第十八話 魔法の宅急便
物を運ぶ魔法、と聞くと、もっと派手なものを想像する人は多いのかもしれない。
たとえば空を飛ぶ荷箱だとか、光に包まれて一瞬で消える配達便だとか、そういうものだ。
けれど夢見が丘高校で教わる転送魔法の初歩は、もっと地味だった。
地面に魔法陣を描く。
その隣に、もうひとつ描く。
片方に物を置く。
そして、もう片方へ移す。
言葉にすれば、それだけだ。
ただし、それだけのはずなのに、やってみると全然それだけでは済まなかった。
◇
「本日の実技は、転送魔法です」
魔法学基礎演習室に入ってきた御影が、いつもの低い声でそう言った瞬間、教室の空気が少しだけざわついた。
黒板の前には、白線で区切られた実習区画の見取り図が映し出されている。床にはすでに小さな円形のマーカーがいくつも並んでいて、その上に魔法陣を描くのだと一目で分かった。
「転送魔法は、“移動させる”のではありません」
御影はそう言いながら、黒板に二つの円を書いた。
ひとつの円。
その隣に、もうひとつの円。
「ある場所にあるものを、隣接した別の場所へ“移す”。このとき、物体を途中経路で運ぶわけではない。位置関係を接続し、存在位置を切り替える。それが転送魔法です」
「存在位置を切り替える、か」
新は小さく呟いた。
その表現は、いかにも魔法学らしかった。
ただ持ち上げて運ぶのではなく、“そこにある”を別の場所へ渡す。
「今日は初歩ですので、隣接する二つの魔法陣のあいだのみを扱います」
御影は続ける。
「転送対象は小物のみ。質量制限あり。生体は禁止。隣接していない陣への転送も禁止。個人実技です」
「個人かあ」
彩葉が小さく言う。
「また?」
雅が笑った。
「最近そういうの多いね」
「当然だ」
御影が即答する。
「共同作業の影に隠れて雑になる者が出る」
「うわ、耳が痛い」
「誰のことかしら」
純香が言う。
「神代でしょ」
「篠宮、即答だな」
「即答するわよ」
そこへ、実習室の後方の扉が開いた。
新が振り向くと、雨宮が入ってくる。腕を組んだまま、教室全体を一度見渡してから、御影の横へ立った。
「今日、雨宮先生もいるんだ」
彩葉が小声で言う。
「空間接続系だからだろうな」
新が答える。
「結界の安定を見るのかも」
「つまり、危ないってこと?」
「たぶん」
「やだなあ」
彩葉はそう言いながらも、少しだけ楽しそうだった。
雨宮はそんな生徒たちのざわめきを気にした様子もなく、淡々と口を開いた。
「転送魔法は、派手に見えないわりに事故率が高い魔法よ」
「怖い言い方しますね」
雅が言う。
「事実だから」
雨宮は即答した。
「接続が甘ければ転送は失敗する。座標がずれれば落下もする。境界が乱れれば、対象は途中で弾かれる。だから今日は、速さよりも安定を優先しなさい」
「はい」
クラスのあちこちから返事が重なる。
だがその“速さよりも”という言葉に、なぜか新は雅の横顔を見てしまった。
そして雅も、少しだけ面白そうに口元を上げていた。
◇
最初の模範は御影が見せた。
床に描かれた二つの小さな魔法陣。片方に木片を置き、もう片方を空にしている。
「転送魔法の基本は、二点の認識と隣接性の確保だ」
御影が指先を軽く上げる。二つの陣の輪郭が淡く光り、そのあいだに見えない糸のようなものが一瞬だけ張った気がした。
次の瞬間、木片はもう隣の陣の上にあった。
途中は見えなかった。
飛んだわけでもない。
ただ、そこにある位置が変わっていた。
「おお」
彩葉が思わず声を漏らす。
「今の、見えた?」
「見えない」
雅が言う。
「でも分かる」
「分かるの?」
新が聞くと、
「“移った”のは分かるだろ」
雅は肩をすくめた。
御影は木片をもう一度戻し、今度は少し速度を上げてみせた。
木片は、右、左、右、と短く連続で位置を変える。
「隣接している限り、連続転送は可能だ。ただし、接続と切り替えの速度が追いつけば、の話だ」
「つまりそこが難しいってことですね」
新が言う。
「そうだ」
御影は頷く。
「鳴海、おまえにしては素直に本質を拾ったな」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
教室に小さな笑いが起きる。
