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第四話 神代雅の距離

2026.03.10

 神代雅は、近い。


 教室ではすぐ隣の席にいることもあるし、帰り道もだいたい一緒だし、小さい頃から同じ景色を見てきた時間だって長い。僕が何も言わなくてもだいたい察してくるし、逆にあいつが妙な顔をしていれば、僕のほうだってだいたい分かる。


 だから、近い。


 近いはずなのに。


 時々、ひどく遠い。


     ◇


 その日の昼休み、僕は購買で買ったパンを片手に渡り廊下を歩いていた。


 窓の外では、春の風が中庭の木を揺らしている。校舎の白い壁に反射した光がまぶしくて、目を細めながら曲がり角を曲がったとき、少し先に人だかりが見えた。


 別に珍しいことじゃない。昼休みなんて、どこもそれなりに人は集まる。


 でも、その中心にいた顔を見て、僕は何となく足を止めた。


 雅だった。


 相手は上級生らしい。二年か三年かは分からないけれど、制服の着方にも余裕があるし、持っている教材も僕たちのものとは少し違う。魔法学の応用演習で使うらしい厚いファイルを抱えている。


「神代、昨日の基礎演習の記録見たけど、あれ一年の出力じゃないよな」

「いや、別に普通っすよ」

「普通なわけあるか」


 笑い声が起きる。


 雅はいつも通り、軽い顔で笑っていた。


「今度の選抜実習、推薦出るかもって話、先生たちの間で出てるらしいぞ」

「え、マジですか」

「マジ。御影先生も名前出してたし」

「へえ」


 へえ、じゃないだろう。


 僕は思わず心の中で突っ込んだ。


 選抜実習。名前だけは知っている。成績優秀者や、特に適性が高い生徒が選ばれて参加できる補修枠みたいなもので、通常授業より少し先の内容に触れられるらしい。まだ一年の、それも入学してすぐの段階で名前が出るなんて、普通じゃない。


 でも、雅ならあり得る。


 そう思ってしまうのが悔しかった。


「神代くんって、ほんと何でもできるよね」


 近くで見ていた女子が、羨ましそうに言った。


「顔もいいし、魔法もできるし、ずるくない?」


「ずるいはひどくない?」


 雅は笑って返す。


 その返し方まで、妙にうまい。


 鼻につかない。距離を詰めすぎない。なのにちゃんと場を和ませる。生まれつきなのか、そうじゃないのか、僕には分からない。


 分からないまま、ただ思う。


 やっぱり、あいつは特別なんだな、と。


「何見てるの?」


 後ろから声がして振り向くと、純香だった。


 手には紙パックの飲み物。僕の視線の先を追って、すぐに小さく息を吐く。


「ああ、雅」


「うん」


「また囲まれてるのね」


「なんか、選抜実習の話まで出てた」


 そう言うと、純香は少しだけ眉を上げた。


「早いわね」


「だよな」


「でも、あり得るとは思う」


 さらっと言う。


 言われなくても分かってる、と思った。


 分かってるから、少しだけ苦しい。


 純香はそんな僕の横顔を見て、何か言いかけたみたいだった。でも結局、何も言わなかった。


 それが少しだけありがたかった。


     ◇


 五限の魔法学基礎は、簡易的な結界面の形成だった。


 目に見えない薄膜を一点に安定させる初歩実習。石の錬成ほど派手ではないけれど、集中力と持続力がいる。御影先生は教壇の前でいつも通り淡々と手順を説明し、僕たちはそれぞれ指定位置についた。


 雅はやっぱり、軽々と成功させた。


 しかもただ作るだけじゃない。面の厚さを均一にして、先生に「もう少し出力を落とせ」と言われるまで安定させていた。純香も堅実に成功させる。彩葉は一度だけ薄膜を歪ませたけれど、すぐに修正して持ち直した。


