第二十一話 期末結果と夏休み
試験が終わったあとの教室には、独特の空気がある。
解放感と、まだ結果が出ていないことへの落ち着かなさが、半分ずつ混ざったような空気だ。
問題用紙から解き放たれて、ひとまず机に突っ伏したくなる気持ちはある。けれど、答案を出した瞬間から次に待っているのは、たいていもっと静かで、もっと逃げ場のないものだった。
結果である。
◇
終業式の日の朝、教室はいつもよりざわついていた。
窓の外では、もう夏の光が校庭を白く照らしている。蝉の声も混じりはじめていて、空気だけならとっくに夏休みの入口みたいなのに、教室の中だけはまだ試験の続きだった。
「今日だっけ」
新が言う。
「今日よ」
純香が答える。
「分かってるけど、確認したいことってあるだろ」
「ないわね」
「即答だな」
雅は椅子の背にもたれながら笑った。
「新、そういうとこほんと新だよな」
「何が」
「結果出る前が一番そわそわしてる感じ」
「神代はしてないのかよ」
「してるよ」
雅はあっさり言った。
「でも今さら騒いでも変わらないし」
「それはそうだけど」
「うちはこういう日、一番やなんだよね」
彩葉が言った。
「待ってる時間が嫌」
「橘さんの“やだ”は、いつもより少し信用できるわ」
純香が言う。
「何それ」
「今日は本当に嫌そうだから」
「そう見える?」
「少しだけ」
「やば」
彩葉は笑ったけれど、その笑い方は、たしかにいつもより少しだけ速かった。
新はそれを見ながら、自分の指先が机の端を軽く叩いていることに気づいた。無意識だった。止めようとして、また少しだけ意識してしまう。
今回の試験は、前よりはやったと思う。
少なくとも、自分の中ではそうだ。
分からないところを放置しなかった。苦手な英語も、古典も、それなりに向き合った。勉強会もした。問題集も前よりは開いた。
だから少しだけ、前よりましであってほしい。
けれどその“少しだけ”が、一番落ち着かない。
◇
ホームルームは妙に短かった。
浅見が出欠を取り、連絡事項を確認し、夏休みの課題についてひと通り話したあと、最後に成績個票を配り始める。教室の空気が目に見えて硬くなった。
紙を受け取る手つきが、みんな少しだけぎこちない。
「はい、神代」
「どうも」
「篠宮」
「はい」
「橘さん」
「はーい」
「鳴海」
「はい」
自分の机に戻ってきた紙は、思ったより軽かった。
軽いのに、妙に重い。
新は少しだけ呼吸を整えてから、その紙を開いた。
科目ごとの点数。学年平均。総合順位。
まず最初に目に入ったのは、英語が思っていたより死んでいないことだった。古典も壊滅ではない。数学はそれなり。魔法学理論と魔法科学概論は悪くない。全体として、確かに前より整っている。
その一番下に、総合順位があった。
17位
「……」
新はもう一度見た。
十七位。
派手にすごい数字ではない。
でも、前より少し上がっていた。
「どうだった」
雅が横から覗き込む。
「十七」
新が言うと、雅は少し目を丸くしてから笑った。
「お、上がってるじゃん」
「うん」
新は小さく頷いた。
「ちょっとだけ」
「ちょっとでも上がったなら十分だろ」
「神代に言われると微妙だな」
「何でだよ」
その向こうで、純香はもう自分の紙を閉じていた。表情は変わらない。でも、閉じるまでが妙に静かで早かった。
「篠宮は?」
新が聞くと、
「三位」
純香は短く答えた。
「すご」
新が思わず言う。
「まあ、悪くはないわね」
「その言い方で三位なの、ほんと篠宮って感じ」
彩葉が言った。
彩葉はまだ紙を見ていた。ほんの少しだけ目線を下げたまま、表情を変えないようにしているのが分かる。
