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第三十一話 新学期の始まり

 二学期の始まりというものは、もっと軽いものだと思っていた。


 夏休みが終わった、久しぶり、眠い、宿題はどうだった、日焼けした――そういう、どこの学校でも変わらない話から始まるものだと、少なくとも新は思っていた。


 実際、朝の教室はだいたいそんな感じだった。


 窓の外にはまだ強い夏の光が残っていて、空気も秋というにはほど遠い。けれど、机が並び、黒板があって、制服に袖を通して座っていると、それだけで夏休みが終わったことがやけにはっきりする。


「だる……」

 雅が席につくなり言った。

「始業式って何で毎回こうなんだろうな」

「始まるからでしょ」

 純香が即座に返す。

「身も蓋もない」

「事実だもの」

「でもちょっと分かる」

 彩葉が言う。

「夏休み明けって、朝だけ妙に現実だよね」

「朝だけじゃないけどな」

 新が言うと、

「そこはまだ優しくしてよ」

 彩葉は笑った。


 机の上には、提出済みの課題一覧がない。


 夏休みの終わりに出した自由課題も、もう手元からは離れている。提出した時点では、妙な達成感があった。課題として形になったことへの安堵もあったし、四人でここまで持っていけたことへの充実感もあった。


 もちろん、新の中ではそれで終わった話じゃない。


 積層型簡易結界。

 平面光軌跡。

 跳ねる拡張。

 位相の噛み合わせ。


 そういう言葉はまだ頭のどこかで熱を持ったまま残っている。


 けれど少なくとも、学校側から見れば、あれはただの自由課題のはずだった。


 だから、この日の朝も新は、本当に普通の新学期を迎えるつもりでいた。


     ◇


 始業式は長かった。


 校長の話。二学期の心構え。生活指導の注意。夏の緩んだ空気をそのまま持ち込まないように、という定番の説教めいた話まで、だいたい予想通りだった。


 ただ、そのあと教室へ戻ってからのホームルームで、浅見が配った二学期の授業予定表を見たとき、新は少しだけ目を止めた。


「……結界、多くないか」

 思わず小さく呟く。


 魔法学基礎Ⅱ。

 魔法陣理論。

 結界安定論。

 基礎召喚学。

 演習――無機召喚入門。

 演習――有機召喚入門。

 積層結界基礎。


 思っていた以上に、二学期は“結界寄り”だった。


「どうした?」

 雅が横から覗く。

「授業予定」

 新が紙を指で叩く。

「二学期、思ったより結界系だな」

「あー」

 雅も見て、少しだけ眉を上げた。

「ほんとだ。召喚も入るのか」

「無機召喚、有機召喚、それから積層結界基礎」

 純香が前の席から振り向いて言う。

「かなり本格的ね」

「ねえ、積層って」

 彩葉が小声で言って、そこで言葉を切る。


 四人の間に、一瞬だけ同じ空気が流れた。


 夏休みの自由課題。

 重ねた結界。

 安定条件。

 位相の噛み合わせ。


 これから授業でやると書かれている内容が、自分たちが夏のあいだに手を出していたものと、妙に近い。


「……先に触っちゃってた感じ?」

 雅が小さく言う。

「だとしたら、だいぶ危ないわね」

 純香が静かに返した。

「今さら言う?」

 彩葉が少しだけ笑う。

「今さらよ」

 純香はため息まじりに言った。


 新は予定表を見つめたまま、小さく息を吐いた。


 たぶん、まだこの時点では、誰も本当の意味では分かっていなかった。

 自分たちが出した自由課題が、これから始まる二学期の授業に対して、どれくらい“先に行っていた”のかを。


     ◇


 その頃、職員室の一角では、雨宮が提出された自由課題の束を前にしていた。


 結界系の課題は毎年それなりにある。安全な護膜の観察、基本式の差異、簡易結界の保持時間、日常魔法への応用。高校一年の自由課題なら、せいぜいそこまでだ。


 題名を見たとき、最初はほんの少しだけ眉をひそめた程度だった。


 積層型簡易結界における平面光軌跡の観察


