩、神様からラジックを授かったみたいなんです。でもラジックというものがわたしにはよく分からないんです。実際に自分のラジックを一人で使ってみるのは不安で。それでご相談にまいったというわけです」
彼女はラジックに対していささか困惑しているかの様子で答える。実はこういった反応はラジック相談所にやってくる人では普通のことだ。なにせラジックは神様から与えられると言われている謎の力だ。不安になるのは当然のことだろう。
「わかりました。大丈夫です。ラジックを授かった方はみんなそう思うものですから。では、どうぞお座りください」
俺はおばちゃんを部屋の真ん中にある長机に座らせる。俺もおばちゃんの向かい側に座る。
「ラジックを授かったのは初めて、ですよね?」
「ええ、そうです。家族の中でも私が初めてなんです。それでラジックのことをご近所の方に訊いてみるとなんでも不思議な力が使えるようになるとかなんとか言われて……」
その通りだ。ラジックとは不思議な力を人にもたらすことができるものだ。
「不思議な力、なんて言われても私にはちょっと怖くて」
俺はおばちゃんを安心させるように笑顔で、
「なるほど。でもご心配なさらずに。ラジックは不思議ではあっても何か恐ろしい力を発揮する、というようなものではありませんから。あなたに直接、危害が及ぶことは絶対にありませんよ」
「そ、そうなんですか。それは良かったわ」
俺の言葉を聞いてやや緊張していた顔をほころばせるおばちゃん。俺は次の質問をする。
「ではお聞きしますが、ご自分でご自分のラジックの効力はわかりますか?」
ラジックとは人それぞれで違った効果を発動するものなんだ。
「はい。それは……えーと……」
俺の質問におばちゃんは何かを思い出しながら答える。
「確か、『手から風が出てくる』……だったと思います」
「……手から風が出てくる、ですか」
それを聞いて俺はすぐに答える。
「そうですね、よくある感じのラジックだと思います。手から何かのエネルギーを発生させるというラジックはごく一般的なものです。使ってみても特におかしなことにはならないと思いますよ」
「本当ですか。安心しました」
俺はさっそくおばちゃんにラジックを使ってみるように促す。
「じゃあ、実際にここでラジックの効力を発動させてみましょう。やり方はものすごく簡単です。ただ心の中でラジックを使いたいと思うだけ。それだけでいいんです。何の心配もありませんよ」
「……はい、わかりました」
おばちゃんは真剣な面持ちになって答える。
「では私のラジック、使ってみますね」
両手を机の上に出す。それから意を決して、
「えい!」
大きくかけ声をかけるおばちゃん。すると、
「あっ!」
おばちゃんの両手がほのかに光る。そして、
「あら? これは……」
何が起こったかというと……机の上に置かれていたメモ帳がぱらぱらと少しだけひらめいただけだった。
「あ、あれ?」
その様子を見てきょとんとした様子のおばちゃん。小さく言葉を漏らす。
「こ、これだけ?」
無理もない。彼女の手から出てきているらしい風は本当にわずかなもので、手のひらで実際に扇ぐのとほとんど変わらないくらいの微風だったからだ。たぶん彼女が思っていたよりラジックの効果ははるかに小さいものだったようだ。
「うそっ? えっ、えっ?」
だが、俺はそのことにたいして驚くこともなくおばちゃんに言う。
「おめでとうございます。うまくラジックを使うことができましたね」
「は、はあ」
それから何度も自分の手をのぞき込んだりするおばちゃん。ただし、彼女の手から出ている風は相変わらず微々たるもので彼女の前髪をわずかに揺らしているだけであった。おばちゃんはどこかしっくりこない様子で、
「あの、えっと、ラジックっていうのは……もしかしてこれだけなんですか?」
俺は即答する。
「はい。どなたもだいたいこんなもんです」
「もっと強い風、せめて扇風機ぐらいの風は出ないのですか? それなら暑いときとかに少しは便利なのに」
「さあ、たぶん無理でしょうね。普通はラジックにそこまでの力はないものですから」
「……そ、そうなんですか」
しぶしぶ頷くおばちゃん。
「……わかりました」
少ししてラジックを使うのをやめる、つまり手から微風を出すのをやめるとおばちゃんはそそくさと席を立った。
「……じゃあ、私、もう帰りますね。買い物がありますので」
「はい。では、また何かありましたらどうぞお越しください」
「え、ええ、ありがとうございました」
いちおうお礼を言って帰って行くそのおばちゃん。その後ろ姿はまだラジックというものに納得がいっていないように見えたのは気のせいではないだろう。いつもこの仕事をしている俺にははっきりとわかるのだった。
「よし。とりあえずこれで終わりだ」
今日最初の仕事はなんの問題もなくすんなりと終わったな。この仕事の中ではめずらしいほうだ。いつもこうであって欲しいものだな。
「これでまたゆっくりできるな。さすがに朝から続けてお客さんがやってくることはまずないからな。ラジックの相談はそれほど頻繁なものじゃないんだ」
俺は再び壁際の自分の机へと戻る。先ほど淹れたコーヒーを一口飲む。さすがにもう冷めかけているな。冷めたコーヒーはおいしくない。何より香りが薄くなる。
「さて、今のが俺の主な仕事なんだが……」
みんなにはきちんと説明しないといけないな。
「今の様子だけでは何が何だかわからないだろうからな」
ラジック? 神様? 何を言っているんだ、この人たちは?
「もしくは……」
先ほどおばちゃんの身に起こったことはなんだ? なにやら手が光っただの風が出ただの言っていたようだが。
「みんなもきっとそういうふうに思ったことだろう」
なので、これからもっと詳しく俺の仕事やラジックのことを説明していこうと思う。
「と言ったものの、はたしてどう説明したらいいものか」
どうにもうまく説明できる自信がないな。何から話すべきか。そうだな……。
「とりあえず、看板にも書いてあったようにここはラジック神殿、ラジック相談所という場所なんだ。では、ラジックとは何か。これから話していこうか」
これがけっこう複雑な話なんだ。よく聞いてくれよ。うさんくさい話でもあるからな。
「この町、エベストルには実際に神様のような存在がいるらしいんだ。らしい、と言うのは誰もその神様の姿を見たものがいないからだ。でも、どうやらいることはいるらしい。なぜ、そう言えるのか。それは証拠があるからだ。その証拠というのは……」
驚くなかれ。
「ここの神様は町の人間たちに『魔法の力』を授けることができる、ということなのだ」
神様、そして魔法、そう神の魔法だ!
