第四十五話 調律の兆し
一回戦に勝った夜、日本代表に祝勝会はなかった。
代わりにあったのは、整備棟の白い照明と、開かれたままの損傷報告書と、架台の上で沈黙している日本代表ゴーレムだった。
右腕部は肘の上から大きく破損し、外装は剥がれ、内部フレームがむき出しになっている。
一回戦の勝利を示す記録はもう大型表示盤から消えていたが、この壊れた右腕だけは、あの試合がどれだけ綱渡りだったかを今もはっきり物語っていた。
彩葉は少し離れた場所から、その右腕を見上げていた。
勝った。
たしかに勝った。
でも、あれは勝ちというより、相手の方が先に倒れただけだった。
「見れば見るほど無茶苦茶だね」
御堂が損傷図を見ながら言った。
「一回戦からこんな壊し方をする代表、あまり見たくなかったよ」
「勝ったんやからええやろ」
律が即座に言い返す。
「相手の脚へし折って勝ったんや。文句ないやろ」
「あるよ。大ありだよ」
御堂は紙面から視線も上げない。
「君が前しか見ずに突っ込んだから、右腕が死んだ」
「は?」
「それで駆動も補助も全部後手に回った。結果的に勝てたからよかったものの、あれで相手がもう少し詰めてきてたら終わってた」
「だから今さらそれ言うなっちゅうねん!」
「今さらじゃない。次があるから言ってるんだけど」
「二人とも」
九条が静かに言う。
「ここでまた同じことを繰り返す気ですの?」
「繰り返してへん! 今のはこいつが――」
「君が――」
「同時に喋らないでくださいませ」
九条の声が少しだけ強くなる。
「耳が痛くなりますわ」
二人がぴたりと止まる。
その沈黙の隙間を縫うように、天海が整備用モニターへ映された試合映像を見ていた。
何度も同じ場面を巻き戻している。
オーストラリア機の右フック。
日本機の左腕だけのガード。
そして、その少し前。
「……やっぱりそこだね」
天海が小さく言った。
彩葉はそちらを見る。
天海は画面を止めたまま、こちらへ顔を向けた。
「橘さん」
「え?」
「一回戦のあれ」
「どれ?」
「“次、右来る”って言ったとこ」
天海はさらりと言った。
「あれ、どうして分かったの?」
彩葉は少しだけ黙った。
どうして、と言われても困る。
自分でもよく分かっていない。
「……何か、来るって感じがした」
正直に答える。
「右だって、何となく」
「何となく、ね」
天海は少しだけ笑った。
「うん、いいね」
「いいの?」
「すごくいい」
「何がですの?」
九条が聞く。
「まだ分かんないかも」
天海はモニターを閉じた。
「でもたぶん、始まってる」
「何が」
御堂が眉を寄せる。
「内緒だよ」
「その言い方は腹が立つね」
「ごめんごめん」
全然悪びれずに天海が笑う。
「ただ、明日は少し練習の組み方を変えよう」
◇
その夜のミーティングは、全国大会までの夢見が丘の空気とはまるで違っていた。
夢見が丘では、新が形を出し、一ノ瀬が式にし、純香が安定させ、彩葉が流れを見て、雅が押し切る――そういう「自然に決まっていった役割」があった。
でもここには、それがない。
全員が強い。
全員が自分の正しさを持っている。
だからこそ、少しでも噛み合わないと全部がぶつかる。
「まず前提として」
御堂が言った。
もう机の上には機体構造図と可動域制限図が広げられている。
「一回戦と同じやり方は捨てよう。あれは再現性が低すぎる」
「捨てんでええやろ」
律が即座に言う。
「押し切れたんやから」
「押し切ってないよ」
御堂が返す。
「君の感覚が当たった部分もあるけど、最後は天海くんの修正が間に合っただけだ」
「何や、その言い方」
「事実だけど」
「いちいち癇に障るなあ!」
「癇に障る前にちゃんと聞いてくれるかな?」
「はぁ!?」
「はい、そこまで」
九条が二人の間に書類を一枚差し込む。
「喧嘩は後にしてくださいませ。まず共有事項を整理します」
「……九条さんがいなかったら、もう一回戦で分解してたかもね」
天海が笑う。
「分解するのは相手だけで結構です」
九条がぴしゃりと言った。
彩葉はそのやり取りを聞きながら、少しだけ俯いていた。
やっぱり、自分だけが遅れている気がする。
