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第三話 橘彩葉という子

2026.03.09

 橘彩葉という子は、たぶん、教室の空気をつくるのがうまい。


 誰かが黙り込めば軽く声をかけて、変な沈黙が落ちれば冗談を挟んで、笑いが欲しいところではちゃんと笑う。派手な見た目のわりに悪目立ちはしないし、逆に周囲を置いていくこともない。


 いるだけで、場が少しだけやわらかくなる。


 そういう子だ。


 ……少なくとも、最初はそう思っていた。


     ◇


 その日の四限は、魔法科学の基礎演習だった。


 魔法と科学を結びつけ、現象として扱うための授業。初回ということもあって内容は入門編で、魔法による加熱制御と温度変化の測定、そこから熱量の概算を出すという、わりと地味めなテーマだった。


 でも僕は、この授業も好きだ。


 魔法学が“存在そのもの”に触れる学問なら、魔法科学はそれを“現象として使える形”に落とし込む学問だ。火を出して終わりじゃない。どれだけの熱量を持ち、どのくらいの時間維持できて、どうすれば無駄なく制御できるのか。そこまで考える。


 そういうのが、すごくいい。


「新、また顔出てる」


 実験台の向こうから、雅が笑う。


「どんな顔だよ」


「好きな授業のときの顔」


「それは別にいいだろ」


「うん、まあ、ちょっと気持ち悪いけど」


「失礼だな」


 言い返すと、隣で純香が小さくため息をついた。


「ほんとに授業前だけ元気よね、あなたたち」


「授業前も元気だけど、授業中も元気だよ?」


 彩葉が試験管立てを並べながら口を挟む。


「ていうか、この班って妙にやる気あるよね。うち、ちょっと楽なんだけど」


 そう言って笑う。


 班分けの結果、今日も僕たち四人は同じ組だった。


 雅は器具を準備しながら、もう手順書を半分くらい頭に入れているらしい。純香は班の記録用紙に必要事項を書き込み、僕は熱量計算の欄を先に確認していた。彩葉は明るい調子で話しながら、アルコールランプの代わりに使う簡易加熱式の安全結界器具を点検している。


 ぱっと見は、いつも通りだ。


 でも、そのとき僕はふと気づいた。


 彩葉の手元に置かれたノートが、思ったよりずっと細かい字で埋まっている。


 授業の板書をそのまま写しただけのノートじゃない。手順が番号で整理されていて、危険点に赤線が引かれ、横には小さな補足がびっしり書き込まれていた。昨日の石の錬成の手順まで、端の方にまとめ直してある。


 ちょっと意外だった。


 僕が見ていることに気づいたのか、彩葉がぱたりとノートを閉じる。


「なに?」


「いや……ちゃんと書いてるんだなと思って」


「ちゃんと書くでしょ、ふつー」


「いや、普通っていうか」


「何その言い方。うち、めっちゃ不真面目そうだった?」


 笑って言う。


 でも、その笑い方が、ほんの少しだけ早かった。


「そういう意味じゃないけど」


「ならよし」


 彩葉はそう言って、またいつもの調子で器具の向きを直した。


 けれど、そのあとも僕は何度か彼女のノートに目がいった。


 すごく、丁寧だった。


 きれいというより、必死に抜けをなくそうとしている感じの書き方だと思った。


     ◇


 授業が始まると、班ごとに加熱出力の段階制御を行い、水温の上昇を記録する実習が始まった。


 魔法で直接火を生むのではなく、魔力を媒体装置へ流して安定した加熱現象に変換する。そこから温度変化を測り、熱効率を比べる。魔法科学らしい、かなり実務寄りの内容だった。