「…………」
あー、わかってるよ、みんなの思っていることは。頼むから俺のことをおかしな人間だとは思わないでくれ。自分でも理解しているよ。俺、妙なことを口走っているな、ってことは。
ここはファンタジーの世界でもおとぎ話の世界でもない、ドラゴンもいなければ魔法使いもいない、ごくごく普通の世界だ。灯りがほしければ電灯をつけるし、火がほしければライターでもガスコンロでもレーザービームでもいくらでも手に入れる方法はある。魔法など存在しない必要としない当たり前の世界、それが俺たちの住んでいる場所だ。
「だが、この町の神様とやらだけは少しだけ特別なんだ。信じてほしい。ここの神様に選ばれた人間は本当に『魔法』が使えるようになるんだ」
ただし、魔法と言ってもそんなに大層なものじゃない。
「ほんのちょっぴり何かの作用が大きくなる、そんなイメージだろうか」
例えば、走るのが少しだけ速くなるとか、耳が少しだけよく聞こえるようになるとか、そんなとても些細なことだ。さっきのおばちゃんの場合も手からちょっとだけ風が出るという本当に小さな効果のものだっただろ?
「この魔法は、空を飛べるようになったり杖から炎を出したりとか、そういう魔法と聞いて一般的に想像するような派手なものじゃないんだ」
何かはっきりとわかる物事を発生させたり実生活のうえで大きな影響が出るようなことはまずないと言っていい。眼が少し良くなった気がするから魔法かと思ったが後から考えると気のせいだった、なんてこともままある。それほどこの魔法は小さなものなんだ。
「それに、この魔法、ずっと使えるというわけでもない」
神様に選ばれて魔法が使えるようになってもその期限はとても短い。せいぜい一週間くらいのもので長くても一ヶ月ぐらいだろうか。もちろん、例外はあるらしいが。比較的、強力な魔法ほど使える期間は短い印象はあるな。前に「光を放つことができる」なんて本当の魔法っぽい魔法を使えるようになった人がいたんだが、その人は魔法を使ってみると……、
「体の一部、具体的に言うとその人の禿げ上がった頭が一度大きく光っただけだった。それにたった一回でもう魔法の効力は切れてしまったんだ」
あれにはいい魔法をもらったと思って喜んでいた本人も野次馬で見に来ていたまわりの人も唖然としていたな。ほとんど一発芸の領域だったよ、あれは。
「しかも、この魔法、いつ神様から授けてもらえるかもわからない、どんな効力のものが与えられるかもわからない、というひどく曖昧なものなのだ」
夜、寝ていたら神様か何かの声が聞こえてきて魔法が使えることを教えてくれる。朝、目が覚めたらいきなり魔法が使えるようになる、といった具合だ。
「もう、なにがなんだか。知らない人がこんな状況に陥ってしまったら間違いなく自分は頭が変になったんじゃないかと疑うだろうな。ただし、旅行客なんかがこの魔法を使えるようになることはないらしいんだけどな」
この魔法については万事そんな感じのわけのわからないものだから、エベストルの町の人たちも日常でほとんど魔法について関心を持つことはない。魔法が使えても特に役に立つことはないので気にしていても仕方がないというわけだ。
通りのお店の人なんかに魔法のことについて尋ねても「ああ、そんなものがあるかもね」とか「どうでもいいよ。それより何か買っていってくれ」とか言われるのがオチだろう。
「神様から魔法の力を与えてもらってもたいした意味はない。それはほとんどおみくじを引いて大吉が出たのと同じようなものだ」
これがこの町の人の魔法についての共通意見だろう。あるのかないのかわからないぐらいの便利さと言うより、ちょっとした幸運のしるし。
「だからこの魔法は、幸運の魔法、とでもいう感じのものなんだ。つまりラッキー・マジック。略してラジック。こうしてこの町の魔法は『ラジック』、神様は『ラジックの神様』とか『ラジック神』とか呼ばれるようになったというわけだ」
そして、今、俺のいるこの建物の隣が、
「いちおうそのラジックの神様をまつって建てられた神殿、『ラジック神殿』というわけなんだよ」
うーん、すごく変な話だと思うが、どうだろう、理解してもらえただろうか。
「ちなみに……」
俺にも今現在、使えるラジックがある。本当だよ、嘘じゃない。ついこの前、俺もラジックの神様から授けられたんだ。
「その効力は……」
いいか、言うぞ。俺の場合、かなり変わった効力のラジックなんだ。しっかり聞いて理解してくれ。
「『自分の思考や行動を記録することができる、とある本の中に』というものだ」
俺が考えたりしゃべったり歩いたりしていることはどうも俺の知らないどこかにある書物に記録することができているらしいんだ。
「……何のことやらわからないよな」
いや、待てよ。
「これを見ることができている人(?)にはわかることなのかな」
実を言うと、このラジック、俺自身にはまったく意味がわからない。別に俺がその本を見ることができるわけでもないし何かに使うことができるわけでもない。俺にできるのはただ単に記録することを選ぶ、ということだけだ。
「そもそも『とある本』ってなんだよ。俺のことがどこに記録されていて誰が見ると言うんだ?」
その辺は俺にとっても完全な謎だ。いわゆる神々の遊び、というやつなんだろうか。それとも本当はラジックなんかじゃなくて俺のとりとめのない妄想にすぎなかったりして。うーん、そう考えるとなんか怖い気もするが。
「などとは思うものの、せっかく記録できるんだから記録しないのもなんかもったいないな、などとも思ったり……」
