第五十四話 八乙女
「ほな! いくで!」
空から降ってきた女性は、屋上へ着地するより早く、手にしたホーキをくるりと回した。
ローブのフードを深く被っているせいで、顔はよく見えない。
けれどその勢いのある関西弁に、倒れている彩葉以外の四人は、みな同じことを思っていた。
――律だ。
だって、あの八乙女律以外に、こんな破天荒な関西弁でこんな場へ飛び込んで来るやつが、そうそういるわけがない。
新が思わず一歩前へ出る。
雅も、純香も、一ノ瀬も、目を見開いたままその人影を見つめていた。
女性は返事も待たず、ホーキの石突きを片手で握り直した。
「……召喚術式、壱号、参号解除……対感染術式……解放……」
ぶつぶつと、何かを唱えている。
早口で、だが妙に淀みがない。
聞き取れない単語がいくつも混ざっているのに、その声だけでただならぬ術者だと分かった。
女性は一度、空を見上げた。
「……個人やない、集団感染の方や……頼むで本部……」
次の瞬間、その声がぱっと弾ける。
「よっしゃ! 来た! いくで!」
「術式・広域対魔除染、展開!」
ホーキが、屋上の床へ突き立てられた。
ズォォン!
低く、腹の底まで響く音が鳴る。
その瞬間だった。
屋上全体に、巨大な魔法陣が展開した。
「え……」
新が思わず声を漏らす。
「なに、この広さ」
「これ、本当に魔法陣か!?」
雅が素っ頓狂な声を上げる。
「いや広すぎでしょ、これ」
「……魔法陣……ではあるね」
一ノ瀬が静かに言った。
だがその声音にも、明らかな驚きが混じっていた。
屋上だけではない。
魔法陣は床を走り、壁を這い、校舎全体を包み込むように広がっていく。
窓の外へも、校庭へも、渡り廊下へも、夢見ヶ丘の敷地を丸ごと覆い尽くすように、幾重もの光輪が展開していた。
明らかに規模が違った。
これまで見てきたどんな術式とも、まるで。
女性はホーキを突き立てたまま、片手を高く掲げた。
「浄化!」
天上から、まっすぐ一本の光が落ちた。
突き立てられたホーキを中心に、眩い光が同心円状に広がっていく。
屋上を。
階段を。
廊下を。
校舎の隅々まで。
飲み込まれるように、光は走った。
そして。
その光に触れた瞬間、階下から響いていたうめき声が、次々と消えていった。
「え……」
純香が息を呑む。
窓の向こう、階段下にひしめいていたゾンビたちが、まるで最初から幻だったみたいに輪郭を失っていく。
黒く濁っていた魔力が浄化され、ほどけ、霧のように散っていった。
医務室の方からも、小さな悲鳴と安堵の声が上がる。
「意識が戻った!」
「痙攣が止まってる!」
「拘束、緩めます!」
あまりにも、呆気なかった。
さっきまであれほど全員を追い詰めていた悪夢が、たった一人の術で、広く、静かに、消えていった。
「よっしゃ! やったったわ! 任務完了!」
女性が、ぱん、と両手を打ち鳴らす。
その明るい声に反応したのは、保健室のベッドに横になっていた彩葉だった。
光が頭の中のノイズごと洗い流してくれたみたいに、ゆっくりと目を開ける。
「……え……律……?」
掠れた声がこぼれた。
その瞬間、ローブの女性の肩がぴくっと跳ねた。
「ん?」
ゆっくりと、こちらを振り返る。
そうだ。
この勢いのある関西弁。
この登場の仕方。
きっと…
律だ。
新たち四人も、彩葉も、その時まだそう思っていた。
だが。
「君! 律知っとるんか!?」
元気よくそう言いながら、女性はばさりとフードをかき上げた。
「…………え?」
新の口から、間の抜けた声が漏れた。
律じゃない。
まず、顔立ちが違った。
目鼻立ちのはっきりした、綺麗な女性だった。年齢も明らかに上だ。
そして何より。
「身長が……違う」
雅が呟く。
そう。
律よりずっと高い。
あんなにちっこくない。
女性はそんなことお構いなしに、ずんずんと歩いてきて、避難者の群れを見回した。
「……ってことは、貴女が橘さんね!?」
びしっと指差されたのは、純香だった。
「いえ」
純香が即答する。
「彩葉はあっち」
「ああ、ごめんごめん、堪忍な!」
女性はけろっと笑って、今度はベッドの上の彩葉を見た。
