第十九話 いただきます!
実技試験、と聞いたとき、新が最初に思い浮かべたのは、もっとこう、夢見が丘高校らしい何かだった。
複雑な術式の構築とか。危険な物質の安定化とか。あるいは、また何か、教師たちが平然と出してくる「本当に高校一年にやらせるのか」と言いたくなるような課題とか。
まさか、料理だとは思わなかった。
◇
「本日の実技試験は、調理実習です」
白峰がそう言った瞬間、実習室の空気が一度きれいに止まった。
前方の長机には、人数分の材料が整然と並べられている。
一人分の米。肉。野菜。カレールー。鍋。どんぶり。皿。
それだけだ。
視線を横へずらすと、実習場の隅には大きな樽がいくつも置かれていた。どれにも蓋がされ、札にはただ一文字だけ書かれている。
水。
「なお」
白峰がにこやかに続けた。
「支給する調理器具は、鍋と器を各人ひとつずつまで。包丁、まな板、しゃもじ、火口、ざる、そのほか便利なものは一切ありません」
「いやいやいや」
彩葉が思わず言う。
「それ、だいぶ無茶じゃない?」
「そう思った人から工夫を始めてください」
白峰は笑顔のままだった。
「調味料棚にあるものは使用可。塩、胡椒、油、醤油、そのほか一般的な補助調味料は自由です」
「自由って言われると逆に困るな」
雅が小さく言う。
「神代は困らないでしょ」
純香が即座に返した。
「そう?」
「むしろこういうときに余計なことを思いつくタイプ」
「それはちょっと褒めてる?」
「半分くらいは」
「便利な言葉だなあ」
新は机の上の材料を見つめていた。
米と肉と野菜とルー。
水は樽。
火は自力。
切るのも自力。
つまり、先日やった水から火を起こす操作も、最近習った転送魔法も、風の制御も、全部使えということだ。
「制限時間は一時間」
今度は御影が低い声で言った。
「最終的に試験官が試食する。食べられて、美味ければ合格だ」
「食べられて、って基準低いようで高いな」
新が呟く。
「あと地味に怖いの、試食の方だよね」
彩葉が言う。
「味で判定されるの、魔法の失敗より刺さる」
「分かる」
新が頷いた。
実習室の後方には、今日は雨宮までいる。どうやら安全監督らしい。腕を組んだまま、実習台と樽と各自の材料を見ていた。
「言っておくけれど」
雨宮が口を開く。
「風で食材を切るなら、切ること。潰すことではないわ」
「怖」
雅が小さく言う。
「火を起こすなら、燃やすこと。爆ぜることではないわ」
「はい」
「水を転送するなら、必要量だけ。鍋ごと溢れさせたら、その時点で雑」
「はい」
「今日は総合実技よ。ひとつの魔法が上手くても、料理として成立しなければ意味がない」
そこで白峰が軽く手を打った。
「では、はじめましょう。正面から考える人も、少しひねる人もいるでしょうが、与えられた材料で一番素直に辿り着ける料理はひとつです」
「……カレー」
新が小さく言う。
「そう」
白峰が笑う。
「ただし、“正しく辿り着く”のと、“おいしく辿り着く”のは別ですよ」
◇
開始の合図と同時に、実習場の空気が動き出した。
新はまず鍋を持って樽の前に立つ。
水をどうするか。転送で必要量だけ鍋へ移すのがいちばん無駄がない。問題は量だ。米も炊かなければいけないし、カレーの分もいる。鍋はひとつ。普通に米を炊いてからカレーを作るには、工程も器も足りない。
「……やっぱり普通のカレーでいくか」
新は小さく言った。
鍋で米を炊き、そのまま具材とルーを入れて、水加減を調整して最後にまとめる。雑炊やリゾットに逃げることも一瞬考えたが、今回は正面から行った方がいい気がした。正着解があるなら、一度そこを通るべきだ。
小さな転送陣を鍋の足元と樽のそばに描く。
起点と終点。
必要量だけ。
こぼさない。
光が淡く走り、鍋の底に水が現れる。多すぎない。少なすぎない。先日よりもずっと自然に手が動いた。
「鳴海、もう始めてる」
隣の区画から彩葉が言う。
「そっちは?」
「まだ考え中」
「珍しい」
「ちょっとね。普通のカレーだとつまんない気もして」
