第八十五話 学年末試験
学年末が近づくと、校内の空気は少しずつ変わっていく。
廊下を歩く生徒たちの声はいつもより控えめになり、休み時間にもノートを広げている者が増える。魔法科の教室も例外ではなかった。
もっとも、雅のように「どうせ何とかなるだろ」と言いながら机へ突っ伏している者もいれば、純香のように淡々と確認を重ねている者もいる。新はその中間あたりで、気づけば教本を開いている時間が増えていた。
「学年末試験か……」
新が小さく呟くと、隣で雅が顔だけ上げた。
「筆記はまあいいんだよ」
「問題は実技だろ」
「まあな」
新も頷く。
「今年の特別試験、かなり嫌な予感するし」
「わかる」
彩葉が前の席で振り返る。
「先生たち、絶対なんか仕込んでる顔してたもん」
一ノ瀬は教本から目を離さずに言った。
「仕込んでるというより、たぶん今年は“どこまで基礎がつながっているか”を見たいんだと思う」
「それが一番嫌なんだよ」
雅が言う。
「単体ならまだしも、つなげろって言われると急に難しくなる」
「その通りです」
静かな声がして、全員が前を向く。
いつの間に教卓の前へ立っていたのか、雨宮先生が書類を持ってこちらを見ていた。
「つなげることができない基礎は、まだ基礎のままなの」
「使える力にはならないわ」
教室がぴんと静まる。
その隣には、山田先生と御影先生もいた。山田先生はいつも通りやわらかい表情で、御影先生は気軽そうに壁へ寄りかかっている。
「で、今日はその話です」
山田先生がやわらかく言った。
「学年末、魔法科の特別試験についてですね」
ざわり、と空気が揺れた。
瑠璃も静かに顔を上げる。
最近は人の姿にもすっかり慣れてきたが、こうして新しい課題の話になると、相変わらず目の色が少し変わる。
雨宮先生は教卓へ書類を置き、淡々と告げた。
「今年の特別試験は、意思を持ったエレメンタルを召喚し、命令を成立させること」
「それが課題になるわ」
数秒、教室が止まった。
「……は?」
最初に声を漏らしたのは雅だった。
「いや待って」
彩葉も目を丸くする。
「“意思を持った”って、あのエレメンタルですか?」
「ただ出すだけじゃなくて?」
「そうよ」
雨宮先生は頷く。
「ただ出すだけなら、あれは召喚でも何でもないわ」
「形を作って、留めて、こちらの意図を通す」
「そこまでやって、ようやく成立よ」
「それ、一年の終わりにやらせるレベルか……?」
新が思わず言う。
「でも、無茶というわけではないですよ」
山田先生がやわらかく続ける。
「ちゃんと今までやってきたことの延長ですから」
黒板へ、山田先生がさらさらと三つの語を書いた。
魔法学基礎
結界
召喚
「意思を持ったエレメンタルを維持するには、まず魔法学基礎が必要です」
山田先生が一本目へ視線を向ける。
「属性の性質を理解していなければ、呼んでも何を呼んだのか自分で把握できません」
次に、二本目。
「それから結界」
「エレメンタルは、出しただけでは不安定です」
「特に意思を持つ段階へ近づくほど、外側の殻――結界殻が安定していないと維持が難しくなります」
教室の中で、何人かが顔をしかめた。
結界殻。
それは単に囲えばいいという話ではない。中の性質を殺さず、しかも外へ散らさず、必要なだけの自由を残す殻だ。硬すぎれば中で暴れる。甘すぎればすぐ崩れる。
そして三本目。
「最後に召喚です」
山田先生が言う。
「相手は“意思を持つ”ので、ただの術式の塊ではありません」
「こちらが呼び、向こうがそこにいて、最低限の関係が成立すること」
「そのうえで初めて、命令が通ります」
一ノ瀬が小さく頷く。
「だから総合試験なんですね」
「基礎、結界、召喚のどれか一つだけでは足りない」
「そういうことです」
山田先生は微笑んだ。
「魔法学基礎で性質を読み、結界で殻を作り、召喚で関係を結ぶ」
「その三つが、ある程度バランスよく備わっていないと、意思あるエレメンタルは維持できません」
「うわ……」
新が低く唸る。
「ちゃんと嫌な試験だな」
「でも筋は通ってる」
一ノ瀬が静かに言う。
「今までやったこと全部を、ひとつにまとめる試験なんだ」
「その“まとめる”のが大変なんだよね」
彩葉がため息をつく。
「いやほんとそれ」
雅も両手で頭を抱えた。
「火なら火、結界なら結界、召喚なら召喚で分けてくれよ……」
「でも、分けたままだと意味がないんじゃないかな」
純香が静かに言った。
「今まで別々に練習してきたものを、ちゃんとつなげられるか見る試験なんでしょう?」
「……それ言われると反論できねえ」
雅が机に突っ伏す。
そのやり取りを聞きながら、瑠璃は黒板の三つの語をじっと見ていた。
「結界殻は」
瑠璃が小さく口を開く。
「ただ囲えばいいわけではないんですね」
雨宮先生が瑠璃を見る。
「ええ」
「特にエレメンタル相手はそう」
「向こうの動きを殺さずに保つ殻が必要になるわ」