結局、そういった事情があって俺は先ほどからぶつぶつと独り言なんかをだだ漏らしにしているわけだ。間違っても事情を知らない同僚とかには見られたくない姿だな。独り言なんかはついつい癖になってしまうから大変だ。そんな俺の苦労に意味があることを願わずにいられないな。
「はああ〜」
俺は大きなため息をつく。なんかずいぶんと話が長くなってしまったな。俺のコーヒーもすっかり冷めてしまった。淹れなおすかな。俺はコーヒーのカップを持って席を立つ。俺は再びキッチンへと向かい、新たにもう一杯のコーヒーを作る。
「俺、好きなんだよ、コーヒー。特に熱いやつが」
こうして午前中の暇なときは何杯もコーヒーを飲んでいる。コーヒーの飲み過ぎで変な病気にかからなければいいが。心配事の多い毎日だ。
「あっと、そうだ」
コーヒーメーカーに挽いた豆を入れながら、俺は大切なことを思い出した。
「俺の仕事についてはまだ説明が終わってなかったな。それが目的だったのに」
俺はできたばかりのコーヒーの入ったカップを手に自分の机に帰ってきた。
「俺の仕事、それはこの神殿の管理、そしてラジックに関しての町の人たちの相談役だ。だからこの建物は相談所、と呼ばれているわけだ」
外の看板に書かれた文字を思い出してほしい。そこには『ラジック神殿 & ラジック相談所』とあるはずだ。
「相談役、なんて聞くと楽そうな仕事に思えるだろ? さっきのおばちゃんのときみたいに」
ところがだ。いつもはとんでもなく大変な仕事なんだよ、これが。
「ラジックというものは概してわけのわからないものなんだが、たまにその中でも特にわけのわからない効力のものを授けられたりすることがあるんだ、そう俺みたいに」
自分の魔法が何の役に立つのかまったくわからない、何かいい使い道はないだろうか。妙なラジックのせいでトラブルに巻き込まれてしまった、助けてほしい。そんな感じの人たちがここへ来るというわけだ。
そして俺たちは彼らの話を聞いてあげて一緒に問題の解決に向けてあーでもないこーでもないと話し合うわけだ。ラジックについてはたまにこういうケースがあるんだ。俺の場合なんかも自分のラジックについては誰かに相談したくてたまらない気分だしな。
「まあ、先ほどのようにちょっと話をして済むだけの場合は楽なんだが、そのトラブルとやらの解決を全面的に手伝わされる羽目になった時なんかはもう……」
ガチャリ、バタン。突然、忙しない音とともに入り口のドアが勢いよく開いて閉まった。
「ん、誰だ?」
ドアの方に眼をやる。部屋の中に入ってきたのは一人の少女だった。
「ユ、ユトーっ!」
ハァハァ、と肩で息をしながら俺の名前を呼ぶ。どうやら急いで山を登ってきたらしい。
「ユ、ユトーっ……た、大変だ……大変なんだっ!」
少女は荒い呼吸のまま途切れ途切れに話す。
「なんだ。おまえか」
俺はこの少女とは顔なじみだった。いや、それどころじゃないな。ほぼ毎日のように顔を合わせているな。
「大変、たいへ……ぶぺっ……舌かんだ、痛い……うう……」
何か慌てている様子なのも実はいつものことだった。とりあえず落ち着かせようと俺はその少女に話しかける。
「おいおい。どうしたんだ、イエスタ?」
イエスタ・レン。それが彼女の名前だ。
「そんな様子じゃ話なんかできないぞ。まずは落ち着くんだ」
俺は立ち上がって部屋の中央にある長机のそばまで行くと、椅子を引いて彼女に座るように促した。
「ほら、ここに座ってろ。今、アイスコーヒーでも持ってきてやるから」
「え? あ、ああ。すまんな、ユトー」
イエスタは椅子に座ると机に倒れ込むように突っ伏した。アッシュブロンドの長い髪が机の上に広がる。
「うへぇ〜、つ、疲れたぁ〜」
机の上にまだ幼さがはっきりと残る顔を横にする。どこか眠たそうな表情なのは疲れているからではない。普段からこうだ。
「あう〜、あう〜」
口元は何か言いたげに少し開いている。これも呼吸が苦しいとかいう理由だけではない。普段からこうだ。
「すごく疲れた。ほんと疲れた。とにかく疲れた」
服は白くてものすごくだぼだぼとしたワンピースのようなものを着ている。あまりその辺の店に売っている服ではない。そんな服を着ているせいで、この少女は年の割には小さいであろう体がさらに小さく見えていた。
「あれ? なんだか足がぷるぷるしてきた。まるで生まれたての子鹿のような気分だ。しばらく立ち上がれそうにないな、これは。いつものこととは言え、ここの階段を登るのはそうとうきついな。ユトー、おまえもそう思うだろ?」
「うーん、確かに大変だが足がぷるぷるするほどじゃない」
俺は席を離れる。
「山と言っても小さな山だ、そこまできついものでもないだろう。おまえが単に運動不足ってだけじゃないのか?」
「う、うるさい! そんなことはない!」
イエスタはキッチンに向かう俺の背中に声をぶつける。
「だいたいこんな山の上に神殿を建てたやつが悪いんだ。便利な駅前にでも建てれば良かったんだ。まったく誰だ、気の利かないやつだな!」
俺は冷蔵庫からあらかじめ作っておいたアイスコーヒーの入ったピッチャーを取り出す。
「はあ? なに言ってんだ、おまえ? この神殿が建てられた時代は電車の駅なんてまだ全然なかった頃だぞ。確か千年以上の昔だ」
「ん? そう言えばそうか」
イエスタはポン、と手をたたく。
「千年前には電車は通っていないよな。ユトー、おまえ……」
俺を指さして言う。
「頭、いいな!」
「……普通だ」
このイエスタ、顔は小動物のように愛らしくてそれなりにいい方だとは思うのだが、どうも頭の方が残念なのが惜しいところだ。先ほどまで騒いでいた大変なことというのも、もうすっかり忘れてしまっているようだしな。こういうの、鳥頭、とか言うんだっけ?
