第二十八話 助け舟
研究を始めて三日目になると、最初の勢いだけではどうにもならないことが増えてくる。
面白い、という気持ちは相変わらずあった。むしろ前より強いかもしれない。結界が押し広がること。重ねた瞬間に跳ねること。放電みたいな細い光が走ること。そういう現象が、本当に目の前で起きるのだから、面白くないわけがない。
けれど、面白いからといって、言うことを聞くとは限らない。
それが問題だった。
◇
「起きない」
雅がはっきりそう言ったのは、午前中の四回目の重ね合わせが、また何も起こさずに終わったあとだった。
公園の広場の隅。
チョークで引いた基準線。
純香の記録表。
彩葉のノート。
新の手元には、今日何度目か分からないくらいの簡易結界の残像が、まだ少しだけ残っている。
結界を重ねる。
接触させる。
そして、ぱち、と走るはずの細い光を待つ。
でも、今日はそれが本当に気まぐれだった。
一回目は何も起きない。
二回目は弱い放電だけ。
三回目は少しだけ跳ねる。
四回目はまた、ただ重なっただけで終わる。
「さすがにこれは嫌だな」
雅が髪をかき上げる。
「同じことしてるつもりなのに、毎回違う」
「“つもり”だからよ」
純香が返す。
「本当に同じなら、ここまでばらつかないでしょ」
「でもさ」
新が言う。
「距離も揃えてる。結界の大きさも前回より揃えてる。接触の速度も意識してる」
「意識してるだけで、完全に揃ってるとは限らないわ」
「そこはそうだけど」
「でも、今日は特にバラつくよね」
彩葉が言った。
「昨日より」
「うん」
新も頷く。
「昨日の方が、まだ“起きるか起きないか”が分かりやすかった」
「今日は、起きても弱いし、起きなくても少しだけ揺れる」
純香が記録表を見ながら言う。
「きれいじゃないのよ」
「きれいじゃない」
雅が笑う。
「篠宮、現象に対する評価それなんだ」
「現象って、きれいな方が扱いやすいの」
「分かるような、分からないような」
新はしゃがみ込んだまま、地面に引かれた基準線を見ていた。
距離は揃えている。
結界の厚みも、昨日より気をつけている。
純香の一枚目は安定しているし、新の二枚目も前よりは揺れが少ない。
なのに、跳ねるときと跳ねないときがある。
原因が見えないまま、現象だけがまだらに出る。
それがいちばん厄介だった。
◇
「もう一回だけ、最初から整理しよう」
純香がそう言って、ベンチに広げた記録表へ目を落とす。
「今見てる条件は四つ。結界の大きさ、結界の厚み、接触距離、接触速度」
「うん」
新が頷く。
「それぞれ前回と違うところ、ある?」
「大きさは揃えてる」
雅が言う。
「厚みも、篠宮の方はほぼ一定」
「鳴海の方は?」
純香が聞くと、
「……なるべく一定」
新は言った。
「なるべく、ね」
純香が繰り返す。
「そこがもう怪しいのよ」
「分かってるって」
「分かってるなら、もっと丁寧に」
「はい」
「素直」
彩葉が言って笑う。
とはいえ、新自身も純香の指摘はもっともだと思っていた。
自分の結界は、理屈では理解していても、まだ“置くだけで安定する面”にはなりきらない。考えながら張っているぶんだけ、どこかに癖が出る。昨日よりましでも、純香には及ばない。
「でもさ」
雅が言う。
「新の結界じゃなくて、篠宮の結界同士で重ねても、今日ちょっと弱かっただろ」
「そうね」
純香が頷いた。
「それはある」
「じゃあ、新だけの問題でもない」
「ええ」
「そこが面倒なの」
純香はため息をついた。
彩葉がノートの端を指で叩く。
「ねえ」
「何?」
新が聞く。
「今の、二枚目が触れる直前だけ、ちょっと変だった」
「また?」
雅が言う。
「橘、それ毎回見えてるの?」
「毎回ってほどじゃないけど」
彩葉は少しだけ困った顔で笑う。
「なんか、合ってるときと、そうじゃないときがある」
「合ってるって、何が?」
新が聞くと、
「うーん……」
彩葉は言葉を探した。
「ぴたって来るときと、ちょっとずれるとき」