「動きを殺さずに保つ……」
瑠璃はその言葉を繰り返した。
御影先生がそこで少しだけ口元を上げる。
「前にやっただろ」
「風を“起こす”より、“いてもらう”方が先だって」
その一言で、瑠璃の目がわずかに変わった。
「……あ」
小さく息を呑む。
「似ています」
「そうですね」
山田先生も頷く。
「ただ、今回の方がもっと難しいです」
「風そのものじゃなくて、“そこにいる何か”を相手にするので」
「命令は、どの程度までですか?」
純香が尋ねた。
雨宮先生は書類を一枚めくる。
「高度なものは求めないわ」
「移動する、止まる、灯る、触れる、ひとつの対象を運ぶ」
「その程度の単純命令が一つ、明確に成立すれば合格」
「逆に言えば」
一ノ瀬が言う。
「成立しなければ、召喚できてもだめなんですね」
「そういうこと」
雨宮先生は頷いた。
新はそこで手を挙げた。
「質問です」
「仮に召喚まではできても、維持できずに消えた場合は?」
「減点大」
雨宮先生が即答する。
「命令以前の問題だから」
「きっつ……」
新が呻く。
「あと当然だけど」
御影先生が続ける。
「暴走させたらもっときつい」
「結界殻が崩れて制御不能になった場合、その時点で試験停止もある」
教室の空気がさらに重くなる。
雅がゆっくり顔を上げた。
「先生」
「それ、普通に怖くない?」
「怖いぞ」
御影先生はあっさり言った。
「だから試験なんだよ」
「開き直った」
彩葉がぼそっと言う。
山田先生はそこで、少しだけ表情をやわらげた。
「ただし、いきなり本番にはしません」
「今日から数回、この特別試験に向けた実習を入れます」
「まずは、意思を持つ前段階の不安定なエレメンタル核を扱うところから始めましょう」
その言葉に、教室全体が少しだけ息をつく。
「……助かった」
新が正直に言う。
「まだ助かってないと思うけど」
彩葉が苦笑した。
「でも段階があるだけマシだろ」
新も小さく苦笑する。
瑠璃はまだ黒板を見ていた。
魔法学基礎。
結界。
召喚。
今まで別々に覚えてきたものが、ここで一つにつながる。
「雨宮先生」
瑠璃が静かに呼ぶ。
「何?」
「これは、難しいですか」
一瞬だけ、教室の空気がやわらいだ。
あまりにまっすぐな質問だったからだ。
雨宮先生は少しだけ考えてから答えた。
「難しいわ」
「でも、できるようになれば大きい」
「大きい」
「ええ」
雨宮先生は頷く。
「一つの技術じゃなくて、今まで覚えたもの全部がつながるから」
「たぶん、この試験を越える頃には、あなたたちは今よりずっと“魔法科らしく”なる」
その言葉に、瑠璃は小さく頷いた。
「……なら、やりたいです」
その声音は静かだったけれど、熱があった。
新はそれを聞いて、思わず苦笑する。
「やっぱそう言うよな」
「言うと思いました」
彩葉も頷く。
「でも、瑠璃さんだけじゃないですよ」
純香が静かに言った。
「私も、少し楽しみ」
「難しいけど、ちゃんとできたら気持ちよさそうだし」
「え、純香まで?」
雅が目を丸くする。
「今までやってきたことが、ひとつになる感じはちょっと面白そうでしょ?」
純香はやわらかく言った。
「大変なのは、もちろんそうだけど」
「それはわかる」
一ノ瀬も頷く。
「点で覚えたものが線になる感じは、たぶん面白い」
「お前ら急に前向きだな……」
雅が引き気味に言う。
「雅は?」
瑠璃が首を傾げる。
「俺?」
雅は一瞬考えて、それから肩をすくめた。
「……まあ、できたら絶対かっこいいとは思う」
「素直じゃないのよ」
彩葉が笑う。
御影先生がそこで手を打った。
「よし、じゃあ説明はここまで」
「次の時間から実習入るぞ」
「まずは結界殻の基礎確認だ」
「ここが甘いやつは、召喚まで行かせない」
「うわ、足切りある」
新が顔をしかめる。
「あるに決まってるだろ」
御影先生は笑う。
「殻なしで意思あるエレメンタル呼ぶとか、自分で地雷踏みに行くようなもんだぞ」
その言い方に、教室のあちこちでため息が漏れる。
けれど、どこか空気は前より澄んでいた。
怖い。
難しい。
面倒だ。
そういう気持ちはちゃんとある。
でもその向こうに、できたらかっこいい、できたら確かに自分の力になる、という予感もある。
新は黒板の三つの語を見上げた。
魔法学基礎。
結界。
召喚。
別々に覚えてきたはずのものが、ここで一つに試される。
「……総合試験、か」
小さく呟く。
その横で、瑠璃も同じように黒板を見ていた。
その目は、もう“難しい”だけではなく、その先にあるものを見ている目だった。
たぶんこの試験は、ただの試験では終わらない。
今まで身につけてきたものが本当に自分の中でつながっているのか。
それとも、まだただ並んでいるだけなのか。
それを、容赦なく見せつけてくるのだろう。
学年末試験は、もう始まっていた。
う
そろそろ一年が終わります




