第三十九話 流れるように、ボケてツッコめ!
聖桜女学院戦を終えたあとも、会場の熱はしばらく引かなかった。
表示盤にはたしかに「県立夢見が丘高校 勝利」と出ている。実況もあれだけ騒いでいた。けれど、理論上最大値を出し切った聖桜女学院を、ほんのわずかな箱差で上回った直後というのは、喜びより先に全身から力が抜ける。
「……何かまだ脚変」
彩葉が言った。
「分かる」
新も頷く。
「地面ちょっと揺れてる気がする」
「緊張が抜けただけよ」
純香が言う。
そう言いながら、自分の息もまだ完全には整えきれていない。
「でも次があるんだから、そこで座り込まないこと」
「はいはい」
雅が肩を回した。
「篠宮、今日も先生みたいだな」
「神代、あなたは見張ってないと勝手にどこかへ行くでしょ」
「そこまでじゃねえよ」
「そこまでなのよ」
「ひでえ」
一ノ瀬は少し離れたところで、次の対戦表を見ていた。
聖桜の選手たちが去っていくのを見送ってから、小さくこちらへ向く。
「次、四天高校」
短くそう言った。
その名前だけで、空気の質が少し変わる。
聖桜女学院が静かな理論なら、四天高校はもっと前へ出てくる熱と勢いの塊みたいな印象があった。東京国際展示場の広場でも、いちばん遠くからでも先に存在が分かったのは四天高校の一団だったくらいだ。
「西の強豪、だっけ」
新が言う。
「うん」
一ノ瀬が頷く。
「実戦型。召喚と出力で押してくることが多い」
「豪快って感じ?」
彩葉が聞く。
「たぶんね」
「いいじゃん」
雅が口元を上げる。
「そういうの嫌いじゃねえ」
「神代は全部嫌いじゃないでしょう」
純香が呆れたように言った。
そのときだった。
「おーい!! そこの県立ぅ!!」
やたら大きな声が飛んできた。
夢見が丘の五人がそろって振り向く。
でも、そこにそれらしい人影は見えない。
「……え?」
新が言う。
「今、声したよな」
「した」
彩葉もあたりを見回す。
「どこ?」
「ここや、ここ!」
さっきより近い。
「声だけ聞こえる!?」
雅が眉をひそめる。
「ここや言うとるやろ!アホ!」
さらに近い。
でもやっぱり見えない。
一瞬、全員が本気で首をひねったそのときだった。
「見下げてみぃや!!」
視線が一斉に下がる。
そこにいた。
「わぁ、おった!」
彩葉が素直に言った。
「新喜劇か!!」
小さい。
夢見が丘の面々の中でもいちばん低い彩葉より、まだ少し目線が下にあるかもしれない。
けれど、その小ささを打ち消すくらい声がでかい。動きも大きい。存在感もやたら強い。
その小柄な少女は、ふくれっつらのまま両手を腰に当てた。
「うわぁん!!」
少女が本気で叫んだ。
「誰が“見下げてごらん”のボケ役やねん!!」
「いや、今の流れはそうだろ」
雅が笑う。
「ちゃうわ!! そっちが見つけへんのが悪いんやろ!!」
「神代、あんたやめなさいよ」
純香がこめかみを押さえた。
「初対面で何やってるの」
「だってもう完成してるだろ」
「そういう問題じゃない」
小柄な少女は、涙目になりそうな勢いのまま、しかし胸を張る。
「うちは四天高校代表、八乙女律や! 覚えとき!!」
「八乙女」
一ノ瀬が小さく繰り返した。
「律って言ってたよね」
「何や、その確認みたいなん!」
律が言う。
「ちゃんと覚えとき!八乙女!律!」
そこへ、四天高校の一団から一人慌てて前へ出てきた。
サラサラヘアーの細い目をした男子だった。
背は高い。律の横に立つと余計に縦の差が際立つ。
口元には笑みを浮かべているのに、その笑みの奥が読みにくい。
「うちの大将が、えらいすんません」