「ほれ。コーヒーだ」
俺はイエスタの分のカップを手に部屋に戻ってくる。
「お、サンキュー。ちゃんとシュガーも持ってきてくれたか?」
「ああ、たっぷりとな」
「よし、さすがだ」
イエスタは嬉しそうに俺からアイスコーヒーを受け取ると俺が一緒に持ってきたシュガーポットを開けてスプーンでカップの中にドボドボと砂糖を入れ始めた。
「ふん、ふん、ふ〜ん」
鼻歌交じりに何杯も何杯も砂糖を入れる。そうして出来上がったのが溶けきれないくらいの砂糖が入ったほとんど色の付いただけの砂糖水だった。いくらなんでも入れすぎだろ。こいつ、普通のコーヒーは苦くてまずい、とか言っていつもこんな風に大量の砂糖をコーヒーの中にぶち込むんだ。どうかしてやがるぜ、まったく。
「よし、完成だな!」
満足げなイエスタ。そのアイスコーヒーもどきを一気にのどへ流し込む。
「ぷはー、うまい!」
うまいはずがない、そんなもん。てゆうか、体に悪すぎるだろ。まともな人間の飲み物じゃないぞ、あれは。
「……おまえ、成人病とか気をつけろよ」
「うん? なに?」
「……いや、なんでもない」
俺はイエスタの正面に座る。
「ところでイエスタ、今日、学校はどうした? 今はまだ午前中だぞ」
こいつは確か中学生だったはずだ。見た目は背も低くてまだ小学生のようなのだが確か中学一年生だったはずだ。まあどちらにせよ、平日は学校があるのでここに来るなら夕方ぐらいになってからが普通なんだが。
「おまえ、まさか学校をさぼったのか?」
俺の言葉にイエスタは、
「失礼なやつだな、おまえは」
コーヒーカップをドン、と机の上に置いて反論する。
「わたしが学校をさぼるなんて悪いことをするわけがないだろう。わたしはこれでも真面目なんだ。小学校も無遅刻無欠席で卒業したんだ。確かに……学校をさぼりたいと思ったことはないわけではない。それも一度や二度ではない。本当のことを言うといつも学校をさぼりたいと思っている。その点はちゃんと認める。謝ろう。ごめんなさい」
「そうか。今度からは気をつけろよ」
「はい……」
ややあって。
「ってなんでわたしがおまえに謝らなければならないんだ、馬鹿者!」
「知るか、そんなこと! で、今日はなんなんだ。学校は休みなのか?」
「うむ。詳しいことはよくわからないんだが、なんとか記念日で今日は休みらしいんだ。ラッキー」
「たぶん創立記念日だろうな。そうか、うらやましいな学生は」
俺の言葉にイエスタは首をぶるぶると横に振って、
「いやいや、それがそうでもないんだ。宿題がいつもに増してたくさん出されてな。全部終わらせる自信がまったくないんだ。それでどうしようかとかなり困惑しているところだ。休みがうれしいのかうれしくないのかよくわからない。正直、困惑の極みだ」
「あっそう。そんなもんだな、世の中。いいことの裏には必ず悪いことがあるもんだ」
俺はあることに気づいた。
「おまえはだまされたんだよ、学校に」
「なにっ? どういうことだ、それはっ?」
思わぬ俺の言葉に声を荒げるイエスタ。
「よし、説明してやろう」
俺は自分の推理を聞かせる。
「まず学校の連中は生徒たちには休みとか言って喜ばせておく。しかし、裏では大量の宿題をやってこさせる。その結果、生徒たちには普段以上の勉強を強いることができるんだ。いわゆるアメとムチってやつだな。それがやつらの真の狙いなんだよ。ちっ、やつらめ、うまいこと考えやがったな」
俺の言葉を聞くとイエスタは立ち上がって、
「うぬぬ。ゆ、許せん。学校め、よくもわたしをだましたな。いたいけな少女の心をたやすくもてあそびおって。なんたる狡知。なんたる非情。この経験、トラウマとかになるかもしれんぞ、うぬぬぬぬ」
拳を握って歯を食いしばりものすごく悔しがっている。俺は言う。
「悔しいのはわかるが冷静になるんだ、イエスタ。とにかく、今はこんなところで遊んでいる暇はないんじゃないか。さっさと家に帰ってその宿題を済ませないと。もし宿題をして行かなかったら大変なことになるんじゃないのか?」
イエスタは今度は悲しげな表情を浮かべて、
「……ああ、そうだな。宿題をしていかないと居残りで勉強させられてしまう。それだけは絶対に避けたい。何はともあれ宿題は終わらせないとな。なんてことだ、せっかくの休みが消えてしまうとは……」
「残念だ。しかし、今日のところはもう帰れ」
「……ああ、そうしよう」
イエスタはしょんぼりとした様子で出口へと向かう。
「じゃあまたな、ユトー」
「またな、イエスタ」
ドアを開けて相談所を出て行くイエスタ。
「あれぇ? 何か忘れているような気がするなぁ……」
そんなつぶやきを漏らしながら。
「よし、帰ったか」
俺は内心でほくそ笑む。
「あいつ、いつもいつもろくでもない厄介事を持ち込んでくるからな。どうせ今日もそうだったに違いない。うまく追い返すことができて助かったぜ」
イエスタ・レン。彼女、実はこのラジック神殿の神官だか巫女だかと言う輩なのだ。彼女の一族は神官として代々ラジックの神様を敬いたてまつってきたそうだ。そして、彼女はその家の一人娘というわけらしいんだ。
ラジックに関しても昔は彼女の祖先たちが町の人々の相談役を買って出ていたらしい。今となってはそれは町役人の仕事になって彼女たちに何か特別な権限があるわけではないのだが、レン一家のことは今でもこの町では有名で話がラジックのこととなると真っ先にしゃしゃり出てくるというわけだ。
「こっちは適当にこの相談所にやってくる人たちの相手をしていればいいんだが、イエスタたちは積極的にラジックで何かあった人たちに関わっていくからな。それで、自分たちでなんとかするならいいが、結局は俺のところに仕事を回してくるんだ。どうやら連中は俺のことを体のいい召使いのように考えているふしがある。こっちも職業柄断ることはできないから尚更たちが悪い。もう、いい加減にしてほしいぜ、本当に」
ちなみにイエスタが着ていた変なぶかぶかの服は特別製の神官服かなんかで、年上の俺に対してなぜかため口を聞いていたのも、ラジック神殿の神官はけっこう偉いのだ、とかなんとかいう理由かららしい。ああ、ストレスの溜まる仕事だ。
「だが、今日はもうイエスタはここには来ないだろう。これで今日一日は平穏無事に過ごせそうだな。良かった良かった」
俺は立ってキッチンへと向かう。
「さあ、またコーヒーでも飲むか。うんと熱いやつを」
ガチャ! 安心した俺の耳に飛び込んできたのは出入りの扉が開く音だった。
「おい、ユトー。大変なんだ!」
次に間髪入れずイエスタの大きな声が部屋に響き渡る。
「すっかり忘れてしまっていたが、大変なことがあったんだ!」
ちっ。俺は舌打ちをする。イエスタのやつ、思いだしやがったか。俺は再び話を逸らすべくイエスタに話しかける。
「んん、イエスタか。いったいどうした? 宿題はしなくていいのか?」
しかしイエスタは、
「うっ。宿題のことも大変だがもっと大変なことがあるんだ。ラジック神殿の神官として見逃すことのできない重大なことなんだ」
