第二十六話 研究開始
2026.04.01
自由課題の内容が決まったからといって、それで急に安心できるわけではなかった。
むしろ逆だった。
何をやるかが決まった瞬間から、今度はそれを本当に形にしなければならなくなる。題名だけならそれっぽく見える。けれど、ノートの上に書いた言葉が実際に成り立つかどうかは、結局、手を動かしてみないと分からない。
だからその日の朝、新はいつもより少し早く丘の上の公園へ向かっていた。
夏の朝は、昼よりはましだが、それでも十分暑い。蝉の声はもう朝から全力で、坂を上るだけで額にうっすら汗がにじむ。
公園の入口まで来ると、すでに雅がいた。
ベンチに片足を乗せて、紙袋をぶら下げている。
「早いな」
新が言うと、
「新も」
雅が答えた。
「一応、研究初日だし」
「その言い方ちょっとむずがゆいな」
「研究だろ?」
「まあ、そうだけど」
紙袋の中身を覗くと、飲み物と、メモ帳と、なぜか輪ゴムとチョークが入っていた。
「何これ」
「使うかもしれないし」
「輪ゴムを?」
「分からないけど、あると便利じゃん」
「その雑さ、嫌いじゃないけど信用はできない」
「ひどいなあ」
少し遅れて彩葉が来る。
「おはよー……って、もう暑い」
開口一番それだった。
「朝なのにこの感じ、もう無理」
「昼よりはましだろ」
新が言うと、
「その“まし”で外にいる時点ですごいんだって」
彩葉は言いながら、自分のノートをぱたぱたと扇代わりにした。
最後に来たのは純香だった。
肩掛けの鞄と、手には細い定規、それから何か書き込まれた紙束まで持っている。
「……何それ」
雅が言う。
「実験記録表と測定用の簡易目盛り」
純香が平然と答える。
「あと、結界の基本式の比較用メモ」
「そこまで用意してきたの?」
彩葉が目を丸くする。
「やるならちゃんとやるわよ」
純香は当然みたいに言った。
「あなたたち、どうせ感覚で始めようとするでしょ」
「否定しきれない」
新が苦笑すると、
「鳴海はまだ自覚があるだけまし」
純香は小さく息をついた。
「神代は無自覚で始めるから困るのよ」
「何その言われよう」
「事実でしょ」
「事実かも」
彩葉が笑った。
四人が揃って、ようやく始まる。
自由課題の題名は立派だった。
発光体を用いた簡易結界面の拡張と、光軌跡の平面展開の観察。
でも今日は、その手前だ。
いきなり光や花火を持ち出す前に、まずは結界そのものがどれだけ拡がるのか。どの程度までなら安定して保持できるのか。基礎から確かめる必要がある。
「じゃあ最初は単純な比較からね」
純香が紙を見ながら言った。
「結界の基本式を張る。そこへ外から魔力を加える。拡張の度合いを見る」
「俺が加える役?」
雅が聞く。
「出力なら神代が一番分かりやすいでしょ」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「便利な言葉だなあ」
「最近みんな使いすぎなのよ」
純香が言った。
新たちは公園の隅、人があまり通らない土の広場へ移動した。朝とはいえ、小さな子どもや散歩中の人がまったくいないわけではない。だから実験と言っても大規模なことはできない。範囲は小さく、安全第一。その条件は全員で最初に確認していた。
チョークで地面に簡単な基準線を引く。純香が目盛りを置き、彩葉がノートの見開きを開く。
「まず篠宮から」
新が言うと、
「ええ」
純香は頷いて、前へ出た。
◇
純香の結界は、見ていて無駄がなかった。
足元に小さく円を描く。そこから指先を滑らせるようにして、薄い膜を前方へ立ち上げる。何かを守るための壁、というより、空気の中に透明な形だけをすっと置く感じだ。
掌より少し大きい程度の、簡易結界。
「基本式、安定」
純香が短く言う。
「神代、お願い」
「はいはい」
雅が軽く前へ出る。
