第七話 あの日見たもの
翌日になっても、僕たち四人の頭の中には、昨日公園で見たあの小さな透明体が居座り続けていた。
授業中も、休み時間も、誰かと目が合えば、言葉にしなくても分かる。
あれは見間違いじゃなかった。
でも、何だったのかは分からない。
しかも厄介なことに、分からないままではいられない類いのものだった。
「……先生に聞く?」
昼休みの終わり際、彩葉が小さな声で言った。
いつもの明るい調子じゃなくて、少しだけ探るみたいな声だった。
雅はすぐに頷く。
「聞くしかなくない?」
「でも、何て言うのよ」
純香が腕を組む。
「“公園で勝手に教科書にないこと試してたら、変なものができました”って?」
「ちょっと怒られそう」
「ちょっとどころじゃ済まない気がする」
その会話を聞きながら、僕はノートを見ていた。
昨日の条件を書き残したページ。核の位置、圧縮開始のタイミング、雅の出力、純香の局所結界、彩葉の合図。崩壊までの時間。ほんの数秒にも満たない、でも確かにあった現象。
分からないからこそ、聞きたかった。
「……でも、聞かないと進めない」
僕が言うと、三人がこっちを見る。
「何だったのか、知りたい」
「知りたいけど」
「怒られるのは嫌だなあ」
「それは全員同じよ」
純香が言って、小さくため息をついた。
「でも、鳴海の言う通りね。このまま勝手にやる方がたぶん危ない」
「じゃあ決まり?」
「決まりだな」
「うわー、緊張するんだけど」
彩葉がそう言って笑う。
でもその笑い方は、少しだけ固かった。
◇
五限が終わると、僕たちは四人そろって御影先生のところへ行った。
職員室の隣にある小さな準備室。魔法学の教材や記録盤が置かれた、少し埃っぽい部屋だ。御影先生は書類を見ていたけれど、僕たちを見るとすぐに手を止めた。
「どうした」
短い一言に、妙な威圧感がある。
最初に口を開いたのは、なぜか雅だった。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「授業の内容か」
「授業の延長です」
「神代がそう言うと、不穏にしか聞こえんな」
先生の目が細くなる。
そのまま視線が僕たち全員を一周した。
「話してみろ」
僕はノートを開いて、昨日のことをできるだけ順番に説明した。
石の核を結界面で補助できないかと思ったこと。
公園で試したこと。
三人でやってうまくいかず、彩葉が合流してタイミングを見たこと。
その瞬間だけ、石でも結界でもない透明な芯のようなものができたこと。
そして、すぐに崩壊したこと。
説明しているあいだ、御影先生は一度も口を挟まなかった。
ただ、最初より少しずつ表情が消えていくのが分かった。
「……もう一度言え」
説明が終わったあと、先生は低い声で言った。
「どこからですか」
「透明なものができた、というところからだ」
僕は喉を鳴らして、もう一度説明した。
小指の先ほどの大きさだったこと。
灰色ではなく、妙に透明だったこと。
光を吸って、少しだけ返すみたいな見え方だったこと。
先生は今度は僕ではなく、他の三人に目を向けた。
「おまえたちも見たか」
「見ました」
純香が答える。
「うちも見た」
彩葉が続く。
「俺も」
雅も短く言った。
御影先生はしばらく黙っていた。
それから、ノートに書かれた条件を指で追いながら、ぽつりと呟く。
「理屈の上では、物質転換に近い」
僕は思わず顔を上げた。
「物質転換?」
「専門領域の上位魔法だ。科学で言えば、核融合に近い現象と考えればいい」
先生はノートから目を離さないまま続けた。
「物質を構成するより深い層――原子核同士を極限まで圧縮し、本来なら反発し合う境界を、魔法で一時的に接続してしまう。成功すれば、別の物質へ転換すること自体はあり得る」
「……そんなの、できるんですか」
僕が聞くと、先生は短く頷いた。
「理論上はな。実際に扱うのは一級の専門魔法師だ。しかも専用施設の中で、干渉防壁を何重にも組んで初めて試せる類いのものだ」
「干渉防壁?」
彩葉が眉を寄せる。