「出た」
雅が笑う。
「橘のそういうとこ」
「神代に言われたくないんだけど」
「でもたぶん、今日の一番の問題児は俺じゃないよ」
「え?」
「たぶん神代よ」
純香がきっぱり言った。
そのときにはもう、雅は火を起こしていた。
早い。
鍋の下に小さな保持場を作り、水を一部だけ分解する。水素と酸素を分け、局所的に接触面を作って着火。先日やった実習の応用だ。しかも立ち上がりが異様に速い。
「雅、火強すぎない?」
新が言う。
「これくらいでしょ」
「これくらいじゃない」
純香が即答した。
「絶対あとで困る」
「困らないようにするから大丈夫」
「その返しが信用ならないのよ」
だが雅は、口で軽く流しながらも火力を少しだけ落とした。そういうところがまた腹立たしい。勢いでやっているように見えるくせに、ギリギリで外さない。
◇
純香は、予想通りというべきか、最も教科書的に美しかった。
水の転送は正確。火の起こし方も安定。風の刃で切った野菜は、大きさがほとんど揃っている。じゃがいももにんじんも、肉まで無駄なく同じ厚さに分かれていく。
「すご」
彩葉が思わず言う。
「篠宮、包丁持ってないのに包丁より切れてない?」
「切れすぎると危ないから、そこは抑えてるだけ」
純香は平然と言う。
「それで“だけ”なの怖いな」
新が苦笑した。
純香は工程もきれいだった。最初に油を薄く熱し、肉、玉ねぎ、残りの野菜を順に入れる。香りが立つまで待ってから水を加え、煮込み、ルーを溶かす。その間に米は別手順で鍋の端を使って半炊きにし、最後に合わせる。
鍋ひとつしかないのに、工程が渋滞していない。見ているだけで頭が整理される。
◇
彩葉は、少し迷ってから方向を決めたらしかった。
「うち、カレーピラフにする」
そう言ったとき、新は少しだけ目を見開いた。
「そっちに行くんだ」
「鍋ひとつなら、その方が収まりいいかなって」
「たしかに」
新は頷く。
「炊くのと煮るのを分けないで済む」
「でしょ?」
彩葉の良さは、やっぱり“間”だった。
火が強すぎる前に落とす。
肉に香りが移る瞬間に玉ねぎを入れる。
米を入れるタイミングを見て、水分を飛ばしすぎない。
風で食材を切るときも、純香みたいに均一ではない。でも、食べたときにちょうどよさそうな大きさを、感覚で選んでいる感じだった。
「橘、料理できるんだな」
新が言うと、
「それなりには」
彩葉が笑う。
「家でもやるし」
「ああ……」
新は小さく頷いた。
それ以上は何も言わなかったが、彩葉がこういう場面で妙に強い理由は、きっとそこにあるのだと思った。
◇
新は、自分の鍋と向き合った。
まず米を洗い、水を測る。
鍋の中で火を立て、静かに沸かす。
その間に風で野菜と肉を切る。
ここで少し手間取った。
風の密度を上げれば切れるわけじゃない。強くしすぎると野菜が逃げ、じゃがいもは割れ、玉ねぎの薄皮だけが変なふうに剥がれる。
「っ……」
新は眉を寄せた。
にんじんの一片が予定より厚い。
じゃがいもは一つ、角が大きく欠けた。
「鳴海、大丈夫?」
彩葉が小声で言う。
「大丈夫じゃないかも」
「正直」
「でも進めるしかない」
「うん、頑張れ」
新はもう一度風を整えた。
切る。
押すんじゃなく、境界を断つ。
短く、細く、食材が逃げる前に。
今度はさっきよりうまくいった。
米に火を通しはじめたところで、別の小保持場へいったん移し、鍋を空ける。油を少しだけ使い、肉と玉ねぎ、ほかの野菜を順に入れて軽く炒める。香りが出たところで水を足し、煮立て、ルーを溶かし、半炊きの米を戻す。
派手さはない。
でも工程としては、かなり筋が通っていると思う。
「鳴海、それ結局普通のカレー?」
雅が聞いてきた。
「普通のカレー」
「新らしいな」
「どういう意味だよ」
「真正面ってこと」
「褒めてる?」
「かなり」
「じゃあ受け取っとく」
◇
そして雅だった。
最初から嫌な予感はしていた。
火を起こすのが速い。
水を移すのが速い。
具材を切るのも速い。