「それ、前にも言ってたな」
新は思い出す。
「ぴたって、って」
「うん」
「でも、何がぴたってなのかは分からない」
「分からないんだ」
雅が言う。
「分からないよ」
彩葉は即答した。
「ただ、今のはちょっと違う、ってだけ」
「それを拾うのがすごいんだけどね」
純香が静かに言った。
新は彩葉のその言葉に、少しだけ引っかかった。
距離。
厚み。
速度。
どれも大事だ。けれど、彩葉が言っているのは、たぶんそこじゃない。
合う。
ずれる。
ぴたって来る。
そういう“手触り”みたいな違いが、たしかに現象の側にある気がしてしまう。
◇
結局、午前中の実験はそこでいったん止めることになった。
無理に続けても雑になるだけだと純香が言い、そこは誰も反論しなかった。公園の近くの自販機で飲み物を買い、日陰へ移る。
「なんか、今日は全体に噛み合ってない感じする」
雅がペットボトルを開けながら言う。
「噛み合ってない、か」
新が繰り返す。
「うん」
「それ、分かる」
彩葉が頷く。
「昨日はもうちょっと“今これだ”って感じがあった」
「橘さんのその言い方、曖昧なんだけど妙に的確なのよね」
純香が言った。
「褒めてる?」
「一応」
「一応なんだ」
「一応よ」
四人で少しだけ笑う。
でも、そのあとにはまた静かな時間が戻った。
蝉の声だけが、やたら大きく聞こえる。
自由課題として考えるなら、最低限、条件を揃えて再現できる形にしなければいけない。
面白い現象が一回起きました、だけでは、課題にも研究にもならない。
「どうする?」
雅が聞く。
「今日はここで切り上げて、また明日?」
「それでもいいけど」
新が言う。
「今のままだと、明日も同じところで詰まりそうなんだよな」
「そこよね」
純香が小さくため息をつく。
「見てる条件がズレてる可能性がある」
「見てる条件?」
「ええ。距離や厚みじゃなくて、もっと別の何か」
「そういうの、今さら急に出てくる?」
雅が言うと、
「出てくるから厄介なんでしょ」
純香は淡々と返した。
そのときだった。
「あれ、鳴海くんたち」
少し離れた遊歩道の方から声がした。
四人が同時にそちらを見る。
一ノ瀬透が立っていた。
◇
一ノ瀬は、いつ見てもあまり目立たない。
眼鏡。
落ち着いた服装。
声も大きくない。
でも、だからといって影が薄いわけでもない。
そこにいると分かるし、視界から消える感じでもない。ただ、自分から前へ出てこないだけだ。
「一ノ瀬」
新が言う。
「珍しいな」
「そう?」
一ノ瀬は少し首を傾げた。
「図書館の帰り。近道しようと思って」
「近道でここ通るんだ」
雅が言う。
「まあ、たまに」
一ノ瀬は答えて、それから四人の手元を見た。
「何してるの?」
新と純香が、ほとんど同時に少しだけ迷った。
説明すると長い。
でも、説明しないには現場がそれっぽすぎる。チョークの線、記録表、ノート、結界を張ったあとの薄い痕跡。
「自由課題」
彩葉が先に言った。
「のための実験」
「へえ」
一ノ瀬は素直に頷く。
「面白そう」
「面白いんだけど」
新が言う。
「言うこと聞かない」
「なるほど」
一ノ瀬はそれ以上すぐには口を出さなかった。
ただ、近くのベンチの端に立って、記録表や地面の目盛りを静かに眺めている。
新は、少しだけ迷ったあとで口を開いた。
「結界を重ねたときに、たまに跳ねるみたいに大きく拡がるんだ」
「たまに?」
一ノ瀬が聞く。
「うん」
「毎回じゃない」
純香が補足する。
「同じ条件に揃えてるつもりでも、起きるときと起きないときがある」
「細い放電みたいなのが出ることもあるし、出ないこともある」
雅が言う。
「でも出ても、拡がらないときもある」
「面倒なんだよね」
彩葉が言った。
「さっきからそれで詰まってる」
一ノ瀬は少しだけ黙ってから、記録表を覗くように身を寄せた。
「見てもいい?」
「うん」
新が答える。
一ノ瀬は目だけで記録を追っていく。
結界の大きさ。厚み。接触距離。速度。結果。