新は少しだけ頬を掻いた。
けれど、今の模範を見て、頭の中にいくつも考えが浮かんでいたのも事実だった。
位置を切り替える。
隣接した陣だけ。
連続転送は可能。
つまりこれは、“道を作って流す”のとも違う。もっと離散的で、もっと構造的だ。
「では各自、魔法陣を描きなさい」
御影が言う。
「基本形から始める。二陣転送、次に三陣連続転送までが今日の課題だ」
◇
新たちはそれぞれ個別の区画へ散った。
床にチョークで二つの陣を描く。単純に見えて、これが意外と緊張する。線のゆらぎひとつでも接続精度に影響する、とさっき雨宮が言っていたからだ。
新はしゃがみ込み、ゆっくり円を描いた。
起点陣。
転送先陣。
隣接距離は一定。
向きも揃える。
少し離れたところでは、純香がすでに綺麗な陣を描き終えていた。無駄がなく、線が安定している。見ただけで、たぶん失敗しないタイプの魔法陣だと分かる。
彩葉は思ったより器用だった。線は多少ラフなのに、不思議と全体のバランスがいい。
そして雅は――相変わらず早い。
雑に見えるわけではない。必要なところだけを迷いなく通していく感じだ。線を引く速さそのものに、もうためらいがない。
「神代、それ速すぎない?」
新が声をかけると、
「でもズレてないだろ」
雅は振り返りもせずに言う。
「それが腹立つんだけど」
「褒めてる?」
「褒めてない」
「残念」
最初の課題は単発転送だった。
対象は木製の小さな立方体。片方の陣に置き、もう片方へ移す。
純香が最初に成功した。
淡い光。
小さな揺らぎ。
次の瞬間、木片はもう隣の陣にある。
派手さはない。けれど、安定している。何の無理もなく、あるべき手順を踏んで移った感じだった。
「さすが」
彩葉が言う。
「堅いわね」
「褒めてるの?」
純香が聞く。
「かなり」
「なら受け取っておくわ」
彩葉も続けて成功する。
純香より少しだけ発動が軽く、切り替えの“間”が綺麗だった。置いたものがふっと抜けるみたいに移る。
「橘さん、タイミングいいわね」
純香が言う。
「そう?」
「無駄な溜めがない」
「へえ」
彩葉は少し嬉しそうに笑った。
「なんかそういうの、ちょっと得意かも」
新も単発転送は問題なく成功した。
最初にわずかな引っかかりはあったが、一度コツを掴むと比較的素直に移る。位置を“押す”んじゃない。接続して、切り替える。その感覚に頭が追いついた瞬間、木片は抵抗なく隣へ移った。
「悪くないな」
新は小さく言った。
「単発はね」
雅の声が飛んでくる。
「うるさいな」
そして雅は、当然のように成功した。
というより、成功の仕方が違った。
御影が見せたときよりも、さらに間が短い。光ったと思った瞬間にはもう終わっている。木片は“移った”というより、一瞬だけ存在位置を交換されたみたいに見えた。
「速……」
新が思わず漏らす。
雅は肩をすくめた。
「これ、感覚掴めば楽だな」
「その言い方ほんと嫌い」
純香が言う。
「まだ単発なんだから、調子に乗らないで」
「篠宮、今日厳しいなあ」
「今日も、でしょ」
彩葉が笑う。
◇
次の課題は、三陣連続転送だった。
横に並んだ三つの魔法陣。左から中央、中央から右へ。木片を順に送る。
ここで差が出た。
純香は安定していた。
一回目を確実に成功させ、少しだけ間を置いて二回目も成功させる。速くはない。けれど、崩れない。失敗しない。先生受けのいい魔法、という感じだった。
彩葉は純香ほど堅くないが、接続の“切り替わる瞬間”が上手い。一回目が終わるより少し前に次の準備へ入っていて、連続の流れが綺麗だった。
新も、思ったよりできた。
雅ほどではない。
純香ほど安定しているわけでもない。
でも、一陣ずつ認識を繋いでいけば、連続転送自体は成立する。
左。中央。右。
木片は少し遅れて、でも確かに三つ目の陣へ届いた。
「おお」
彩葉が言う。
「鳴海、連続いけるじゃん」
「まあ、ぎりぎり」
新は息を吐く。
「でも、神代の見たあとだと全然だな」
「比較対象が悪いのよ」
純香が言った。
「そこ基準にしたら大抵の人は落ち込む」
「ひどいなあ」
雅が笑う。
だが、次の瞬間、その笑いがそのまま“見せる側”の顔に変わった。
雅の三陣連続転送は、別物だった。