にこやかに頭を下げる。
「ちっこいのに声だけでかいもんで」
「誰がちっこいねん!!副将!」
律が即座に噛みつく。
「そこは否定できへんやろ」
「できるわ!!」
「できてへんて」
そのやりとりが妙に自然で、夢見が丘側も少しだけ空気を抜かれた。
「副将ってことは」
新が聞く。
「四天の?」
「そうです」
細目の男子は柔らかく笑う。
「四天高校、副将の三宅です。よろしゅう」
「県立夢見が丘高校、鳴海です」
「知ってます」
三宅は笑ったまま言った。
「あの聖桜女学院に勝ったんやから、そら見てますて」
朗らかだ。
話しやすい。
でも、なんとなく…
彩葉が少しだけ身を乗り出した。
「四天ってみんなこういう感じなの?」
「こういう感じ、ちゅうと?」
三宅が目を細める。
「にぎやか?」
「誰がうるさいや!」
律が言う。
「言うてへん! でもまあ、だいたいこんなんですわ」
三宅はあっさり答えた。
「楽しい方がええですやん」
「ほんとか?」
雅が聞く。
「ほんまほんま」
三宅は笑う。
「まあ、でも…」
そこで、ほんの少しだけ声が落ちた。
「うちらほんま強いですから…」
細い目のまま、ふっと笑みが深くなる。
「覚悟しといてくださいね」
その一言だけが、急に温度を変えた。
新の背筋が、わずかに冷える。
さっきまでと同じ冗談まじりの空気のままなのに、その一瞬だけ本物の圧が混ざった。
「……う、うん」
新が返すと、
「よろしゅうに」
三宅は満足そうに頷く。
「ほな律さん、行きましょか」
「分かっとるわ!」
律は最後にもう一度、夢見が丘の五人を見回した。
「そっちのメガネ!」
一ノ瀬を指さす。
「何」
「何か気になる顔してるな」
「顔?」
「何やろな、腹立つくらい静かや」
律は首を傾げてから、すぐにまた胸を張る。
「まあええわ! 次、うちらが勝つから!!」
そう言い残して、二人は四天の集団へ戻っていった。
去っていく背中を見送りながら、彩葉が小さく息を吐く。
「……すごいね」
「うん」
新も頷いた。
「嵐みたい」
「でも」
一ノ瀬がぽつりと言う。
「八乙女律」
「何?」
新が聞くと、一ノ瀬は少しだけ目を細めた。
「確か、去年の魔法オリンピックの最年少日本代表だよ」
「……は?」
新が固まる。
「最年少?」
「日本代表?」
彩葉も目を丸くする。
「え、あの子が?」
「うん」
一ノ瀬は静かに頷いた。
「……」
夢見が丘の四人が、同時に四天の一団を見る。
あの小さくてやかましいのが。
新喜劇みたいな入りをしてきたあの子が。
「いや、怖」
雅が言った。
「急にめちゃくちゃ怖くなった」
「最初から怖いって言ってたでしょ」
純香が言う。
「でもこれはちょっと予想外ね」
◇
『全国大会二回戦、課題を発表します!』
大型表示盤に映った映像を見て、新は少しだけ眉をひそめた。
四角い大きな水槽。
その中心に立つ、細長いシリンダー。
課題文が表示される。
『水槽内の水を、中央シリンダーへ可能な限り多く移送せよ』
その下に細則。
『水槽およびシリンダーはアンチマジック処理済み。
容器本体への変形・移動・拡張は不可。
水への干渉は可。
制限時間終了時、シリンダー内水量の多い側を勝者とする』
「……なるほど」
新が言う。
「今度は流体か」
「箱の次に水」
彩葉が水槽を見上げる。
「急に性格変わったね」
「いや、全国大会らしいわ」
純香が言った。
「容器はいじれない。水だけで勝負する」
「四天向きだな」
雅が口元を上げる。
その言葉を証明するみたいに、四天高校の控え区画からは今も律の声が飛んでいた。