「……なるほど」
短くそう言ってから、一ノ瀬は顔を上げた。
「積層型結界って、安定させるには位相の噛み合わせが大事だって、前に本で読んだことあるよ」
四人とも、一瞬だけ黙った。
「位相?」
新が最初に聞き返す。
「うん」
一ノ瀬は頷く。
「詳しくは覚えてないけど。結界って、形だけ揃ってても、重ねるときの“噛み合い方”がずれると不安定になることがあるらしい」
「噛み合い方」
雅が言う。
「何それ」
「だから、強さとか厚みだけじゃなくて、結界そのものの波みたいなものが合ってないと、重ねてもきれいに一つにならないとか」
「……」
新は少しだけ息を止めた。
波。
噛み合い。
ずれる。
頭の中で、彩葉の言葉が重なる。
ぴたって来るときと、ちょっとずれるときがある。
合ってるときと、そうじゃないときがある。
「それ」
新が言う。
「位相の乱れ、ってこと?」
「乱れって言い切れるほど知らない」
一ノ瀬は首を横に振った。
「ただ、結界の安定って、距離とか厚みだけじゃなくて、位相の噛み合わせも大事らしい、って見たことがあるだけ」
「……でも、それなら」
純香がゆっくりと言う。
「同じ形でも、毎回同じようにいかない説明にはなる」
「なるか?」
雅が聞く。
「距離も厚みも揃えてるのに?」
「揃えてる“つもり”で、基礎式の立ち上がり方や、重ねた瞬間の状態が毎回微妙に違うなら」
純香は一ノ瀬を見る。
「そういうズレが出てもおかしくはない」
「うん」
一ノ瀬は短く頷いた。
「たぶん」
彩葉がノートを持ったまま顔を上げる。
「……それ、ちょっと分かるかも」
三人の視線が彩葉に集まる。
「何が?」
新が聞くと、彩葉は少し困ったように笑った。
「いや、言葉にすると難しいんだけど。今までの“合ってる感じ”とか“ずれてる感じ”って、たぶんそれに近いのかなって」
「橘さん」
純香が言う。
「それ、もっと早く言いなさいよ」
「だって自分でも分かってなかったもん」
「まあ、そうよね」
一ノ瀬はそのやりとりを見て、少しだけ目を細めた。
「橘さん、そういうの分かるんだ」
「分かるっていうか……」
彩葉は肩をすくめる。
「なんか今のはそうかなって思っただけ」
「でも、たぶん大事だよ」
一ノ瀬は言った。
「そういう“感じ”って」
新はその言葉に、妙に引っかかった。
大事。
感じ。
曖昧なまま、でも本質に近いもの。
今まで自分たちは、結界の大きさ、厚み、距離、速度ばかり見ていた。
それは間違っていない。けれど、一ノ瀬の一言で、そこから少しだけ視点がずれた気がした。
揃えるべきなのは、目に見える条件だけじゃないのかもしれない。
◇
「……試してみる?」
雅が言った。
その声に、新が顔を上げる。
「位相がどうこうってやつ」
「試せるの?」
彩葉が聞く。
「分かんないけど、少なくとも“形を揃える”だけじゃなくて、“立ち上げるリズム”とかを揃える、くらいはできるだろ」
「リズム」
新が呟く。
「たしかに」
「今までそこは、各自の感覚任せだったわね」
純香が言う。
「そこを合わせるだけでも違うかもしれない」
「……面白くなってきた」
新が小さく言うと、
「顔」
純香が即座に返した。
「またそういう顔してる」
「今のは仕方ないだろ」
「仕方なくても顔には出るのよ」
一ノ瀬が少しだけ笑う。
「ごめん。変なこと言った?」
「いや」
新が首を振る。
「むしろ助かった」
「うん」
純香も頷く。
「少なくとも、見る条件が一つ増えたわ」
「それならよかった」
一ノ瀬は本当にそれだけ言って、必要以上に前へ出てこようとはしなかった。
そこが、この人らしいのだと思う。
「一ノ瀬、結界系好きなの?」
雅が聞くと、
「好きっていうか、読むのは面白い」
一ノ瀬は答えた。
「でも実験するのは、そっちの方がやってるでしょ」
「まあ、そうだな」
「なら、僕は本を読んだ分だけ」
そう言って、一ノ瀬は少しだけ眼鏡を押し上げた。
