第二十九話 気持ち一つに
次の実験で何を揃えるか。
それが、三日目の終わりから四日目の朝まで、新の頭の中をずっと占領していた。
距離。
厚み。
接触速度。
それだけでは足りない。
一ノ瀬が置いていった「位相の噛み合わせ」という言葉は、まだぼんやりしていた。意味は分かりきっていない。けれど、今まで見ていたものとは別の何かが、そこに含まれている気はしていた。
見える条件だけじゃない。
たぶん、見えない側にも揃えるものがある。
問題は、それが何かということだった。
◇
「で、今日は何を揃えるの?」
公園へ集まるなり、彩葉がそう聞いた。
朝の空気はもう十分に暑い。ベンチの上にはいつものようにノートと記録表と飲み物が並び、チョークで引かれた基準線も昨日の上から少し書き直されている。
「そこなんだよな」
新が言う。
「そこが分かってたら苦労しない」
「鳴海、それ答えになってない」
「分かってる」
「一応、今朝整理した案はあるわ」
純香が言った。
さすがだった。すでに記録表とは別に、小さな紙へ箇条書きで仮説らしいものが書かれている。
「まず、結界の立ち上げ順序」
純香が言う。
「一枚目を張って、安定するまでの待機時間を揃える」
「うん」
「次に、二枚目を近づける速度」
「それも昨日やった」
雅が言う。
「ええ。でも昨日は“なるべく一定”だったでしょう」
「う」
「今日はもっと厳密にやる」
「純香、それ俺にも刺さるんだけど」
新が言うと、
「当然よ」
純香は淡々と返した。
「あと、呼吸」
彩葉が言った。
三人がそろって彩葉を見る。
「呼吸?」
新が聞くと、
「うん」
彩葉は少しだけ首を傾げた。
「なんか、昨日見てて思ったんだけど。合ってるときって、みんな息止めるタイミングが一緒な気がした」
「……それ、見てたのか」
雅が言う。
「見えるよ」
「橘さん、ほんとどこ見てるの」
純香が言ったが、その声には少しだけ感心も混じっていた。
「でも、あり得るわね」
「え、あり?」
新が聞く。
「結界って、立ち上げの拍が崩れると面が揺れることがあるもの。呼吸が変われば、その拍もずれる」
「拍」
雅が繰り返す。
「なんか音楽みたいだな」
「実際、そういうものかもしれない」
新が言う。
「今の話、ちょっと分かる」
純香は紙へ書き足した。
待機時間
接近速度
呼吸
「増えたな」
雅が言う。
「まだある?」
「ある」
新が言った。
「意識の向き」
「は?」
「いや」
新は少しだけ言葉を探す。
「昨日、俺と純香が重ねるとき、同じ“重ねる”でも見てる場所が違ってた気がするんだよ。俺は接触点を見てたけど、純香は面全体の安定を見てた」
「それはそうね」
純香が頷く。
「私は崩れない方を優先してた」
「俺は、跳ねる瞬間ばっかり見てた」
「それだと、最初からズレてるってこと?」
彩葉が聞く。
「かも」
新が答える。
「結界を同じ方向へ向けるっていうか……」
「目的を揃える?」
雅が言った。
「そう」
新は頷く。
「たぶん、そんな感じ」
純香が少しだけ目を細める。
「つまり、“何を見ているか”も揃えるってことね」
「うん」
「だいぶ曖昧だけど」
「分かってる」
「でも」
純香は紙へさらに書き足した。
「無視するには惜しいわ」
◇
最初の数回は、正直に言って、あまり変わらなかった。
一枚目は純香。
二枚目は新。
待機時間を三秒に固定。
接近速度をできるだけ一定にする。
彩葉が横から見て合図を出す。
それでも結果は安定しない。
一回目は何も起きない。
二回目は弱い放電だけ。
三回目は、少し跳ねる。
でも昨日ほど劇的ではない。
「だめだな」
雅が言う。
「昨日よりマシではあるけど」
「決定打じゃない」
新も頷いた。
純香は記録をつけながら、わずかに眉を寄せている。
「昨日より揃ってはいるのよ」
「でも、まだ綺麗じゃない?」
彩葉が聞く。
「ええ」
純香は答えた。
「揃ってるのに、ぴたりとは噛まない」
「ぴたり、ね」
雅が言う。
「最近その言い方、妙に大事な感じするな」
「実際大事なんだと思う」
新は結界が消えた空間を見ながら言った。
条件は前より揃っている。
なのに、まだ足りない。
「呼吸を合わせるって言ってもさ」
雅が言う。
「結局どこで吸ってどこで止めるか、ふわっとしてるんだよな」
「たしかに」
新が言う。
「“合わせよう”って意識した時点で、逆にずれる感じある」
「そこなのよ」
純香が言った。
「曖昧なまま揃えようとしても、余計に崩れる」
彩葉が少しだけ考え込んで、それから足元に落ちていた細い小枝を拾った。
「じゃあ、こういうことじゃない?」
三人が一斉に彩葉を見る。
彩葉はその小枝を、まるで本物みたいな顔で軽く構えた。
「……何それ」
新が言う。
「指揮棒」
彩葉が答える。
「見れば分かるわよ」
純香が即座に言った。
「いや、そうじゃなくて」
雅が吹き出す。
「なんで急にそれ持ち出したの」
「だって拍って言ってたじゃん」
彩葉は割と本気の顔だった。
「せーのでやっても合わないなら、これで合図した方が分かりやすくない?」
