第五十一話 操ってみよう
召喚術の二回目の授業は、訓練室から始まった。
前回の「出して、保つ」だけでも難しかったのに、今日はその先へ進むらしい。
床に並んだ簡易召喚陣の前で、生徒たちがざわつく中、山田先生はいつものように小さく息を整えた。
「み、みなさん。今日は、召喚体に行動をさせる練習をしますよ」
投影板に四つの文字が浮かぶ。
前へ進む
止まる
その場でジャンプ
手元へ戻る
「召喚術は、とにかくイメージです」
山田先生は丁寧に言った。
「形のイメージが曖昧だと輪郭が崩れます。動きのイメージが曖昧だと、召喚体はうまく動いてくれません。ですから今日は、“どう動いて、どう終わるか”まで、具体的に思い描いてくださいね」
「前回より地味に難しそうだな」
新が言う。
「はい。難しいです。大分」
山田先生は素直に頷いた。
「前へ進ませるだけなら勢いでできることもあります。でも、止めること、その場で動かすこと、そして手元へ戻すことは、術者の制御のイメージがそのまま出ます」
雅が腕を組んでにやりとする。
「なるほど。今日は技術の日ってことですね」
「そ、そうですね。……たぶん神代くんが思っているより、ずっと地味で繊細な技術の日です」
「今のはちょっと刺さった」
「刺してます」
山田先生が即答した。
「召喚体の潜在魔力が高いほど、扱いは高度になり、暴走のリスクや暴走した時の危険性も上がります」
「で、では、まず模範を見せますね」
山田先生が前へ出る。
陣の中央に手をかざす。
淡い光が集まり、小さな塊がゆっくり形を取った。
「……リス?」
彩葉が思わず言う。
そこにいたのは、小さな白いリスだった。
無機召喚体なのに、前脚を揃える仕草まで愛らしい。ふわりと揺れる尻尾も、丸い耳も、どこか柔らかく見えるのに、輪郭はまったく乱れていなかった。
「かわいい……」
「え、なにそれ」
純香が目を丸くする。
「すごくかわいい」
雅も呆れたように笑った。
「なんでこう、うまい人がやると可愛さまで盛れるんだよ」
「も、盛っているわけではありませんよ」
山田先生は少し照れたように言ってから、すぐに表情を整えた。
「前へ」
白いリスが、てててっと前へ走る。
「止まってください」
ぴたりと止まる。
「その場でジャンプ」
小さく真上へ跳ねて、元の位置へ戻る。
「戻ってきてください」
今度はくるりと向きを変え、山田先生の手元へ戻ってくる。
最後に先生が指先を軽く払うと、白いリスはふっとほどけるように消えた。
静かな解除だった。
「……これが今日の目標です」
山田先生が言う。
「進む、止まる、跳ぶ、戻る。四つとも単純そうに見えますけれど、全部別のイメージが必要です。前回よりも、術者のイメージの癖がよく出ます」
◇
「では、始めてください」
その声と同時に、訓練室の空気が引き締まった。
最初に安定した召喚体を出したのは、一ノ瀬だった。
淡い光が集まり、小さな球体がふわりと浮かぶ。見た目は地味だ。色も装飾もない。ただ丸いだけ。だが、そのぶん輪郭はほとんど揺らがない。
「前へ」
球体がまっすぐ進む。
「止まる」
ぴたり。
「ジャンプ」
ほんの少しだけ真上に跳ねる。
「戻る」
そのまま、すっと最短距離で一ノ瀬の手元へ戻った。
「地味だけど、めちゃくちゃ堅実」
新が言う。
「基礎としては理想じゃないかな?」
「必要なことしかしてないから」
一ノ瀬は淡々としていた。
「余計なことをしなければ安定して崩れないね」
次に成功したのは純香だった。
小さな鳥型。
前回よりも輪郭が締まっていて、首の傾きや羽の角度がより鳥らしくなっている。
「前へ」
鳥が羽ばたいて前へ進む。
「止まって」
ぴたり。
「その場で跳んで」
