第四十七話 棄権
歓声は、あまりにも大きかった。
そしてその代償も。
世界大会二回戦。
技術大国ドイツ代表を相手に、日本代表は逆転勝利をもぎ取った。
精密な動きと攻撃で日本チームを追い詰めたドイツチーム。
覚醒した彩葉によって尋常ならぬ動きを見せた日本チームのゴーレム。
映画さながらの動きで決着したその様子に、観客席は総立ちだった。
実況は喉が潰れそうな勢いで叫び続け、場内の熱気はさっきまでとは比べものにならないほど膨れ上がっていた。
けれど、その熱狂の中心にいたはずの彩葉の身体だけが、そこから一歩遅れて落ちていた。
「はぁっ、はぁっ……勝ったっ!」
そう言った声は、たしかに自分のものだった。
嬉しかった。
ほんとうに、勝てたと思った。
五人の動きが、あの瞬間だけは確かに一つになっていた。
でも、その直後。
「あ、あれ……?」
操作卓の輪郭が、急に遠くなった。
視界がぶれる。
音が、少し遅れて聞こえる。
手の感覚が薄い。
指先が、自分のものじゃないみたいだった。
「橘さん?」
九条の声がした。
「ちょ、彩葉ちゃん!?」
律の声もした。
そこで、膝の力が抜けた。
ぐらりと傾く。
机にぶつかる前に、何かが肩を支えた。
「スタッフさん、担架を早く、急いで! 救急室へ連絡を!」
鋭い声だった。
「御堂……くんの声……?」
いつもの嫌味も、余計な一言もなかった。
片腕で彩葉の身体を支えたまま、空いた手で近くのスタッフへ短く指示を飛ばす。
その動きに迷いはない。
「全く……何をしているんですか!」
吐き捨てるような言い方だった。
でも、その手はしっかりしていた。
「彩葉ちゃん! しっかりしぃや!」
律が身を乗り出す。
いつもの勢いのある声だったが、そこにははっきりと焦りが混じっていた。
「脈はありますわ」
九条がすぐ横にしゃがみ込む。
「呼吸もあります。ですが浅いです」
「担架、こっち!」
スタッフが駆け寄る。
「頭を下げないで」
御堂が言う。
「頸部はそのまま。急いで」
彩葉はもう、自分がどう運ばれているのかよく分からなかった。
ただ、遠くでまだ実況が叫んでいて、会場がまだ勝利を祝っていることだけは、ぼんやりと伝わってきた。
「やっぱり負荷が大きすぎたか……」
天海の声がした。
その言葉だけが、妙に静かに耳へ残った。
「橘さん、しっかりするんだよ」
「彩葉ちゃん! 返事せぇや!」
「私が付き添います」
九条が言う。
「御堂さんも来てください。今の経緯を説明できるのは、あなたが一番正確でしょう」
「当然行きます」
御堂は即答した。
「ウチも行く!」
律が言う。
「だめです」
九条がぴしゃりと返す。
「あなたは今、感情が先に出すぎています」
「そんなん言うてる場合ちゃうやろ!」
「だからです」
九条は一歩も引かなかった。
「ここは私たちに任せてください」
「……っ」
律は何か言い返しかけたが、最後まで言えなかった。
担架が動き出す。
救急室へ向かって運ばれていく彩葉の横で、九条と御堂が付き添う。
その後ろ姿を、律はただ睨むように見送るしかなかった。
◇
救急室の前の廊下は、妙に静かだった。
さっきまであれほど大きかった歓声が、遠い別世界のものみたいに薄く聞こえる。
白い壁、白い照明、閉ざされた扉。
試合会場の熱とは真逆の、冷えた空気だけがそこにあった。
処置が終わるまで、代表チームの四人は長椅子に座って待つことになった。
誰も、すぐには喋らなかった。
最初に口を開いたのは御堂だった。
「さっき”やっぱり“って言ったね」
低い声だった。
御堂だった。
「天海くん、何か知ってたね」
「今それ言うか?」
律が顔を上げる。
声には怒りがあった。
「倒れたばっかやぞ」
「倒れたばかりだから言ってるんだけど」
御堂は視線を上げなかった。
「あれだけ異常な動きをして、反動が無いわけなかったんだ」
「ほな何や。彩葉ちゃんが悪い言いたいんか!?」
「言ってないよ」
「言うてるようなもんやろ!」
しばらく誰も何も言わなかった。
だが結局、その沈黙を破ったのは天海だった。
「……負荷が大きすぎたんだ」
ぽつりと落とされたその一言で、廊下の空気がわずかに変わった。
律がゆっくりそちらを見る。
御堂も眼鏡の奥の目だけを動かした。
「分かってたんか」
律が言う。
「ある程度は」
天海は答えた。
「位相接続に入った時点で、普通の同期とは全然違う深さだったから」
「じゃあ何で止めへんかったんや」