「せやから言うてるやろ! 吸うて、まとめて、絞る! それで仕舞いや!」
「大将、声で全部漏れてます」
三宅が呆れたように言う。
「漏れてへん! 堂々と言うてるだけや!」
「余計あかんやつや」
夢見が丘の五人は自然と円を作った。
「海綿で吸わせるつもりね」
純香が言う。
「うん」
一ノ瀬が頷く。
「大量召喚して、最後はまとめて圧搾する」
「ゴリ押しっぽいけど」
新が水槽を見ながら言う。
「かなり合理的だよな」
「そう」
純香も認める。
「速度は出るし、容器がアンチマジックでも関係ない」
「じゃあ、こっちは?」
彩葉が聞く。
新は少しだけ黙る。
水槽の上。
シリンダーの口。
その上空に、大きく広がる何か。
「……漏斗」
新が言った。
「何?」
雅が聞く。
「上に漏斗みたいな結界を作る」
新は自分の中に浮かんだ形を言葉にしていく。
「水槽の下の水を一回上へ引っ張って、そのまま中央シリンダーへ落とし込む」
「集めるんじゃなくて?」
彩葉が聞く。
「うん。集めるんじゃない。“落ちる形”を先に作る」
純香が新を見る。
「つまり、広く受けて、真ん中で絞る漏斗型ってことね」
「そう」
「イメージは分かる」
一ノ瀬が言った。
「でも、その“漏斗みたいに”をどう結界へ落とすかだ」
そこで新は詰まった。
形は見えている。
かなりはっきり見えている。
でも、それを式や術式にするところで手が止まる。
「……円錐じゃだめか?」
新が聞く。
「急すぎる」
一ノ瀬がすぐに首を振る。
「流れが暴れる。水は面に沿って落ちるから、勾配が滑らかに変わる方がいい」
「じゃあ、どうする」
「数式で取る」
一ノ瀬は近くのメモ用紙を引き寄せて、膝をついた。
ペン先が迷わず走る。
「シリンダーの縦の中心線を y 軸と取る」
静かな声だった。
「半径方向を r として、まず ry 平面で断面を考える。欲しいのは、下端でシリンダーの口径に合っていて、上に行くほど広がる、でも急には広がらない形」
さらさらと式を書く。
「半径を
r = ay^2 + b
で置く。ここで b は y=0 のときの半径、つまりシリンダー口の半径。a は広がり方を決める係数」
新はすでに少し怪しい顔になっている。
「……待って」
「もう分からない?」
彩葉が半分笑う。
一ノ瀬は構わず続ける。
「ry 平面では、これは (b,0) を頂点とする横開きの放物線になる。これをxyz座標系の空間に置き直して y 軸まわりに回転させると、それは半径 r の回転体になるから、
x^2 + z^2 = r^2
で表せる。ここに r=ay^2+b を代入して
x^2 + z^2 = (ay^2+b)^2
あとは上側だけ使うから条件は y>0とする」
さらに式を詰める。
「漏斗の高さを H、その位置で取りたい半径を R とするなら、
r(H)=aH^2+b=R
だから、
a=(R-b)/H^2
で決まる。つまり、シリンダー口径 b、漏斗の高さ H、上端半径 R が決まれば、漏斗の形は一意に決まる」
そこで初めて、一ノ瀬が顔を上げた。
新は黙っていた。
完全に置いていかれていた。
彩葉も「うわあ……」という顔でメモを見ている。
でも純香だけは違った。
目がちゃんと式の先を追っている。
「つまり」
純香が言う。
「シリンダー口径を底にして、高さ H の位置で半径 R を持つ回転放物面を作るのね。円錐より滑らかに絞れて、水が暴れにくい」
「うん」
一ノ瀬が頷く。
「上を広く取って、中央へ落とす」
「なるほど」
純香は短く息を吐いた。
「いける」
「いや、どこが“なるほど”なんだよ」
新がようやく言う。