「橘?」
新が声をかける。
彩葉は顔を上げて、いつもの調子で笑った。
「二位」
「……二位」
新が繰り返す。
「十分すごいだろ」
「まあね」
彩葉は肩をすくめた。
「悪くはない感じ?」
「その言い方、ちょっと無理してるでしょ」
純香が言う。
「してないしてない」
「してるわよ」
「篠宮は鋭いんだよなあ」
だが、彩葉の笑い方はたしかに、少しだけ薄かった。
雅はというと、自分の紙をひらひらさせていた。
「五位」
「高」
新が言う。
「でも微妙」
雅は言った。
「微妙なの?」
彩葉が聞く。
「何か、もうちょい上いけた感あるし」
「そういうところよ」
純香が言った。
「気に入らないの」
「篠宮、今日は特に刺してくるな」
「今日も、でしょ」
四人の紙の上に、それぞれ別の数字が載っている。
それは単なる順番のはずなのに、その重さはみんな少しずつ違っていた。
◇
学年順位の掲示は、ホームルームのあとに廊下へ出された。
個票で自分の結果は見えていても、こういうものはやっぱり見に行ってしまう。廊下の掲示板の前には、すでに人だかりができていた。
「行く?」
新が聞くと、
「行くでしょ」
雅が言う。
「見なくても結果は同じだけど」
彩葉が言う。
「でも見る」
「そういうものよ」
純香が頷いた。
四人で人の隙間を抜けるように前へ出る。
掲示された紙の、一番上。
1位 一ノ瀬透
「……あ」
彩葉が小さく言った。
新も名前を見た瞬間、少しだけ引っかかった。
一ノ瀬透。
名前は知っている。
クラスメイトだからだ。出席番号もなんとなく分かるし、教室のどのあたりの席にいるかも知っている。
でも、ちゃんとその人を思い浮かべようとすると、妙に輪郭が曖昧だった。
教室の窓際。
静か。
分厚いぐるぐるレンズの眼鏡。
必要なとき以外あまり前へ出てこない。
そのくらいだ。
「鳴海、知らなかった?」
彩葉が聞いた。
「名前は知ってた」
新は答える。
「でも、そんなにちゃんと見てなかったかも」
「まあ、そういうタイプだしね」
彩葉は掲示の一位を見たまま言う。
「同じ中学だったんだけど」
「へえ」
雅が言う。
「そうなんだ」
「うん。今も同じクラスだし」
「前回、四位だったわよね」
純香が言った。
「今回は一位か」
「そうみたい」
彩葉が小さく息をつく。
その声は平静だった。
でも、その平静が少しだけ作られたものだと、新には分かった。
掲示の二位には、橘彩葉。
三位に、篠宮純香。
五位に、神代雅。
十七位のところに、鳴海新。
自分の名前を見つけたとき、新はまた少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。すごく高いわけじゃない。けれど、確かに前へは進んでいる。
その一方で、一位の名前の静かな強さも、妙に目に残った。
◇
「一ノ瀬」
彩葉が、その名前を呼んだのは、掲示板から少し離れたところだった。
振り向いた先に、その本人がいた。
やっぱり、名前は知っていた。
クラスメイトだから、朝の出欠のときにも聞いている。教室で見かける顔でもある。
けれど、こうしてちゃんと正面から見ると、思っていたよりずっと印象が違った。
透は、いかにも目立たない生徒、という感じの立ち方をしていた。少し大きめの眼鏡。派手さのない髪型。姿勢は悪くないのに、前へ出る気配が薄い。
でも、近くで見ると、別に暗くはない。
「橘」
透は静かに言った。
「二位、おめでとう」
「そっちこそ」
彩葉が返す。
「一位、おめでと」
「ありがとう」
その会話があまりにも普通で、新は少しだけ驚いた。もっと冷たい空気になるかと思っていたからだ。
