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第二十三話 図書館にて

 夏休みの図書館は、思っていたより静かだった。


 人がいないわけじゃない。課題を広げている中学生もいるし、参考書を何冊も積んだ高校生もいる。冷房のきいた館内には、外の蝉の声や照り返しの強さとはまるで別の時間が流れているみたいだった。


 新は入口の案内板を見上げてから、まっすぐ奥の棚へ向かった。


 目的ははっきりしている。


 海で見た、あの花火のことだ。


 手持ち花火を筒状の簡易結界で包んだとき、火花は外へ散らず、内壁に沿って流れた。

 打ち上げ花火を薄い結界で包んだとき、破裂した光は球状にほどけず、平たい面の上を走った。

 そして雅が、半分冗談みたいな声で言ったのだ。


 ――なんかこれ、魔法陣に見えね?


 そのあと新が口にした言葉は、勢いのまま出たものだった。


 花火が魔法陣を描いてるんじゃない。

 破裂した光を、結界面が“魔法陣として展開してる”んだ。


 今は、その言葉が本当に間違っていないのかを確かめたかった。


     ◇


 最初に手に取ったのは、結界基礎理論の入門書だった。


 だが、そこに載っているのはせいぜい初歩の分類と定義だ。防御結界、隔離結界、保護膜、熱遮断、干渉抑制。どれも必要な知識ではあるけれど、今の新が知りたいものとは少しずれている。


「違うな……」


 小さく呟いて、別の本を開く。


 結界応用理論。

 位相制御概説。

 結界工学入門。


 似たような言葉は何度も出てくる。

 基本式、位相、層、展開面、安定化。

 でも、新の頭の中にある現象そのものへ届く記述は、なかなか見つからない。


 結界面が発光性粒子の挙動を変えること。

 高熱によって局所的に揺らぐこと。

 衝撃を受けた際に一時的な位相紋を表層に生じること。


 そこまではある。


 でも、あの夜空に広がった平面の光――あれを説明できる言葉が、まだ足りない。


 新は机の上に本を何冊も積み、メモを取りながら考えた。


 結界は、ただの壁じゃない。

 面だ。

 条件を持った面。

 だったら、その面に沿って何かが“書かれる”ことはあり得るのか。


 先日まで追っていた別の現象も、最初は言葉にならない違和感だった。調べて、切り分けて、ようやく仮説になった。なら今回も同じだ。思いつきで終わらせないためには、まず言葉を見つけなければいけない。


     ◇


 しばらくして、新は棚を移動した。


 結界理論だけでは足りないと感じたからだ。海で見たのは、結界単独の現象ではない。花火の発光、破裂、拡散、それに結界が重なって起きたことだ。なら、結界と外部エネルギーの関係を調べた方がいい。


 棚の背表紙を追う。


 干渉魔法史。

 発光術式と媒質。

 衝撃魔法と外部供給。

 そして、その中に見慣れない題名を見つけた。


 結界触媒学概論


「……あった」


 新は思わずその本を引き抜いた。


 触媒、という言葉に引っかかるものがあった。花火の破裂が結界を押し広げたのだとしたら、それは単なる加熱でも衝撃でもなく、外から別のエネルギーが流れ込んだということかもしれない。