「……何これ」


 高一の自由課題にしては、妙に硬い。


 それだけなら、背伸びした題名なのかもしれないと思えた。夏休み明けの課題には、時々そういうものもある。言葉だけ格好をつけて、中身は普通、というやつだ。


 だが、一枚目をめくってすぐに、雨宮の表情は変わった。


 目的の設定。

 方法の切り分け。

 観察条件の整理。

 接触時の発光。

 重ね合わせた際の跳躍的拡張。

 立ち上げタイミングと接触時挙動の一致に関する所見。


「……は?」


 小さく漏れた声は、半ば呆れに近かった。


 さらに読み進める。


 四人分ある。

 題目は同じだが、視点が分かれている。


 鳴海新――仮説と考察。

 神代雅――出力条件と実験条件。

 篠宮純香――安全性、再現性、手順。

 橘彩葉――観察記録、図示。


 そして何よりまずかったのは、そこに“素人の偶然”では片づけにくい視点がいくつも混ざっていたことだ。


 特に雨宮の目を止めたのは、観察記録の欄だった。


 接触の瞬間に両結界の挙動が同期したように見えた。

 跳ねるときとそうでないときでは、触れる直前の噛み合い方が異なって見えた。


 文章そのものはまだ素朴だ。

 だが、書いてあることは素朴ではない。


 位相読み。

 安定の前兆。

 揃う瞬間とずれる瞬間。


 高校一年が、計器もなしに、そこを“見た”?


 雨宮はその頁を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 積層型魔法陣や積層結界の安定性は、大学の結界工学でやっと基礎に触れるような領域に近い。まして位相の噛み合わせなど、きちんと扱うには理論も計測もいる。感覚だけでどうにかなるような話ではない。


 少なくとも、普通は。


「……誰が、これを」


 小さく呟いてから、すぐに課題の表紙へ目を戻す。


 鳴海、新。

 神代、雅。

 篠宮、純香。

 橘、彩葉。


 雨宮はゆっくりと息を吐いた。


 問い詰める必要がある。

 どこまで自分たちでやったのか。

 誰の指導を受けたのか。

 危険性をどこまで理解していたのか。


 それに――橘彩葉。


 あの記述が本当に本人の観察なら、話は別の意味でも見過ごせない。


     ◇


 五限目が終わったとき、教室の後ろの扉が開いた。


 静かな足音。

 見なくても分かる。雨宮だ。


 ざわついていた空気が、ほんの少しだけ変わる。


 雨宮は教卓の前まで来ると、浅見に一言だけ何か告げて、それから教室を見渡した。


「鳴海、新。神代、雅。篠宮純香。橘彩葉」


 名前を呼ばれた瞬間、四人はほとんど同時に顔を上げた。


「放課後、結界演習準備室へ来なさい」

 雨宮は平坦な声で言った。

「四人そろって」

「……え」

 彩葉が小さく声を漏らす。


 だが雨宮は理由を説明しなかった。

 それだけ言って、すぐに教室を出ていく。


 扉が閉まったあと、教室の空気は数秒だけ妙に静かだった。


「……何」

 雅が先に言う。

「今の、絶対普通じゃないだろ」

「普通じゃないわね」

 純香が低く言う。

「明らかに」

「うち、嫌な予感しかしないんだけど」

 彩葉が言った。

「自由課題かな」

「たぶん」

 新は小さく答える。

「それしかない」


 胸の奥が、少しだけ嫌な熱を持つ。


 褒められる呼び出しではない。

 少なくとも、あの雨宮の声色はそういうものではなかった。


 何かが、見つかった。


     ◇


 放課後の結界演習準備室は、普段の教室よりずっと空気が重い。


 教材棚。

 古い観測盤。

 結界式の見本板。

 そして、奥の机の前に立つ雨宮。


 白峰や御影はいない。

 今日は雨宮だけだった。


「入りなさい」

 短い一言で、四人は部屋へ入る。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 机の上には、見覚えのある紙が四つ並んでいた。