透の視線が、彩葉の隣にいる新たちへ移る。
「神代くん、篠宮さん、鳴海くん」
透は名前を順に言った。
「みんな上位だね」
「そっちが一番上だけどな」
雅が笑う。
「そうなるね」
透はあっさり言った。
「今回だけかもしれないけど」
「その言い方、強いな」
雅が言うと、
「そう?」
透は少しだけ首を傾げた。
「別に、事実だから」
「そういうとこだよ」
彩葉が小さく言った。
透はそこで眼鏡を少し押し上げた。どうやら曇ったらしい。レンズを外して制服の裾で軽く拭く。
その瞬間、近くにいた女子たちの声がひそひそと揺れた。
「え、ちょっと待って」
「一ノ瀬、普通に顔よくない?」
「今まで気づかなかったんだけど」
「眼鏡で損してない?」
透本人はまったく気づいていないらしく、きれいに拭いた眼鏡をまた何事もなくかけ直していた。
新はそのやり取りを横で見ながら、確かに、と思った。目立たないだけで、顔立ちはかなり整っている。けれど、それより先に来るのが“目立たなさ”だから、今まで意識に引っかからなかったのだろう。
「何?」
透が新たちの空気に気づいたのか、少しだけ首を傾げる。
「いや、何でもない」
新が答える。
「そう」
透はそれ以上突っ込まず、少しだけ口元をやわらげた。
「じゃあ、また教室で」
そう言って、透は人混みの向こうへ戻っていった。
その背中を見送りながら、彩葉が小さく息を吐く。
「相変わらずだなあ」
「知ってる感じだな」
雅が言う。
「中学の頃から、ああいう感じだったの?」
「うーん」
彩葉は少し考えてから言う。
「もうちょい喋ってた気はする。でも基本、ああいうタイプ」
「静か」
新が言う。
「静か。で、抜けがない」
彩葉が答えた。
「篠宮にちょっと近い」
「やめて」
純香が即答した。
「私、あそこまで涼しい顔で一位取れないもの」
「認めるとこそこなんだ」
雅が笑う。
◇
終業式そのものは、たんたんと終わった。
校長の話。夏休みの注意。課題の確認。生活指導の定番みたいな話がいくつか続く。その間にも、結果表の数字はそれぞれの頭のどこかに残り続けている気がした。
けれど、式が終わって教室に戻り、浅見から通知や課題の束を受け取るころには、空気が少しずつ変わりはじめていた。
廊下の向こうから聞こえる蝉の声。
窓の外の濃い日差し。
机に積まれる夏休みの宿題の紙束ですら、どこか“始まり”の方へ寄って見える。
「はい、これで一学期は終了です」
浅見が言う。
「課題は期限厳守。補習対象者は一覧を確認。事故と怪我には気をつけること。あと、変な実験を外でしないこと」
その最後だけ少しだけ間を置いたので、教室の数人がちらっとこちらを見た。
「何その視線」
雅が小声で言う。
「心当たりが多すぎるのよ」
純香が返した。
浅見が出ていくと、教室は一気にざわめいた。
「夏休みだー」
「宿題やば」
「海行きたい」
「補習回避した!」
そういう声が重なっていく。結果の重さはまだ消えていないはずなのに、夏休みという言葉はやっぱり強かった。
◇
帰り道、四人はいつものように坂を上っていた。
空は高くて、日差しは強くて、もうすっかり夏だった。
「で」
雅が言う。
「それぞれ、どうだったの」
「何が」
新が聞く。
「結果に対する気持ち」
「神代、珍しくちゃんと聞くわね」
純香が言った。
「たまには」
「たまになんだ」
彩葉が少し笑う。
最初に答えたのは純香だった。
「私は、まあ、悪くないわ」
「篠宮らしいな」
新が言う。
「満足ではない?」
「満足っていう言い方はしないけど」
純香は少しだけ考えてから続ける。
「崩れていないなら、それで十分」