「いや、まあ」
新は少しだけ言葉に詰まる。
「理屈は分かるけど」
「鳴海、今ちょっと笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってるわよ」
純香が言う。
「でも」
小枝を見ながら少しだけためらう。
「……やるだけやってみましょう」
「純香まで乗るの?」
雅が言う。
「ここまで来たら、やらない方が変でしょ」
「正論」
彩葉はそこで少し得意そうに、小枝を軽く振った。
「じゃあ、指揮します」
「何その宣言」
新が言うと、
「こういうの、言った方がそれっぽいじゃん」
彩葉は笑う。
「大丈夫、ちゃんとやるから」
「そこは信じてる」
新が言った。
◇
立ち位置を整える。
純香が一枚目の結界。
新が二枚目。
雅がその外側から薄く魔力を添える役。
彩葉は少し離れて、全体が見える位置。
手には、小枝の指揮棒。
「なんか急に遊びっぽくなったな」
雅が言う。
「遊びじゃないでしょ」
純香が即答する。
「結果が出れば、ちゃんと意味がある」
「篠宮、それ言うと本当に意味出るのずるい」
「意味が出るならいいじゃない」
彩葉が小枝を持ったまま、少しだけ呼吸を整えた。
「いくよ」
「はいはい」
雅が答える。
「神代、返事軽い」
「いや、でもちょっと面白いし」
「そこで笑うから合わないんでしょ」
純香が言う。
「……それはそうかも」
雅が素直に引っ込めた。
彩葉が小枝を軽く上げる。
「一」
純香が一枚目を張る。
透明な面が空気の中に立ち上がる。
新は二枚目の輪郭を整える。
雅は外側から魔力を流す直前で止める。
「二」
小枝が小さく下がる。
さっきまでと違って、全員の視線が自然にその動きへ集まる。呼吸の間も、妙に揃いやすい。
「三」
小枝が止まる。
「……今」
彩葉の声と同時に、新が二枚目を寄せ、雅が外から魔力を添えた。
接触。
ぱちっ、と今までよりはっきりした音が鳴った。
細い光が、今度は一筋ではなく、接触面を走るように広がる。
その直後、結界がふわりと外へ膨らんだ。
「っ」
新が息を呑む。
今までの“跳ねる”より、明らかに綺麗だった。
無理やり押し広げる感じじゃない。
重なった二枚が、そこでちゃんと一つになって、そのまま素直に大きくなったみたいだった。
「……え」
雅が先に声を漏らす。
「ほんとに合った」
「うそ」
新も思わず言った。
「今の、かなり」
「長さ」
純香が言う。
「一・八」
彩葉がノートを見て、少しだけ目を丸くする。
「かなり伸びてる」
「昨日の純香+俺に近い」
雅が言った。
「三人でやった結果としては、かなりいいわね」
純香も低く言う。
その場に、ほんの数秒だけ静かな沈黙が落ちた。
最初は半分笑いのつもりだった。
小枝を指揮棒にするなんて、どう考えても少し変だ。
でも、結果は変じゃなかった。
「……彩葉」
新が言う。
「何」
「それ、続けて」
「え、指揮?」
「うん」
「やっぱり?」
彩葉は少しだけ笑った。
「鳴海、こういうとき急に本気になるよね」
「今の見たらそうなるだろ」
「それはそうかも」
純香が小さく息を吐く。
「笑うのはあと」
「篠宮、今ちょっと照れてる?」
雅が言うと、
「照れてない」
純香は即答した。
「でも、今の結果自体は認めるわ」
「なら十分」
雅が笑った。
◇
もちろん、一回で全部うまくいくわけではなかった。
二回目は少し弱い。
三回目は接触までは綺麗でも、広がりが鈍い。
四回目は、またただ重なっただけで終わる。
それでも違った。
起きるか起きないかが完全な運任せではなくなっている。
“揃えたときに近づく”感覚が、少しだけ見えた。
「さっきの一回目、やっぱり特別だったな」
雅が言う。
「でも三回目も悪くなかった」
新が答える。
「うん」
純香も記録を見ながら言う。
「明らかに前より再現率は上がってる」
「“再現率”って言うと急に研究っぽい」
彩葉が笑った。
「だって研究でしょ」
純香が言う。
「今さら?」
四人で少しだけ笑う。
休憩でベンチへ戻り、水を飲みながら今日の記録を見返す。
「結局、何が効いてたんだろうな」
新が言う。
「呼吸?」
「呼吸だけじゃない」
純香が言う。
「待機時間も、立ち上げの揃え方も、神代が魔力を入れる拍もある」
「でも、全部別々っていうより」
彩葉が言った。
「みんなが同じ方を向いたときに近い感じだった」
「同じ方」
雅が繰り返す。
「それ、分かるかも」
「俺も」
新は頷く。
「最初の一回は、変に“跳ねるかどうか”を見てなかった」
「うん」
彩葉が言う。
「ただ、ちゃんと合わせようって感じだった」
「そこか」
雅が笑う。
「結局、気合い?」
「違うわよ」
純香がすぐに返した。
「でも」
少しだけ言葉を選ぶ。
「気持ち、という言い方が完全に間違いでもないかもしれない」
「お」
雅がにやりとする。
「篠宮からその単語出るんだ」
「たまには出るわよ」
「へえ」
「何よ」
「いや、なんか新鮮」
新はそのやりとりを聞きながら、ノートの余白へ小さく書いた。
気持ちを揃える
→ 結果が綺麗になる?
