第五話 篠宮純香と変わらない場所
2026.03.11
篠宮純香は、たぶん、昔からあまり変わらない。
黒髪がきれいで、真面目で、少し口うるさくて、でも最後にはちゃんと手を貸してくれる。僕と雅が思いつきで変なことを言い出せば、呆れながらついてきて、危なそうなら止めて、どうしようもなければ現実的な形に整える。
気づけばいつも、同じ場所にいた。
だから、変わらない。
……そう思っていた。
◇
その日の魔法学基礎は、前回の石の錬成と簡易結界の共通点を整理する班課題だった。
実習というより考察寄りの回で、各班ごとに「安定した成立条件とは何か」をまとめて、最後に簡単な口頭発表をするらしい。
御影先生は黒板に必要事項だけを書いて、あとは「手順と結果を分けて考えろ」とだけ言った。いかにもあの先生らしい投げ方だ。
班分けはいつもの四人だったけれど、彩葉は途中で手を挙げた。
「先生、すみません。今日、放課後ちょっと用事あって、まとめ途中までしかいられないです」
「家庭の事情なら仕方ない。途中まで参加しろ」
「はーい」
そう返しながらも、彩葉は手元のメモをすでにきれいに整理していた。相変わらず、抜かりがない。
「じゃあ、先に役割だけ決めよっか」
そう言ったのは純香だった。
班の中央にプリントを広げて、ペンを持つ。自然だった。誰かを押しのけるわけでもないのに、気づくと一番整った形に場を持っていっている。昔からそうだ。
「神代は出力と制御の観点」
「はいはい」
「橘さんは実習中の誤差と記録」
「了解でーす」
「鳴海は、理屈の整理」
「え」
顔を上げると、純香は当然みたいな顔をしていた。
「そこが一番得意でしょ、あなた」
「いや、まあ、うん」
「じゃ、決まり」
それだけだ。
でも、そこで少しだけ胸が詰まる。
理屈の整理。確かに嫌いじゃない。むしろ好きだ。だけど最近の僕は、それを「自分にできる範囲」に勝手に押し込めていた気がする。
実際に上手くやれるのは雅で、堅実にまとめるのは純香で、彩葉は器用に隙を埋める。自分は考えるだけ――そんなふうに、どこかで決めてしまっていた。
「鳴海、ここどう思う?」
彩葉が記録欄を指さす。
「あ、えっと……石の錬成も結界も、結局は成立の核がぶれると崩れるってことだから、その、“何を中心に固定してるか”が大事なんじゃないかな」
「あ、いいじゃん」
と彩葉。
「だな」
雅が軽く頷く。
その頷き方が、妙に引っかかった。
僕の答えは間違っていない。たぶん。なのに、自分から言ったというより、求められて出しただけの言葉みたいに感じた。
前なら、もっと先に何か言っていた気がする。
思いついたことをそのまま口にして、雅に「それ面白いじゃん」と乗られて、純香に「ちゃんと形にしてから言いなさい」と怒られる。そういう流れが、昔の僕らにはあった。
でも今の僕は、先に二人の出方を見てからしか喋っていない。
それに気づいた瞬間、少しだけ嫌な汗が出た。
「新、どうした?」
雅が覗き込んでくる。
「いや、別に」
「顔、止まってるけど」
「考えてるだけ」
「それ、考えすぎてる顔では?」
「うるさい」
そう返すと、雅は笑った。
純香はそのやり取りを見ていたけれど、何も言わなかった。何も言わないまま、記録用紙の空欄を埋めていく。
彩葉は時間になると、丁寧にまとめたメモを置いて立ち上がった。
「ごめん、あとはお願いしていい?」
「うん、任せて」
「了解」
「明日見せてね」
「もちろん」
そう言って手を振って出ていく。明るい背中だった。
教室に残ったのは、僕と雅と純香の三人だけだった。
なんだか久しぶりだな、と思った。
この三人だけで何かをやるのが。
◇
放課後、発表用のまとめを終えたころには、教室の人もだいぶ減っていた。
雅がプリントをひらひら振る。
「よし、終わり。思ったより真面目にやった」
「あなたが言うと不安になる言い方ね」
「え、褒め言葉じゃないの?」
「違うわ」
そんな二人のやり取りを聞きながら、僕は自分のノートを閉じた。
まとめはきれいにできている。内容も悪くない。たぶん、発表も問題ないだろう。
それなのに、胸の奥は少しも晴れなかった。
「鳴海」
名前を呼ばれて顔を上げると、純香が鞄を持ったままこちらを見ていた。
