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第二話 魔法学と鳴海新

2026.03.08

 夢見が丘高校に入学して、最初に楽しみだった授業は何かと聞かれたら、僕はたぶん迷わず答える。


 ――魔法学だ。


 国語でも数学でもなく、まして体育でもない。物理化学もかなり好きだけれど、それでもやっぱり、いちばん心がそわつくのは魔法学だった。


 教科書の紙の匂い。まだ折り目の硬いページ。そこに並ぶ、見慣れない術式図と、理論式と、注意書きの数々。


 魔法は中学までにも習ってきた。物を浮かせる、簡単に火を起こす、水を集める、生活補助に使う。そういう「現実にあるもの」へ働きかける技術としての魔法は、もう珍しいものじゃない。


 でも魔法学は違う。


 それは、僕にとってずっと遠くにあったものだ。


 だから今日の一限目、実習棟の一番奥にある魔法学基礎演習室へ向かうとき、僕はたぶんかなり分かりやすく浮かれていたと思う。


「新、顔がちょっと気持ち悪い」


 隣を歩きながら、雅が平然と言った。


「楽しみにしてるだけですー」


「いや、楽しみにしてる人の顔って、もうちょい人間らしいと思う」


「失礼だな」


「でも分かるかも」


 後ろから純香が会話に入ってくる。


「さっきからずっと、教科書見てるし」


「だって初回だよ?」


「廊下で読むものじゃないでしょ」


「転んだら危ないしねー」


 彩葉が笑いながら言った。明るい声、軽い足取り、少しだけ着崩した制服。教室にいるときと同じように見えるのに、こうして並んで歩くと、不思議とまだ距離がある気もする。


 でも、昨日よりは少しだけ近い。


 それだけでも、何だか悪くなかった。


 実習棟は本校舎から少し離れた場所にある。壁材には魔力干渉を抑える特殊素材が使われていて、窓は厚く、床には術式暴走時の緩衝結界が常時展開されているらしい。入口のプレートには、


 魔法学基礎演習室A


 とだけ書かれていた。


 中へ入ると、普通の教室よりずっと広い空間が広がっていた。机はなく、代わりに床一面に細かい目盛りと補助線が刻まれている。壁沿いには器具棚と記録盤、前方には大きな黒板と投影板。いかにも「実験室」という感じだった。


 クラスメイトたちも、いつもより少しだけ静かだった。初めての魔法学。楽しみにしているのは僕だけじゃないらしい。


 やがて、ひとりの教師が入ってきた。


 四十代半ばくらいの男性で、細身の体に白衣を羽織り、黒板の前に立つだけで妙な圧がある。目元は穏やかそうなのに、口元があまり笑っていない。


「魔法学基礎を担当する、御影です」


 低く落ち着いた声が、教室の隅まで響いた。


「最初に言っておきます。中学までに習った“魔法”のつもりでここへ来た者は、今日で考えを改めてください」


 ざわ、と空気が揺れる。


 先生は黒板に大きく二つの言葉を書いた。


 魔法

 魔法学


「名前は似ていますが、これらは厳密には別物です」


 先生は白チョークを置き、僕たちの顔を一人ずつ見渡した。


「魔法とは、すでに存在している物質・力・現象へ干渉し、その状態を変化させる技術です。火を強める。水を動かす。物を浮かせる。乗り物の挙動を補助する。いずれも“あるもの”への働きかけです」


 そこで一拍置いて、今度はもう一方を指す。


「では、魔法学とは何か。こちらは存在そのものの成立条件に触れる学問です。無いものを有ることにし、有るものを無いことにする。あるいは、有るものを別の有へと変換する。物質の存在と消滅、その過程と条件を扱います」


 教室の空気が、少しだけ張りつめた。


 分かる。難しい。でも、面白い。


 黒板にさらに文字が並んでいく。


 有 → 有

 有 → 無

 無 → 有


「中学まで皆さんが主に触れてきたのは、上の変化です。すなわち、有から有への操作。現実に既に存在しているものを動かし、加工し、変質させる」


 先生はチョークで下の二つを軽く叩く。


「魔法学は、この領域に踏み込みます。もちろん、初歩の段階で本当の意味での“無から有”を完全再現するわけではありません。まず学ぶのは、既存物質の分解・抽出・再配置・再成立。その基礎です」