左に置いた木片が、次の瞬間には右にあった。
途中の中央を、新の目は追えなかった。
「……え?」
新が言う。
「今、二回やったよな?」
「やった」
彩葉が目を丸くしている。
「でも見えなかった」
「中央の同期を先に用意したのよ」
純香が低く言う。
「一陣目と二陣目を別々に起動したんじゃなくて、最初から三つの切り替えを連鎖で入れてる」
「さすが篠宮、言語化がうまい」
雅が笑う。
「腹立つわね」
「褒めてるのに」
周囲もざわついていた。
神代雅。
やっぱりそういうやつだ、と言わんばかりのざわめき。
新は木片が消えた右端の陣を見つめたまま、妙な熱が胸の中に残るのを感じていた。
悔しい。
でもそれだけじゃない。
どうしてそんなふうに繋がるのか、そっちの方が気になっていた。
◇
授業は本来、そこで終わるはずだった。
御影が総評を始め、雨宮が失敗例をいくつか挙げ、安全管理の注意を口にする。ほとんどの生徒はもう片づけに入っている。
だが、新はまだ自分の描いた三つの魔法陣を見ていた。
横に繋ぐ。
だから、左から右へ行く。
でも、もし。
「……縦に繋いだら、どうなる?」
気づけば、そう呟いていた。
「何?」
近くにいた彩葉が聞く。
「いや……」
新はそこでしゃがみ込んだまま、床を見つめる。
三つの陣を横に並べるんじゃなくて、上下に少しずらして重ねるように置いたらどうなるんだろう。
位置の切り替えが、隣へ滑るんじゃなくて、層をまたぐみたいになったら。
横方向の連続転送ではなく、別の形の短絡が起きたら。
頭の中で、図書室で見た積層型結界の記述がよぎる。
層。
位相。
同時に起きる複数の働き。
転送魔法陣も、平面のままじゃなく、縦に繋いだら――。
「鳴海?」
彩葉がもう一度呼ぶ。
「ちょっと待って」
新は答えた。
もう授業は終わりかけている。
だからこそ、ほんの一瞬だけなら試せるかもしれない。
誰にも言わずに、ほんの少しだけ。
新はチョークを取り、既存の三陣の横には触れず、そのすぐ脇に小さな補助円を二つ、上下へ少しずらして描き足した。
「……おい、新」
雅が気づいたのは早かった。
「何してる」
「ちょっとだけ」
「その“ちょっとだけ”嫌な予感しかしないんだけど」
彩葉が言う。
「鳴海、今それ絶対授業の範囲外」
純香も声を低くする。
新は分かっていた。
分かっていたけれど、手が止まらなかった。
横の連続転送は、雅が極めている。
でも縦にずらして、層みたいに接続したら。
座標が“隣”ではなく、“重なった別位相”みたいに切り替わったら。
それはただの思いつきだった。
でも、新には、その思いつきを確かめずにいられない瞬間がある。
「一回だけ」
新が言う。
「鳴海」
純香の声が鋭くなる。
「やめなさい」
「新」
今度は雅だった。
「それ、ほんとに何やるつもり?」
「分からない」
新は正直に答えた。
「でも、たぶん――」
そこまで言って、木片を陣の上に置く。
周囲の空気が一瞬だけ変わった。
雅が何か言いかける。
彩葉が息を呑む。
純香が一歩前へ出る。
新は、接続した。
◇
ぱん、と乾いた音がした。
だが、それは爆ぜる音ではなかった。
むしろ空気が一枚だけ張って、次の瞬間にほどけたみたいな音だった。
木片が、消えた。
いや、正確には違う。
見えなかった。
左端から右端へ滑るように移るのではなく、視界そのものから一瞬だけ抜けて、その直後には一番奥の陣の上に“落ちていた”。
「……は?」
雅が、ほんのわずかに目を見開いた。
その声が、新には妙に遠く聞こえた。
速かった。
自分でも分かる。
今の一回だけなら、雅のさっきの連続転送より、たぶん速かった。
木片は“移っていく”過程を持たなかった。
途中を追わせないどころか、途中そのものが視界から消えたみたいだった。
周囲がざわつく。
「今の何?」
「見えなかった」
「神代より速くなかった?」
そういう声が、いくつも混ざる。
新は息を詰めたまま、転送先の陣を見つめた。
できてしまった。
でも、何をやったのか、まだうまく言葉にできない。
「……新」
雅の声がした。
いつもの軽さが、少しだけなかった。
「今の、何?」
「分からない」
新は答えた。
「でも、縦に繋いだらどうなるかなって」