 自分たちが提出した、自由課題のレポートだ。


「……やっぱり」

 新が小さく言う。


 雨宮はその声を無視して、四人を順に見た。


「これは誰が考えたの」

 いきなりだった。


 だが、怒鳴ってはいない。

 むしろ静かすぎるくらい静かだ。


 それが、余計に怖かった。


 最初に答えたのは新だった。


「最初に言い出したのは、僕です」

「最初に、ね」

 雨宮が言う。

「では、どこまで四人でやったの」

「題目を決めて、条件を切り分けて、実験して、記録して、まとめました」

 今度は純香が答える。

「夏休み中に」

「誰かに指導を受けた?」

「いいえ」

「教員の許可は?」

「……取ってません」

 新が答えると、雨宮の目がわずかに細くなった。


「でしょうね」


 その二文字だけで、部屋の空気がさらに冷えた気がした。


「この内容が、何を意味しているのか分かっている?」

 雨宮が言う。

「少なくとも、“高校一年の自由課題”で済む範囲ではない」

 四人とも、すぐには答えられなかった。


 雨宮は机の上のレポートを一枚持ち上げる。


「積層型簡易結界。接触時の発光。平面光軌跡。挙動の同期。立ち上げの一致による再現率の向上」

 淡々と読み上げたあとで、視線を上げる。

「誰が、ここまで切り分けたの」

「全員で、です」

 新が言った。

「最初は僕が思いついて、でも整理したのは純香で、条件を詰めたのは雅で、記録は彩葉が」

「役割分担の説明はいい」

 雨宮は短く遮った。

「聞いているのは、あなたたちが本当に“ここまで”見えていたのかどうかよ」


 新は一瞬だけ言葉に詰まった。


 見えていた。

 でも、全部を理解していたとは言い切れない。


「……分からないまま、見えたものもあります」

 そう答えると、雨宮はしばらく黙った。


「正直なのは結構」

 低く言う。

「でも正直で済む話でもないの」


 次に雨宮の視線は、彩葉へ向いた。


「橘さん」

「は、はい」

 彩葉の返事は少しだけ固かった。


「この記述」

 雨宮はレポートの一行を指で叩く。

「“合っている感じ”“ずれている感じ”――これは、何を見てそう書いたの」

「え」

 彩葉は目を瞬かせる。

「何を、って……」

「理由を聞いているの」

「……ちゃんと説明できるか分からないです」

 彩葉は少しためらってから言った。

「でも、触れる直前に、なんか、ぴたって来るときと、そうじゃないときがあって」

 雨宮は何も言わない。

 だから彩葉は、続きを口にした。

「今のは合う、今のはずれる、っていうのが……なんとなく、見えた、というか」

「なんとなく」

 雨宮が静かに繰り返す。

「はい……」

「計器もなしに?」

「はい」

「理論もなしに?」

「そこまでちゃんとは、たぶん……」


 雨宮はそこで、ほんのわずかに目を伏せた。


 計器もなく。

 理論もなく。

 それでそこを読むのか。


 偶然、で片づけるには当たりすぎている。


「橘さん」

 雨宮は顔を上げた。

「今後、そういう“なんとなく”を軽く扱わないこと」

「……はい」

「それは、勘で済ませていいものじゃない」

「はい」


 彩葉は自分でもよく分からないまま頷いていたが、新には、雨宮がそこだけ少し違う温度で見ているのが分かった。


     ◇


「篠宮さん」

 雨宮の視線が移る。

「あなたは安全性と再現性を担当したとあるけれど」

「はい」

「なら分かるわよね。これがどれだけ危ういか」

「……はい」

 純香はまっすぐ答えた。

「最初は、ここまで行くと思っていませんでした」

「でも止めなかった」

「途中からは、危険性より先に、条件を揃えれば制御できる可能性の方を見ていました」

「なるほど」

 雨宮はその返答を、否定もしなければ肯定もしなかった。


 次に雅を見る。


「神代」

「はい」

「出力管理が雑」

「う」

「ただし、雑な割に、加減はしている」

「……まあ」

「褒めてないわよ」

「はい」


 最後に新へ。


「鳴海」

「はい」

「あなたは、どこまで先を考えていたの」

 その問いに、新は少しだけ喉が詰まるのを感じた。


 正直に言えば、かなり先まで考えていた。

 この平面光軌跡を、もっと大きな花火で。

 もっと大きな面で。

 もっと大きな術式へ。


 でも、それをそのまま言うのはまずい気がした。


「……自由課題として成立するところまでは」

 新が答えると、