小さく羽ばたいて跳ぶ、着地もきれいだ。
「戻ってきなさい」
鳥は静かに純香の前へ戻ってきた。
「上手い」
新が素直に言う。
「上手くなってない?」
「前回よりはね」
純香は冷静に返す。
「イメージはしやすくなったかも」
「篠宮さんは生き物のイメージを投影するのが上手ですね」
山田先生が頷く。
「とてもいい感じですね」
新は、やはり工夫が先に走った。
小さな箱型の召喚体に短い脚をつける。前回よりかなり洗練されたが、やっぱりどこか変だ。
「前へ」
とことこと進む。
「止まれ」
きちんと止まる。
「跳べ」
ぽん、と真上に跳ね――少しだけ前にずれた。
「あっ」
新が言う。
「なるほど」
「また“なるほど”なんだ」
純香が笑う。
「今のは何が分かったの?」
「跳ぶ時に、前進のイメージが少し残ってた」
「分析が早いな」
雅が笑う。
「でも、惜しい」
「かなり惜しいよね」
彩葉も頷く。
「次は直せそう」
新はもう次の修正を考えている顔だった。
そして雅の番。
「見てろよ」
妙に自信満々で陣の前に立つ。
「こういうの、俺絶対センスあるから」
光が集まり、小型の狼が現れた。
前回よりずっとまとまっている。輪郭もくっきりしていて、見た目はかなり格好いい。
「前へ」
狼は勢いよく前へ駆けた。
「止まれ」
少し滑ったが、止まる。
「その場でジャンプ!」
高く跳ね上がる。
「お」
新が言った。
「今日の雅、意外とちゃんとしてる」
「だろ?」
雅が得意げに笑って、最後の命令を出す。
「戻ってこい!」
狼はくるりと向きを変え――戻らない。
「あれ?」
雅の顔が固まる。
狼は手元へ戻るどころか、そのまま訓練室の外周を駆け出した。
コーンを飛び越え、机の脇をすり抜け、勢いそのままに旋回する。
「うわっ」
「ちょ、ちょっと待っ」
「神代くん!」
山田先生の声が飛ぶ。
「解除してください!」
しかし狼は止まらない。
そして高く跳ね上がったかと思うと、
「ワォーン!」
訓練室いっぱいに、妙に誇らしげな遠吠えが響いた。
「……」
「……」
「……」
一瞬、全員が言葉を失う。
「神代くん」
「解除しなさい」
山田先生が言う。
丁寧な口調だった。
でも目はきっぱりと厳しい。
「いや、ちょっと待って先生、俺も今それは思ったけど、今はそれどころじゃ」
「やってるんですけど、解除できない!」
「……分かりました。私が解除します」
山田先生が前へ出ようとした、その時だった。
「ちょっと待ってください」
彩葉が言った。
全員がそちらを見る。
「……彩葉?」
新が言う。
彩葉は暴走している狼を見ていた。
怖い、というより、少しだけ分かる気がした。
「たぶん、この子」
彩葉が小さく言う。
「怒ってるっていうより、構ってほしいだけかも」
「え?」
雅が目を丸くする。
狼がもう一度大きく旋回する。
彩葉はそっと一歩前へ出て、手を差し出した。
「おいで」
柔らかく手招きする。
狼の動きが、ほんの少しだけ鈍る。
「大丈夫」
彩葉は続ける。
「ほらおいで、こっちおいで」
今度は狼が向きを変えた。
ゆっくりと、彩葉の方へ近づいてくる。
訓練室が静まり返る中、彩葉はしゃがみ込んだ。
目の前まで来た狼の頭を、そっと撫でる。
すると。
「グルルル……」
狼は気持ちよさそうに目を細めた。
喉の奥で甘えるような音を鳴らしている。
「……え」
新が声を漏らす。
「撫でてほしかったみたい」
彩葉が少し笑う。
「落ち着いたら戻ってね」
その言葉が終わるのを待ったみたいに、狼の輪郭がふっとほどけた。
淡い光になって、静かに消えていく。
跡には何も残らない。
数秒の沈黙のあと。
「……消えた」
雅が呆然と呟いた。
「俺の狼、消えた」