「篠宮のそういうとこ、ほんと篠宮」
雅が言う。
「何それ」
「褒めてる」
「なら受け取るわ」
雅は肩をすくめる。
「俺は五位、ちょっと微妙」
「高いのに?」
新が聞く。
「高いけど」
雅は笑った。
「何か、もうちょい行けた感じあるし」
「それはあるかもね」
彩葉が言う。
「英語?」
「英語」
「でしょうね」
純香が即答した。
「そこ即答する?」
「するわよ」
彩葉は少し黙ってから、空を見上げた。
「……二位は、まあ、悪くないよ」
「うん」
新が小さく頷く。
「でも?」
雅が聞く。
彩葉は一瞬だけ笑って、それから少しだけ視線を細めた。
「悔しくないわけじゃない」
その一言は、思っていたよりずっと静かだった。
「そりゃ、取れるなら上を取りたいし」
「……うん」
新は答えた。
「でも」
彩葉はすぐにいつもの調子を少し戻す。
「ちゃんと上にいるなら、次に繋げればいいかなって」
「橘、それ強いな」
雅が言う。
「そう?」
「うん」
「でも、うちはそうしないとやってけないし」
彩葉は肩をすくめた。
新はその横顔を見ながら、前に彩葉が言っていたことを思い出していた。特待生制度のこと。授業料のこと。お母さんのこと。
二位でも十分すごい。
でも、十分で止まれない理由が彩葉にはある。
それを思うと、その「次に繋げればいいかな」は、ただ前向きなだけの言葉じゃないのだと分かった。
「新は?」
今度は彩葉が聞いてきた。
「十七位」
「うん」
「……ちょっとだけ上がった」
「それでいいじゃん」
雅がすぐに言う。
「ちゃんと上がってるんだから」
「うん」
純香も頷く。
「今回はそれで十分意味があるわ」
「ほんと?」
「ほんと」
純香は言った。
「あなたの場合、一気に跳ねるより、ちゃんと積んで上がる方が大事でしょ」
「篠宮、それ今日ちょっと優しいな」
「今日は夏休み前だから」
「期間限定なんだ」
四人で少しだけ笑う。
◇
公園に着くと、風が少しだけ抜けていた。
ブランコの鎖が、かすかに鳴る。ベンチに座ると、じんわりと夏の熱が服越しに伝わってくる。
「夏休みか」
新がぽつりと言う。
「うん」
雅が言う。
「長いようで短いやつ」
「神代、絶対何かやる気でしょ」
彩葉が言う。
「そりゃまあ」
「その顔してる」
「何その顔」
「面白いこと考えてる顔」
「ひどいなあ」
「でも合ってる」
新が言うと、雅は少しだけ笑った。
純香は課題の束を軽く持ち上げる。
「私は先にこれを片づけたい」
「篠宮らしい」
彩葉が言う。
「うちは家のこともあるし、勉強も詰めたいし……でも、一回くらいは夏っぽいことしたい」
「夏っぽいことって何」
新が聞く。
「花火とか?」
「いいね」
雅が言う。
「じゃあそれ」
「決めるの早」
「でも、わりといいかも」
新も言った。
結果は出た。
うれしいことも、悔しいこともある。
自分より上の人間がいることも、ちゃんと見えた。
それでも、夏は始まる。
数字の重さを抱えたままでも、蝉は鳴くし、空は高いし、夕方の風は少しだけ気持ちいい。
「……まあ」
新はベンチの背にもたれて、空を見上げた。
「十七位でも、夏休みは来るんだな」
「当たり前でしょ」
純香が言う。
「順位で季節は止まらないわ」
「篠宮、たまにすごいことさらっと言うよな」
「たまにじゃない」
「それもそう」
彩葉が笑い、雅も笑う。
その笑いの中で、新は少しだけ息を吐いた。
一位でも、二位でも、三位でも、五位でも、十七位でも。
それぞれの思いを抱えたまま、夏はちゃんと始まる。
だからたぶん、次はその夏の中で、自分たちはまた何かを見つけるのだろう。
そんな気が、した。
一ノ瀬透初出回