だが途中から、どう見ても米の様子がおかしかった。
「雅」
新が声をかける。
「何してる」
「何って」
雅は平然と答える。
「加工」
「米を?」
「うん」
鍋の脇で、雅は米を薄い保持場の上へ広げていた。そこへ風を何重にも当てて、粒を砕いている。完全に粉ではないが、もはや米ではない何かになりつつある。
「いや待って」
新が言う。
「それ何になるの」
「麺」
「麺!?」
彩葉がほとんど叫んだ。
「神代、何言ってんの!?」
「いや、鍋ひとつでカレーなら、つゆにして麺入れれば早いかなって」
「早いかな、じゃないのよ!」
純香が珍しく大きな声を出した。
「米しかないでしょ!」
「だから米を挽いてる」
「意味が分からない」
「俺にも分からない」
新が言う。
「でもたぶん止まらない」
「止まらないね」
彩葉が遠い目をした。
雅は本当に止まらなかった。
砕いた米を水と少量の塩でまとめ、風と圧で薄く延ばし、さらに細く切る。蕎麦と呼ぶには無理があるはずなのに、見た目だけは妙にそれらしくなっていく。
「……それ、もう蕎麦って言い張る気?」
新が聞く。
「言い張る」
雅が即答した。
「見た目が麺なら、だいたい麺」
「だいたいで料理しないでよ」
彩葉が言う。
「でもちょっと見たい」
「見たいんだ」
「見たいでしょ、これは」
「まあ、分かる」
新も否定できなかった。
雅はその“米蕎麦”を別保持場で軽く茹でながら、鍋ではカレーつゆを作っていく。肉と玉ねぎを強めの火で炒め、香りを立て、他の野菜は小さめにして煮溶かす方向へ寄せる。少量の醤油まで使って、和風に振っていた。
「それ、ルール的に大丈夫なの?」
新が聞く。
「調味料棚のものは自由なんだろ」
「それはそうだけど」
「発想がやかましいのよ」
純香が言った。
◇
実習場の空気は、時間が経つにつれてカレーの匂いで満たされていった。
香辛料。肉。火の匂い。少し焦がしかけた匂い。水分の飛ばしすぎた匂い。どこか薄すぎる匂い。
誰かの鍋は明らかに水っぽい。別の誰かは火を強めすぎて焦げている。
その中で、新たち四人の区画だけは、それぞれ方向は違うのに、ちゃんと“完成へ向かっている”匂いがしていた。
「はい、残り十分」
白峰の声が響く。
その瞬間、実習場の緊張が一段上がる。
新は火加減を整えた。米に最後の芯が残っていないかを見て、鍋の中身をゆっくり混ぜる。ちょうどよく、とろみがついている。これならいける。
純香は盛り付けに入っていた。
カレーを皿へ。
米をどんぶりへ、ではなく、ちゃんと皿の中で分けて盛る。
見た目まで整っている。
彩葉のカレーピラフは、色がよかった。ルーを炊き込みに寄せて使っているせいか、香りが立っている。表面には少しだけ焦げ目があり、それがむしろ美味しそうだった。
雅は最後まで雅だった。
どんぶりに麺状の米を入れ、上からカレーつゆをかける。
細かくした肉と野菜。
見た目はどう見ても、カレー蕎麦だった。
「おかしい」
新が言う。
「材料はおかしくないのに、出来上がりだけおかしい」
「名言かも」
彩葉が言う。
「褒めてない」
「分かる」
◇
「では、試食します」
試験官は白峰と御影だった。雨宮は今日も安全監督に徹していて、「味の責任までは持たないわ」と一歩引いている。
最初は新。
白峰がスプーンですくい、口に運ぶ。
少しだけ目を細める。
「正統派ですね」
「はい」
新が小さく答える。
「素直にカレーまで持っていったのは正解です。工程も理にかなっている」
「味は?」
新が聞くと、御影が短く言った。
「ちゃんとうまい」
「……よかった」
「ただし」
御影は続ける。
「じゃがいもの切りが少し荒い。風刃の精度不足だ」
「そこは自覚あります」
「ならいい」
次は純香。
白峰がひと口食べた瞬間、少しだけ笑った。
「完成度が高い」
「ありがとうございます」
純香が答える。
「火の通り、塩味、ルーの濃度、水分量。かなり安定しています」
「うん」
御影も頷いた。
「今日の“カレー”としては、最も正しい」
「さすが篠宮」