 僕は夢中でノートを取っていた。


 雅は腕を組んだまま聞いている。表情はいつも通り軽いのに、視線だけはちゃんと黒板を追っていた。


 純香は僕より綺麗な字で板書を写している。


 彩葉は頬杖をついているけれど、目だけは思ったより真剣だった。


「本日の実技は、石の錬成です」


 その言葉に、教室のあちこちで小さなどよめきが起きた。


 先生は続ける。


「石の錬成は、初歩に分類される魔法学実技です。理由は単純で、素材が周囲に大量に存在するからです。皆さんの足元、壁、床、空気中の塵。その中には、ケイ素を中心とした無機成分がいくらでもある」


 先生は床を軽く叩く。


「それらを微視的に分解・移送・再集合させる。言い換えれば、石を破壊し、移動させ、集め、別の石として成立させる。既存の魔法の応用でもあるため、魔法学の導入としては適しているわけです」


 なるほど。分かる。理屈はよく分かる。


 分かるからこそ、少しだけ怖くなった。


 先生が最後にひとこと付け加える。


「大きさよりも、成立の安定性を重視しなさい。崩壊させたら零点です」


 それから僕たちは、それぞれ床の目盛りで区切られた実習位置についた。


     ◇


「では開始」


 その一言で、教室の空気が一変した。


 あちこちで小さな光が走り、床に淡い術式が浮かぶ。誰かが小さく息を呑み、誰かが失敗して苦笑する音が聞こえた。


 僕も両手を前に出し、教科書で読んだ通りの順序を頭の中でなぞる。


 まず、周囲の無機成分の把握。次に対象の分離。微細移送。核の形成。圧縮。成立。


 理論は分かる。


 分かる、はずだった。


 でも実際にやると、びっくりするくらい難しい。


 感覚が散る。視界の端にある素材を認識した瞬間、それを集めるための魔力制御がぶれる。ようやく寄せ集めても、圧縮の段階でばらける。核を作ったつもりが、次の瞬間には砂みたいに崩れていく。