「転換時に漏れるエネルギーと構造干渉を遮断するための防壁だ。膨大な熱と衝撃だけで済めばまだいい。境界そのものが乱れる。普通の結界では受けきれん」
部屋の空気が、急に冷たくなった気がした。
昨日の公園で僕たちがやったのは、そんなものの真似事だったのか。
「もちろん、君たちが本当にそこへ触れたとはまだ断定しない」
御影先生が言う。
「だが、通常の石の錬成と結界補助だけで、透明核めいたものが生じたというなら、ただの見間違いで片づけるには危険だ」
先生はようやく顔を上げた。
「再現できるか」
「……それは」
僕が言い淀むと、雅が口を開いた。
「昨日の条件に近づければ、たぶん」
「たぶん、か」
「でも、やるなら公園じゃ無理です」
純香の声はいつもより少し硬かった。
「昨日の時点で、もうかなり不安定でした」
「そうだろうな」
御影先生はすぐに頷いた。
「なら勝手にはやるな。こちらで区画を用意する」
その一言に、四人そろって固まる。
「用意、って」
「防護区画だ。私一人では足りん。結界系と魔法科学系の教員も呼ぶ」
「え、そんな大事になる?」
彩葉が小さく言う。
「大事にしているんだよ、最初から」
御影先生は静かに言った。
「もし本当に物質転換に類する現象なら、見逃す方が愚かだ。逆に違うなら、それを確かめる必要がある」
そして最後に、僕たちを順番に見た。
「放課後、第二実習棟の防護演習区画へ来い」
◇
放課後の第二実習棟は、いつもの実習室とはまるで違っていた。
地下に近い一階奥。厚い扉の向こうにある防護演習区画は、床にも壁にも何重もの術式線が刻まれていて、入っただけで空気の密度が違うように感じる。
すでに御影先生の他に二人の教師が来ていた。
一人は結界系担当の雨宮先生。短い髪をきっちりまとめた女性で、入室した僕たちを一目見ただけで「問題児四人組?」と言った。怖かった。
もう一人は魔法科学担当の白峰先生。柔らかい口調の男性で、観測盤の調整をしながら「高校一年でこういう呼ばれ方をするのも珍しいねえ」とのんびり言った。怖かった。
結果、二人とも怖かった。
「いい? 合図するまでは絶対に術式を起動しないこと」
雨宮先生が言う。
「干渉防壁は五重で張る。内層三枚、外層二枚。白峰先生、観測盤」
「起動済み」
「御影先生、中心域の確認」
「異常なし」
淡々と準備が進んでいく。
僕たちは、その中心に立たされていた。
昨日まで公園でやっていたことと、同じことをやるだけのはずなのに、まるで別物みたいだった。
「緊張する?」
白峰先生がにこやかに聞く。
「めちゃくちゃします」
彩葉が即答した。
「だろうねえ」
「先生はしないんですか」
「するよ。だから防壁を五重にしてる」
さらっと言われて、余計に緊張する。
御影先生が僕たちの前に立った。
「昨日と同じ役割でやれ。鳴海、核の初期位置。神代、出力。篠宮、局所結界。橘、タイミングを見る。条件はできるだけ昨日に寄せる」
「はい」
「ただし、異常を感じたら即座に中断する。迷うな」
「はい」
返事だけはそろった。
◇
再現実験は、思ったより静かに始まった。
僕は昨日のノートを頭の中でなぞる。
核の位置。圧縮の入り方。手のひらの中心。外へ逃がさない。小さく、密に。できるだけ同じように。
雅の出力が背後から流れ込む。昨日より抑えられているのに、それでも十分強い。純香の結界が核の外側に薄く張りつく。彩葉の視線が三人の手元を追っている。
「まだ」
「うん」
「そのまま」
「了解」
「……次、来る」
昨日と同じだ。
同じ、はずなのに。
決定的に違うのは、周囲に張られた防壁と、教師三人の視線だった。
息苦しいほどの緊張の中で、核がまとまっていく。昨日と同じように灰色の粒子が密度を増し、その中心に一点の重さが生まれる。
「今」
彩葉の合図。
その瞬間、白い光が走った。
昨日の透明な芯とは違う。
もっと鋭くて、目を刺すような閃光だった。
僕は思わず目を細める。
次の瞬間、ばちん、と乾いた音がした。
「切って!」
雨宮先生の声が飛ぶ。
「切る!」
雅が出力を抜く。
「結界解除!」
純香が術式を解く。
光は一瞬で消えた。