雅が小声で言う。
「安定感の塊」
「神代に言われると腹が立つのよね」
純香はそう言ったが、ほんの少しだけ口元がやわらかかった。
彩葉の番。
白峰はスプーンを入れた瞬間に香りで少しだけ表情を変えた。
「これは、いいですね」
「ほんと?」
彩葉が目を丸くする。
「ピラフ寄りに振ったの、正解だったと思います。炊き込みの方向へ寄せたから、鍋ひとつでも無理がない」
「やった」
「火の入れ方に勘がある」
御影が言う。
「雑だが、雑さが破綻していない」
「先生、それ褒めてます?」
彩葉が聞く。
「褒めている」
「ならいいや」
そして最後に雅。
どんぶりに入った麺を見た瞬間、白峰が一度だけ完全に止まった。
「……神代くん」
「はい」
「これは何ですか」
「カレー蕎麦です」
「米しか支給していませんが」
「米から作りました」
「作ったんだ……」
白峰が小さく呟く。
御影が箸を取り、一口すすった。
少しだけ沈黙が落ちる。
「……うまいな」
「ですよね」
雅が言う。
「だが」
御影は言葉を切る。
「正着解からは外れている」
「外れてます?」
「かなり」
御影は真顔で答えた。
「だが、試験条件からは外れていない」
「やった」
「やってないわよ」
純香が横から言う。
「何その判定」
「教師泣かせだな」
白峰が苦笑した。
「でも、発想と技術は認めます」
それで、四人とも合格になった。
◇
片づけを終えて、公園へ向かう坂を上るころには、もう夕方だった。
「寿命縮んだ」
彩葉が言う。
「味見されるの、ほんとに怖い」
「分かる」
新が答える。
「魔法の失敗より、料理の失敗の方が直接刺さる」
「鳴海、それさっきも言ってた」
「でも本当にそうだったし」
「それはそう」
雅が笑う。
ベンチに座ると、まだ少しだけ制服にカレーの匂いが残っていた。
「それにしても神代」
純香が言う。
「なんで蕎麦なのよ」
「麺にしたかったから」
「理由が雑すぎる」
「でも美味しかったでしょ」
「それがまた腹立つのよ」
彩葉がくすくす笑う。
「うち、篠宮のカレーが一番“カレー”って感じした」
「ありがとう」
純香が言う。
「橘さんのもよかったわ。あれ、ちゃんと美味しかった」
「やった。鳴海のも普通に好き」
「“普通に”が少し刺さるな」
新が言うと、彩葉が笑った。
「褒めてるって」
「でも新の、ちゃんと新っぽかったよな」
雅が言う。
「何が」
「真正面」
「それ褒めてる?」
「かなり」
「じゃあ受け取っとく」
少しだけ風が吹く。
魔法で火を起こし、水を移し、風で切り、鍋ひとつで料理を作る。
派手な現象ではない。
名前のない魔法でもない。
でも、たぶんこういうものの方が、ずっと世界に近い。
作って、盛って、食べてもらって、うまいと言われる。
そこまで届いて初めて、魔法は本当に生活の中に入るのかもしれない。
「……なんかさ」
新がぽつりと言う。
「今日の方が、夢見が丘っぽい気がした」
「へえ」
彩葉が聞く。
「どういう意味?」
「すごいことをするんじゃなくて、普通のことを魔法でやる感じ」
「分かるかも」
彩葉が頷く。
「食べられるって強いよね」
「それはかなりそう」
雅が笑う。
「最終的に腹に入るの、偉い」
「神代は結局そこなのね」
純香が言った。
新は少しだけ笑って、夕空を見上げた。
見たことのない魔法を追いかけている。
その途中で、たくさんの普通も学んでいる。
火を起こすこと。
水を移すこと。
風を刃にすること。
そして最後に、誰かに向かって言うこと。
「……いただきます、か」
小さく呟くと、彩葉が首を傾げた。
「今さら?」
「いや、なんか今日の締めにちょうどいいなって」
「それは分かる」
雅が言う。
「じゃ、帰ったらもう一回食べるか」
「神代、それは食べすぎ」
純香が呆れたように言う。
「でもちょっとだけ分かる」
新が言うと、
「鳴海まで」
彩葉が吹き出した。
夕方の風が、まだ少しだけカレーの匂いの残る制服を揺らしていた。
カレーピラフが食べたいです