「このあと、少し寄っていかない?」
「え」
「公園」
一瞬だけ間が空く。
雅が先に口を開いた。
「じゃあ俺、先生にこれ提出してから行くわ」
「うん」
「先行ってて」
あっさりそう言って、雅は発表用紙を持って教室を出ていった。
残ったのは、僕と純香だけだった。
◇
丘の上の公園は、相変わらずそこにあった。
ブランコと滑り台とベンチだけの、昔から何も変わらない場所。春の風が少しだけ冷たくて、夕方の光が遊具の影を長く伸ばしている。
純香はベンチの前で立ち止まり、すぐには座らなかった。
「ねえ、鳴海」
その声だけで、何となく分かった。
これはたぶん、軽い話じゃない。
「最近、少し変よ」
やっぱり、と思った。
「……何が」
「あなた」
言い切る。
昔から、こういうときの純香は容赦がない。
「別に普通だけど」
「普通じゃないから言ってるの」
言葉が詰まる。
純香は僕から目を逸らさないまま、静かに続けた。
「最近のあなた、ずっと雅を見てる」
「見てるって」
「見上げてる、の方が正しいかしら」
その一言が、思ったより深く刺さった。
すぐには返せなかった。
図星だったからだ。
「……そんなこと」
「あるわよ」
純香は小さく息をついた。
「昔のあなたは、もっと先に手を出してた」
「え」
「できるかどうかより、面白いかどうかで動いてた。雅がどう思うかなんて、そのあとだった」
風が吹く。
ブランコの鎖が、かすかに鳴った。
昔のことを思い出す。小さいころ、この公園で三人で遊んでいたときのこと。誰が言い出すでもなく、変な遊びが始まって、だいたい最初に変なことを口にするのは僕だった。雅は面白がって乗って、純香が危なくない範囲に修正する。
そういう役割だった。
たぶん、ずっと。
「今のあなたは違う」
純香の声が、思ったよりやわらかかった。
「先に雅を見る。雅がどうするか見てから、自分の位置を決めてる」
「……それは」
違う、と言いかけて、言えなかった。
違わないからだ。
雅がすごいのは今さらだ。魔法も、勉強も、人当たりも、何でもそれなり以上にこなす。最近ではその裏で努力までしていることを知ってしまった。
朝の公園の、あの姿。
見なければよかったとは思わない。思わないけれど、見てしまってからの僕は、どこかで余計に動けなくなっていた。
「雅は努力してる」
気づけば、口に出していた。
純香は驚かなかった。
「知ってるわ」
「……知ってるのか」
「ええ」
さらりと言う。
「前から知ってる。朝に公園へ行くことがあるのも、授業の前に同じ手順を何度も確認してることがあるのも」
胸の奥が、さらに重たくなる。
「じゃあ、純香も」
「知ってる」
あっさりと、言う。
「だから私もやってるの」
そう言って、純香は鞄から一冊のノートを取り出した。
見覚えのある、紺色の表紙。けれど中を開いた瞬間、僕は言葉を失った。
細かい字で埋まったページ。授業の板書だけじゃない。失敗した術式の原因、再試行の記録、出力の差、崩壊した条件、成功したときの共通点。色分けされた付箋まで貼ってある。
きれいだった。
でも、それ以上に、途方もなく積み上がっていた。
「私、天才じゃないもの」
純香が言う。
いつもの静かな声で。
「雅みたいに感覚でできるわけじゃないし、あなたみたいに急に変な発想が飛ぶわけでもない。だから、置いていかれないように積むしかないの」
その言葉に、胸の奥がきつく締まった。
雅は努力していた。
純香も努力していた。
じゃあ僕は何をしていたんだろう。
好きだ、面白い、知りたい――そんな言葉だけを抱えて、立ち止まっていただけなんじゃないか。
「……じゃあ、僕だけか」
思わずこぼれた声は、自分でも嫌になるくらい弱かった。
「そうやって縮こまってるの、あなたくらいね」
純香はきっぱり言った。
痛い。
でも、だからこそ目が逸らせなかった。
「雅がすごいのも、私が積んでるのも、今さらでしょ」
「……」
「それであなたが縮こまる理由にはならないわ」
公園の風景は何も変わらない。昔と同じベンチ、同じ遊具、同じ夕方の匂い。
なのに、僕だけが少し違う場所に立っているみたいだった。
「あなた、自分の良さを勘違いしてる」
