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第二十二話 夏の思い出

 夏休みが始まってから、一週間ほどが過ぎていた。


 課題を開けば午前が終わり、少し休むつもりで横になれば午後も終わる。そんなふうに、夏は長いようでいて、油断するとあっという間に日が沈む。


 だから、海へ行こう、という話になったのは、ある意味とても自然だった。


     ◇


「で、ほんとに海なの?」


 駅のホームでそう言ったのは純香だった。


 朝の光はもう十分に強く、じっとしているだけでも首筋が熱い。四人とも私服で、制服のときとは空気が少し違う。そういうことも含めて、今日はたしかに“いつもと違う日”だった。


「海だよ」

 雅が当然みたいに言う。

「夏だし」

「理由が雑なのよ」

「雑じゃないって。王道だろ」

「それはちょっと分かる」

 彩葉が笑った。

「うちも夏に海って、一回くらい行っときたい派」


 新はそのやりとりを聞きながら、小さく息を吐いた。


 楽しみだった。普通に。


 夏休みに四人で海へ行く。言葉にするとそれだけなのに、朝から少しだけ落ち着かない。課題のことも、最近考えていた魔法のことも、今日は少しだけ脇へ置いておける気がした。


「鳴海、顔ゆるんでる」

 彩葉が言う。

「そう?」

「そう。分かりやすい」

「海は普通に楽しみだからな」

「素直」

 雅が笑う。

「新って、そういうとこ変に隠さないよな」

「神代に言われたくない」

「ひどいなあ」


 電車が滑り込んできて、四人は並んで乗り込んだ。


 窓の外の街並みが少しずつ開けていき、空が広くなる。遠くに白い雲が浮かんでいて、その下に夏の匂いがもう見えている気がした。


     ◇


 海は、思っていたよりずっと明るかった。


 駅から少し歩いて、防波堤を抜けた先に広がる青。空の色をそのまま落としたみたいな海面。白く光る砂浜。返ってくる波の音と、遠くで子どもがはしゃぐ声。


「うわ」

 彩葉が思わず声を上げる。

「めっちゃ海」

「語彙」

 純香が即座に言った。

「でも分かる」

 新は小さく笑う。

「思ってたよりずっと海だ」

「鳴海まで同レベルなの何」

「新と橘、たまに変なとこで通じるよな」

 雅が笑った。


 更衣室の前でいったん別れる。


 男子更衣室は比較的すぐ終わった。雅は黒に近い濃い色の海パンで、いかにも動きやすさ優先という感じだ。新はもう少し明るい色だが、結局は無難な選択に落ち着いている。


「新」

 雅がロッカーを閉めながら言う。

「何」

「なんか緊張してる?」

「してない」

「してる顔だな」

「うるさい」

「まあ俺もちょっと分かるけど」

 雅は笑った。

「正直に言うなよ」

「言わない方が変じゃん」

「そこなんだよなあ」


 更衣室を出て、二人で待つ。


 しばらくして、女子更衣室の扉が開いた。


 最初に出てきたのは純香だった。


 新は一瞬、言葉を失った。


 純香の水着は、思っていたより華やかだった。ワンピース型で、落ち着いた色味なのに、海の光の中だと不思議と目を引く。派手というより、綺麗だった。肩や鎖骨のあたりの線がすっきり見えて、いつものきちんとした雰囲気が、そのまま夏の形になったみたいだった。


 かわいい、というより先に、綺麗だ、と思った。


 そのすぐ後ろから彩葉が出てくる。


 彩葉は、純香とは逆にぱっと明るかった。可愛らしいセパレートに、軽やかなパレオ。色も少し明るくて、海に来るための水着、という感じがそのまま形になっている。見た瞬間に「似合う」と思うタイプだ。


