第七十六話 召喚して遊ぼう
三学期に入って最初の数日は、まだ冬休みの名残が教室のあちこちに残っていた。
朝は寒いし、眠いし、身体も頭も完全には授業の速度に戻りきっていない。けれど、そういう少し緩んだ空気のままではいさせてくれないのが、夢見ヶ丘高校魔法学科の実技授業だった。
その日、教室へ入ってきた山田先生は、いつも通りやわらかく、そしてどこか少しだけ楽しそうだった。
教卓の上には、妙に色とりどりなものが並べられている。
赤や青の布ボール。
鈴の入った小さな玉。
羽のついた細い枝。
輪っか状のやわらかい布。
「……ええと」
新がそれを見ながら言った。
「今日は何するんですか」
山田先生はこくりと頷き、教卓の前へ立つ。
「今回の授業は、召喚体と遊ぶことです」
教室が、しん、と静まった。
「遊ぶ?」
雅が聞き返す。
「はい」
山田先生は真面目に頷く。
「課題は簡単です。投げたボールや、指定したものを取ってきてもらえたら成功」
「……犬?」
雅が言う。
「犬じゃなくてもいいです」
山田先生が即答した。
「大事なのは“取ってくる”ことそのものより、ちゃんと意思を通わせることなので」
そう言って、赤い布ボールを手に取る。
「前回、有機召喚は命令だけでは長く持たないって話をしましたよね」
「仲良くならないと駄目」
新が言う。
「そうです」
山田先生は少し嬉しそうに頷いた。
「なので今日は、まず遊びの中で関係を作ります」
先生の掌に白い光が集まり、次の瞬間、そこに小さな白狐が現れた。
「うわ」
彩葉が声を漏らす。
「かわいい」
「今日は鳥じゃないんですね」
一ノ瀬が静かに言う。
「はい。今日は遊ぶので」
山田先生は白狐の頭を指先でそっと撫でた。
白狐は気持ちよさそうに目を細め、尻尾をひとつ揺らした。
「いきますよ」
山田先生がボールを軽く放る。
赤い布ボールが教室の前方へ弧を描く。
白狐はすっと地を蹴り、落下点へ回り込んだ。前脚で一度だけ跳ねたボールを押さえ、そのままくわえ直して、まっすぐ山田先生の足元まで戻ってくる。
「おおー」
雅が身を乗り出した。
「今のは分かりやすい」
「はい」
山田先生はボールを受け取りながら言う。
「取ってくること自体は単純なんです。でも、“何をしてほしいか”が伝わっていないと、途中で止まったり、違う動きになります」
「遊びの方が、それを見やすいってこと?」
彩葉が聞く。
「そうです」
山田先生は頷いた。
「向こうが楽しめているかどうかも、分かりやすいので」
有機召喚という言葉の響きから受ける印象より、ずっと穏やかな授業だった。
けれど、新には、だからこそごまかしの利かない難しさがあるようにも思えた。
◇
最初は新だった。
前回よりもずっと安定した、小さな灰色の鳥を結ぶ。
輪郭は破綻していない。羽の流れもそこまで悪くない。けれど、まだどこか緊張しているみたいな硬さがあった。
「よし……」
新が小さく息を吐く。
山田先生が、羽のついた細い枝を一本持ち上げた。
「新くんは、これの方がいいかも」
「枝?」
「はい。鳥なら、ボールより持ちやすいです」
新は少し考えてその案を採用した。
「ああ……なるほど、そうですね」
新はボールを枝に持ち替え、その枝を軽く放る。
羽のついた枝は、くるくる回りながら教室の前方へ落ちていく。
灰色の鳥がふわりと飛び立った。
一度だけ空中で姿勢を崩しかける。だが前回と違って、すぐに立て直した。落ち方を見て角度を変え、くちばしで枝の端をつまむ。
「お」
雅が声を上げる。
鳥は少しよろめきながらも、そのまま新のところまで戻ってきた。
最後は机の手前へ、ちょこんと枝を落とす。
「……できた」
新が思わず呟く。
完璧ではない。飛び方も少し危なっかしい。
けれど今のは、たしかに“取ってきた”だった。
「いいです」
山田先生が頷く。
「今のはすごくよかった」
「ほんとですか」
「ほんとです」
先生はやわらかく言った。
「新くん、ちゃんと向こうのやりやすさを見ました」
「やりやすさ……」
「はい。鳥にボールを持たせるより、枝の方が自然だって、今たぶん分かったでしょう?」
「……ああ」
新はそこでようやく腑に落ちた。
「できるかどうかじゃなくて、何ならやりやすいか、か」