あとに残ったのは、手のひらの中心に落ちた、黒い塊だった。
黒焦げだった。
炭みたいに黒くて、脆くて、指先で触れたらすぐ崩れそうな小さな残骸。
昨日の透明な芯は、そこにはなかった。
失敗だ、と誰の目にも分かった。
沈黙が落ちる。
「……再現しなかったな」
雅が低く言う。
御影先生は何も答えず、杖の先でその黒い塊をそっと持ち上げた。
白峰先生が観測盤を確認している。雨宮先生は防壁を解除しながら眉をひそめていた。
「焦げた、のか?」
僕が言うと、
「単純な焼損では説明しにくい」
白峰先生がすぐに返した。
「熱量そのものは出ている。でも、発光のわりに中心温度の立ち上がりが不自然だ」
「残渣は回収する」
御影先生が言う。
「元素分析に回す」
元素分析。
その言葉が出るだけで、事が大きくなってしまった感じがした。
彩葉が小さく息を吐く。
「じゃあ、失敗?」
「少なくとも、昨日のものは出ていない」
純香が言う。
「でも、何も起きなかったわけでもない」
その通りだった。
成功じゃない。
再現もしない。
なのに、何もなかったとも言い切れない。
あの一瞬の白い光は、ただの失敗の光じゃなかった。
そう思ってしまうのが、余計に気持ち悪かった。
◇
実験はそこで打ち切りになった。
御影先生は「今日はここまでだ」とだけ言い、僕たちは片づけを手伝ったあと、防護区画の外へ出た。
廊下に出た瞬間、妙に現実へ戻った気がした。
「なんか……負けた感じする」
彩葉がぽつりと言う。
「分かる」
僕も答える。
「昨日は確かに見たのに」
「見たからこそ厄介なのよ」
純香が言った。
「見間違いなら、こんなに引きずらないもの」
雅は珍しく少し黙っていた。
その横顔を見て、たぶん同じことを考えているんだろうと思う。
昨日の透明な芯。
今日の黒焦げ。
この差は何なのか。
「もう一回、昨日と同じ条件に近づければ」
僕が言いかけると、
「焦るな」
と、御影先生の声が後ろから飛んだ。
振り向くと、先生は黒い残骸の入った小さな封止容器を持っていた。
「再現しない現象ほど、記録が要る。おまえたちはまずノートをまとめろ。今日のデータも全部残す」
「……はい」
「結果が出たら伝える」
それだけ言って、先生は分析室の方へ歩いていった。
◇
結果が出たのは、二日後だった。
放課後、僕たちはまた準備室へ呼ばれた。御影先生の机の上には、紙のレポートが一枚置かれていた。いつもより部屋が静かに感じる。
「分析結果だ」
先生は紙を見たまま言った。
「昨日の残渣の主成分は、炭素だった」
「炭素?」
僕と彩葉の声が重なる。
御影先生は頷いた。
「正確には炭素主体。微量のケイ素系残留もある。だが通常の石の錬成失敗や、単なる焼損でこうはならん」
「石から……炭素?」
純香が呟く。
「あり得ない、とは言わん」
先生は低い声で続けた。
「だが、普通ではない。少なくとも、ただ焦げただけの残りかすではない」
「じゃあ」
雅が静かに聞く。
「転換しかけたってことですか」
御影先生は少しだけ黙って、それから言った。
「断定はまだできん。だが、物質転換に類する過程へ接触した可能性はある」
部屋の空気が変わる。
誰も、すぐには口を開けなかった。
「再現はしなかった」
先生が言う。
「だが、失敗の痕としては異常だ。失敗ですら、普通ではない」
僕は自分の手のひらを見た。
あの日、公園で透明な芯が乗っていた場所。
あの日、防護区画で黒焦げの残骸が残った場所。
再現しない。
でも、何も起きていないわけじゃない。
むしろ再現しないからこそ、そこにあるものの輪郭が、余計にはっきりしないまま迫ってくる。
「……じゃあ、あれは何なんですか」
僕が聞くと、御影先生は珍しくすぐには答えなかった。
レポートを閉じて、僕たち四人を順に見る。
「それを確かめるのが、ここからの課題だ」
短い返答だった。
でも、その言葉だけで十分だった。
まだ名前はない。
まだ再現もしない。
それでも、僕たちはもう知ってしまった。
あれは、ただの失敗じゃない。
そしてたぶん、知らなかった頃には戻れない。
ついに先生まで巻き込み出しました。




