第六十四話 三途の川に掛かる橋
「一葉、それ一口ちょうだい」
「一葉、ご飯粒付いてる」
「一葉、その服似合ってるね」
「一葉……一葉……」
「……」
「……」
「……一葉……僕は君のことを」
「愛して……」
ハッッ!!
ハァ、ハァ……
ハァ……
……
同じ夢だ。
また同じ夢。
何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も。
頭が痛む……。
「鎮痛剤、まだあったかな……」
そう言って鎮痛剤と安定剤を冷たい水で流し込んだ。
ハァ、ハァ……。
「見ていて……湊……必ず……貴方の名前」
「思 い 出 さ せ る」
◇
『…願わくは、この祈りをもって、あまねく一切に届きますように…。
あなたと、私と…。
死に別たれた者たちが、いつか同じ岸辺へ辿り着けますように。
忘れられた名に、たくさんの花が添えられますように。
多くの祈りがあなたに届きますように。
願わくは。
願わくは…。
せめて、この歪んだ世界の向こう側、穏やかに広がる楽園が。
祈りで満たされますように…』
◇
夕暮れの河だった。
街を二分するように流れる河は、もう夜の色を少し含み始めている。
川沿いの遊歩道にはまだ人影が残り、橋の上を、帰路につく学生や会社員が急ぎ足で行き交っていた。
その頭上に。
蓬莱一葉は、静かに浮いていた。
橋の中央より少し高い位置。
落ちていく夕陽を背に、黒いコートの裾を風に揺らしながら、ホーキ型魔導具を抱くように構えている。
本来なら、人を支えるためのものだった。
前へ出る者を後押しし、揺らぐ術式を支え、届くべきものを正しく届かせるための補助機構。
けれど今、その未完成の装備は、まるで別の生き物のように低く唸っていた。
一葉の足元の空間が、かすかに歪む。
沈むのではない。
落ちるのでもない。
空間そのものをわずかに折り曲げて、自分の体をそこへ置いているのだ。
その無理のある浮遊に合わせて、橋の欄干へひとつ、またひとつと白い蕾が咲いていく。
白い花弁。
紅のにじむ先端。
細く長い蕊。
花は欄干だけでは足りず、橋桁へ、街灯へ、吊り索へ、まるで手向けの場を広げるみたいに静かに根を伸ばしていった。
「もっと」
一葉は、ほとんど祈るように呟いた。
「もっとたくさん」
指先が、ホーキの柄をきつく握る。
「もっと強く」
血の気を失った唇が、小さく震える。
「届いて、湊」
その瞬間、橋全体に咲いた花が一斉にひらいた。
薄い花粉が、夕暮れの空気の中へ、雪みたいに静かに散る。
悲鳴が上がった。
「なにあれ!?」
「花!?」
「橋の上から離れてください! 走らないで、順番に!」
駅の時と同じように、まず人の流れが乱れる。
白い花は人を襲わない。
ただ咲き、ただ広がる。
けれどその静けさが、余計に恐ろしかった。
橋のたもとへ駆け込んできた和は、その光景を見上げて、すぐに顔をしかめた。
「……またかいな」
低く、吐き捨てるような声。
その後ろで、東海林が息を整えながらホーキを構える。
新たちも少し遅れて追いついてきたが、和は振り返りもせずに言い放った。
「君らは下! 避難誘導手伝って!」
「でも!」
新が言いかける。
「今はそっちが優先や!」
和の声には一切の迷いがなかった。
「この橋の上で将棋倒しでも起きたら、花より先に人が死ぬ!」
その一言で、新たちは走り出した。
雅が大きな声で人の流れを外へ誘導し、純香と一ノ瀬が橋の両端を押さえ、彩葉は立ち止まりかけた小学生の手を引いて歩道側へ下がらせる。
東海林だけが、和の隣に残った。
「和さん」
「分かっとる」
和は一葉から目を逸らさずに答えた。
「一葉本人や」
橋の上。
いや、橋の上空。
白い花に囲まれたその中心で、一葉がゆっくりとこちらを見る。
視線が合う。
あの時、駅のデッキで一度見た時よりも、一葉の顔色はさらに悪かった。
頬はこけ、目の下には深い影がある。
けれど、その目だけは異様に澄んでいる。
祈っている人間の目だった。
そして同時に、二度と引き返さないと決めた人間の目でもあった。
「また、あなたですか」
一葉が言う。
静かな声だった。
でも、その声の芯には、微かに熱があった。
「そらそうやろ」
和が返す。
「見つけた言うたやん」
「見つけた、ではありません」
一葉はかすかに笑う。