「途中から何も分からなかったんだけど」
「でも最初の形は見えてたでしょ」
一ノ瀬が静かに言った。
「“漏斗みたいに”って」
「それは、うん」
「それが一番大事」
一ノ瀬はメモを見ながら続ける。
「形が見えてるなら、あとは式に落とせる」
「いや、その“あとは”が一番難しいんだが」
「今回は一ノ瀬くんがいるから大丈夫」
彩葉が言った。
「で、純香が分かるからもっと大丈夫」
「雑に信頼されてるわね」
純香が言う。
「でも間違ってないわ」
「俺は?」
雅が聞く。
「雅は支える役」
新が言った。
「漏斗型結界の維持と、下から上へ水を引く出力」
「了解」
「うちは?」
彩葉が聞く。
「流れを見る」
新が答える。
「どこに残るか、どこが偏るか、そこは彩葉が一番早い」
「うん」
彩葉が頷く。
「オッケー」
◇
試合前、四天高校は相変わらずやかましかった。
「海綿、何体行ける!?」
「三十や!」
「三十やと足らんやろ! 五十や五十!」
「そんな出したら圧搾間に合わん!」
「間に合わせぇ!!」
実況席の近くの観客が、もう半分笑っている。
夢見が丘も思わずそちらを見る。
だが、試合開始の合図が鳴った瞬間だった。
四天高校が、ぴたりと静かになった。
律も。
三宅も。
他のメンバーも。
さっきまであれだけ騒いでいたのに、一斉に目だけが水槽へ向く。
「……」
新は思わず息を止める。
「急に」
「見るモードに入った」
一ノ瀬が低く言う。
「怖いね」
その静けさの中で、先制したのは夢見が丘だった。
「展開するわよ」
純香の声。
シリンダー上空に、線が走る。
最初は輪郭だけ。
そこから、半透明の立体がゆっくりと起き上がる。
回転放物面。
新がイメージし、一ノ瀬が式にし、純香が実装した漏斗型結界が、東京国際展示場の高い天井の下に立ち上がる。
『夢見が丘高校、これは……巨大な漏斗型結界!!』
会場がざわめく。
「保つぞ」
雅が言い、魔力を流す。
結界の曲面が一気に安定する。
「左奥ちょっと残りやすい」
彩葉がすぐに言った。
「そこ浅い」
「分かった」
新が頷く。
「下部四点から上へ引く」
漏斗上部に、小さな水の召喚陣が展開される。
下にある水が、そこから喚び出される。
次の瞬間、水面が持ち上がった。
召喚陣から出た水が勢いよく漏斗型結界の上部へ流れ込み、そのなめらかな面に沿って中央へ集まり、シリンダーへ落ちていく。
『夢見が丘高校、集めていない! 吸ってもいない! 先に“落ちる形”を作り、そこへ水を供給している!!』
実況が叫ぶ。
流れは美しかった。
広く受けて、中央へ落ちる。
ただ水を移すのではない。
水が落ちたがる道を、先に空中へ作っている。
その様子を、四天高校は黙って見ていた。
律の目が、ぎらりと光る。
「……おもろいやん」
小さく呟いたその次の瞬間だった。
「ほな…」
「行くでぇ!!」
四天高校が一挙に動いた。
大量の海綿召喚体が水槽上へ出現する。
小さな海綿が、群れみたいに一斉に水へ飛び込み、根こそぎ吸い上げていく。
『四天高校、来たァ!! 大量の海綿召喚!!』
さっきまでの静けさが嘘みたいに、律の声がまた会場を揺らす。
「吸え吸え吸え!! 奥や! 端や! 残すな!!」
海綿はみるみる膨らむ。
それを四天のメンバーが次々と回収し、中央へ投げ込む。
そして。
中央に律が描いた巨大な魔法陣。
それが大きく盛り上がった。
会場の誰もが一瞬、何が起きたのか分からなかった。
床近くの空気が震え、巨大な質量が持ち上がる。
「……え?」
彩葉が声を漏らす。
「まさか」
一ノ瀬が言う。