「嘘」

 雨宮が即座に言った。


 四人とも一瞬だけ凍る。


「そういう目をしていない」

 雨宮は静かだった。

「あなた、自分でどこまで考えてるかはともかく、提出した段階ですでにその先を見ている顔よ」


 新は返せなかった。


 図星だったからだ。


「まあいい」

 雨宮はレポートを机へ戻した。

「ここで大事なのは、あなたたちが“面白い自由課題をやりました”では済まないところまで踏み込んでいた、ということ」


 そう言ってから、四人を順に見る。


「二学期は結界と魔法陣が中心になる。理論、概念、安定性、召喚、積層。これから授業で扱う内容に、あなたたちは勝手に足を突っ込んだ」

「……はい」

 新が答える。


「しかも、無視できない精度で」

 雨宮の声は低かった。

「それがどういう意味か、分かる?」


 新は少しだけ考えた。


 怒られている。

 それは間違いない。


 でも、ただ怒っているだけではない。

 雨宮は、この結果を危険だと思っている一方で、無価値だとも思っていない。


「……授業に関わる、ということですか」

 新が言うと、

「関わるどころじゃない」

 雨宮はきっぱり返した。

「先に触れすぎている」


 その一言で、四人とも息を止めた。


     ◇


 しばらく沈黙が落ちたあと、雨宮はようやく少しだけ肩の力を抜いた。


「没収はしない」

 その言葉に、新は思わず顔を上げる。

「ただし、今後は勝手に先へ進まないこと」

「……はい」

「何かやるなら、必ず教員へ言いなさい」

「はい」

「特に積層結界。あれは基礎に見えて、基礎のままでは済まない」


 そして最後に、少しだけ間を置いてから続けた。


「この自由課題については、私が預かる」

「預かる?」

 彩葉が思わず聞き返す。

「記録としてね」

 雨宮が言う。

「少なくとも、軽く流していい内容じゃない」


 それは褒め言葉なのか、警告なのか、すぐには分からなかった。


 たぶん、その両方なのだろう。


「今日は戻っていい」

 雨宮が言う。

「でも覚えておきなさい。二学期は、夏休みの延長じゃない」

「……はい」

 四人そろって答えた。


 準備室を出るまでの足取りは、全員少しだけ重かった。


     ◇


 廊下へ出て、扉が閉まった瞬間、雅が小さく息を吐いた。


「こわ」

「今のは怖いわね」

 純香もすぐに言う。

「めちゃくちゃ」

「うち、途中から心臓やばかった」

 彩葉が胸のあたりを押さえる。

「“なんとなくを軽く扱うな”って、何かすごい怖かったんだけど」

「そこ、特に引っかかってたな」

 新が言う。

「雨宮先生」


 彩葉は少しだけ眉を下げた。


「そんなに変かな」

「変っていうか」

 新は少しだけ言葉を探す。

「先生からしたら、“なんとなく”で済ませていいところじゃなかったんだと思う」

「そうね」

 純香が頷く。

「たぶん、私たちが思ってるよりずっと厄介なところを見てる」

「褒められたわけでもないし、怒られただけでもないし」

 雅が言う。

「一番落ち着かないやつだな」

「それはほんとにそう」

 彩葉が言って、少しだけ笑った。


 新は廊下の窓から外を見た。


 夏休みは終わった。

 自由課題も、もう提出した。

 でも、その小さな紙の束は、思っていたよりずっと大きな波を起こしてしまったらしい。


 二学期が始まる。


 結界。

 魔法陣。

 召喚。

 積層。

 安定性。


 これから授業で学ぶはずのものが、もう目の前まで来ていた。


「……新学期、始まったな」

 新が小さく言うと、

「今さら?」

 雅が笑う。

「でも、今の呼び出しで実感した」

「それは分かる」

 彩葉が言う。

「夏休み、終わったって感じ」

「ええ」

 純香も静かに頷いた。

「ここからは、ちゃんと学校の中でやることになる」


 四人で歩き出す。


 まだ放課後の光は明るい。

 けれど、夏休みの終わりとは違う緊張が、空気の中にたしかに混じっていた。


 これから先、自分たちが学ぶものは、たぶんもう“ただ面白い”だけでは済まない。


 そう思いながら、新は前を歩く三人の背中を見た。


 自由課題は終わった。

 けれど、その続きは、もう始まっていた。

新学期早々呼び出される四人でした

中でも雨宮が注目した彩葉の能力とは?

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