「そっか、貴女が橘さんね! 律から聞いとるわ! 位相読みのすごい子おるって! やったら大分しんどかったやろ! 召喚ノイズすごかったからな!」
彩葉はまだ半分ぼんやりした頭のまま、何とか上半身を起こした。
「……えっと……」
「ん?」
「……貴女は?」
女性は、あっと声を上げた。
「おっと、紹介が遅れたな! 私は春名和、ちゅうねん!」
春名和。
その名前を頭の中で繰り返す。
律じゃない。
でも、どこか似ている気がする。
関西弁の勢いもそうだし、空気の壊し方もそうだし。
そんな彩葉たちの表情を見て、和はにやっと笑った。
「あ、でも君ら律知っとるなら、こっちの方がええかな?」
自分の胸に親指を向けて言う。
「旧姓、八乙女。八乙女和や! 律はウチの妹や!」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「えええええ!?!?」
屋上に、五人分の驚きがほとんど同時に響いた。
「妹!?」
新が叫ぶ。
「姉!? あの八乙女の!?」
雅も被せる。
「え、待って」
純香が額を押さえた。
「情報量が多い」
「……でも納得ではあるね」
一ノ瀬だけが、少しだけ冷静だった。
「何が?」
雅が振り返る。
「勢い」
「確かに…」
彩葉はというと、半分寝起きみたいな顔のまま固まっていた。
「八乙女……和……」
「せやで!」
和が元気よく頷く。
「律はウチの妹! ようお世話になっとるみたいやなぁ!」
「春名さん、助かりました」
そこへ御影先生が歩み寄り、短く頭を下げた。
「本当に、間一髪だった」
和はぱちぱちと瞬きをして、それからにかっと笑った。
「ええよ、ええよ。和でええって。御影ちゃん、久しぶりやなあ」
気さくに片手を振る。
「敬語はなしにしようや」
「……そうしようか」
御影先生が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「和も元気そうで何よりだよ」
「え?」
雅が思わず訊ねる。
「御影先生、知り合い?」
「そうだ」
御影先生は肩をすくめた。
「インターカレッジの時の知り合いでな」
少しだけ目を細める。
「俺は……手も足も出なかったんだよ」
「そんなん言わんとき! 御影ちゃん!」
和が豪快に笑う。
「強かったで! ウチの方が一枚上手やっただけや! ナハハ!」
「……変わってないな、和ぃ」
御影先生が呆れたように言って、その両頬を軽くつねった。
「いひゃいいひゃい、みきゃげちゃんやめひぇー!」
つねられたまま、和が変な声を上げる。
その様子を見て、張り詰めきっていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
さっきまで悪夢みたいな光景の中にいたのに。
今は、どこか信じられないくらい軽い会話がそこにある。
彩葉はまだ少し頭の重さを感じながらも、和を見つめていた。
律に似ている。
でも、やっぱり違う。
律の持つ荒っぽさと勢いを、もっと大きな器で包んだような人だった。
その視線に気づいたのか、和がひょいと振り向く。
「橘さん、もうちょい寝とき」
「……はい」
「君、さっきまでノイズでしんどかったやろ?」
「……うん」
「そらそうやわ。あんだけ校舎中ぐちゃぐちゃにされてたら、位相読む子には地獄やもん」
和はしゃがみ込んで、彩葉の目線に合わせた。
「でももう大丈夫や。感染は切った。残留ノイズもそのうち引いてく」
「……ありがとうございます」
「ええよええよ」
和は笑った。
「律の知り合いやしな!」
その言い方が、どこか律と同じで。
彩葉は思わず小さく笑ってしまった。
最悪の文化祭は、まだ完全に終わったわけではない。
被害の確認も、原因の究明も、これからだ。
でも少なくとも、あの悪夢のような時間はここで断ち切られた。
屋上に吹く夕方の風はまだ冷たかったが、それでもさっきまでとは違って感じられた。
そして新たちは、ようやく息をつく。
八乙女律ではなく。
その姉、八乙女和。
魔法院からやってきた彼女は、まるで嵐みたいに現れて、悪夢ごと吹き飛ばしてしまったのだった。
また濃いキャラ出てきたよね