巨大な腕が、ゆっくりと形を取る。
肩。胴。頭。
土色の、圧倒的な塊。
ゴーレム。
『何だこれはぁッ!!ゴ、ゴーレムーーーッ!?』
実況が裏返る。
『四天高校、ここで巨大召喚体投入!! 八乙女だ!魔法オリンピック日本代表の名は伊達ではない!!』
会場がどよめいた。
観客席だけではない。
夢見が丘も、実況も、スタッフ席すら一瞬で空気が変わる。
「でか……!」
新が思わず言う。
「うそでしょ!」
彩葉の目も丸くなる。
「本当に出した…」
純香が低く言った。
「海綿だけじゃなかったのね」
「締めるで!!」
律が叫ぶ。
ゴーレムの両腕が動いた。
集められた海綿をまとめて握り込み、一気に圧搾する。
大量の水が、一本の流れになってシリンダーへ叩き込まれた。
『すごい!! 四天高校、海綿で吸わせ、ゴーレムでまとめて圧搾!! 豪快だ! だが合理的だ!!』
夢見が丘の漏斗型結界は、静かに、正確に水を落とし続ける。
四天高校は、圧倒的な召喚量と作業速度で水を奪う。
やり方はまるで違う。
でも、シリンダーの水位はほとんど同じ速度で上がっていった。
「譲らないな」
新が言う。
「ええ」
純香が頷いた。
「むしろ向こう、想像以上に速い」
「律が全部回してる」
一ノ瀬が言う。
「海綿の配置、吸わせる順番、回収、圧搾。全部」
「うるさいのに頭も回るの、厄介すぎる」
彩葉が言った。
「うん」
新も本気で同意した。
◇
勝負が動いたのは、本当に最後の最後だった。
水槽の中の水は、両校ともほとんど残っていない。
夢見が丘は水膜のように薄くなった残りを漏斗へ引き上げている。
四天高校は最後の海綿群で残水を吸わせ、仕上げの圧搾に入る。
「左端、あと少し」
彩葉が言う。
「そこ取れれば行ける」
「分かった!」
新が召喚陣を補正する。
そのときだった。
四天側で、小さな水音がした。
ゴーレムの圧搾の途中、一つだけ海綿がこぼれ落ちたのだ。
水を吸い切った、最後の一個。
「あっ……!」
律の顔が変わる。
「みんなで勝つんや!!」
次の瞬間、小さな身体が一直線に飛び出していた。
落ちた海綿へ向かって、迷いなく。
濡れた床を滑るように。
「危ない!」
その声より先に動いていたのは、一ノ瀬だった。
普段は静かなその身体が、反射みたいに前へ出る。
「あッ!」
律が足を取られて倒れる瞬間、そのまま腕を回して抱き抱え、自分の体を下に潜り込ませてクッションにした。
衝撃で、一ノ瀬の眼鏡が外れる。
軽い音を立てて床へ落ちる。
時間が一瞬、止まった。
律が目を見開く。
至近距離で一ノ瀬を見つめたまま、完全に固まる。
「……え」
律が小さく言った。
「何それ」
一ノ瀬も少しだけ息を乱している。
「大丈夫?」
珍しく声が揺れていた。
律は答えない。
いや、答えられないみたいだった。
その目は、眼鏡のない一ノ瀬の顔から離れない。
静かなやつ。
さっきまで式だの座標だの言っていたやつ。
なのに今、自分が飛び込んだその先に、迷わず手を伸ばしてきたやつ。
「……」
律がもう一度言う。
「何なん、それ…」
「何なんっ、それぇっ」
その一瞬の間に、夢見が丘の漏斗型結界が最後の水膜を拾い切った。
表示盤が更新される。
県立夢見が丘高校 勝利。
『決着ーーーッ!! 夢見が丘高校、僅差の勝利!! 四天高校、最後は海綿一個分、その差で及ばず!!』
ホールの空気が揺れた。
新はそこでようやく大きく息を吐く。
純香も肩の力を落とした。
彩葉は「うわ……」と半分笑い、半分呆れている。
雅は「まじか」と言いながらも口元が上がっていた。
「勝った」
新が言う。
「勝ったわね」