「何書いてるの?」
彩葉が覗き込む。
「今日のまとめ」
新が言う。
「仮タイトルみたいなもの」
「え、もう?」
雅が笑う。
「鳴海ってそういうとこあるよな」
「うるさい」
新は少しだけ照れくさくなってノートを引いた。
「でも、しっくり来るかも」
「何が?」
純香が聞く。
「気持ちを揃える、って」
新が言う。
「理屈じゃない言い方だけど、今日やったのって、結局そういうことだった気がする」
「うん」
彩葉がすぐ頷く。
「それ、すごい分かる」
◇
午後まで続けた実験の中で、午前の一回目を超える結果は出なかった。
でも、あの一回が偶然だけではないことは、もう分かった。
何も揃わずに当たっていたわけではない。
ただ手順を踏んだだけでもない。
呼吸。
待機。
立ち上げ。
触れる瞬間。
そしてたぶん、その全部を一つの方向へ向けること。
それらが揃ったときだけ、結界はいつもより素直に“跳ねる”。
夕方が近づくころ、純香が記録表を閉じた。
「今日はここまで」
「了解」
雅が言う。
「でも、かなり進んだな」
「ええ」
純香は頷く。
「昨日までよりずっと」
「“位相の噛み合わせ”って言葉自体はまだふわっとしてるけど」
新が言う。
「少なくとも、形だけじゃ足りないのは分かった」
「うん」
彩葉が言う。
「今のは、ちゃんと“合った”」
「彩葉、その感覚ほんと強いな」
雅が言うと、
「うーん、自分ではよく分かんないけど」
彩葉は少し照れくさそうに笑った。
「でも、みんなで一緒にやる方が見やすいのは確かかも」
「一緒にやる方が?」
新が聞くと、
「うん。誰か一人が頑張るより、みんなが同じとこ見てるときの方が、ぴたって来る」
「……それだな」
新は小さく言った。
誰か一人の力じゃなくて、四人の向きが揃ったとき。
その感覚は、今日見た結界の広がり方と妙に重なっていた。
最初はただの自由課題だった。
でも、今はもうそれだけではない。
新は空になりかけたペットボトルをベンチへ置き、夕方の光の中でノートを閉じた。
「次は?」
雅が聞く。
「次は、もう少しはっきり揃えたい」
新が答える。
「気持ちだけじゃなくて、どう揃ったときに一番いいのか」
「やっぱりそう来るわよね」
純香が言う。
「でも、その前に」
「何?」
「今日はここまで。あなたたち、だいぶ雑になりかけてる」
「ばれてる」
雅が笑う。
「当然よ」
立ち上がって、荷物をまとめる。
四人で坂を下りながら、新はさっきノートへ書いた言葉を思い返していた。
気持ちを揃える。
それはまだ、研究の言葉としては曖昧だ。
でも、今日の一回目の成功を思い出すと、その曖昧さごと大事にしておきたい気もした。
理屈の前に、たしかにそこにあったもの。
四人の呼吸が揃い、視線が揃い、触れる瞬間だけ全部が一つになった感じ。
それはたぶん、最後にもっと大きな何かを動かすときにも、必要になる。
夏の夕方の光は少しだけやわらかくなっていて、蝉の声も朝より遠く聞こえた。
それでも新の中では、あの一回だけ綺麗に跳ねた結界の感触が、まだ静かに残っていた。
やっと揃ってきました