うーん、今度は話を逸らすこともイエスタを追い返すこともできなさそうだな。俺は仏頂面で長机へと戻って座る。
「ああもう、面倒くさいな。いちおう訊いておくが、おまえ一人でなんとかならないのか。その重大なことっていうのは」
イエスタは怒ったように細い眉をつり上げる。
「む、ユトー。おまえ、なんだその態度は。ラジックに関わる者としてプライドはないのか。みんなのためにがんばるのがおまえの仕事だろうが。それにラジック神殿の神官であるわたしが困っているのだ。たかが相談員であるおまえがわたしの手伝いをするのは当たり前のことじゃないか。怠けていると町役場の偉い人とかに言いつけるぞ、この野郎」
強い口調でまくしたてるイエスタに俺はさっさと降参する。
「わかった、わかった。手伝ってやるよ。だからそう怒るな、イエスタ」
「がるる、がるる!」
「どうどう、どうどう」
俺は興奮したイエスタをどうにかなだめる。
「ふしゅー……ふしゅー……」
「よしよし、いい子だいい子だ」
ようやくイエスタの癇癪も収まる。イエスタのやつ、いつもいつもこうやって俺のことをこき使おうとするんだ。まったく。馬鹿なくせにとんでもないガキだ。まあ、これも給料のうちだと思ってあきらめるしかないな、俺としては。
「仕方ない、聞いてやるか」
俺は観念してイエスタに尋ねる。
「それでなんだよ、大変なことって?」
イエスタは立ったまま答える。
「うん、それがな、わたしの友達のロロネという女の子のことなんだ。ロロネはわたしと学校の学年もクラスも一緒で昔から仲のいい親友だ」
「はあ、そう」
「ロロネは縦にくるくるとした髪型がよく似合っているお姫様タイプの子だ。姿はてきとーに想像してくれ」
「わかった」
「それで、そんな彼女は昨晩、幸運にもラジックを授けられたんだ」
「それは良かったな」
「でも、彼女のラジック、その効力がなんとも妙なものでな」
あー、やっぱりそういう問題か。俺は心中で深く嘆息する。イエスタは続ける。
「その効力は……」
「なんだよ」
「『トルトルクッキーの味が良くなる』っていうものなんだ」
「ああ?」
俺は思わず聞き返す。
「トルトルクッキー、ってあの、町の名物のトルトルクッキーのことか?」
「うん、そうだ。そのトルトルクッキーだ」
「…………」
俺はちょっと言葉が出なくなる。トルトルクッキー。前にも少し説明したことがあると思うが、この町エベストルで売られているオリジナルのクッキーだ。袋詰めで駅とかに売っているんだが、とにかくまずいんだ、これが。なので旅行客以外はあまり買われないという代物だ。
「……トルトルクッキーの味が良くなる、か。まさか、そんなラジックを授けられるとはな。世の中、不思議なことがあるもんだ」
「うん。わたしもそう思う。ラジックの神様はまったく偉大だな」
「いや、こんな効力で偉大とか言われてもな」
俺はそろそろ頭を働かせて話を進めようとする。
「でも、そのロロネちゃん、だっけ? その子がいったいどうしたというんだ? 確かに変なラジックだが別に困ると言うほどのことではないだろう。くそまずいトルトルクッキーがうまくなるんだ。むしろいいことじゃないか」
俺の質問にイエスタはうなずいてから答えた。
「そのはずなんだがな。ここから先はもっと妙なことになったんだ。わたしもびっくりだ」
俺が怪訝な表情を浮かべるなか、イエスタは続ける。
「まず、そのラジックのトルトルクッキーの味が良くなる、って効力のことなんだがな。とりあえずラジックを与えられたんだから使ってみようかな、ということでロロネは久しぶりにトルトルクッキーを買って食べてみたそうだ。するとだ」
「すると?」
「相変わらず、まずいままだったそうだ」
「なんなんだよ、いったい!」
ツッコまずにはいられない。わけがわからん。
「まあ落ち着け、ユトー。話にはまだまだ続きがあるんだ」
「……あっそう」
イエスタは真顔で話す。
「ロロネは何とも言えないがっかり感とともに食べる気も起きないで大量にあまったトルトルクッキーをどうするか悩んでいた。そして、多くの人がそうするように、近くの公園にいる野良猫たちにトルトルクッキーをあげることにしたんだ」
このトルトルクッキー、人間の舌にはまずいものの動物たちにはやたらと人気があることで有名だった。町の公園にはクッキーをあげる人と待っていたかのようにクッキーをもらう野良猫たちの姿をよく見かける。
「ロロネがトルトルクッキーを持って公園に行くと、すぐに猫たちが集まってきた。ロロネはトルトルクッキーを猫たちに食べさせた。するとだ」
「すると?」
「猫たちはいつもにも増しておいしそうに食べたそうなんだ」
「……なるほど」
俺はロロネのラジックの意味を理解した。
「つまり、『トルトルクッキーの味が良くなる』って効力は人間に対してではなく動物たちに対して、ってことだったんだな」
「うん、どうやらそういうことらしい」
「はあ。ますます変なラジックだな」
こんな話、相談員の俺でも聞いたことがない。俺があきれたような表情を浮かべるなか、イエスタは真面目な声音で続けた。
「でも、この話はそれだけでは終わらなかったんだ。事件はこのあとに起きるんだ」
「事件だと?」
「そう、事件だ」
イエスタは暗い表情だ。
「ロロネからとてつもなくおいしいクッキーをもらった猫たちはまるで中毒にでもなったかのようにそのクッキーを食べ続けた。もらってももらってもあっという間に平らげてしまう。さらには、まるで襲いかかるかのようにロロネが手に持ったクッキーを奪い取ろうとし始めたんだ。驚いたロロネはクッキーの入った袋を地面に落としてしまった。中身のこぼれた袋に一斉に集まってくる猫たち。その数は十匹二十匹とだんだんと増えていき、いつの間にかすごい数になっていて公園中の猫が集まってきたかのようだったらしい。すぐにロロネのクッキーはなくなってしまった。だが、クッキーがなくなってもその猫たちは帰ってはいかないでずっとロロネのまわりを離れなくなってしまったんだ」
「……確かに穏やかな話ではないな」
俺の顔も真剣みを帯びてくる。
「さすがに恐ろしくなったロロネは慌てて公園から出ようとした。しかし、猫たちもロロネから離れずにぴったりと付いてくる。走るロロネ。それを追う何十匹という猫。ロロネは暴徒、いや暴猫と化した猫たちから必死に逃げた。そして、どうにかこうにか自分の家まで帰ってきた、というわけなんだ」
「それで、ロロネは今どうしているんだ? 大丈夫なのか?」
「怪我とかはないらしい。でも、あまり大丈夫というわけでもないらしいんだ。なんとか自分だけ家の中には入ることができたんだが、ロロネの家のまわりは狂った猫たちに囲まれたままらしいんだ。このままではロロネは外に出ることはできないし、猫たちもいつ家の中に侵入してくるかわからない。かなり困った状況になっているんだ」
「……そうか。そんなことになっているのか」