律は前に出られる。
御堂は正確に組める。
九条は支えられる。
天海は全部見えている。
でも自分は、まだ「何となく」でしか動けていない。
たまたま来る方向が分かっただけ。
たまたま言葉が間に合っただけ。
それがなかったら、自分はまだ一回戦でも役に立てていたかどうか怪しい。
「橘さん」
声をかけられて、顔を上げる。
天海だった。
「今、ちょっと自分だけ遅れてるなって顔してた」
「え」
「分かりやすいよ」
「そんな顔してた?」
「してた」
天海は笑った。
「でも、それでいい」
「よくないよ」
彩葉は思わず言った。
「私だけ全然ついていけてない」
「そう?」
「そうだよ」
彩葉は言葉を探しながら続ける。
「律っちゃんはすぐ出られるし、御堂くんは最初から分かってるし、九条さんはずっと支えられるし、天海さんは全部見えてるし」
「うん」
「でも私、まだ何が起きてるのか半分も分かってない」
「半分も分かってない人は、あのタイミングで“次、右来る”なんて言えないよ」
天海は軽い口調のまま言った。
「自信がないのはいい。でも、なかったことにはしないでね」
「……」
「君の中で、たぶん何かが始まってる」
その言い方は、なぜか妙に断定的だった。
「だから、そこを明日は見てみよう」
◇
翌日の午前練習は、一回戦までとはまるで違う組み方になった。
殴る、蹴る、受ける、という一連の流れを丸ごとやるのではなく、まずは「一つの動きに一つの集中」を徹底する。
肩を引く。
膝を曲げる。
拳を戻す。
視線を移す。
その一つひとつを、五人で丁寧に繋いでいく。
「御堂くん、駆動は大きくしないで。まずは短く」
「了解」
「九条さん、膝の戻りだけ見て」
「ええ」
「律さんはまだ打たない」
「まだぁ!?」
「まだ」
「つまらん」
「橘さん」
「うん」
「全部取ろうとしなくていいよ。今は、次に一番最初に動く場所だけ」
「最初に動く場所……」
「そう」
天海が笑う。
「そこだけ見て」
彩葉は深く息を吸った。
最初に動く場所だけ。
肩か。
足か。
腰か。
それとも視線か。
何度も何度も練習用の模擬機が動く。
単純なパンチ。
単純な踏み込み。
単純な回避。
最初は何も分からなかった。
でも、何本目かの練習で、ほんの一瞬だけ、違和感が先に来た。
「……来る」
小さく呟く。
その直後、模擬機の左肩が前へ沈んだ。
「今の」
天海がすぐ言った。
「何が見えた?」
「見えたっていうか……肩、かな」
「肩?」
「ううん、肩っていうより、その前の何か」
彩葉はうまく言葉にできない。
「でも、来るって思った」
「肩が落ちる前に?」
「……うん」
「へえ」
天海が少し楽しそうに目を細める。
「何かあったんか?」
律が聞く。
「橘さんがまた“来る”って感じたみたい」
九条が答える。
「何それ、ええやん」
「良くないよ」
御堂が冷静に言った。
「感覚だけじゃ再現性がない」
「クソメガネ、そこは素直に褒めてもええやろ」
「貶してるんじゃない。まだ危ういって言ってる」
「言い方なァ!」
「でも」
九条が御堂を見る。
「危ういという点では同意ですわ。まだ本人が何を掴んでいるのか理解していない」
「だからこそ、見た方がいいんだよ」
天海がさらりと言った。
「今のうちに」
「……またそうやって」
九条の声が少しだけ低くなる。
「人を先へ進ませることばかり考えるのね」
「進めるなら進んだ方がいいでしょ」
天海は悪びれずに答えた。
「見えてるものを押し込める方がもったいない」
「でも、手順というものがあります」
「あるかもね」
「それを飛ばしていいとは限らないでしょう」
「そうだね」
天海は頷いた。
「でも飛ばさないと見えないものもあると思う」
彩葉は、二人のやり取りを聞きながら少しだけ息を詰めた。
九条の言っていることも分かる。
天海の言っていることも、何となく分かる。
でも、どちらも今の自分には少し遠い。
◇
昼休憩の少し前、律の端末が震えた。
「あ」
律の顔が一気に変わる。
「……どうしたの?」
彩葉が聞く。
「いや別に!?」
律が慌てて端末を隠す。