「いや、そこ?」
新が思わず言う。
「もっとあるでしょ今」
「なに今の」
純香も目を細めた。
「普通、ああいうのって無理やり切る流れじゃないの?」
「納得して帰った」
一ノ瀬が短く言う。
「そんな感じだった」
「え、でも、え?」
雅はまだ理解が追いついていない顔だった。
「俺の方が術者なんだけど?」
山田先生は彩葉を見ていた。
「……橘さん」
「はい」
「位相って、見えてるの?」
山田先生が静かに聞く。
彩葉は少しだけ戸惑ってから答えた。
「見えてる、っていうほどじゃないです」
でも、少し考えて続ける。
「何となく、です。でも前よりははっきり感じます」
「そうですか」
山田先生は小さく息をついた。
「それは、すごく良い適性です」
そこで少しだけ表情を和らげる。
「でも、体調には気をつけてくださいね」
「……はい」
彩葉は頷いた。
山田先生は皆を見回した。
「今のが、召喚術の難しいところです」
やわらかな声。
けれど内容ははっきりしていた。
「形を作るだけならできます。動かすだけでも、何とかなるかもしれません。でも、術者の中の曖昧さや余計な感情が乗ると、召喚体は簡単に挙動を乱してしまいます。最悪、今回のように術者の指示を無視して、暴走してしまうこともあります」
雅が少し肩をすくめた。
「……すみません」
「反省してくださいね」
「はい」
「でも」
山田先生は続ける。
「暴走しかけたものを、切断以外の方法で落ち着かせる感覚も、召喚術では大切です」
彩葉を見る。
「今のは、すぐ真似できるものではありません」
「え」
「橘さんの感覚的な適性です。大事にしてくださいね」
彩葉は少しだけ照れくさくなって、視線を逸らした。
◇
その後、授業は再開された。
前へ進ませる。
止める。
跳ばせる。
戻す。
四つしかない課題なのに、やってみると本当に難しい。
一ノ瀬は最後まで地味に、でも最も堅実だった。
純香は慎重に精度を上げていった。
新は工夫しながら惜しい失敗を重ね、最後には精密な動きもできていた。
雅はその後しばらく真面目だった。魔力量を適正化することで大人しい狼を使役できていた。
彩葉はやはり狐のような召喚体を使役していた。輪郭の甘さを残しながらも、動きだけは妙に自然だった。
授業の終わり、山田先生は全員を見回した。
「今日はここまでです」
柔らかい声。
しかし、次の言葉はきっぱりしていた。
「前回も言いましたが、形があるだけでは召喚ではありません。動くだけでも不十分です。最後まで術者の制御下に置いて、解除して、初めて成功です」
教室が静まる。
「召喚術は、魔力そのものに意思を与える技術です。故に暴走してしまうと大きな事故に繋がりかねません」
少しだけ間を置く。
「各人気をつけること。いいですね」
◇
放課後。
五人はいつものように並んで歩いていた。
「いやー……」
雅が頭をかく。
「今日はちょっとやらかした」
「ちょっとじゃないわよ」
純香が言う。
「完全に暴走してたでしょ」
「でもお前の狼、最後ちょっと可愛かったよな」
新が笑う。
「ワォーン!って」
「やめろ、思い出すと恥ずい」
「私はちょっと好きだったけど」
彩葉が言うと、雅が顔を上げる。
「ほんとか?」
「うん。でも次は暴走はダメだね」
「だよなあ……」
「そうだね」
一ノ瀬が静かに言った。
彩葉は夕方の空を見上げた。
召喚術は、思っていたよりずっと難しい。
でも同時に、思っていたよりずっと面白かった。
作るだけじゃない。
動かすだけでもない。
そこに何かを通して、やり取りする感覚。
召喚体に初めて意志を通したその日、五人の次の一歩もまた、ゆっくりと動き出していた。
ワォーン!