律の声は、怒鳴るというより押し殺した音だった。
「勝てると思ったからか」
天海は少しだけ黙った。
「……そうかも知れない」
「っ!!……」
「八乙女さん」
今度は御堂が言った。
「今そこを掘っても意味はない」
「あるわ」
律が即座に返す。
「彩葉ちゃんは倒れたんやぞ!」
「分かってるよ」
御堂の声も、少しだけ硬かった。
「でも今は、処置の結果を待つしかない」
「……」
「今ここで怒鳴ったところで、橘さんの状態は変わらない」
律は拳を握りしめた。
言い返したかったのだろう。
でも、返せなかった。
事実だったからだ。
天海は壁にもたれたまま、珍しく笑っていなかった。
御堂は腕を組んで前を見ている。
律は俯いたまま、床を睨んでいる。
九条がここにいないことが、逆にその場の不安定さを際立たせていた。
◇
しばらくして、救急室の扉が開いた。
白衣の医師が出てくる。
「日本代表の方ですね」
「はい」
天海が最初に立ち上がった。
「橘さんの状態は?」
「命に別状はありません」
まず、その一言で三人の肩から少しだけ力が抜けた。
だが、医師は続けた。
「ただし、極度の精神負荷と魔力処理負荷による急性疲弊状態です」
「……」
「本人の体質もあるでしょうが、かなり深い同期が起きていたようですね」
医師は手元の記録を見ながら言う。
「しばらくの安静が必要です」
「しばらく、とは?」
御堂が聞いた。
「少なくとも、大会期間中の競技継続は認められません」
「え」
律が顔を上げる。
「それって……」
医師ははっきりと言った。
「ドクターストップです」
その言葉は、驚くほど静かに落ちた。
「世界大会の競技参加は、これ以上続けられません」
「……」
「……」
「代表メンバーの交代規定上、この場合は日本代表の継続出場は不可です」
医師は続ける。
「したがって、日本代表はここで棄権となります」
棄権。
たった二文字なのに、それは二回戦の勝利よりも重かった。
「……棄権……?」
律が絞り出すみたいに言った。
「そうなります」
医師は答える。
「選手の安全が最優先ですから」
九条がいれば、きっとそこで何かを言ったかも知れない。
でも今ここにいる三人は、誰もすぐには言葉を持てなかった。
勝ったのに。
続けられない。
その事実だけが、遅れて全身へ落ちてくる。
◇
医師が去ったあともしばらく、誰も動けなかった。
廊下の向こうでは、まだ別の試合の準備音がしている。
大会は、どこまでも止まらない。
誰かの事情で待ってくれることなんてない。
「……最悪やな」
最初にそう言ったのは律だった。
ぽつり、というより、喉の奥から無理やり出したみたいな声だった。
「勝ったのに、終わりとか」
御堂は黙ったまま、眼鏡を押し上げた。
天海は壁にもたれたまま目を閉じる。
「最高の手応えで、最悪の終わり方だね」
その言い方は静かだった。
軽くはなかった。
でも、その静けさが逆に痛かった。
「……次があるなら」
御堂が言った。
二人がそちらを見る。
「もっとマシな形で勝つよ」
御堂は前を見たまま言った。
「今回みたいに、誰か一人に無茶を押しつける形じゃなく」
「それ、反省しとるん?」
律が聞く。
「事実の整理だよ」
「それを反省って言うんや」
「そうですか」
いつも通りの返しだった。
でも、そこにいつもの棘は少しだけ足りなかった。
天海が小さく息を吐く。
「届いたのは本当だよ」
誰に向けたのでもないみたいに言う。
「少なくとも、あの瞬間だけは」
「……」
「世界に、ちゃんと届いた」
律は何も答えなかった。
御堂も、もう言い返さなかった。
届いた。
それは本当だった。
ドイツを相手に、日本代表は確かに噛み合った。
一瞬だけでも、五本の線は一本になった。
それが幻じゃないことだけは、誰にも否定できない。
だからこそ、終わり方が痛かった。
負けて終わったのなら、まだ分かりやすかった。
でもこれは違う。
勝ったのに、続けられない。
最高の手応えと、最悪の終わり方。
廊下の窓の向こうで、夕方の光が少しずつ落ちていく。
その静かな色の変化を見ながら、律は拳を握りしめ、天海は黙って立ち尽くし、御堂は閉じた救急室の扉からしばらく目を離さなかった。
世界大会二回戦。
日本代表、勝利。
だが継続出場不可。
日本代表はここで棄権となる。
世界は、まだ遠い。
それでも確かに一度だけ、手は届いた。
彩葉がみんなを一つに束ねたのだ。
彩葉のリタイアによって棄権になった日本チームでした