だが、隠し方が雑すぎて画面がほぼ見えていた。
『一回戦、見たよ。大活躍だったね。無茶はしすぎないで。――一ノ瀬』
「わぁ」
彩葉が言う。
「一ノ瀬くんからだ」
「うるさいうるさい! 見るなや!」
律が顔を真っ赤にする。
「見えたのよ、今のは」
「偶然や!」
「偶然ってそんな便利な言葉ある?」
「あるんや!」
「……八乙女さんって本当に単純だね」
御堂が呆れたように言う。
「何やクソメガネ! 今は関係ないやろ!」
「関係なくないよ。浮ついたまま二回戦に入られると困る」
「浮ついてへん!」
「浮ついてますわね」
九条が言う。
「かなり」
「九条さんまでぇ!?」
「でも」
天海が笑った。
「嬉しいのはいいことじゃない?」
「天海までそっちつくんか!」
「だって分かりやすいし」
律が机に突っ伏す。
「うわぁぁん……」
その様子を見て、彩葉は思わず笑ってしまった。
強い。
怖い。
噛み合わない。
それでも、こういう小さな瞬間だけは、少しだけチームっぽく見えた。
◇
午後の最後、天海は練習内容を実戦形式へ戻した。
「じゃあ、最後に一回だけ通してみよう」
天海が言う。
「二回戦を想定して、もっと噛み合った相手が来る前提でね」
「嫌な前提やな」
律が言う。
「世界なんだから当たり前だよ」
御堂が返す。
「むしろ一回戦の相手が分かりやすかっただけだ」
「はいはい、分かっとるわ」
「橘さん」
天海が言う。
「見えなくてもいい。言い切れなくてもいい。でも、感じたら声に出して」
「……うん」
「御堂くん、合わせられる?」
「最低限なら」
「九条さん」
「もちろん」
「律さん」
「ぶち抜けばええんやろ」
「そういう感じ」
模擬戦が始まる。
今度の練習相手は、一回戦よりもずっと細かく揺さぶってきた。
正面からの圧力だけじゃない。
引いて、誘って、ずらしてくる。
その分だけ、日本のゴーレムは迷う。
「右――ううん」
彩葉が思わず口をつぐむ。
違う。
右じゃない。
そのさらに次。
何かが、半歩先でずれる。
「……左、来る!」
声が出た。
次の瞬間、模擬機の左回し蹴りが飛んでくる。
「ガード!」
天海。
「取る」
御堂。
「膝補助」
九条。
「返すで!」
律。
日本機の動きが、今までよりほんの少しだけ滑らかに繋がった。
受ける。
流す。
押し返す。
たった一連。
たった一度だけ。
でも、間違いなく今までより噛み合っていた。
「……今の」
彩葉が呟く。
「うん」
天海が静かに頷く。
「やっぱり始まってる」
彩葉は自分の胸に手を当てた。
鼓動が速い。
でも、一回戦の時とは少し違う。
怖いだけじゃない。
ほんの少しだけ、分かりかけている何かがある。
◇
夕方。
二回戦の対戦相手が正式に発表された。
技術大国、ドイツ代表。
資料が配られる。
映像が流れる。
一回戦のオーストラリア代表とは違う、整った連携。
派手さはない。だが、五人の判断と動きが歯車のように恐ろしく噛み合っている。
「……嫌な相手やな」
律が珍しく少し真顔で言った。
「うん」
天海が言う。
「一回戦より、ずっと嫌だね」
「同意見ですわ」
九条がため息をつく。
「真正面に強い相手より、噛み合ってる相手の方が厄介ですもの」
「その通りだね」
御堂も資料を見たまま言った。
「今の僕たちが一番やりにくい相手だ」
「今の僕たちって」
彩葉が聞く。
「どういう意味?」
「バラバラのまま無理やり立ってるってこと」
御堂は淡々と答える。
「それでも一回戦は何とかなった。でも次は、たぶんそれじゃ足りない」
「……」
「だから」
天海が五人を見回した。
「明日、ちゃんと噛み合わせよう」
その言葉に、誰もすぐには答えなかった。
できるのか。
間に合うのか。
まだ一つになれていないのに。
でも同時に、その場にいた全員が分かっていた。
ここで噛み合わなければ、次は勝てない。
日本代表。
選りすぐりの曲者たち。
強い。
でもまだ、一つじゃない。
そのまま、二回戦へ向かうには、あまりにも危ういまま。
そして翌日。
一回戦よりずっと“噛み合った”強敵が、日本代表を待っていた。
彩葉、何が見えてるんでしょうか