「……あれ」

 彩葉が立ち止まる。

「何、その反応」

「いや」

 雅が先に口を開いた。

「似合うじゃん」

「ほんと?」

 彩葉は少し目を丸くして、それから笑った。

「神代が素直だと逆に怖いんだけど」

「ひどくない?」

「だって普段もっと変なこと言うし」


 新はまだ少し遅れていた。


「鳴海?」

 純香が首を傾げる。

「何か言いなさいよ」

「……似合ってる」

 ようやくそれだけ言うと、純香は一瞬だけ視線を逸らした。

「そう」

 短い返事だったが、その声はいつもより少しだけやわらかかった。


 そのとき、純香の髪の先から落ちた水滴が、首筋を伝って胸元のあたりで消える。新は意味もなく視線を逸らしてしまった。


「新、分かりやすすぎ」

 雅が横で小さく言う。

「うるさい」

「鳴海、今ちょっと変だった」

 彩葉が笑った。

「そっちもな」

 新が返すと、

「え、何が」

「いや、別に」

「絶対何か言おうとしたでしょ」

「言ってない」


 最初の数分だけ、四人のあいだに妙なよそよそしさがあった。


 けれど、それも波打ち際まで歩いていくうちに、少しずつほどけていく。


     ◇


「冷たっ!」


 最初に海へ飛び込んだのは雅だった。


 その勢いのまま新まで引っ張られ、二人とも膝まで水につかる。思っていたより波が強くて、新は少しだけ体勢を崩した。


「神代っ」

「おー、気持ちいい」

「聞いてない」


 後ろでは彩葉が笑っている。


「男子ってほんとそういうとこあるよね」

「橘さんは行かないの?」

 純香が聞くと、

「行くけど、いきなりは無理」

「私はいきなり行く方が無理」

「それは分かる」


 結局、彩葉が先に新へ水をかけた。


「うわっ」

「ほら、もう濡れたんだから一緒でしょ」

「その理屈ある?」

「あるよ」

「ないわよ」

 純香が言ったが、その直後、雅に軽く水をかけられて「ちょっと、神代!」と珍しく声を上げた。


 そこから先は、早かった。


 四人とも、波打ち際で追いかけたり、水をかけ合ったり、少し沖まで行って戻ったりした。雅は当然のように一番よく動き、彩葉は笑い声が一番大きく、純香は最初こそ慎重だったのに、気づけばちゃんと楽しんでいた。