純香が言う。
「良さって」
「完成度じゃないってこと」
その一言に、思わず顔を上げた。
「雅は形にするのがうまい。私は崩れないように積むのが得意。――でも、最初に変なところへ手を伸ばすのは、だいたいあなただった」
変なところへ。
なんだその言い方、と思うのに、否定できない。
「昔、ここで魔法ごっこしてたときもそうだったでしょ。雅が何かする前に、あなたが『こうしたら変じゃない?』って言い出してた」
「……よく覚えてるな」
「覚えてるわよ。いつも巻き込まれてたもの」
呆れたように言う。
でも、その口元は少しだけやわらかかった。
「雅の隣は、見上げる場所じゃないわ」
「……」
「立つ場所でしょう」
その言葉が、胸のどこか深いところに落ちた。
見上げる場所じゃない。
立つ場所。
そんなふうに考えたこと、最近はなかった気がする。
いつからだろう。
雅を親友としてじゃなく、才能の象徴みたいに見始めたのは。
純香はノートを閉じて、鞄に戻した。
「私は、二人に置いていかれたくない」
ぽつりと、でもはっきり言う。
「あなただって、時々急に遠くへ行くから」
「僕が?」
「そうよ。自覚ないのが厄介だけど」
思わず苦笑しそうになる。
純香はたぶん、本気で言っている。
「だから私は、ちゃんと積む。雅が努力してるのも知ってるし、自分がそうしないと並んで立てないって分かってるから」
そこまで言ってから、純香は少しだけ目を細めた。
「でも私は、見上げるつもりはないわ」
強い言葉だった。
静かなのに、まっすぐで、少しも揺れない。
その強さが、眩しかった。
そして少しだけ、悔しかった。
自分だけが勝手に立ち位置を下げていたみたいで。
「……最近、ちょっと変だった。そうか…」
ようやく、そう言えた。
純香はすぐには頷かなかった。少しだけ僕を見て、それから小さく息を吐く。
「ええ。少しだけね」
「少しだけで済む?」
「今ならまだ」
その言い方に、少しだけ救われる。
今ならまだ。
戻れるってことだ。
昔みたいに、無邪気には戻れないかもしれない。でも、見上げるだけの場所から少し動くことは、まだできるのかもしれない。
「遅くなってごめーん」
間延びした声が聞こえて振り向くと、雅が坂を上ってきていた。片手にはコンビニの袋。相変わらず場違いなくらい軽い。
「先生、話長くてさ」
「それ、あなたが余計なこと言ったんじゃないの」
「言ってない言ってない。ちょっと質問しただけ」
「余計なことね」
「ひどいなあ」
純香が即座に返し、雅が笑う。
そのやり取りを見ているうちに、不思議と胸の奥の重さが少しだけ軽くなった。
変わらない場所だ、と思った。
この公園も、三人の空気も。
変わっていないんじゃない。変わらないままでいるために、ちゃんと立ち続けていたんだ。
雅も。
純香も。
たぶん僕も、本当はそうしたかった。
「何、二人してそんな顔して」
「別に」
「何も」
「絶対なんかあったじゃん」
雅が不満そうに言う。
昔なら僕は、そこでたぶんすぐ余計なことを言っていた。
今の僕も、言っていいのかもしれない。
そう思って、気づけば口が動いていた。
「なあ、雅」
「ん?」
「石の錬成って、核の成立が大事なんだろ」
「まあ、そうだね」
「じゃあさ」
自分でも、少しだけ笑いそうになる。
ああ、これだ。
思いついたら先に口にして、あとから困るやつ。
「結界面を一回、外殻じゃなくて核の補助に使えないかな」
雅が目を瞬かせる。
純香も、少しだけ目を見開いた。
「……何それ」
「まだちゃんと形になってないけど。外から保つんじゃなくて、成立の中心のほうに薄く噛ませたら、圧縮のぶれを抑えられないかなって」
「また変なこと言い出したわね」
「でも面白い」
雅がすぐに言った。
その目が少しだけ光る。
「それ、やってみようよ」
「……怒られても知らないからね」
「純香がいれば死なないでしょ」
「その前提が雑すぎるのよ」
いつものやり取りに、思わず笑いが漏れた。
変わらない場所に戻ってきたんじゃない。
僕が、そこへの立ち方を少し忘れかけていただけだった。
雅の隣は、見上げる場所じゃない。
たぶん、昔からずっとそうだったのだ。
鳴海新と幼馴染:篠宮純香との関係