「じゃ、最初の制御は俺やる?」


 雅が軽く言う。


「出力最小で」


 純香が即答する。


「何それ」


「初回から机を焦がされたくないもの」


「ひどくない?」


「ひどくないですー」


 僕も便乗すると、雅は大げさに肩を落とした。


 でも実際、雅の操作は安定していた。


 昨日の石の錬成と同じで、軽くやっているように見えるのに出力のブレが少ない。温度計の上昇もなめらかで、ほとんど理想値に近い。


「さすがだねぇ」


 彩葉が感心したように言う。


「いや、これくらいなら誰でもできるって」


「それ言うの、感じ悪いからやめなさい」


 純香がぴしゃりと返す。


 彩葉は笑っていたけれど、その目だけは少し長く雅の手元を見ていた。


 ただ“すごーい”で終わる見方じゃなかった。


 よく見ようとしている目だ。


 何が違うのか、どうして安定しているのか、自分にもできるかもしれないのか。そういうふうに、何かを測るみたいな目。


 次の担当は彩葉だった。


「えー、ちゃんとできるかな」


 軽い口調でそう言いながらも、手順書を見る目は真剣だった。器具の接続確認を二回、魔力量の調整を一回、温度計の位置を微調整してから、ようやく深く息を吸う。


 慎重すぎるくらい慎重だった。


「いくよ」


 彩葉が媒体装置へ魔力を流す。


 結界器具の中心に淡い光が灯り、水の入った耐熱容器の底にじんわり熱が伝わる。温度計の数値は、やや遅いが確実に上がっていった。


「お、いい感じじゃん」


 雅が言う。


「ほんと? やば、ちょっと安心した」


 笑う。


 でも、そのあと温度が目標値のひとつ手前でわずかに揺れた瞬間、彩葉の肩がぴくっと強張ったのを僕は見た。


 ほんの一瞬の揺れだった。


 結果的にはちゃんと収束して、手順としては成功だった。けれど彩葉は記録を取るとき、必要以上に小さな数字のズレを気にしていた。


「ここ、〇・七高い……」


「誤差の範囲じゃない?」


 僕が言うと、彩葉はすぐに笑ってみせた。


「まあねー。でも一回気になるとさ、地味に気持ち悪くない?」


 その言い方は軽いのに、ペン先だけがやけに強く記録用紙を押していた。


 失敗を怖がってる。


 そんなふうに思ったのは、そのときが初めてだった。


     ◇


 授業が終わって、昼休みになっても、その違和感は少しだけ残っていた。


 彩葉はいつも通りクラスの女子と話して笑っていたし、雅に「次の実技も手加減してよねー」なんて軽口を叩いてもいた。見た目だけなら、やっぱり普通に明るくて、ノリが良くて、どこにでもすっと馴染める子だ。


 なのに、たまにふっと表情が抜ける。


 その瞬間だけ、誰にも見せていない別の顔が出る。


 たとえば、ノートを閉じる前に手順欄をもう一度だけ見直すときとか。

 進路指導の掲示を見上げたあと、少しだけ口元が固くなるときとか。

 そんな、ほんの一秒にも満たないくらいの一瞬に。


 午後の授業が終わったあと、僕は数学のワークを教室に置き忘れたことに気づいて、ひとりで引き返していた。


 もう放課後から少し時間が経っていて、廊下は静かだった。部活へ向かう足音も遠く、窓から入る夕方の光だけが床を斜めに照らしている。


 教室の前まで来たとき、中に人影が見えた。


 誰だろうと思ってのぞくと、彩葉だった。


 ひとりだった。


 教室のいちばん後ろの席に座って、今日の手順書を机に広げている。さっき授業で使ったところに、また赤ペンで何かを書き込んでいた。ときどき指先を少し動かして、操作の流れを空中でなぞるみたいに確認している。