 額のあたりが熱い。


 もう一度、やる。


 周囲のケイ素成分を拾う。寄せる。集める。まとめる。


 小さな灰色の粒が、手のひらの上にゆっくり現れる。


 ――いける。


 そう思った次の瞬間、粒は二つに割れ、ころんと床に落ちた。


「……うそだろ」


 思わず声が漏れる。


 隣では、雅がもう成功していた。


 しかも成功どころじゃない。


「おー、できた」


 軽い声と同時に、彼の前の空間に、ごとり、と鈍い音を立てて灰色の塊が現れた。


 岩だった。


 いや、正確には“岩っぽい大きな石塊”というべきかもしれない。でも少なくとも、僕の指先でようやく生まれた粒とは比較にもならない。


 近くの生徒たちがざわめく。


「え、でか……」

「初回だよな?」

「神代、やばくない?」


 雅本人は、たいして気にも留めていない顔で石の表面をつついていた。


「先生ー、これどこまで大きくしていいんですか?」


「調子に乗るな、神代」


「はーい」


 言いつつ全然反省していない。


 少し離れた位置では、純香が静かに錬成を終えていた。


 大きさは、両手で抱えれば持てるくらい。雅ほど派手じゃない。でも表面は滑らかで、形も崩れていない。見るからに安定していて、いかにも純香らしい出来だった。


 先生も小さく頷いている。


「篠宮、いい。成立が安定している」


「ありがとうございます」


 短いやり取りまで、いかにも優等生だ。


 彩葉はというと、最初こそ「えー、これ超むずくない?」なんて言いながら笑っていたのに、途中からぱたりと口数が減った。


 集中しているんだ、と分かったのは、その次の瞬間だ。


「……できた」


 彩葉の前に現れたのは、僕が想像していた石とは少し違っていた。


 灰色の、つやのある、丸みを帯びた塊。


 よく見ると、それは綺麗なハート型をしていた。


「おお」


 誰かが小さく声を上げる。


 彩葉は一瞬だけ気まずそうに目をそらしたあと、すぐにいつもの笑顔を作った。


「いやなんか、ただの石じゃつまんないかなって」


 軽く言う。


 でも、先生はちゃんと見ていた。


「形状制御まで意識したか。初回としては上出来だ」


「え、ほんと? やった」


 その笑顔は本物だった。


 そして僕の手の中には、やっとできた小石がひとつ。


 親指の先ほどの、ほんの小さな石。


 崩れなかっただけましだと思うべきなのかもしれない。でも、視界の端に雅の岩と純香の安定した錬成物と彩葉のハート型が入ってしまうと、どうしたって比べてしまう。


 好きなのに。


 理論だって追えていたはずなのに。


 こんな小さなものしかできない。


 先生が僕の前で足を止めた。


「鳴海」


 顔を上げる。


「成立はしている。核の保持が弱いだけだ。崩壊させなかった点は悪くない」


「……はい」


「理解と実践は別だ。魔法学では特にな」


 それだけ言って、先生は次の生徒のところへ移っていった。


 慰めではなかった。


 評価として、たぶん本当にそう言ったんだと思う。


 でも、だからこそ少しだけ痛かった。


     ◇


 授業の終わり際、先生は錬成物を順に見回ったあと、最後にこう言った。


「今日の結果は、才能の優劣を決めるためのものではありません。魔法学において重要なのは、何を成立させたいのかを理解し、その条件を見極めることです」


 黒板の前に立ち、白衣の袖を払う。


「形だけ大きくても脆いものは壊れます。小さくても成立が正確なものは、次へ進める。大事なのは、自分が何をどう扱っているか、見失わないことです」


 その言葉を聞きながら、僕は手の中の小石を見た。


 小さい。情けないくらいに。


 でも、確かに僕が作った石だ。


 そこに少しだけ救われた気もした。


     ◇


 放課後、僕たちは昨日と同じように四人で帰っていた。


「いやー、雅のあれ何。岩じゃん」


 彩葉が笑いながら言う。


「え、でも加減したよ?」


「加減してあれなの?」


「してなかったら実習棟の床が危なかったかも」


「全然笑えないんだけど」


 純香が呆れたように言った。


「でも篠宮も普通にすごかったよね。あの安定感、先生めっちゃ褒めてたじゃん」


「私は手順通りにやっただけ」


「それができるのがすごいんだってー」


 彩葉が肩をすくめる。


「うちは逆に、変なとこに気がいっちゃうからなあ。ハートにするとか、あとから思うと意味分かんないし」


「いや、橘っぽくてよかったと思うけど」


 僕が言うと、彩葉は少しだけ目を丸くした。


「え、そう?」


「うん。形を作れるの、普通にすごい」


「……そっか」


 ほんの一瞬だけ、彩葉の笑顔がやわらかくなった気がした。


 雅が横から僕をのぞき込んでくる。


「で、新は?」


「何が」


「楽しかったんでしょ、魔法学」