イエスタの話を聞き終えて俺は考える。
「これは確かに事件だな」
いつもの俺は面倒くさいことには関わりたくないと思っているが、今回のことはちょっと別だな。話は冗談では済まないほど大きなことになっているようだ。このまま事態を放っておいてもしロロネが怪我でもしたら大変だ。俺はラジック相談員として、いや一個人としてこの事件を解決したいと思うな。
イエスタは俺に訊く。
「どうだ、ユトー。ロロネを助けたいんだ。わたしに協力してくれるか?」
「ああ、もちろんだ」
俺は即答する。イエスタの表情がぱっと明るくなる。
「本当か、ユトー! それは助かる」
「なあに、当然だ」
俺は立ち上がって出かける準備を始める。と言っても特に準備することなんてないんだがな。ちょっと建物の中のものの電気を落とすぐらいだ。一分も経たずに俺はイエスタに言う。
「よし、出発だ。じゃあ、まずはそのロロネの家に行ってみるか」
「ああ、そうだな。わたしが案内しよう。付いてきてくれ」
「わかった」
俺たちはすぐに相談所を閉めて、ロロネの家へと急いで向かっていったのだった。
山を下りて町の中心の方へと続く道を歩く俺とイエスタ。ちょうど俺が相談所への通勤に使っている道だな。左右には畑が広がっていてブドウの短い木などが緑の葉を付けている。畑の間にはワイン農家の家がぽつぽと見られる。歩くにしたがって眼に入る民家の数は増えていきすぐ先には閑静な住宅街が見えるというところまで俺たちは来た。そこでイエスタは、
「ロロネの家はこの辺りなんだ」
「そうか。けっこう神殿から近いところなんだな」
俺たちは毎日歩いている道からはずれ、住宅街の周縁にあたる道を進んでいく。左右には庭付きのなかなか立派な家が立ち並んでいる。この辺りは高級住宅街ってほどでもないんだが土地が安いので庭が大きい家が多いな。道も幅が広いし街路樹なんかもきれいに整っている。商店街なんかもそれほど離れていないのでとても住みやすそうなところだと思う。
「もうすぐだ、ユトー」
イエスタを先頭に五分ほど歩く。
「げっ!」
そこで俺の目に飛び込んできたのは、
「家が……猫どもで支配されている!」
庭やら屋根やら敷地のいたるところで猫が騒いでいる一件の民家の姿だった。
「あ、あれがロロネのうちか?」
無言でうなずくイエスタ。訊くまでもない質問だったな。ほかにあんな状態に陥ってしまう家があるはずもない。
俺たちはもう少しロロネの家に近づいていく。家のすぐそばまで行くと俺たちに気づいた猫が何匹か鋭い視線を送ってくる。普段ののんびりとした大人しい猫たちの眼ではない。何かに飢えていて追い詰められているような眼だ。
「まるでテレビとかで見る麻薬中毒者みたいな眼だな。血走ってやがる」
それに、鳴き声もものすごい。フニャーフニャーと何十匹もの猫が絶え間なしにわめいている。けんかをしている猫とかもいて叫び声のようなものも混じってくる。
「これはうるさくてたまらないな。家の中の人は大変だろう」
今現在、ロロネや彼女の家族はどうなっているんだろうか。俺はイエスタに尋ねる。
「おい、イエスタ、ロロネは今……って何してんだ、おまえ!」
隣にいたイエスタを見ると、
「フゥゥゥー! フゥゥゥー!」
「フニャー! フニャー!」
近くにいた一匹の猫と激しくにらみ合っていた。
「フシュゥゥゥ!」
「ニャニャ!」
前傾姿勢になって構えるイエスタと猫。お互いに手をちょこちょこと前に出して牽制しあっている。
「シャァァァ!」
「ニャァァァ!」
俺は軽い頭痛を覚える。
「……ちょっと眼を離すとこれだ。いつ何をするかわからんな、こいつは」
俺は大きな声でイエスタに呼びかける。
「こら、イエスタ、イエスタ!」
「フゥゥゥー! フゥゥゥー!」
だが、イエスタは猫と対峙したままで俺の声はまったく耳に届いてない様子だった。
「ああもう、世話のかかるやつだ」
俺は後ろからイエスタの首根っこをつかんで猫から引き離す。イエスタは俺に引きずられながらもまだ猫とにらみ合っていたが、手を離すとようやく俺のことに気を向ける。
「フゥフゥゥ……ん? なんだ、ユトーか」
「ユトーか、じゃねえよ。何でいきなり猫とじゃれ合ってんだよ、おまえは」
「じゃれ合ってなどいない。けんかだ」
「ああ?」
「あの猫がわたしにけんかを売ってきたんだ。売られたけんかは買わないわけにはいくまい。だが猫とけんかをするのは久しぶりでな。ついつい熱くなってしまった。ふうー」
「どうでいいわ、そんなこと!」
俺は話を戻す。
「それよりロロネのことだ。家の中はいったいどうなっているんだ?」
イエスタははっとした表情で、
「おお、そうだったな。ロロネだ、あいつのことが心配だ」
俺は携帯電話を取り出して、
「ロロネに直接、訊いてみよう。ほれ、イエスタ。ロロネに電話をかけてみろ。番号はわかるな?」
「ああ、もちろんだ」
イエスタは俺から携帯を受け取るとロロネに電話をかける。すぐに彼女は出た。
「は、はい、ロロネ・マイヤーズです。イ、イエスタちゃん?」
年相応のかわいらしい声だ。ただし、ややこわばっているように聞こえる。イエスタは返事をする。
「そう、わたしだ。今、おまえの家の前まで来たところだ」
「あ、ありがとう、イエスタちゃん! 私、一人ですごく不安だったんだ。来てくれてほんとにうれしいわ!」
「ロロネ、一人なのか。ご両親は家にいないのか?」
「うん。今日は平日だから二人ともお仕事なの」
「なるほど、そう言えばそうか。それでロロネ、そっちはどんな具合なんだ?」
「そうね……今のところは大丈夫、大丈夫なんだけど……」
ロロネは少し考えてから続けた。
「まわりの猫たちはずっと家の中に入ろうとしているの。窓にぶつかってきたりとかドアにガリガリと爪を立てたりしていて」
「そうか、それは油断できないな」
「うん、そうなの。このままだと私、怖いの。もしかしたら猫たちはどこかから家の中に入り込んでくるかもしれないし。私、すごく怖いわ。イエスタちゃん、どうしたらいいかな? 私、わかんないのぉ」
今にも泣き出しそうなロロネの声。イエスタは励ます。
「落ち着け、ロロネ。きっと大丈夫だ。安心しろ。うーん、そうだなぁ。ここままじゃいけないしな。何かいいアイディアはないか少し考えてみよう」
「本当? 大丈夫なの?」
イエスタは自信満々に答える。
「もちろんだ。わたしはラジックのことに関しては専門家だからな。必ずいいアイディアを考え出すことができるさ」
「すごい、イエスタちゃん! 私、待ってるわ。お願い、きっとなんとかしてね」
「ああ。大船に乗ったつもりで待っていてくれ、ロロネ」
「うん、わかった。じゃあ、一度切るね。またね、イエスタちゃん」
「またな、ロロネ」
電話を切るイエスタ。
「……ということだ」
俺の方に顔を向ける。
「何かいいアイディアを出せ、ユトー」
「俺かよ!」
いきなり俺に仕事を丸投げしやがったぞ、こいつ! 少しぐらいは自分で考えろよ!