 誰もいない場所で、ひとりだけ。


 明るい声も、笑顔もない。


 すごく真面目な顔だった。


 僕は声をかけるタイミングを少し失ったまま、教室の入り口で立ち止まっていた。


 そのとき彩葉がふいにこちらへ顔を上げた。


「……あ」


 目が合う。


 一拍遅れて、彩葉はいつもの笑顔を作った。


「なに、鳴海。忘れ物?」


「う、うん」


「ふーん」


 それだけ言って、彼女は手順書を閉じた。でも完全には隠しきれなくて、ノートの端から細かいメモが少し見えている。


「別に、笑わなくていいからね」


 先に言ったのは彩葉のほうだった。


「え?」


「こういうの。うち、わりと何回も見直すタイプだから」


 笑いながら言う。


 でも、その言い方はほんの少しだけ自嘲っぽかった。


「笑わないよ」


 僕が答えると、彩葉は意外そうな顔をした。


「そ?」


「むしろ、すごいと思った」


「……え」


「ちゃんとやってるんだなって」


 彩葉は少しだけ黙った。


 夕方の教室は、妙に音が響く。廊下の向こうで誰かがドアを閉める音がしたあと、また静かになった。


「失敗したくないだけ」


 彩葉が小さく言った。


「うち、そういうの、結構こわいんだよね」


 あまりにあっさり言うから、逆に返事に困る。


 彩葉は肩をすくめた。


「できないって思われるの、やだし。自分でも思いたくないし。だから、一回でそこそこできるように見せたいっていうか」


「見せたい、って」


「うん。だってそのほうが楽じゃん」


 笑う。


 でもたぶん、その“楽”は本当の意味では楽じゃない。


 そのとき、彼女のスマホが震えた。画面を見た彩葉の目が、ほんの少しだけ現実に戻る。


「あ、やば。もう行かなきゃ」


「用事?」


「うん。ちょっと買い物」


 それだけ言って立ち上がると、彩葉はいつもの調子で手を振った。


「じゃ、また明日」


 教室を出ていく背中は軽かった。

 けれど、その軽さがどこか無理に見えたのは、たぶん気のせいじゃなかった。


     ◇


 その日の帰り道、僕は駅前のスーパーに立ち寄っていた。


 母親に頼まれていた洗剤を買うためだ。夕方の店内は仕事帰りの人や、晩ごはんの材料を選ぶ人で混んでいて、野菜売り場のあたりから揚げ物の匂いが流れてくる。


 洗剤をかごに入れて、ついでに飲み物でも買おうかと思っていたときだった。


「あ、お姉ちゃん、あれ!」


 子どもの声がした。


 なんとなく振り向いて、そのまま足が止まる。


 彩葉がいた。


 買い物かごを持って、二人の子どもを連れていた。小学校低学年くらいの男の子と、もう少し小さい女の子。男の子は菓子パン売り場を指さしていて、女の子は彩葉の制服の袖をちょこんとつかんでいる。


