第五十三話 悪夢
石化したゴーレムが、鈍い灰色の壁となって階段を塞いでいた。
山田先生が展開していた足止め用のゴーレムは、結局ゾンビ化された。
その瞬間を逃さず、御影先生が石化魔法で丸ごと止めたのだ。
結果として、大きな障害物が一つできたことになる。
ひとまず、時間は稼げた。
――ほんの少しだけ。
「これで……しばらくは持つ、んですよね」
新が、誰にともなく訊ねる。
御影先生は石化したゴーレムの表面を睨んだまま、短く答えた。
「持たせるしかない」
その声に余裕はなかった。
階段の向こう側からは、変わらずうめき声と、何かを叩く音が聞こえてくる。
石になったゴーレムを、下から群れが押しているのだろう。
鈍い衝突音が、断続的に最上階まで響いていた。
助かった、とはとても言えなかった。
◇
もっとひどかったのは、噛まれた女子生徒の方だった。
医務室の一角に簡易ベッドが運び込まれ、そこへ寝かされている。
腕の咬傷自体は浅い。
だが問題はそこではなかった。
「ぅ……ぅあ……ぅおぉ……」
視線が定まらない。
全身は痙攣し続けている。
喉の奥からうめき声が漏れ、時折、噛みつくように顔を動かす。
すでに両腕と両脚には簡易拘束が施されていた。
「バイタルは?」
雨宮先生が訊く。
「血圧、脈拍、呼吸ともに大きな異常はありません」
救護班の女子生徒が震える声で答える。
「でも、意識レベルが不安定です……精神汚染が強いと思われます」
「……助けて……」
その瞬間だけだった。
虚ろだった目に、ほんの一瞬だけ正気が戻る。
涙が滲み、掠れた声がこぼれる。
「たすけて……こわい……声が、声が聞こえるの……」
その声を聞いた空気が、痛いほどに沈んだ。
次の瞬間には、また瞳は濁り、喉の奥から意味をなさないうめきが漏れ始める。
見ているだけで胸が締めつけられた。
「トリアージ更新します」
救護班が言った。
「精神汚染進行、拘束管理下。黄色から赤へ変更」
黄色が取り除かれ、赤い札に切り替えられた。
その色が、やけに生々しく見えた。
◇
彩葉の様子も、かなり悪くなっていた。
「ごめん……ちょっと、無理……」
壁に手をついていたかと思うと、そのまま膝をつきそうになる。
新が慌てて支えた。
「彩葉!」
「だいじょ、ばない……かも……」
そんな冗談にもならないことを言いながら、彩葉は苦しそうに笑った。
顔色は明らかに悪い。
頭痛がひどくなっているらしい。
召喚体同士の位相のぶつかり合いが、ノイズの塊みたいに頭へ流れ込んでくるのだという。
「保健室へ運ぶわ」
浅見先生が即座に言った。
「横にならせて。ここに立たせておける状態じゃない」
今の彩葉に強がる余地はなかった。
素直に頷き、医務室の隣のベッドに横になる。
「……うるさい」
薄く目を閉じたまま、彩葉が呟く。
「頭の中で、ずっと鳴ってる……」
「休んで」
純香が言った。
きつい声音だったが、そこには隠しきれない心配があった。
「今はそれ以上無理しないで」
彩葉は何とか頷いたが、それきり目を開けなかった。
◇
最上階に避難している生徒や来校者の間から、少しずつ不安の声が漏れ始めていた。
「もう大丈夫なんですか?」
「下にはまだいるの?」
「警察は?」
「帰れないんですか?」
「子どもが怖がってて……」
先生たちはその対応に追われていた。
浅見先生は必死に落ち着かせようとしている。
山田先生は青ざめながらも、医務室と避難スペースを行き来している。
御影先生と雨宮先生は、下の状況を見ながら魔法の維持に集中していた。
誰もが限界に近かった。
その中で、新、純香、一ノ瀬、雅の四人は、ただ立ち尽くすしかなかった。
何もできない。
それが、あまりにも重かった。
「……くそ」
雅が低く吐き捨てる。
「こんな時に、何もできねえのかよ」
「落ち着いて」
純香が言った。
けれど、その声にも焦りが混じっている。
「分かってるって」
「分かってないからそうなってるんでしょ」
「じゃあ純香は平気なのかよ!」
「平気なわけないでしょ!」
一瞬だけ、言葉が強くぶつかった。
新が二人の間に入る。
「やめよう」
絞り出すような声だった。
「今、喧嘩してもどうにもならない」
純香は唇を噛んで黙り、雅は目を逸らした。
一ノ瀬だけが、静かに下を見つめていた。
「……最悪だ」
ぽつりと新が言う。
「うん」
一ノ瀬が答える。
「まさに悪夢だ」
その言葉に、誰も返せなかった。
◇
――国立魔法院、災害対策課。
「はぁ!? 大規模マジックハックテロ!? なんやねん、それ!?」
部屋に響いた関西弁に、報告書を持っていた職員がびくっと肩を跳ねさせた。
「それが、夢見ヶ丘高校の文化祭が大規模マジックハックされたそうで、救援要請が来ています」
「そんなもん、警察が術者引っ張ったら終わりちゃうん!?」
「どうやらスタンドアロン型の魔法ウイルスパッケージによるものみたいで、もう校舎中に被害が拡大しているようです」
「被害者数は?」
「現時点で、トリアージ赤が一名。黄が数名」
「赤おるんか……マジか……」
短い沈黙。
それまで机に片脚を乗せていた女性が、すっと表情を変えた。
「わかった。私が行く」
「ホーキの用意は!?」
「準備できてます」
「ほな行くわ! あとよろしゅう!」
ローブを翻し、女性は駆け出した。
◇
夢見ヶ丘高校。
状況は、さらに悪化していた。
石化したゴーレムの壁が、長くは持たなかったのだ。
下からの衝撃が何度も繰り返され、ついに石化した表面へ大きな亀裂が走った。
そこへ群れが殺到し、石の壁そのものが砕かれた。
「まずい!」
御影先生が叫ぶ。
「屋上へ急げ!」
これで、後がなくなった。
避難者たちは屋上へ追い詰められ、扉や机で簡易バリケードを作るしかなくなっていた。
山田先生のゴーレムも踏ん張っているが、術者自体の疲労が強く十分に機能できていないようだ。
「先生、応援はまだなんですか!?」
泣きそうな声で、誰かが叫ぶ。
「落ち着きなさい!」
浅見先生が強く言う。
「今、応援が魔法院を出たと連絡がありました! もう少しの我慢です!」
その声にも、焦りは隠せていなかった。
下から、またひときわ大きな音が響く。
来る。
そう思った、その時だった。
「待たせてごめんなあ! ……って何やこれ! エグいことなっとんやん!」
空から声が降ってきた。
全員が、反射的に空を見上げた。
夕方の光を背負って、ホーキに乗った人影が見えた。
逆光で顔はよく見えない。
けれど、その破天荒な関西弁には、四人とも心当たりがあった。
「……え?」
新が目を見開く。
「まさか」
雅が呟く。
一ノ瀬が目を細める。
純香も息を呑んだ。
「けどウチが来たからには、もう大丈夫やで!」
そう言うと、シルエットの女性は、ためらいなくホーキから飛び降りた。
あれは誰だ、誰だ、誰だ