「そうです」
山田先生は頷く。
「それが見えてくると、かなり変わります」
灰色の鳥は新の机の上へ降り立ち、得意げに羽のついた枝をつついた。
「何かちょっと偉そうだな」
新が言うと、
「新くんに似たんじゃない?」
彩葉が笑った。
◇
純香はやはり安定していた。
召喚したのは小さな黒猫。
輪郭はきれいで、前回よりもずっと柔らかい。尾の揺れ方にも、少しだけ余裕がある。
「いって」
純香が静かに言って、黄色い布の輪を転がす。
黒猫はすっと追いかけ、輪を前脚で止めた。
そこで終わらず、今度は一度だけ純香を振り返る。
「持ってきて」
純香が、前回より少しやわらかい声で言う。
黒猫は考えるように輪を見つめ、それからくわえて戻ってきた。
「できた」
彩葉が嬉しそうに言う。
「すごい」
「……よかった」
純香も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
山田先生が頷く。
「今の、すごくいいです」
「本当ですか」
「はい。前回より“正しくやらせる”感じが減ってました」
「減ってました?」
「ちょっとだけ、待てたんです」
山田先生は言った。
「向こうが動く間を、ちゃんと作れた」
純香は少し考え込んでから、小さく息を吐く。
「……難しいけど、面白い」
「そうです」
山田先生は嬉しそうだった。
◇
一ノ瀬はやはり上手かった。
銀色の小狐。
輪郭も美しく、動きも破綻がない。
赤い鈴玉を転がすと、銀狐はすぐに追いかけてくわえ、そのまま最短距離で戻ってきた。
「早っ」
雅が言う。
「普通に優秀」
「優秀ですけど」
山田先生が少しだけ首を傾げる。
「ちょっと仕事っぽいです」
教室に少し笑いが起きた。
「仕事っぽい?」
一ノ瀬が聞き返す。
「はい。きれいにやってくれてるけど、あんまり遊んでない」
「業務遂行って感じ」
新が言う。
「たしかに」
彩葉も頷く。
一ノ瀬は自分の銀狐を見下ろし、
「……なるほど」
と小さく言った。
「成功の形にも、余白があるんですね」
「あります」
山田先生は頷く。
「有機召喚は、そこが面白いんです。余白があると、召喚体は考え、自分に合った行動を取ることもあります」
◇
彩葉は、やはり相性が良かった。
彼女が呼び出した白狐は、山田先生のものより少し小さめで、けれど尻尾の揺れ方までなめらかだった。耳の動きも自然で、そこにちゃんと“意志”があるように見える。
「いくよ」
青いボールを投げる。
白狐は軽やかに地を蹴り、落ちる前に受け止め、くるりと着地。そのまま迷いなく戻ってきた。
「うわー」
雅が言う。
「完成度高い」
「橘さん、すごくいいです」
山田先生が少しだけ嬉しそうに言った。
「やっぱり位相の取り方が上手です」
「やった」
彩葉が笑う。
白狐も褒められたのが分かったみたいに、胸を張るように尾を揺らした。
「何かちょっと悔しい」
雅がぼそっと言う。
「雅はまず脚の本数合わせる」
純香が即答する。
「そこまだ言う?」
「脚の数違ったらかわいそうって言ったでしょ」
「確かにね」
一ノ瀬まで頷いた。
◇
そして問題は、雅だった。
「よし」
雅は本気の顔で前へ出る。
「今度こそちゃんとやる」
召喚したのは、前回よりずっとまともな犬型だった。
ちゃんと四本脚で、耳もあって、尾も振っている。少なくとも“犬っぽい何か”ではなく、かなり犬だった。
「進歩はした」
新が言う。
「最低ライン突破」
純香も頷く。
「言い方!」
雅が赤い布ボールを掴む。
「行くぞ!」
「待ってください」
山田先生が止めた。
「何だよ」
「今の感じだと、たぶんまた失敗します」
「ええー」
「だから“ええー”じゃないです」
山田先生は少しだけ身をかがめ、犬型召喚体と目線を合わせた。
「雅くん、命令する前に、ちゃんと相手を見て」
「相手」
「はい」
先生は頷く。
「遊ぶんです。命令するんじゃなくて、誘ってください」
雅は少し黙った。
それから犬型召喚体を見下ろす。
自分はさっきまで、“できるかどうか”しか見ていなかった。
相手がどう動きたいかなんて、考えていなかった。
「……一緒にやるぞ」
雅が言う。
その一言は、前よりずっと素直だった。
犬型召喚体の耳がぴくりと動く。