「篠宮、今笑ってた」

 雅が言う。

「笑ってない」

「笑ってたって」

「気のせいよ」

「いや、絶対笑ってた」

「神代」

 純香が目を細める。

「何」

「水、かけるわよ」

「やめて」

「それ、今さらじゃない?」

 彩葉が言うと、四人で少し笑った。


     ◇


 昼を少し過ぎたころ、近くの海の家で休憩を取ることになった。


 冷たい飲み物と軽食。木の床は日差しを吸ってまだ熱く、日陰へ入っても夏の匂いが濃い。


「はー、生き返る」

 彩葉がストローをくわえたまま言う。

「海って、体力削られるね」

「分かる」

 新が答える。

「思ってたより何倍も疲れる」

「新、泳ぎ方が地味に真面目なんだよ」

 雅が笑う。

「無駄に力入ってる」

「神代に言われたくない」

「でもちょっと分かるわ」

 純香が言った。

「鳴海、変にきっちりやろうとしてた」

「見られてたのか」

「見えるわよ」


 少しだけ沈黙が落ちる。


 海の光は強いのに、日陰の中には心地よい倦怠感があった。新は紙コップを手に持ったまま、なんとなく純香の方を見る。


 華やかなワンピースの肩口にかかった髪が、まだ少しだけ湿っている。いつもの純香なのに、今日だけは少し違って見えた。


「何」

 純香が先に気づいた。

「いや、何でも」

「今日の鳴海、たまに妙に静かよね」

「そう?」

「そう」

 純香は言う。

「何か変」

「変って言うなよ」

「事実だもの」


 その横で、彩葉が笑いながら髪をかき上げた。濡れた前髪の向こうで目が合って、雅は一拍だけ返事が遅れる。


「神代もたまに変だし」

 彩葉が言う。

「俺?」

「うん。さっきから素直すぎる」

「それ悪いこと?」

「別に悪くはないけど」

 彩葉は少しだけいたずらっぽく目を細める。

「見すぎじゃない?」

「……見てない」

「その間で言われてもね」

「ひどいなあ」

「でも分かる」

 新が言うと、雅が苦笑する。

「新まで乗るのかよ」

「神代にもそういうのあるんだなって思って」

「篠宮、それ言い方ちょっとひどい」

 純香が静かに言う。

「私は言ってないわ」

「顔で言ってる」

「気のせいよ」


 新はそのやりとりを聞きながら、少しだけ気が楽になった。


 意識してしまっているのは、自分だけじゃないらしい。

 そう思うと、さっきまでのぎこちなさが少しだけ笑えてくる。


     ◇


 午後は、午前よりもう少し落ち着いて過ごした。


 浅いところで浮き輪を借りたり、砂浜を歩いたり、少し離れた岩場の方まで行って戻ったりする。

 海そのものに大きな事件はなかったけれど、その分、四人で過ごす一日の明るさがよく見えた。


 彩葉は貝殻を見つけるのが妙にうまく、きれいな形のものをいくつも拾っていた。純香はそういうのに付き合いながらも、日差しの強さや戻る時間をちゃんと見ている。雅はずっと動いているくせに疲れた顔を見せず、新はそんな三人を、たまに少し離れたところから見ている自分に気づく。


 たぶん、こういう時間が“夏の思い出”になるのだろうと思った。


     ◇


 日が傾きはじめるころ、海岸の人影は少しずつ減っていった。


 オレンジ色の光が水面に長く伸びて、昼間とはまるで違う海になる。

 帰る前に、砂浜の少し人の少ない場所で花火をやろう、という話になった。


「王道だな」

 新が言う。

「海といえば花火でしょ」

 彩葉が笑う。

「神代が言い出しそうなやつ」

「今回は俺じゃないけどな」

 雅が肩をすくめる。

「でも賛成」

「私も」

 純香が言った。

「それくらいなら、夏っぽいし」


 コンビニで買っておいた手持ち花火と、小さな打ち上げ花火を砂浜へ持っていく。


 最初は普通に手持ち花火だった。


 ぱちぱちと小さく散る光。

 海の音の向こうで鳴る火花の音。

 彩葉が「あ、これきれい」と言い、純香が「近づけすぎないで」と注意し、雅がわざと大きく火花を振って「神代!」と怒られる。


 そういう時間がしばらく続いたあと、新はふと、燃えている花火の先端を見つめた。


「……これ、筒状の結界で囲ったらどうなるんだろう」


 三人が新を見る。


「また何か言い出した」

 彩葉が笑う。

「でもちょっと気になる」

「新、今日は海なんだけど」

 雅が言う。

「知ってる」

「知ってる顔じゃない」

 純香が言った。

「でも、危なくない範囲なら試すくらいは……まあ」


 その返事に、雅が笑う。


「よし、篠宮の“まあ”が出た」

「完全に許可したわけじゃないわよ」


 新は燃えている手持ち花火の周囲へ、ごく薄い筒状の簡易結界を作った。火を閉じ込めるのではなく、火花の流れに面を与えるだけの、軽い結界だ。


 次の瞬間、火花は外へ散らなかった。


 いや、散ってはいる。けれど、いつものように四方へほどけるのではなく、透明な筒の内側をなぞるように光が走った。細い線がくるりと円を描いて、ぱちぱちと連なりながら消えていく。