純香が答える。
「ほんとにぎりぎり」
「でも勝ちは勝ち」
雅が言う。
「……って言いたいとこだけど」
四天側を見る。
「そっち、何か別の意味で終わってない?」
◇
四天高校の面々は、負けた悔しさより先に、律を見ていた。
律はまだ、一ノ瀬を見つめて固まっている。
さっきまであれだけ騒がしかったのに、今だけ変に静かだ。
「律さん?」
三宅が言う。
「大将?」
「うるさい!!」
律が突然叫ぶ。
「今それちゃうやろ!!」
「何がやねん」
三宅が思わず言う。
「何がやあらへん!!」
律は真っ赤な顔で立ち上がる。
両手を頬に当てて狼狽えている。
「え、何……何なん!?」
一ノ瀬は床に落ちた眼鏡を拾いながら、珍しく本気で困っていた。
「その、ごめん」
「何で謝るん!」
「いや、危なかったから」
「危なかったからって……そんな、自分から来ること…」
律はそこでぴたりと黙る。
何かを決めた顔だった。
三宅が嫌な予感をした顔になる。
「律、あかんで」
「何がや」
「その顔はあかん」
「うるさい」
律はずんずんと一ノ瀬の前へ行く。
そして、ぐいっと襟元を引っ張った。
「え?」
新が声を漏らす。
「待て待て」
雅が笑いを堪えきれていない。
「止める?」
「たぶん間に合わない」
彩葉が言った。
「名前!」
律が言う。
「一ノ瀬」
「フルネーム!」
「一ノ瀬透」
「……覚えた」
次の瞬間。
律は勢いよく、一ノ瀬の頬へキスした。
場が、完全に止まる。
実況も、観客も、四天も、夢見が丘も、数秒まるごと沈黙した。
「……は?」
一番まともな反応をしたのは、新だった。
律は顔を真っ赤にしたまま、一ノ瀬の腕に自分の腕を絡ませて胸を張る。
そして…
「これは先行予約や!!」
高らかに宣言した。
「次会うまで忘れんなよ、一ノ瀬透!!」
一ノ瀬は本気で固まっていた。
「いや、ちょっと」
「ほなな!」
律はそれだけ言うと、くるりと振り返る。
「次は勝つ! あと、そっちの漏斗、めちゃくちゃ綺麗やったけど、次は負けへんからな!!」
「律さんーーー!!」
「何してんですかあんたは!!」
三宅たちが一斉に律を追いかける。
嵐みたいな勢いで、四天高校の一団はそのまま去っていった。
残されたのは、しばらく言葉を失った夢見が丘の五人だった。
「……」
「……」
「……」
最初に口を開いたのは、彩葉だった。
「一ノ瀬くん」
「何」
「モテるね」
「今それ言う?」
一ノ瀬が珍しく本気で困っていた。
雅が吹き出す。
「いや、すげえな全国」
「そこ?」
新が言う。
「そこだろ」
「神代はほんとそういうとこ」
純香がため息をつく。
けれど、口元は少しだけ緩んでいた。
「……まあでも」
「何」
新が聞く。
「勝ちは勝ちよ」
純香が言った。
「今回もちゃんとつながったでしょう。新の形、一ノ瀬の式、私の展開、彩葉の流れ読み、神代の出力」
「うん」
新が頷く。
「今回も、五人だった」
「だね」
彩葉が笑う。
「あと一ノ瀬くんは何か増えたけど」
「何も増えてない」
一ノ瀬が即答した。
それでも新は、表示盤を見上げながら思っていた。
聖桜戦で見えたもの。
四天戦で、さらに確かになったもの。
イメージがある。
それを式にする人がいる。
安定させる人がいる。
流れを見る人がいる。
押し切る人がいる。
五人でやる意味が、また一つ増えた。
東京国際展示場の高い天井の下で、歓声の余韻がまだ少し残っている。
全国は、まだ先がある。
けれど少なくとも今、自分たちはちゃんとその真ん中へ立っているのだと、新は思った。
「みーさーげてーごらんー」「わぁ!」