 椅子へ戻り、急いで頁をめくる。


 そこには、思っていた以上にまっすぐなことが書いてあった。


 結界は、その基本式にエネルギーを供給することで、形状と条件を保ったまま規模を拡大しうる。


 新はその一文で、思わず手を止めた。


 形状と条件を保ったまま。

 規模を拡大しうる。


 つまり、結界は最初から大きくなくてもいい。

 小さく張った基本式に、後からエネルギーを与えれば、その“式のまま”大きくなる。


「……じゃあ、あのときの結界は」


 海で張った結界は、ごく薄くて、小さかった。

 それが花火の破裂と同時に、一瞬だけ広がった。

 広がった結果、光がその面に沿って走った。


 なら、花火のエネルギーが結界を拡張したのか。


 さらに読み進める。


 通常の結界拡張には、術者自身の出力と制御精度の限界があること。

 その上限を越えるために、外部エネルギーを触媒として取り込む研究分野があること。

 それが結界触媒学と呼ばれること。


 新の呼吸が少しだけ速くなる。


 そして次の頁で、もうひとつの言葉を見つけた。


 結界臨界点


 結界の基本式は、ある一定以上のエネルギーが与えられると、維持ではなく拡大へ移る。その境目――臨界点――を探る理論と、その制御法。


「……これだ」


 新は思わず声に出していた。


 海で起きたのは、たぶんこれだ。

 花火の破裂エネルギーが、簡易結界をその臨界点まで押し上げた。

 結果として結界は、基本式を保ったまま、一瞬だけ大きく展開した。

 その面に、破裂した光が沿って走った。


 だからあれは、ただの光の散乱じゃなかった。


「鳴海くん、そういうの調べてるんだ」


 静かな声がして、新は顔を上げた。


 一ノ瀬透が立っていた。


     ◇


 名前は知っている。

 同じクラスだから、当然だ。


 けれど、新にとって一ノ瀬は、つい最近まで“ちゃんと見えていなかった人”だった。席の位置も分かるし、眼鏡をかけていることも知っている。静かで、あまり前へ出てこない。それくらいの印象しかなかった。