「……え」

 彩葉が小さく声を漏らす。

「今の、ちょっときれい」

「散ってないわけじゃないのに」

 純香が目を細める。

「面に沿って流れてる」

「なんか模様みたいだな」

 雅が言う。


 新はその光を見ながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。


 結界は、閉じ込めるだけじゃない。

 流れを面に“書く”こともできるのかもしれない。


 その感覚を完全に言葉にする前に、次の花火へ意識が移る。


     ◇


 次は小型の打ち上げ花火だった。


 砂へ立て、少し距離を取る。

 最初の一本は、普通に上げた。


 しゅる、と音を立てて花火が上がり、夜空の少し高いところで小さく破裂する。散る光。短い残光。それを見上げながら、新は先ほどの手持ち花火の残像を思い出していた。


「これ、結界で包んだらどうなるんだろう」


 今度は、もっとはっきり口に出た。


「花火を?」

 純香が言う。

「うん。破裂の瞬間だけ、外側を薄く囲ったら」

「また面倒なこと思いついてる」

 彩葉が笑う。

「でも、さっきの見たあとだと気になる」

「いいじゃん、やってみようぜ」

 雅がすぐに乗る。

「神代が一番早いのよ」

 純香が呆れる。

「でも、危なくない範囲でなら……まあ」

「また“まあ”出た」

「うるさい」


 次の花火をセットする。


 今度は新が、破裂点の少し外側へ、ごく薄い球殻みたいな簡易結界を展開する準備をした。完全に閉じ込めるのではない。一瞬だけ、破裂する光に面を与えるだけ。


「いけそう?」

 彩葉が聞く。

「分からない」

 新は正直に答える。

「でも試すだけなら」

「新がそう言うとき、だいたい何か起きるよな」

 雅が笑う。


 火をつける。

 花火が上がる。

 新はその瞬間だけ、上空へ薄い結界面を広げた。


 破裂音。


 次の瞬間、四人とも少しだけ息を止めた。


 光が、散らなかったわけではない。

 でも、いつものように球状へほどけるのではなく、見えない面の上を走った。


 夜空に、一瞬だけ平たい光の模様が広がる。


「……何、今の」

 彩葉が言う。

「散ってない」

 純香が低く言う。

「いや、散ってはいるんだけど……」

 雅が目を細める。

「変だな」


 誰もすぐには言葉を足さなかった。


 ただの花火ではない。

 ただの結界でもない。

 破裂の光が結界面の上を走って、夜空に別の形を描いた。


 雅が、半分冗談みたいな声で言う。


「……なんかこれ、魔法陣に見えね?」


 新の中で、何かが一気につながった。


「それだ」


 三人が新を見る。


 新は夜空を見上げたまま、ほとんど息を呑むみたいに言った。


「花火が魔法陣を描いてるんじゃない。

破裂した光を、結界面が“魔法陣として展開してる”んだ」


 自分で言葉にした瞬間、その意味がさらに深く自分の中へ落ちた。


 花火がただ散るんじゃない。

 散るはずの光が、面を与えられて、そこに術式みたいな形を持つ。

 もし最初からその面に骨組みを持たせたら。

 もしそれをもっと大きく、もっと複数重ねたら。


「……新」

 雅が静かに言う。

「それ、やばいな」

「うん」

 新は答えた。

「たぶん、かなり」

「今、何か先のこと考えたでしょ」

 彩葉が言う。

「顔に出てる」

「出てる?」

「出てるわよ」

 純香が言った。

「すごく嫌な意味で」

「嫌な意味で、って」

「また面倒なことになる顔なの」


 その言い方に、四人で少しだけ笑う。


 けれど、笑いながらも、誰も今の現象をただの思いつきで終わるものだとは思っていなかった。


 夜の海。

 砂浜。

 四人だけの小さな花火。


 その最後に、またひとつ、新しい入口が開いてしまった気がした。


 波の音が静かに返る。

 遠くで誰かの花火がまた小さく開く。


 新は消えた光の残像を見上げながら、胸の奥に残る熱を、たぶんしばらく忘れないだろうと思った。

また何かに気付いた新でした

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