「オンッ」
吠えた……。
山田先生が小さく頷いた。
「はい。今のです」
雅は少し照れくさそうな顔をしたあと、ボールを軽く投げた。
「取ってこい」
言い方はまだぶっきらぼうだった。
けれど、その声はもう一方的な命令ではなかった。
犬型召喚体は走った。
追い越さず、走る勢いを少し殺し、落ちるボールへちゃんと合わせる。前脚で押さえ、くわえ直して、雅のところまでまっすぐ戻ってきた。
「お」
「おお」
「できた!」
教室が一気に明るくなる。
雅自身が一番驚いた顔をしていた。
「……まじで?」
差し出されたボールを受け取る。
犬型召喚体は尾をぶんぶん振っていた。
「成功です」
山田先生が今度ははっきり言った。
「やりましたね」
「雅くん、おめでとう」
彩葉が笑う。
「やっと犬になれた」
純香が言う。
「そこじゃないだろ!」
だが、その直後。
犬型召喚体はくるりと向きを変え、雅の手にぐいっと鼻先を押しつけた。
一瞬、教室が静まる。
「あ」
新が声を漏らす。
「懐かれてる」
彩葉がぱっと笑った。
「懐かれてるね」
一ノ瀬も静かに続ける。
「懐かれてねえよ!」
雅はそう言ったが、声は少しだけうれしそうだった。
「いや、懐かれてる」
純香が言う。
「これは完全にそう」
「……よかったじゃん」
新が笑う。
犬型召喚体は尾をひと振りすると、それから満足そうに輪郭をほどいて消えた。
雅は消えたその場所を、ほんの一瞬だけ名残惜しそうに見ていた。
◇
授業の終わりに、山田先生は静かに教室の真ん中へ立った。
「今日やったことは、ただの遊びじゃありません」
やわらかな声だった。
「遊びって、相手の反応をちゃんと見ますよね」
一度、掌を開く。
「無理やり従わせるんじゃなくて、どうしたら一緒に動けるか考えます」
それから少しだけ笑う。
「有機召喚では、それがすごく大事なんです」
教室が静かになる。
山田先生は、その静けさを確かめるみたいに、ゆっくりと言葉を続けた。
「有機召喚は、自分で生命を生み出すようなものです」
その一言に、新は少しだけ息を止めた。
「もちろん、本物の生命とは違います。仮初の存在です」
山田先生はそう言ってから、少しだけ目を細める。
「でも、仮初だから雑に扱っていい、ということにはなりません」
雅も、彩葉も、自然と口を閉ざしていた。
「たとえ短い時間しかここにいられなくても」
山田先生は自分の掌を見る。
「ちゃんと見て、大切に扱って、心を通わせる」
静かな声が、教室の奥までまっすぐ届く。
「そうすると、召喚体は応えてくれます」
一拍置いて、先生は続けた。
「時には、本来の力以上の能力を発揮してくれることもあります」
新の脳裏に、さっき小鳥が羽のついた枝をくわえて戻ってきた姿が浮かぶ。
雅の犬型召喚体が、最後に鼻先を押しつけてきた感触も、たぶんまだ雅の中に残っている。
「それを、とても上手にしているのが」
山田先生はそこで少しだけ表情をやわらげた。
「先日も紹介した、八乙女律さんの召喚術です」
その名前に、何人かが顔を上げる。
「八乙女さんの召喚は、派手さだけで見ればもっと目立つ人もいます」
山田先生は言った。
「でも、あの人のすごさはそこじゃありません」
静かに、でもはっきりと続ける。
「召喚体を信頼して、心を預けるんです」
教室の空気が少し変わる。
「自分だけで全部を支配しようとしない。向こうが応えてくれることを信じて、ちゃんと任せる」
山田先生はこくりと頷いた。
「そこに、召喚術の本質があるんですよ」
命令ではなく、関係。
押しつけではなく、共鳴。
それは召喚の話のはずなのに、なぜかそれだけではない気もした。
「だから」
山田先生は最後に言う。
「最初は小さくていいんです」
教室の中をやわらかく見回す。
「一つずつ、ちゃんと応えてくれる相手を増やしていく」
少しだけ笑う。
「その方が、きっとずっと強いです」
鐘が鳴った。
彩葉はまだ楽しそうに笑っていて、純香は次はもっと自然に動かせるかもしれないと考えている顔をしていた。一ノ瀬はもう次の修正点を整理していて、雅だけは消えた足元を少しだけ名残惜しそうに見ている。
張っていた空気が、少しだけほどけた。
心通わせる大切さ。