 試験結果の日に、少しだけ輪郭を持った。

 そして今、その一ノ瀬が、図書館の机の横に立っている。


「一ノ瀬」

 新は少しだけ姿勢を正した。

「来てたんだ」

「うん」

 透は頷く。

「課題もあるし。鳴海くんは……課題って感じじゃなさそうだけど」

「そんなに分かる?」

「机の上」

 透が視線を落とす。


 結界工学。位相制御。結界触媒学概論。

 たしかに、夏休みの一般的な宿題の並びではない。


「何か見つかった?」

 透が聞く。

「少しだけ」

 新は開いた頁を指さした。

「結界って、基本式にエネルギーを与えると規模を拡大できるらしい」

「うん」

 透はあっさり頷いた。

「そこは大事だね」

「知ってるんだ」

「言葉だけなら」

「その言い方、信用ならないな」

「どうだろう」


 透は少しだけ笑った。


 思っていたより、ずっと人当たりが悪くない。押しつけがましくもない。ただ、必要な距離に必要なだけ入ってくる感じがある。


「たぶん鳴海くんが気にしてるのって、拡大したあとに、結界面が何か別のものみたいに見えたことだよね」

 透が言う。


 新は目を瞬かせた。


「……何で分かる?」

「本の選び方」

 透は机の上の本を順に見た。

「結界だけじゃなくて、発光とか衝撃とかも見てるから」

「なるほど」

「違った?」

「いや、合ってる」


 透は少しだけ椅子を引いた。


「座っていい?」

「うん」

「ありがとう」


 向かいに座った透は、新が開いていた本の頁を見たあと、少しだけ首を傾げた。


「これだけだと、広がったことまでは説明できるけど、その後までは足りないかも」

「その後?」

「展開面が、ただの広い膜で終わらなかったんでしょ」

「……そう」

 新は頷く。

「光が、変に面に沿って走った」

「なら、結界工学より、保存術式史の棚の方が近いかもしれない」

「保存術式史?」

「展開面に記録を残す系」


 そう言って透は立ち上がり、迷いなく別の棚へ向かった。新は慌ててあとを追う。


「知ってるんだ」

「場所だけ」

「それ、十分じゃない?」

「図書館は歩くから覚える」


 案内されたのは、さっき新が見ていた棚よりさらに奥だった。


 保存術式史。

 古式結界史。

 展開面記録法。


 背表紙の題名だけで、今の新には十分すぎるほど魅力的だった。


「これ」

 透が一冊抜き取る。

「古いから言葉は硬いけど、たぶん近い」

「一ノ瀬、こういうのも読むの?」

「たまに。面白いし」

「へえ」

「意外?」

「少し」

「鳴海くんも人のこと言えないと思う」

「それはそうかも」


     ◇


 二人で並んで本を開く。


 古い本は紙が少し黄ばんでいて、字体も今の教科書より読みにくい。けれど、内容は妙に新の知りたいところへ近かった。


 発光を伴う衝撃現象を結界面へ受けた際、その表層に一時的な位相紋が生じること。

 魔力を帯びた火花や光粒子が、その紋に沿って軌跡を固定すること。

 その結果として、瞬間的に平面的な術式模様が可視化されること。


「……これ」

 新が思わず言う。

「うん」

 透が静かに頷く。

「かなり近い」


 さらに頁を追う。


 ただし、そうした模様の大半は一瞬で失われる。

 安定した術式として保持するには、展開面の骨格――あらかじめ定められた基本式の枠組み――が必要となる。


 新はその一文を目で追いながら、海の夜空を思い出していた。


 あのとき見えたのは、一瞬だけの平面だった。

 広がった。

 光が走った。

 でも、すぐ消えた。


 それはつまり、面はあった。でも骨格がなかったということだ。


「やっぱり、あれは見間違いじゃなかった」

 新が小さく言う。

「うん」

 透が答える。

「ただ、完成もしてない」

「うん」

「入口って感じ」

「……そうだな」


 その表現が、妙にしっくりきた。


 海で見たものは答えじゃない。

 でも、確かに入口だった。

 偶然、結界が臨界点を越えた。

 偶然、花火のエネルギーが触媒になった。

 偶然、平面が生まれた。


 でも、その偶然の先にあるものは、たぶん偶然だけでは掴めない。


「面になるだけじゃ足りない」

 透が言った。

「形として残したいなら、骨組みが要る」

「骨組み」

「うん。結界の基本式でもいいし、最初から術式の骨格を持たせてもいい」

「……」


 新の頭の中で、何かがまた少しだけ動いた。


 最初は小さな結界でいい。

 そこに骨組みを持たせる。

 外部エネルギー――たとえば花火みたいな強い発光と衝撃――を触媒にして、臨界点を越えさせる。

 すると、その骨組みを保ったまま、結界面が大きく展開する。


 もしそれが夜空で起きたら。


「鳴海くん」

 透が言う。

「何」

「今、また変なこと考えたでしょ」

「変なことって」

「面倒そうなこと」

「……何で分かるんだよ」

「顔」

「最近みんなそれ言うな」

「分かりやすいんだと思う」


 透は少しだけ笑った。


 新は本を閉じずに、そのまま机へ視線を落とした。


 図書館は静かだった。

 頁をめくる音。遠くで誰かが椅子を引く音。窓の外の蝉の声。


 でも、新の中では、海の夜空の光がまだ消えていなかった。


 結界は基本式を保ったまま、エネルギーで拡張できる。

 通常の出力には限界がある。

 その上限を越えるために、結界触媒学や結界臨界点の研究がある。

 そして、展開面に骨組みを持たせれば、光はそこを術式として走る。


 そこまで分かったなら、もう戻れない。


 思いつきは、少しだけ言葉になった。

 言葉になったものは、次には試したくなる。


「……やっぱり、面白いな」

 新が呟くと、

「うん」

 透は本を閉じながら言った。

「鳴海くん、そういう顔してるとき、ちょっと怖いけど」

「褒めてる?」

「半分くらい」

「便利だな、その言い方」

「使いやすいから」


 新は小さく笑って、それからまた頁を開いた。


 夏の図書館の静けさの中で、夜空に広がるはずのまだ見ぬ形が、少しずつ輪郭を持ちはじめていた。

透くんは意外といい人でした

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