だが、イエスタは悪びれた様子もなく、
「ラジックの相談はおまえの仕事だろ。早く出せ」
「しかもいきなり出るか!」
「なんだ、使えないやつだな。おまえは」
こいつ、とんでもなく口の悪いガキだ。
「……俺、もう帰っていいか?」
後ろを振り返ろうとした俺にイエスタは、
「冗談、冗談だ。そう怒るな、ユトー。今のはわたしなりのギャグだ、ギャグ。しかも渾身の」
ギャグ? なに言ってんだ、こいつ? まあ、こんなことで本気で怒るほど俺も大人げないほうではない。
「そうか、ギャグか。ギャグなら仕方ないな。しかも渾身だしな」
「……えへっ」
なぜか明るい笑顔を見せるイエスタ。
「…………」
こいつの態度を理解するのに苦しみながらも、俺は肝心なロロネのことに頭を巡らせる。
「仕方がない。ロロネを助けたいのは俺も一緒だからな。俺が何かいい方法を考えてやるよ」
「おう、がんばれユトー!」
「……わかったよ」
俺はイエスタの先ほどの会話を思い出す。
「どうやらロロネはこの状況にかなり怖がっているようだな」
「うん。ロロネは恐がりなんだ。わたしたちの想像以上に怖がっているに違いない」
「そうか。かといって家の周りの何十匹という猫たちをすべて追い払うのはまず不可能だろうな」
「うん。わたしは一匹の猫でもけんかで勝つのは無理だったからな」
「ならばやはりロロネの方をなんとかするべきだな。彼女をこのまま一人にしておくのはかわいそうだ。なんとか俺たちと合流できればいいんだが」
「ロロネと合流か。そうだな。わたしもロロネに会いたい」
「問題はだ。どうやって合流するか、だな」
「ふ〜む」
俺の話を聞いて腕組みをして考えるイエスタ。だが、すぐに。
「さっぱりわからん」
「少しはやる気だせ、おまえ!」
「冗談だ。そう怒るな、ユトー。わたしなりのギャグだ、ギャ……」
面倒くさいのでもう相手をしない。
「猫たちの様子を見るからに俺たちが家の中に入るのは無理のようだな」
「…………」
ギャグを無視されてか、少し悲しげな表情のイエスタ。俺はかまわず続ける。
「一瞬でもドアを開けたら猫たちも中に入って来そうだからな。やつらは明らかにそのタイミングを狙ってる。となると、ロロネの方に家から出てもらうのが得策か」
俺はしばし考える。そして、
「よし、わかった!」
ようやく作戦の方針が決まる。
「まず、ロロネをここから出そう。そして俺たち三人でまた場所を移すんだ」
「ふむ!」
俺の言葉に興味深そうにうなずくイエスタ。
「だが、猫に見つからずにロロネに家から出てもらうのも簡単ではないな。そうだな……」
俺はさらに細かい作戦を練る。
「イエスタ、おまえはその辺の店でトルトルクッキーを買ってくるんだ。そのクッキーで猫たちをおびき寄せている間にロロネに出てきてもらおう」
「なるほど。トルトルクッキーを使うのか。それはいいアイディアだ」
「その間、俺の方はうちから車を取ってくるから。車でロロネを乗せて逃げるとしよう。さすがに猫どもも車には追いつけないだろう」
俺はいちおう車を持っていて運転もできる。
「それで、車でどこに行くんだ?」
「とりあえず相談所に戻るか。ほとぼりが冷めるまで待ってみよう。猫たちもずっとロロネの家にいるわけはないだろうしな」
「そうだな。猫も夜の食べ物を探さないといけないからな」
「猫たちがいなくなったらロロネを家に帰せばいい。それで終わり、万事めでたしというわけだ。どうだ、この作戦は? だいたいこんな感じでうまくいくはずだ」
「ふむ、ふむ」
イエスタは俺の話を聞いて何度もうなずいている。
「なかなかいい作戦じゃないか、ユトー。おまえにしてはがんばったな!」
「……あ、ありがとう」
「よし、わかった。ロロネにそう伝える」
イエスタは再び電話をロロネにかける。
「ロロネ、わたしだ」
「イ、イエスタちゃん? よかった、すごく返事が待ち遠しいかったの」
「喜べ、ロロネ。いい作戦を思いついたぞ」
「本当なの? 聞かせて、聞かせて!」
先ほど俺が言ったことをロロネに説明するイエスタ。それを聞いてロロネは、
「なるほど、それならうまく行きそう。私もみんなといる方が安心できるし。いい作戦を考えたのね。すごいわ、イエスタちゃん」
「そ、そうか。そうだな、はっはっは。この程度の作戦、わたしが本気を出せば簡単に思いつくことができるのだ、わっはっは」
なんかさりげに自分の手柄にしやがったぞ、こいつ。まあ別にいいけど。
「では、準備が整ったらまた連絡する。ロロネも外に出る用意をしておいてくれ」
「わかったわ、イエスタちゃん。またね」
話を終えて電話を切るイエスタ。俺に言う。
「よかった、ロロネも賛成してくれたようだ」
「そうか、じゃあ決まりだな」
俺の言葉にイエスタはうなずく。
「さっそく準備を始めよう」
俺はイエスタにトルトルクッキーがいくつか買えるだけのお金を渡す。
「ほら、おまえはこれでクッキーを買えるだけ買ってくるんだ」
「ラジャー!」
「俺は三十分ぐらいしたら車でまたここに来るから。ちゃんとクッキーを買っておくんだぞ、イエスタ」
「ラジャー!」
元気よく手を挙げるイエスタ。そうして俺たちは一度、解散をした。
三十分後。
ロロネの家の前に俺は自分の車で乗り付ける。
「ちょうど時間通りだな」
エンジンをかけたまま車を止める俺。ちなみに俺の車はイタリア製の2ドアのコンパクトカーで色は白だ。けっこう人気のモデルらしくて俺の給料で買うには苦労する値段の車なんだが、同僚にこれを持っていたすごい金持ちがいて幸いにも安く売ってもらうことができたんだ。コロコロとした丸くて愛嬌のある外見で俺はとても気に入っている。いや、気に入っているどころの話ではないな。今の俺にとっては宝物のような存在だ。見ているだけで頬が緩んでくるぜ。
それはともかく、
「さて、イエスタはどこだ?」
俺は付近を見渡す。予定通りならクッキーを買ってその辺で待っているはずだが。
「おっ、もしかしてあれか?」
よく見ると少し離れた場所にある街路樹の陰に人の姿が見える。向こうも俺の方をちらちらと見ているようだ。イエスタに間違いないだろう。
「おーい、イエスタ!」
俺は車の窓から顔を出して呼んでみる。
「…………」
だが、なぜかあいつは返事もしないし木の陰からも動かない。依然としてこっちを見ているだけだ。
「何してんだ、あいつ?」
俺の声が聞こえないはずもないだろうし俺の車も知っているはずだ。どうしてこっちに来ないんだ?
