第五十五話 声
「声が聞こえた、と」
低く落ち着いた口調で、警察官が確認した。
「……はい」
ベッドの上の女子生徒は、毛布を胸元まで引き上げたまま、小さく頷いた。
咬傷の処置は済んでいる。
バイタルも落ち着いている。
だが、顔色はまだ悪かった。
瞳には疲労と怯えが色濃く残っていて、時折、無意識に肩が震えている。
夢見ヶ丘高校の文化祭を襲った大規模マジックハック事件は、和の広域対魔除染によってひとまず収束した。
けれど、終わったのはあくまで“現象”だけだった。
なぜ起きたのか。
誰が仕掛けたのか。
何を目的としていたのか。
それは、まだ何一つ分かっていない。
「どういう声だったのですか?」
警察官が続ける。
女子生徒はしばらく俯いていた。
それから、思い出したくないものを無理やり引っ張り出すみたいに、少しずつ口を開いた。
「……はっきり、じゃないんです」
「構いません」
「頭の中に……急に、入ってきて……」
呼吸が浅くなる。
そばについていた救護班の生徒が、そっと背をさすった。
「何か……一緒に行こう、とか……」
「……」
「共に楽園へ、みたいな……そんな感じ、でした」
その場の空気が、わずかに変わった。
事情聴取に立ち会っていた御影先生が、目を細める。
浅見先生も、表情を硬くした。
「心当たりは?」
警察官が訊く。
「……ありません」
女子生徒は首を振った。
「知らない声です。男の人か女の人かも……分からなくて……でも、ずっと……頭の中で」
毛布を握る手に力がこもる。
「怖かった、です」
その言葉の最後が少し震えた。
「もう大丈夫です」
警察官が静かに言う。
「よく話してくれました」
女子生徒は小さく頷いた。
けれど、その目はまだ完全には怯えから抜け出せていなかった。
◇
事情聴取が一段落すると、警察官と魔法院の担当者、それに先生たちが医務室の隅へ集まった。
「これは……思想系のテロの可能性が高いですね」
警察側の一人が低く言った。
「思想系?」
浅見先生が眉をひそめる。
「ええ」
担当者は頷いた。
「単なる破壊行為や愉快犯にしては、誘導文句があまりにも示唆的です。『共に楽園へ』という語は、典型的な同調・勧誘型の精神汚染ワードに近い」
「なるほど」
御影先生が腕を組む。
「見せつけるためのテロであると同時に、引き込むためのテロでもあるわけか」
「その可能性が高いです」
担当者は続けた。
「しかも今回は、文化祭という不特定多数が集まる場を狙っている。劇場型犯罪としては極めて悪質です」
「最悪ね」
雨宮先生が吐き捨てるように言った。
「ただ暴れさせたいだけじゃなくて、人の頭まで汚してくるんだから」
和は壁にもたれたまま、その話を聞いていた。
さっきまでの明るい勢いは少し影を潜めている。
その代わり、目だけが妙に鋭かった。
「……厄介やな」
ぽつりと呟く。
「感染だけやない。声を流し込むタイプやったら、そら位相拾う子はしんどいはずや」
その言葉に、御影先生が顔を上げた。
「橘さんか」
「せや」
和は短く答える。
「本人、今どこ?」
「隣で休ませてる」
「そっか」
和はそのまま医務室の奥、カーテンで仕切られた簡易ベッドの方へ視線を向けた。
◇
彩葉はまだ、ベッドに横になっていた。
ノイズは除染でかなり軽くなったらしいが、頭の奥がじんと重い。
身体もだるく、起き上がる気力がまだ戻りきっていなかった。
けれど、外の会話は断片的に聞こえていた。
思想系テロ。
共に楽園へ。
声。
その言葉が、妙に引っかかる。
カーテンが少しだけ揺れた。
「入ってええ?」
和の声だった。
「……はい」
彩葉が答えると、和がひょいと中に入ってきた。
相変わらず勢いのある人だが、今はさすがに声を落としている。
「具合どう?」
「だいぶまし……です」
「そらよかった」
ベッド脇の椅子を勝手に引いて座る。
「せやけど、無理はしたらあかんで」
「……はい」
少しの沈黙。
和は頬杖をついたまま、彩葉を見た。
「一個聞いてええ?」
「はい」
「君、さっきのノイズの中で、“声”は聞こえた?」
彩葉はすぐには答えられなかった。
頭の奥を、ゆっくり探る。
うるさかった。
とにかくうるさかった。
耳鳴りみたいで、濁っていて、たくさんの召喚体が擦れ合うみたいで。
でも。
「……声、っていうか」
彩葉は眉を寄せた。
「最初は、ただのノイズだと思ってました」
「うん」
「でも今思えば……言葉みたいなものが、混じってた気もします」
和の目が細くなる。
「どんな?」
「はっきりとは聞き取れなかったです」
彩葉は小さく首を振る。
「ただ……呼ばれてる感じ、はありました」
「呼ばれてる」
「はい。こっちへ来い、みたいな」
「……」
「でも、すごく遠くて、たくさん重なってて、意味にならないまま崩れていく感じで……」
そこまで言って、彩葉はふと息を止めた。