「……まあ」


「その顔、楽しかった顔じゃなくない?」


「うるさいな」


 図星すぎて、うまく言い返せない。


 楽しかった。すごく楽しかった。授業そのものは、本当にわくわくした。


 でも同時に、はっきり分かってしまった。


 僕は好きなだけで、まだ全然できない。


 雅みたいに軽々とはできないし、純香みたいに堅実でもない。彩葉みたいに器用でもない。


 その事実が、夕方の空気みたいにじわじわ重たく胸に残っていた。


 雅はそんな僕を見て、少しだけ笑った。


「最初なんだから、そんなもんでしょ」


「おまえが言うと嫌味に聞こえるんだけど」


「ひどくない?」


「ひどくないわね」


 純香がすぐに同意した。


「初回であんなの作るほうが変なのよ」


「えー」


「えー、じゃない」


 いつもの調子のやり取りに、彩葉がくすっと笑う。


 そのまま坂道を下りながら、僕はふと口を開いた。


「でも、やっぱり面白かったんだよな」


 三人がこっちを見る。


「魔法を使うのとは、ちょっと違った。何ていうか……ただ動かすんじゃなくて、そこに“あること”そのものを考える感じで」


 言いながら、自分でも少し恥ずかしくなる。


 でも雅は笑わなかった。


「新、ほんとそういうの好きだよな」


「悪いかよ」


「全然。そういうとこ、わりと好きだわ」


 軽く言うから困る。


 純香も小さく頷いた。


「……分かる気はする。難しいけど、ただの実技って感じじゃないものね」


「でしょ?」


「私はまだそこまで余裕なかったけど」


「うちもー。手順追うので必死だったし」


 彩葉が笑って、でもすぐに少しだけ真面目な声になった。


「でも、鳴海がああいう顔するの、なんかいいね」


「どういう顔」


「好きなこと見つけた人の顔」


 そう言われると、何だか妙に照れくさい。


 僕は誤魔化すように空を見上げた。


 春の夕方の空は、昼の青さを少しだけ残したまま、ゆっくり色を変えていくところだった。


     ◇


 その日の夜、机に向かってノートを開いた。


 授業内容のまとめ。先生の板書。石の錬成手順。失敗の原因。核の保持不足。移送時の分散。圧縮段階での崩壊。


 書き出してみると、自分が何に躓いたかはよく分かった。


 分かる。


 でも、できるようになるかは別だ。


 ペンを持つ手が、少しだけ止まる。


 頭の中に浮かぶのは、雅の岩、純香の安定した錬成物、彩葉のハート型。そして自分の、小さな小石。


 情けないな、と思った。


 好きなのに、届かない。


 ただ憧れているだけみたいで、少し悔しかった。


 それでも。


 ノートの端に、僕は小さく書いた。


 誰も見たことのない魔法


 その下に、もう一行。


 既存分類の外側にあるもの


 僕はまだ、小石ひとつしか作れない。


 でも、だからといって諦められるほど、この世界はつまらなくなかった。


 魔法学は難しい。危険だし、思ったよりずっと不器用さが露骨に出る。


 それでも、知りたいと思う。


 もっと先を見たいと思う。


 ページの端に、今日作った石の大きさを書き込んでから、僕はペンを置いた。


 悔しさは消えていない。


 たぶん、しばらく消えない。


 でもその悔しさごと、前に進むしかないのだと、何となく思った。


 窓の外には、静かな夜が広がっている。


 その夜の向こうに、まだ名前のない何かがある気がした。


 そして僕は、たぶんもう、その入り口に立ってしまっている。


     ◇


 授業後、御影は生徒たちの錬成物をひとつずつ元に戻していた。そのまま放置していては、次の授業に差し支えるからだ。


「……ここまで大きいものは、最近では珍しいな」


 雅の残した大きな石塊を見て、御影は小さく呟く。

 杖で軽く触れると、石はさらさらと音を立て、元の微細な塵へと還っていった。


 続いて、そのすぐそばにあった小石にも杖先を向ける。


 同じように分解しようとして――御影の手が、ふと止まった。


「……これは?」


 違和感があった。


 御影は小石を拾い上げ、光にかざす。

 灰色の表面の奥に、かすかな透明感が見えた。


「水晶核……か」


 思わず、口元がわずかに緩む。


 本来、石の錬成において重要なのは大きさではない。

 核の安定性と密度。そこが成立の質を決める。

 そして水晶に近い結晶核は、強い圧縮と精密な再配列が偶然でも起きなければ生まれない。


「小さいなりに、面白いものを作る」


 誰の作品だったかは、記録を見ればすぐに分かる。


 鳴海新。


 御影は小石を見つめたまま、静かに笑った。


「……今年は、少し楽しみかもしれんな」


学園生活が始まりました。


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