「ようやく、見ようとしただけです」
「一葉」
和が一歩前へ出る。
「もうやめえ」
「無理です」
即答だった。
迷いがなさすぎて、逆にぞっとするほどに。
「人の多いとこばっか狙って、花咲かせて、何がしたい」
和の声が低くなる。
「手向けや言うんやったら、自分一人でやったらええやろ」
「一人では足りない」
一葉が言う。
「想いは、多い方が届く」
「届くか!」
和が吐き捨てる。
「そんなもん、ただの巻き込みや!」
「違う」
一葉の目が、そこで初めて鋭くなった。
「これは回向です」
「……何」
「一人の祈りでは足りない」
白い花の中で、一葉の髪が風に揺れる。
「一人の涙では届かない。だから、もっとたくさんの想いがいる」
「そのために人を巻き込むんか」
「巻き込んでいるのではありません」
一葉は静かに言った。
「思い出させているだけです」
「何を」
「失うことを」
「……」
「忘れた死を」
「……」
「事故にされた無念を、痛みを」
和は、ぐっと奥歯を噛んだ。
分かる。
分かってしまう。
その言葉の根にあるものは、和にも分かる。
同じ名前を失ったからだ。
相良湊。
自分の相棒。
一葉の婚約者。
事故で片付けられた死者。
だからこそ、余計に許せなかった。
「せやからって」
和は低く言う。
「それを、お前が好きにしてええ理由にはならん」
「好きに?」
一葉がかすかに眉を寄せた。
「好きでやってると思うんですか」
その瞬間、ホーキ型魔導具が低く唸る。
空間が、歪んだ。
「っ!」
東海林が即座に前へ出る。
「来ます!」
一葉の足元から、薄く圧縮された空気の層が生まれる。
それは風ではなかった。
時空補助型の支援機構を無理やり攻撃へ転用した、加速と圧縮の複合魔法。
「ズォン!」
本来なら味方の術式を押し出すはずの力が、今はそのまま鋭い衝撃へ変換されている。
「下がって!」
東海林が叫ぶと同時に、和が前へ出た。
「封魔障壁!」
光の壁が立ち上がる。
次の瞬間、見えない何かがそこへ叩きつけられた。
「ギィィン!」
鈍い音。
障壁が一瞬でひび割れる。
「はぁ!?」
雅が避難誘導の最中に振り返って声を上げる。
「今の何だよ!」
「押し飛ばされる!」
東海林が叫ぶ。
「和さん!」
和は踏ん張る。
だが衝撃は一度では終わらない。
圧縮された加速の波が、連続で障壁へ叩き込まれる。
花はなおも咲き続ける。
まるで、その攻撃すらも手向けの儀式の一部であるかのように。
「くっ……!」
和の足が、アスファルトを削った。
次の瞬間。
「げほっ……!」
上空で、一葉が血を吐いた。
紅が、白い花弁の上へ細かく散る。
だが彼女は止まらない。
左腕を押さえ、苦痛に顔を歪めながらも、なおホーキを持ち直す。
「湊……!」
一葉の声が、夜へ差しかかる橋の空気を裂いた。
「あなたの忘れられる苦しみに比べたら……っ! こんなもの……!」
さらに、空間が歪む。
「今! 無念を晴らす! この場で! この命で!」
「一葉ッ!」
和が叫ぶ。
「もうやめえ!」
再び衝撃。
今度は障壁ごと、和の体が弾かれた。
「和さん!」
彩葉の声が裏返る。
和は欄干の手前でなんとか踏み止まったが、片膝をつき、息を荒げる。
受け切れていない。
完全に押し負けている。
東海林がすぐ横へ走り込み、ホーキを地面へ突き立てた。
「地縛楔!」
白い杭のような光が三本、橋の床へ打ち込まれる。
一葉の足元の歪みがわずかに揺らいだ。
「っ……」
今度は一葉の方が顔をしかめる。
支援系の術式を無理に戦闘転用しているせいだろう。
楔に引っかかった瞬間、反動がそのまま使用者へ返っているのが見て取れた。
「和さん、今のうちに!」
東海林が叫ぶ。
和は立ち上がろうとした。
だが、その瞬間にまた一葉が血を吐く。
「げほっ、げほっ……!」
細い体がぐらりと傾く。
左腕だけではない。今度は脇腹まで押さえ、呼吸そのものが乱れていた。
「……っ」
和の表情が変わった。
あれは、ただの消耗ではない。
未完成の装備に体が削られている。
それでも一葉は笑った。
ひどく、歪んだ笑みだった。
「やめろと言うなら……止めてみせろ……!」
血に濡れた唇で、叫ぶ。
「あの人の……湊の無念を!!」
和は息を呑む。
止めないと。
絶対に止めないと。
彼女の体が……
でも、この場で無理に踏み込めばどうなる。