純香の結界に直接触れるのではなく、そのすぐ外側から魔力を流し込む。押し込むような、でも乱暴ではないやり方だった。出力の高さを隠そうともしないくせに、こういうときだけ妙に繊細なのが腹立たしい。
次の瞬間、結界がすっと外へ伸びた。
「おお」
彩葉が小さく声を漏らす。
拡がる。
ただ膨らむのではない。最初に張った形を保ったまま、そのまま大きく押し広げられていく。
一メートル。
一・五。
そして、ほぼ二メートル手前。
「……すご」
新が思わず言った。
結界はそこでふっと止まり、わずかに揺れたあと、その場で保たれた。輪郭の薄さは増しているのに、形が崩れていない。
「一・九、かな」
彩葉がノートを見ながら言う。
「二メートルまではいってないけど、かなり近い」
「うん」
純香が小さく頷いた。
「想定よりは伸びた」
「篠宮の結界、やっぱ綺麗だな」
雅が言う。
「広がり方が素直」
「神代の出力が雑じゃなかったのもあるわ」
純香が返した。
「そこ、褒めてる?」
「三割くらい」
「下がった」
新は拡がった結界を見つめていた。
同じ“結界を広げる”でも、海で花火に押し広げられたあのときとは違う。今のはもっと静かで、もっと明確だった。結界の基本式そのものが、形を保ったまま大きくなっていく。
「次、鳴海」
純香が言う。
「あなたの式でも見ましょう」
「うん」
新は少しだけ息を整えて、前へ出た。
◇
新の結界は、純香のものと比べると、ほんの少しだけ癖があった。
基本式そのものは頭に入っている。むしろ新はこういう構造の理屈を考えるのが好きだ。だから張ることそのものはできる。できるのだが、純香みたいに“迷いなくそこにある形”にはならない。
膜が立ち上がる一瞬、どこかに思考の癖が出る。均一に張ろうと意識するぶんだけ、逆に少しだけ揺らぐ。
「……いくね」
新が言うと、
「うん」
雅が今度は少しだけ真面目な顔になった。
同じように外から魔力を加える。
結界が押し広がる。
一気にではなく、段階を踏むみたいに、わずかに脈打ちながら大きくなる。
「一メートル……ちょい」
彩葉が呟く。
「一・一、くらいかな」
そのあたりで、新の結界は少し歪んだ。
崩壊まではしない。けれど、さっきの純香の結界みたいに素直には伸びきらない。輪郭の一部がわずかに薄くなり、揺れて、それ以上は押してもほとんど動かなかった。
「……止まった」
新が言う。
「うん」
純香は冷静に頷いた。
「一メートル前後で限界ね」
「倍近く違うな」
雅が言う。
「篠宮のときと」
「そうだな」
新は苦笑した。
「分かりやすいくらいに」
悔しくないと言えば嘘になる。
発想の起点は自分だった。
結界が拡大することも、外部エネルギーが触媒になりうることも、自分なりに調べて、ようやくここまで繋げてきた。
でも、いざ基本式そのものを張ってみると、安定性でははっきり差が出る。
「発想と、基本式の安定は別よ」
純香が静かに言った。
「そこは分けて考えなさい」
「……分かってる」
新が答えると、
「ならいい」
純香はそれ以上言わなかった。
彩葉がノートから顔を上げる。
「でも鳴海の方、ちょっとだけ変だった」
「変?」
新が聞く。
「うん。拡がるとき、二回揺れた」
「二回?」
「篠宮のは、すっと一回でいった感じだったけど、鳴海のは途中で、いったん迷ったみたいに見えた」
「……そんなの見えるのか」
雅が言うと、
「なんかそう見えた」
彩葉は肩をすくめた。
「違った?」
「いや」
新は少しだけ考える。
「違ってないかも」
「やっぱり」
彩葉はうんうんと頷いた。
「今の、最初と途中で少し別の力の入れ方してたでしょ」
「……してた」
「すご」
雅が言った。
「橘、そういうの分かるのか」
「何となく?」
「何となくでそこ拾うのやめてほしい」
新は言ったが、内心では少しだけ引っかかっていた。
たしかに、新は途中で無意識に補正を入れていた。