 彩葉も僕に気づいた。


 一瞬、目が丸くなる。


 そのあとすぐ、ぱっと笑った。


「えっ、鳴海じゃん。なに、こんなとこで」


「いや、買い物」


「うちもー。ほら、生活感あってウケるっしょ」


 明るく言う。


 でも、その横で男の子が素直に言った。


「彩葉ねえちゃん、これ買っていい?」


 彩葉の笑顔がほんの少しだけ固まった。


「あー……それは今日はダメ。安いやつにしよ、ね」


「えー」


「えー、じゃない」


 慣れた口調だった。


 そのまま自然に女の子の手を引き直して、特売品の棚へ向かう。動きに無駄がない。慣れているんだと思った。


 僕は少し迷ったあと、結局そのまま同じ方向へ歩いた。


「兄弟?」


「……うん」


 彩葉は、少しだけ観念したように笑った。


「弟と妹。下がまだちっちゃいから、たまに迎えついでに買い物してる」


「たまに?」


「……まあ、わりと」


 そう言って、特売の豆腐を二つかごに入れる。値札を見る目が真剣だった。


 男の子――たぶん弟が、今度はカレールーを持ってくる。


「これ、安い」


「お、えらい。そっち正解」


 彩葉はそう言って頭を撫でた。


 妹のほうは少し眠そうに目をこすっている。彩葉はしゃがみ込んで、その子の靴ひもがほどけているのを手早く結び直した。


 学校で見る彩葉とは、少し違った。


 いや、違うというより、もっと隠していない感じだった。


「お母さんは?」


 聞いてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。


 でも彩葉は、意外とあっさり答えた。


「仕事。遅い日あるし」


 それだけで、だいたい分かった。


 言わないことまで含めて。


「そっか」


「うん」


 少しの沈黙。


 彩葉は気まずさを消すみたいに、わざとらしく肩をすくめた。


「やばいよねー。学校ではギャルやって、帰ったら生活感満載のお姉ちゃんだし」


「ギャル“やって”るんだ」


 思わず言うと、彩葉は目を細めた。


「そこ拾う?」


「いや、なんとなく」


「……まあ、だってそのほうが楽だし」


 教室で聞いたのと、少し似た言い方だった。


 その笑い方の奥にあるものを、今なら少しだけ分かる気がした。


 レジを済ませて店の外へ出る頃には、空はもうかなり暗くなっていた。妹が眠そうにふらついたので、僕は反射的に彩葉の買い物袋をひとつ受け取った。


「え、いいって」


「持つよ。重いし」


「でも」


「弟と妹見てたほうがいいだろ」


 彩葉は少しだけ迷って、それから小さく「ありがと」と言った。


 駅前から住宅街に入るまでの短い道を、僕たちは並んで歩いた。


 弟は先を歩いていて、妹は彩葉の手をぎゅっと握っている。しばらく黙って歩いたあと、彩葉がふいに言った。


「大学、行きたいんだ」


 前を向いたままの声だった。


「でも、まあ、私立はたぶん無理かなって感じ。だから行くなら国公立。授業料とか、そういうのでだいぶ違うし」


「……そうなんだ」


「別に悲壮感ある話じゃないよ? ただ現実ってだけ」


 そう言って笑う。


「だから成績落としたくないんだよね。変なミスとか、ほんと無理。失敗してる場合じゃないっていうか」


 その言葉は、教室でひとり手順書を見返していた姿と、ぴたりと重なった。


「雅ってさ」


 彩葉が少しだけ間を置いてから言った。


「すごいじゃん」


「まあ、うん」


「何やってもできそうっていうか、失敗しなさそうっていうか。ああいうの、ちょっとずるいよね」


 口調は軽かった。


 でもそれは悪口じゃなかった。


 羨望だった。


「うち、ああいうふうにはなれないからさ」


 彩葉はそう言って、ほんの少しだけ目を伏せた。


「だからせめて、できるふうには見せたいんだと思う」


 その一言が、妙に胸に残った。


 見せたい、じゃなくて、そうしなきゃ立っていられないんだ。


 たぶん。


     ◇


 彩葉たちの家の近くまで来たところで、僕は袋を返した。


「ここでいい」


「ほんとに?」


「うん。これ以上来ると、弟が変な勘違いするし」


 前を歩いていた弟がちょうど振り向いた。


「彼氏?」


「違う」


 彩葉が即答した。


「クラスメイト」


「ふーん」


 納得してるのかしてないのか分からない顔で、弟はまた前を向く。


 彩葉は少しだけ恥ずかしそうに眉を寄せた。


「ごめんね、騒がしくて」


「いや、別に」


「今日のこと、学校ではあんまり言わないでほしいかも」


「言わないよ」


「ありがと」


 それから彩葉は、少しだけ迷って、でも結局ちゃんと僕を見た。


「……鳴海って、思ってたより変なやつだけど、いいやつだよね」


「褒めてる?」


「半分くらいは」


「微妙だな」


 そう言うと、彩葉はようやく少しだけ、肩の力を抜いて笑った。


「じゃ、また明日」


「うん。また明日」


 三人の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、僕はしばらくその場に立っていた。


 夜の入口みたいな、少しだけ冷たい風が吹いていた。


     ◇


 翌朝、僕は少し早めに登校した。


 昨日の買い物のことが、何となく頭に残っていたのだと思う。


 教室のドアを開けると、まだほとんど誰も来ていなかった。


 その中で、ひとりだけ先に席についている姿があった。


 彩葉だった。


 机の上には、今日の授業で使う手順書と、細かいメモで埋まったノート。昨日と同じように、指先で小さく流れをなぞるみたいに確認している。


 僕に気づくと、彩葉は少しだけ肩を揺らした。


「……おはよ」


「おはよう」


「何、早くない?」


「そっちこそ」


「まあ、ちょっとね」


 それ以上は言わない。


 僕も、それ以上は聞かない。


 ただ、昨日までとは少しだけ違う気持ちで、その姿を見ていた。


 明るくて、軽くて、器用に見える。


 でも、それは何もしなくてもそう見えるわけじゃない。


 ちゃんと準備して、ちゃんと怖がって、ちゃんと失敗しないように踏ん張っているから、ああ見えるんだ。


 席に荷物を置きながら、僕は心の中でそっと思った。


 彩葉って、思ってたよりずっと本気なんだな。


鳴海新と橘彩葉のお話です

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