橋の上にはまだ避難しきれていない人もいる。
花は咲き続けている。
一葉の時空圧縮は、こちらが踏み込むほど暴れるかもしれない。
「和さん!」
東海林が言う。
「天穿一戟!」
その瞬間、一葉の周囲の花弁が、いっせいに閉じた。
それは防壁だった。
花そのものが棺のように彼女を包み、次の術式のための殻になる。
光の槍が弾かれる。
「天穿一戟で、抜けない……!?」
「当然や」
和が低く言った。
「今のあいつ、矛だけやない。盾も同時や」
その通りだった。
圧縮で押し飛ばし。
花弁で守る。
本来は誰かを支えるためだった補助術式が、今は攻防一体の歪んだ戦闘機構になっている。
「一葉!」
和がもう一度呼ぶ。
花弁の内側で、一葉の目が細く開いた。
「……和さん」
「そんなもん使い続けたら、お前!」
「分かっています」
かぶせるように、一葉が言う。
「体が保たないでしょうね」
「……」
「でも」
その声は、妙に穏やかだった。
「この痛みでは、まだ足りないんです」
和の喉が詰まる。
「湊に比べたら」
一葉は囁く。
「何一つ」
そして次の瞬間。
花弁の防壁がふっと揺らぎ、一葉の周囲の空間そのものが薄く捻じれた。
「まずい!」
東海林が叫ぶ。
「撤退位相!」
「……っ、待て!」
和が踏み込む。
だが、一歩遅い。
白い花弁がばさりと散り、その向こうの景色が一瞬だけずれた。
橋の中央にあったはずの一葉の姿が、まるで最初からそこにいなかったみたいに溶けて消える。
残ったのは、血の付いた白い花弁だけだった。
◇
風が吹いた。
咲いていた花のいくつかが、その場で力を失って閉じる。
けれど全部ではない。
手向けとして配置された花たちは、まだ橋のあちこちに残っている。
「……逃がした」
新が呟く。
「いや」
和が、落ちた花弁を見つめたまま言った。
「引いたんや」
「違いあるの?」
雅が訊く。
「ある」
東海林が静かに答えた。
「逃走じゃなく、戦闘終了の判断です」
「……」
「こちらを倒しきるより、花を残す方を優先した」
「つまり」
一ノ瀬が言う。
「目的は和さんとの決着じゃなかった」
「せや」
和が短く言う。
その声には悔しさがあった。
だが、それだけではない。
もっと重いものが沈んでいた。
彩葉はそっと和の近くへ寄る。
「大丈夫?」
「大丈夫やない」
和は正直に言った。
そして少しだけ苦く笑う。
「けど、倒れはせん」
「……一葉さん」
彩葉が小さく言う。
「すごく、痛そうだった」
「せやろな」
和は視線を上げた。
もう一葉の姿はない、橋の上空を見る。
「自分の体削ってる」
「でも、止まらない」
「止まる理由が、あいつの中にないんやろ」
東海林が橋の床に残った血痕を見つめる。
「採取します」
「頼む」
和が言う。
東海林はしゃがみ込み、血の付いた花弁と、ごく少量の血を回収していく。
それはたしかに、一葉がここにいた証だった。
事故で片付けられた大切な人の死を暴くために。
鎮魂のつもりで花を咲かせ続ける女。
蓬莱一葉。
初めて正面からぶつかって、和ははっきり理解してしまった。
あれはただ壊れた人間ではない。
壊れたまま、ちゃんと祈っている。
ただ愛する人の冥福だけを祈って……。
だから絶対に、止めてやらなければならない。
「和さん」
東海林が立ち上がる。
「次はもっと危険です」
「分かっとる」
「今回、向こうは本気の一端しか出していません」
「分かっとる言うてるやろ!」
和は橋の上に咲いた花を見た。
白い花弁。
紅の滲む先端。
静かで、綺麗で、だからこそ、たちが悪い。
「……でも」
和が低く言う。
「ようやく、あいつの痛みが見えた」
「え?」
新が見る。
「見えたからって、許すわけやない」
和ははっきりと言った。
「せやけど、それを知らんまま止めに行くんと、知った上で止めに行くんは全然ちゃう」
そして、誰にも聞かせるというより、自分に言い聞かせるように続ける。
「今度こそ、ちゃんと止めてやる」
「止めてやれるんは、今しかない」
橋の下を、河が流れる。
まるで黄泉に流れる三途の川のように。
花はまだいくつも残っている。
けれど、その咲き方はもうさっきまでとは違っていた。
誰かへ向けた祈りの残り香だけが、そこに在り続けているようだった。
和は橋を越えて走った。
一葉は、きっと、あそこにいる。
もう戻れない。渡ってしまったら。