 僕の結界面は、ぎりぎり保っている、くらいだった。


 できないわけじゃない。でも美しくない。安定も甘い。自分で見ていても、どこか頼りなかった。


「鳴海、焦るな。維持を急ぐから密度が落ちる」


 御影先生が言う。


「……はい」


 返事をしながら、視界の端に雅の結界面が入った。


 透明なはずのそれが、わずかに空気を歪ませている。ああいうふうに“存在している”と分かる結界を、僕はまだ作れない。


 近い場所にいるのに、見えている景色が違う。


 そんな言葉が、頭の中に沈んだまま残った。


     ◇


 その日の帰り、雅は珍しく途中で別れた。


「今日ちょっと用事あるから、先帰ってて」

「用事?」

「んー、まあちょっとね」


 それだけ言って、いつもみたいにへらっと笑う。


 詳しく聞こうと思えば聞けたのかもしれない。でも何となく、そのまま聞かずに見送った。


 純香と彩葉と三人で坂を下りながら、僕はぼんやりそのことを考えていた。


「神代、最近ちょっと忙しそうよね」


 純香が言う。


「そうだっけ」

「そうでしょ。朝も早いし」

「朝?」


 思わず聞き返すと、純香が少しだけ不思議そうな顔をした。


「知らないの? たまにかなり早く来てるみたいよ」

「……へえ」


 その一言だけが、妙に残った。


     ◇


 翌朝、僕はいつもよりだいぶ早く目が覚めた。


 目覚ましより先に起きたのなんて久しぶりだった。窓の外はまだ淡い色で、朝と呼ぶには少し早いくらいの時間だった。


 もう一度寝ようかとも思ったけれど、妙に冴えてしまっていて無理そうだった。どうせなら少し早めに出よう、と制服に着替えて家を出る。


 春の朝は、まだ少し冷たい。


 駅へ向かう道を歩きながら、ふと足が止まった。


 学校へ向かう最短ルートじゃなく、少し遠回りして丘の上の公園へ行く道が視界に入る。


 深い意味はなかった。たぶん、本当に。


 でも僕はそのまま、自然にそっちへ曲がっていた。


 朝の公園は静かだった。


 ブランコも滑り台も、昨日までの放課後とは別の顔をして見える。風がなくて、木の葉のこすれる音すらしない。朝の光がまだ柔らかくて、地面に落ちる影も薄い。


 そして、その公園の真ん中に、ひとり立っている姿があった。


 雅だった。


 思わず、足を止める。


 向こうはまだ僕に気づいていない。


 雅は制服の上着をベンチに置いて、シャツの袖を少しだけまくっていた。足元にはノートが一冊開かれていて、その横の地面には白い目印がいくつも置いてある。


 魔法の練習だと、すぐに分かった。


 でもそれは、僕が知っている雅の練習とは少し違って見えた。


 もっと、静かだった。


 派手な火花もない。雷もない。大きな音もない。あるのは、何度も繰り返される小さな錬成だけだった。


 雅の手のひらの上に、小さな石が生まれる。


 親指の先ほどの大きさ。昨日までなら、僕がようやく作れたのと同じくらいの小ささだ。


 雅はそれをじっと見て、次の瞬間には砕いた。


 さらさらと灰色の粒になって、風もないのに崩れ落ちる。


 また作る。


 また砕く。


 何度も、何度も。


 成功していないわけじゃない。むしろ全部、きちんと成立しているように見えた。なのに雅は、少しも満足していない顔で、それを繰り返していた。


 石の大きさを変える。形を変える。厚みを変える。わざと小さくして、圧縮の段階だけ何度もやり直す。途中で手元を止めて、ノートに何かを書き込む。


 近づかなくても分かるくらい、そのノートは書き込みだらけだった。


 僕は公園の入口の影に立ったまま、しばらく動けなかった。


 見たことがなかったからだ。


 雅が、こんな顔をしているのを。


 軽く笑っていない雅。誰かに見せるためじゃなく、ただ自分の納得のためだけに繰り返している雅。成功しているのに、なお首を振る雅。


 手元で生まれた小石を、またひとつ砕く。


 その断面を見て、雅はわずかに眉を寄せた。


 それから、ノートに何かを書いた。


 距離があって全部は見えない。


 でも、たまたま風でページが少しめくれたとき、ほんの一部だけ文字が読めた。


 核、再現せず。

 密度不足。

 まだ届かない。


 それだけだった。


 誰に、とは書いていない。何に、とも。


 でもなぜか、胸の奥がざわついた。


 雅は今、ただ上手くなろうとしているんじゃない。


 何かに、届こうとしている。


 それが何なのか、僕には分からない。


 分からないまま、ただ思う。


 あいつは、最初からああだったわけじゃないんだ。