「縦?」
彩葉が言う。
「いや、縦って何」
「横じゃなくて、ちょっとずらして重ねるみたいに……」
「鳴海、ちょっと」
純香が低く言った。
「説明はあと」
その瞬間だった。
「鳴海新」
冷たい声が、実習室を切った。
雨宮だった。
いつの間にかすぐ後ろまで来ていたらしい。その視線は、ふだんの注意より明らかに一段低かった。
「はい」
新は反射的に背筋を伸ばした。
「今、何をしたの」
「えっと……」
「“えっと”じゃない」
雨宮は一歩前へ出る。
「授業で許可されているのは、隣接平面陣による基礎転送だけよ。誰が、縦位相接続を試していいと言ったの」
「……誰も」
「でしょうね」
その一言が、妙に静かで、だからこそ怖かった。
御影も近づいてくる。こちらは怒鳴らないが、表情がかなり消えていた。
「鳴海」
御影が言う。
「再現できるか」
「……多分、今は無理です」
新が正直に答える。
「では、なおさら勝手にやるな」
「はい……」
周囲の生徒たちは完全に静かになっていた。
さっきまでのざわめきは消え、今はただ“怒られている神代ではない誰か”を見る空気になっている。
雅が少しだけ口を開いた。
「先生、でも今の速度――」
「神代、黙っていなさい」
雨宮が即座に切る。
「あなたも止められなかった時点で同罪に近いわ」
「うわ」
雅が珍しく言葉を詰まらせる。
彩葉は完全に固まっている。純香は新の描き足した補助円を見て、すでに怒るより先に青ざめていた。
「鳴海」
雨宮がもう一度言う。
「発想するのは結構。でも、許可のない構造変更を授業中にやるのは論外よ」
「……はい」
「しかも、何が起きるか分からない状態で」
「はい」
「“たまたま成功した”が一番危険なの」
「はい……」
新は小さくなるしかなかった。
だが、その横で、雅がほんのわずかに木片の位置を見ているのに気づいた。
驚いていた。
そして、たぶん。
ほんの少しだけ、悔しそうだった。
それは一瞬だった。雅はすぐにいつもの顔へ戻った。でも新には分かってしまった。雅は、今の転送をちゃんと見ていた。そして、見えなかったことを、たぶん自分と同じくらいよく分かっている。
「続きはあとで確認する」
御影が言う。
「今はまず消しなさい。補助円も含めて全部」
「はい」
新が答える。
「純香、監督しなさい」
「え、私ですか」
「そうだ。おまえが一番冷静だ」
「……分かりました」
雨宮は最後に、新をまっすぐ見た。
「鳴海」
「はい」
「面白いことを思いつくのは勝手よ」
雨宮は言う。
「でも次は、先に言いなさい」
「……はい」
「怒るのはそのあとにするから」
「先に怒られる可能性あるんですね」
雅が思わず言うと、
「神代」
雨宮がちらりと見る。
「はい、すみません」
その返事に、緊張していた空気がほんの少しだけ緩んだ。
◇
片づけが終わって、実習室を出るころには、空はすっかり夕方だった。
廊下を歩きながら、彩葉がようやく息を吐く。
「……寿命縮んだ」
「ごめん」
新が言う。
「ほんとに」
「いや、謝るのそこ?」
雅が横を歩きながら言う。
「俺、ちょっと今、別の意味で動揺してるんだけど」
「別の意味?」
新が聞く。
「今の、速かった」
雅ははっきり言った。
「一瞬だけなら、俺のより上だった」
「……」
新は言葉に詰まる。
「でも、たまたまだよ」
「そういう言い方、腹立つな」
雅は笑った。
「たまたまであれ出されると、こっちが困る」
「神代」
純香が言う。
「今それを煽りに使わない」
「使ってないって」
「使ってるわよ」
「半分くらい」
彩葉が言う。
「半分なんだ」
新が苦笑すると、彩葉も少しだけ笑った。
ただ、雅の横顔には、まだ少しだけ熱が残っていた。
驚き。
面白がり。
そして、その奥にほんのわずかだけ混ざる、細い嫉妬みたいなもの。
新はそれを見ないふりをした。
見てしまうと、今日のあの一瞬が急に重くなりそうだったからだ。
窓の外では、夕方の風が校舎の影を長く揺らしていた。
横に繋ぐ。
では、縦に繋いだら。
その問いはたぶん、まだ終わっていない。
ただひとつ分かっているのは――次に試すときは、雨宮先生に先に言わなければいけない、ということだった。
新、やってしまいました