新はその仕草を見ながら、前に図書館で一緒に本を読んだときのことを思い出していた。
この人は、答えを全部持ってくるわけじゃない。
でも、欲しいときにちょうど一つ分だけ、視点をずらしてくれる。
だから、助かる。
◇
そのあと、一回だけ試してみた。
位相そのものが何かは、まだ分からない。
でも少なくとも、立ち上げの間を揃える。
新が二枚目を近づける速度を一定にする。
純香は一枚目を、最初の揺れが収まる瞬間に合わせる。
彩葉が横から見て、「今」と言う。
「まだ」
彩葉が言う。
「……今じゃない」
「うん」
新が息を整える。
「次」
「……今」
接触。
ぱちっ。
細い光が走った。
その直後、結界がふっと膨らむ。
「……出た」
雅が言う。
「さっきより、きれい」
純香が低く言う。
「うん」
新も頷いた。
「さっきまでより、明らかに」
大成功、というほどではない。
でも、今までの中では一番、納得のいく跳ね方だった。
「ほら」
彩葉が少し嬉しそうに言う。
「今の、“ぴたって”だった」
「それ、やっぱ大事なんだな」
雅が言う。
「たぶん」
新は答えながら、胸の奥で新しい引っかかりが形を持ち始めるのを感じていた。
位相。
噛み合わせ。
立ち上がり。
合う、ずれる。
まだ全部は分からない。
でも、“何を見ていなかったのか”は少しだけ見えた気がする。
◇
一ノ瀬は、その結果を見届けると、長く留まらずに帰っていった。
「じゃあ、僕はこのへんで」
「おう」
雅が手を上げる。
「助かった」
「ありがとう」
新が言うと、
「ううん」
一ノ瀬は小さく首を振った。
「積層型結界の話、ちょっと思い出しただけだから」
「それでも十分」
純香が言った。
「むしろ、それがなかったら今日ずっと同じところを見ていたと思う」
「ならよかった」
一ノ瀬はそう言って、いつもの目立たない歩き方で公園を出ていった。
その背中が見えなくなってから、雅がぼそっと言う。
「一ノ瀬って、なんか静かにすごいよな」
「うん」
新が答える。
「分かる」
「でも、全部を言い切らないのもあの人っぽい」
彩葉が言う。
「そこ、ちょっとずるいよね」
「ずるいっていうか、ちゃんとしてるのよ」
純香が言った。
「分からないことを分からないまま言うタイプじゃない」
「それはそうか」
新は小さく笑った。
ベンチへ戻り、純香が記録表を直す。
彩葉がノートへ「位相の噛み合わせ?」と書き足す。
雅はペットボトルの水を飲み干して、空を見上げる。
新は、自分のノートの余白に静かに書き込んだ。
跳ねる条件候補
・距離
・厚み
・接触速度
・位相の噛み合わせ?
まだ仮説だ。
でも、仮説があるのとないのとでは、次の実験の見え方がまるで違う。
助け舟、という言葉がふと頭に浮かぶ。
別に、全部を渡されたわけじゃない。
むしろまだ、分からないことの方がずっと多い。
それでも、沈みかけていた視線が、少しだけ前を向いた気がした。
「じゃあ」
純香が言う。
「次はそこを見るわよ」
「そこって?」
雅が聞く。
「立ち上げの揃え方。接触のタイミング。あと、“合ってる感じ”が何なのか」
「最後だけ急に曖昧だな」
「でも今は、それが一番無視できないでしょ」
「……うん」
新が頷く。
「たぶん」
彩葉が少しだけ肩をすくめる。
「うち、そこ言葉にできる気はあんまりしないけど」
「全部言葉にする必要はないわ」
純香が言う。
「見えるなら、それをそのまま記録すればいい」
「篠宮、それちょっと優しい」
「今日はね」
「期間限定か」
雅が笑う。
四人で少しだけ笑って、それからまたノートへ視線を落とした。
跳ねる。
その条件はまだ完全には掴めていない。
でも、ただ見失っているだけではなくなった。
夏の強い日差しの下で、新はノートの余白に残った「位相」という新しい言葉を見つめた。
まだ意味は薄い。
けれど、たぶんその先に、次の入口がある。
蝉の声がやけに大きく聞こえていた。
一ノ瀬のヒントで位相差に気付いた4人でした。