「仕方ないなぁ」
俺は車から降りる。そして、街路樹の方へと歩いていく。
「やっぱりイエスタじゃないか」
そこにいたのはトルトルクッキーの袋を三つほど抱えたイエスタだった。
「クッキーはちゃんと買ってきたようだな。どうしたんだ、なぜ家の前に来ない?」
イエスタは小さな声で言った。
「馬鹿者。あの猫たちの前でトルトルクッキーの袋を見せでもしたら大変だ。わたしは襲われてしまうだろうが。だからこうして隠れて待っているのだ」
ああ、なるほど。確かにそういうこともあるかもしれないな。めずらしくイエスタにしては理解のできる行動だ。
「わかった、わかった。それなら仕方がない。ここから作戦を開始するか」
俺は納得してイエスタに言う。
「じゃあ、まずはロロネに電話してくれ」
「うむ」
イエスタはロロネに電話をかける。相変わらずロロネはすぐに出て、少し震える声で話す。
「イ、イエスタちゃん。わ、私の方は準備ができている。いつでも大丈夫よっ」
「よし、今からトルトルクッキーを庭にばらまく。そうしたら猫たちはみんな庭に集まって来るはずだ。タイミングを見計らってわたしが電話でコールするから、ロロネはすぐに家を出てくるんだ、いいか?」
「わ、わかったわ。イエスタちゃん、きっとうまくよね?」
「まかせろ、ロロネ。わたしを信じるんだ」
「うん」
そして、電話を切るイエスタ。
「よし、ロロネの方はオッケーだな」
俺は言う。
「次は、トルトルクッキーの準備だ。今のうちから袋を全部開いておくんだ、イエスタ」
「わかった」
イエスタは言われたとおりに持っていた三つのクッキーの袋をすべて開ける。
「これでよし、と」
俺とイエスタは顔を見合わせる。
「いいか、イエスタ」
「ああ、大丈夫だ」
すべての準備は整ったようだ。いよいよロロネ救出作戦の開始だ。
「何十匹もの猫どもに囲まれて家の中で怖がっているロロネをなんとしてでも助け出すんだ!」
「おう!」
「行けぇー、イエスタ!」
「おおう!」
俺の声を合図に一気に走り出すイエスタ。
「うおりゃあああああ!」
雄叫びとともに猫たちに向かっていく。
「くぉのおおお、猫どもおおおおお!」
バタバタと走りながら家の前まで来たイエスタ。
「よくもロロネをおおおおお!」
クッキーの袋を投げようと掲げる。
「これでも喰らえええええ!」
作戦ではイエスタはロロネの家の庭にクッキーにばらまくはずだった。しかし、そこで。
「ふえっ?」
予想外のことが起こった。
「あっ! おっ、あっ……」
イエスタは急に足がもつれて家の前の道で転びそうになる。そして。
「ふぎゃっ!」
イエスタは見事なまでに前のめりで地面に倒れたのだった。
「ああっ! おい、ちょっと……」
その結果、俺が眼にすることになった光景は、
「げえーっ!」
ちょうど俺の車の上に無数のクッキーがぶちまかれる様子だった。
「な、な、なんてこったあああああ!」
思わず叫ぶ俺。こうなると猫たちが集まって来るのは庭ではない。
「つまり……俺の車というわけだよな?」
最悪の状況が俺の脳裏をよぎる。
「お、おいおい……ちょ、ちょっと待ってくれ!」
だが、無情にも車の上や周りにあるクッキーに気がついた猫どもは大挙して俺の車めがけてやってくる。
「ぎゃあああああ!」
絶叫を上げる俺。あっという間に車の上に集まる猫たち。
「うぎゃあああああ!」
さらに叫ぶ俺。当然、猫たちはクッキーを取り合って車体に爪をたてたりボンネットやルーフの上で勢いよく飛び跳ねたりしている。
「ああ……あああ……ああ……」
みるみる傷やへこみが入っていく俺の車。
「お、俺の宝物がぁ……ああ……あああ……」
俺は立っていられずに膝から崩れ落ちる。眼には涙が浮かんでくる。
「い、いてて……」
ようやく起き上がったイエスタ。
「おおっ? これは……いったい?」
俺の車に集まった猫たちを不思議そうに見てから、
「まあ、いいか。それより早くロロネを呼ばないと」
比較的冷静にロロネに合図のコールをしたのだった。
「イエスタちゃん!」
家の玄関のドアから飛び出してくるロロネ。
「ロロネ!」
無事に猫たちに気づかれることなく二人は合流できたのだった。
「怖かったよ〜、イエスタちゃん」
「ロロネ、もう安心だ」
それからイエスタは猫たちのたかった俺の車を見てからまたも冷静に、
「なんかユトーの車は使えそうにない状況だな。ロロネ、猫たちに見つかる前に早く走ってこの場所から立ち去ろう」
「うん、わかった」
二人は仲良く並んで走り去って行く。
「お、俺の……く、車あああ……ああああ……あああああ……」
後には両手両膝を地面についてがっくりとうなだれる俺の姿だけが残されたのだった。
その後は。
イエスタとロロネはしばらくの間、相談所で一緒に学校の宿題をしていた。ロロネのうちに集まった猫どもは日暮れの時間ぐらいになると自然とどこかに散って行った。おそらくあきらめて元の公園に帰ったのだろう。なのでその日のうちにロロネは何事もなく家に帰ることができたのだった。ロロネのラジックも次の朝にはすでになくなってしまったとのことだ。まったく人騒がせなラジックだったな。
結局、今回のことで何が起こったかと言うと、俺の大切な車が猫どもによってボロボロにされた、ということだけだった。俺が当分の間は猫の姿は見るのも嫌だったことは言うまでもないだろう。
この小説を読んでいただきありがとうございました。続きが四話まであるのでそちらも読んでいただければ幸いです。