 “できるやつ”としてそこに立っているんじゃなくて、あそこまで、自分で登っているんだ。


 そして登った先でなお、まだ足りない顔をしている。


 その事実が、妙に苦しかった。


 尊敬と、悔しさと、少しの安堵みたいなものが、変なふうに混ざり合って胸の奥に沈む。


 ずるい、と思った。


 あんなに持っているように見えるのに、見えないところでまで積み上げているなんて。


 僕が追いつけない理由を、またひとつ増やされた気がした。


 でも同時に、少しだけ救われてもいた。


 雅もまた、完成されたままそこに立っているわけじゃない。


 遠い場所にいるのに、立ち止まっているわけじゃない。


 そのことだけは、はっきり分かったからだ。


 雅がふと顔を上げる。


 気づかれた、と思った。


 でもその視線は僕のいる入口までは届かず、そのまま空の方へ逸れた。朝の薄い青を一瞬だけ見上げて、それからまた手元に視線を戻す。


 もう一度、錬成が始まる。


 小さな石。


 圧縮。


 静かな崩壊。


 繰り返し。


 僕はその場で少しだけ迷って、結局、何も言わずに踵を返した。


 声をかける気になれなかった。


 かけたところで、何を言えばいいのか分からなかったし、何より、あの場に入ってはいけない気がした。


 あれはたぶん、雅が誰にも見せたくない時間だった。


     ◇


 その日の教室で、雅はいつも通りだった。


「おはよ、新。今日ちょっと眠そうじゃん」

「……別に」

「え、機嫌悪い?」

「普通」

「普通が一番怪しいんだよなあ」


 へらへら笑う。


 その顔を見て、ほんの数時間前に公園で見た横顔が、同じ人間のものだとは思えなくなる。


 純香が「朝からうるさい」と言って、彩葉が「元気だねぇ」と笑う。教室の空気はいつも通り流れていく。


 でも僕の中だけが、少し違っていた。


 雅は遠かった。


 昨日までより、たぶんもっと。


 あいつがどれだけ持っていて、どれだけ見えない場所で積み上げているのか、少し知ってしまったからだ。


 それなのに、あいつはあっさり僕の隣に立つ。


 当たり前みたいな顔で。


 昼休み、窓際でぼんやり中庭を見ていたときだった。


「新はさ」


 隣に立った雅が、唐突に言った。


「自分で思ってるより面白いよ」


 あまりにもいつもの軽い調子で言うから、返事が遅れた。


「……何それ」

「そのまんま」

「意味分かんない」

「分かんなくていいよ、今は」


 そう言って、雅は笑う。


 本当に、何でもないことみたいに。


 こっちは何も知らなかった頃みたいに、その言葉を受け取れるほど単純じゃないのに。


 朝、公園で見たノートの文字が頭に残っていた。


 まだ届かない。


 それが何を指していたのか、僕には分からない。


 でも、あいつもどこかへ届こうとしている。そう思うと、今の一言すら簡単には受け取れなかった。


 面白い、なんて。


 そんなふうに言える場所まで、自分はまだ行けていない気がしたからだ。


     ◇


 その日の放課後、四人で帰る坂道を歩きながら、僕は何度も隣を見そうになって、そのたびにやめた。


 雅はいつも通りだった。


 彩葉の軽口に笑って、純香の突っ込みに返して、僕が黙っていても気にした様子はない。


 たぶん、朝の公園で僕に見られたことには気づいていない。


 それでよかったのかもしれない。


 もし気づかれていたら、たぶん僕はもっと変な顔をしていただろう。


 坂の途中で、ふと風が吹いた。


 春の終わりの匂いがした。


 その風の中で、僕は朝の光景をもう一度だけ思い出す。


 繰り返し、小さな石を作っては壊していた雅。


 あそこにいたのは、僕の知っている“何でもできる親友”じゃなかった。


 届かない何かへ、ひとりで手を伸ばしている人だった。


 同じ場所にいるのに、見えている景色は違う。


 そのことは、たぶんもう変わらない。


 でも。


 同じ場所に立とうとしていることだけは、分かった気がした。


 それが少しだけ苦くて、少しだけうれしいなんて、たぶん誰にも言えない。


 雅は遠い。


 けれど、遠い場所でただ笑っているわけじゃなかった。


 あいつもまた、自分の足でそこへ登っていた。


 その先でなお、まだ何かを追いかけている。


 そのことを知ってしまった朝から、僕の中の雅は、前より少しだけ遠くなって、前より少しだけ本物になった。


鳴海新と親友:神代雅との関係

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