あれは本当に、ただのノイズだったのだろうか。
もし、あの女子生徒の言う“声”と同じものが、自分にも届いていたのだとしたら。
「……そっか」
和は小さく頷いた。
「やっぱりな」
「やっぱり?」
彩葉が訊き返す。
「位相読みに近い子は、普通の人より先に拾ってまうことがあるんよ」
和は静かに言った。
「魔力の流れだけやなくて、その中に混ざった意図とか、癖とか、感情とか」
「……」
「今回のは多分、単に召喚体を暴れさせただけやない。そこに“呼びかけ”が仕込まれてた」
「呼びかけ……」
「せや。魔法ウイルスに、思想や文句を乗せるタイプ」
和は軽く息を吐く。
「めちゃくちゃ趣味悪いし、めちゃくちゃ危ない」
彩葉は毛布を少しだけ握りしめた。
「私」
「うん」
「拾っちゃった、ってことですか」
「たぶんな」
和はあっさり言った。
「でも、拾っただけで呑まれてへん。それは大きい」
「……そうなんでしょうか」
「そうや」
和ははっきり言う。
「呑まれる子は、もっと早い。もっと深く持っていかれる」
「……」
「君はしんどかったやろうけど、ちゃんと帰ってきた」
その口調は明るいままだった。
でも、言っていることは驚くほど真っ直ぐだった。
「そこは自信持ってええよ」
彩葉は少しだけ目を伏せた。
褒められているのか、慰められているのか、どちらともつかない。
でも、不思議と少しだけ肩の力が抜けた。
「……ありがとうございます」
「ええよ」
和はにかっと笑った。
「律の知り合いやしな」
その言い方がまた律と同じで、彩葉は小さく笑った。
◇
医務室の外では、新たち四人がまだ重たい空気の中にいた。
「思想系テロって」
新が言う。
「そんなの、学校の文化祭でやることかよ」
「だからこそじゃない?」
純香が答える。
「人が集まる。目立つ。パニックも起こせる」
「最悪やな」
雅が吐き捨てる。
「気持ち悪い」
「うん」
一ノ瀬が静かに頷く。
「かなり」
そこへ、御影先生が戻ってきた。
「今後しばらく、警察と魔法院の合同調査が入る」
短く告げる。
「文化祭は当然中止。しばらく校舎の一部も立ち入り制限がかかる」
「犯人は」
新が訊ねる。
「まだ不明だ」
御影先生は首を振った。
「だが、ただの悪戯では済まない。完全に一線を越えてる」
その言い方には、はっきりとした怒りがあった。
「再発もあり得るんですか」
純香が真っ直ぐに問う。
「あり得る」
御影先生は迷わず答えた。
「だからこそ、今後は学校側も警戒を強める」
その会話を聞きながら、新は拳を握っていた。
何もできなかった。
結局、自分たちは守られる側のままだった。
その事実が、鈍く胸に刺さっている。
「……新くん」
声をかけてきたのは、いつの間にか起き上がっていた彩葉だった。
和が横についている。
「彩葉、大丈夫?」
「うん。まだちょっとしんどいけど、さっきよりは」
「無理しないで」
「うん」
少しだけ間が空く。
それから彩葉は、四人を見て言った。
「たぶん、これで終わりじゃない気がする」
「……」
「また来るかもしれない」
その声は弱っていたけれど、不思議とはっきりしていた。
「そう思った」
雅が顔をしかめる。
「やめろよ、そういうの」
「やめたいけど」
彩葉は苦く笑った。
「でも、何かそんな感じがするの」
一ノ瀬が静かに頷いた。
「僕も」
短く言った。
「嫌だけど、分かる」
和がその会話を黙って聞いていたが、やがて軽く手を叩いた。
「ほな」
全員の視線が集まる。
「今日はもう、ちゃんと休み」
「和さん?」
新が戸惑う。
「こんな後に休めるかどうかは別としてな」
和は肩をすくめた。
「けど、消耗した頭で考えてもろくなことにならへん。まず生き残ったことを確認して、寝て、そっからや」
「……」
「犯人追うのも、備えるのも、そのあとや」
明るい関西弁なのに、その言葉は不思議なくらい真っ当だった。
誰も反論できなかった。
◇
その夜。
文化祭の飾りがまだ残る校舎は、昼間とはまるで別の場所みたいに静まり返っていた。
笑い声はない。
呼び込みの声もない。
粉ものの香りも、もう薄れている。
代わりに残っているのは、消毒の匂いと、割れた装飾の破片と、そして人の気配が抜けたあとの冷たさだった。
彩葉は帰る前、ふと一度だけ廊下の奥を振り返った。
もう、声は聞こえない。
けれど。
あの「共に楽園へ」という甘く不気味な響きだけは、まだ頭のどこかに薄く残っていた。
楽園。
そんなものを口にする誰かが、確かにこの事件の向こう側にいる。
そして、その誰かは、まだどこかでこちらを見ているのかもしれない。
そう思った瞬間、背筋に細い寒気が走った。
「彩葉?」
新が呼ぶ。
「どうした?」
「……ううん」
彩葉は小さく首を振る。
「何でもない」
そう答えながらも、その“声”の残響は、簡単には消えてくれそうになかった。
楽園とは