最初の基本式だけでは持たない気がして、途中で少し“考えてしまった”のだ。
それを彩葉は、理屈ではなく見えていたらしい。
◇
「じゃあ、次」
雅が言った。
「結界に結界を重ねるやつ、やろう」
「まだ早くない?」
純香が聞く。
「でも気になるだろ」
「気にはなる」
新も頷いた。
「普通に魔力を入れるだけじゃなくて、結界そのものを重ねたらどうなるかは見たい」
「……一回だけよ」
純香が言う。
「薄いものを、ごく小規模で」
「篠宮の“気になる”は、割と前向きだよな」
雅が笑う。
「あなたほどじゃない」
まず純香が小さな簡易結界を張る。
それに対して今度は新が、ごく薄い、さらに小さい結界をそのすぐ外側へ重ねるように展開した。
最初は何も起きないように見えた。
二つの薄い膜。
互いに触れそうで、触れない距離。
「もう少しだけ近づける」
新が言う。
「慎重に」
純香が返す。
「分かってる」
新が呼吸を整えて、ほんのわずかに結界面を寄せた。
ぱちっ、と細い音がした。
「っ」
彩葉が肩を揺らす。
「今の何」
「静電気?」
雅が言う。
二枚の結界が触れた瞬間だった。
ほんの一筋、白く細い光が走った。静電気みたいな、でももっと透明で、輪郭の薄い放電。
しかも、それだけでは終わらなかった。
接触した結界が、その直後、ぐっと外へ押し広がった。
「え」
新が思わず声を漏らす。
さっきみたいに雅が魔力を加えたわけではない。
新と純香が、それぞれ薄い結界を張っただけだ。
なのに重なった瞬間、二つの結界はただ重なるのではなく、ひとまとまりになったみたいに大きく広がった。
「何それ」
彩葉がノートを持ったまま一歩前へ出る。
「今の、外から何も足してないよね?」
「足してない」
新が答える。
「重ねただけ」
「でも拡がった」
雅が目を細める。
「しかも、ただ足した感じじゃないな」
「うん」
新は広がった結界を見つめた。
「倍っていうより……」
「跳ねた感じ」
彩葉が言う。
「さっきのとは全然違う」
「……それ」
新が振り返る。
「今の言い方、近いかも」
「ほんと?」
「うん。拡がったっていうより、一瞬だけ跳ねた」
純香は少しだけ険しい顔をしていた。
怖がっているわけじゃない。
むしろ、ちゃんと危険性を測っている顔だ。
「もう一回」
雅が言う。
「今の確認したい」
「待って」
純香が止める。
「先に記録。あと、接触距離を揃える」
「やっぱそこだよなあ」
「そこをやるために私がいるの」
「正論」
新はまだ広がった結界の残像を見ていた。
今のは、ただ二枚にしたからではない。
一枚と一枚。
それを足しただけなら、もう少し素直な結果になるはずだ。
でも実際には、触れた瞬間に、何か別の現象が起きた。
「鳴海」
純香が言う。
「何」
「ぼーっとしないで。今の条件、ちゃんと書いて」
「……うん」
新は我に返って、急いでノートを開いた。
◇
二度目の実験は、最初よりずっと慎重にやった。
純香が基準になる結界を張る。
新が二枚目を重ねる。
彩葉は距離とタイミングを見て、雅は外側から全体の変化を追う。
「まだ」
彩葉が言う。
「もう少し」
「うん」
「……今」
接触。
また、ぱちっ、と走る。
一度目よりもはっきり見えた。
細い電気みたいな光が、二枚の接触面を横切って、その直後、重なった結界がふっと膨らむ。
「やっぱり」
新が低く言った。
「起きてる」
「今の、一枚目と二枚目が触れた瞬間だけだな」
雅が言う。
「触れる前も、離れたあともない」
「そうね」
純香が頷く。
「接触点で何か起きてる」
「なんかさ」
彩葉が言う。
「さっきのは噛み合った感じだったけど、今のはちょっとだけずれてた」
「ずれてた?」
新が聞く。
「うん。でも、それでも跳ねた」
「違い分かるの?」
雅が言うと、
「分かるっていうか、そう見えた」
彩葉は少し困ったように笑う。
「何となく」
「橘のその“何となく”、最近ちょっと怖いな」
雅が言う。
「なんで」
「だってそこ、結構大事なとこ拾ってるし」
新は二度目の記録を書きながら、さっきよりさらに胸の奥が熱くなるのを感じていた。
普通に魔力を足して広げる。
それは分かる。
でも結界に結界を重ねたとき、ただ足しただけじゃない反応が起きる。静電気みたいな放電が走って、そのあとに予想以上の拡張が起きる。
「……これ、面白いな」
新が呟く。
「出た」
純香が言う。
「鳴海の“面白い”」
「いや、でも本当に」
新は顔を上げた。
「足してる感じじゃない」
「うん」
雅も頷く。
「俺もそう思った」
「倍っていうより、それ以上だったよね」
彩葉が言う。
「うん」
新はゆっくり頷いた。
「しかも、接触の瞬間だけ跳ねる」
「鳴海」
純香が言う。
「そこまでにしておきなさい」
「え」
「顔」
「また?」
「そう。また面倒な方向へ走りそう」
「そんな顔してる?」
「してるわよ」
彩葉が笑う。
「すごく」
「嫌な意味でね」
純香が付け足した。
「ひどいな」
新が言うと、雅が肩をすくめた。
「でもまあ、気持ちは分かる」
「神代まで」
「だって今の、普通に面白いし」
◇
そのあとは、純香の判断で一度実験を止めた。
「もう少し条件を整理してから」
というのが理由だった。正しいと思う。正しいし、だからこそ反論しにくい。
ベンチへ戻って、水分を取りながら、四人で記録を見直す。
純香の結界は、雅の魔力で二メートル近くまで拡がった。
新の結界は、一メートル前後で頭打ちになった。
結界同士を重ねると、接触の瞬間に細い放電みたいな現象が起き、その直後に予想以上の拡張が起きた。
今日やったのは、たったそれだけだ。
でも、たったそれだけのはずなのに、最初の日としては十分すぎるくらいのものが返ってきていた。
「自由課題っていうか」
彩葉がペットボトルを持ったまま言う。
「もう普通に研究っぽくなってない?」
「それはちょっと思う」
新が答える。
「最初の想定より、だいぶ」
「だから危ないのよ」
純香が言った。
「面白くなってきた瞬間から、あなたたち二人は大体速度を上げるから」
「俺らだけ?」
雅が聞く。
「主にね」
「否定しきれない」
新は苦笑した。
純香はノートの記録欄を見つめながら、小さく息をつく。
「でも、今日の収穫は大きいわ」
「うん」
新が頷く。
「かなり」
「少なくとも、“何も起きませんでした”では終わらなかった」
「それ、自由課題としてはありがたいよね」
彩葉が言う。
「出す内容が本当にゼロだと困るし」
「まだゼロどころか、ちょっと多すぎる気もする」
雅が笑う。
「初日でこれだもんな」
新は手元のノートへ視線を落とした。
最初に決めたのは、小規模な観察だった。
安全に、再現可能に、課題として成立する形で。
その方針は間違っていない。
でも実際に始めてみると、やっぱりそこから先が見えてしまう。
結界の基本式。
外部からの魔力供給。
結界と結界の重なり。
そして、接触の瞬間に起きた“跳ねる”ような拡張。
まだ名前のない感覚だった。
でも、確かにそこにある。
「……やっぱり、始めてよかったな」
新が言うと、
「珍しく素直」
彩葉が笑った。
「でも分かる」
「俺も」
雅が言う。
「こういうのは、頭で考えてるだけじゃ見えないし」
「そこはそうね」
純香も頷いた。
「実際にやって、崩れて、比べて、初めて分かることもある」
風が少しだけ吹く。
朝よりも日差しは強くなっていた。蝉の声は相変わらずうるさい。けれど、新の中には、暑さとは別の熱が確かに残っていた。
自由課題は、もう始まっている。
そしてたぶん、これはただの課題では終わらない。
ベンチの上でノートを閉じながら、新は小さく息を吐いた。
研究開始。
その言葉が、思っていたよりずっとしっくり来る気がした。
研究が始まりました




