第十三話 雨の日の図書室
その日は、朝から雨だった。
細く長い雨脚が、空の底から切れ目なく垂れているみたいな雨だった。校門の向こうの景色は薄い膜を一枚かぶせたようにぼやけていて、傘をたたんで昇降口へ入るたび、湿った空気が制服の袖口からじわりと入り込んでくる。
こういう日は、学校の時間まで少しだけ重くなる。
廊下を歩く足音はいつもより静かで、教室のざわめきもどこか遠い。窓際の席に座った新は、ガラスをつたう雨粒をぼんやり見ていた。ひとつの粒が別の粒を巻き込み、細い筋になって落ちる。その筋は途中でほどけて、また別の形になる。
形になりかけては、崩れる。
その曖昧な見え方が、どうしても、あの日見た小さな透明のものを思い出させた。
石でもなかった。結界でもなかった。
でも、確かにそこにあったと思える、あの小さな何か。
「新、朝から沈んでるな」
声をかけてきたのは雅だった。鞄を肩から下ろしながら、いかにも普段通りの顔で立っている。
「沈んでないよ」
新が返すと、雅は首を傾げる。
「いや、沈んでるって。雨の日の新って、考えごとしてる時間が顔に出るし」
「時間が顔に出るって何だよ」
「なんとなく分かるんだよ」
雅はそう言って笑った。
前の席では、純香が教科書を机の中から出しながら小さく息をつく。
「朝からうるさい」
「篠宮、冷たいなあ」
雅が言うと、純香は振り向きもしない。
「普通よ」
「それで普通なんだ」
「あなたが軽すぎるの」
そこへ、教室の扉が開いた。
「もうやだ、髪の先まで湿気るんだけど」
彩葉が傘をたたみながら入ってくる。明るい髪の先に小さな水滴がいくつか残っていて、いつもより少しだけ眠そうだった。
「おはよ、橘」
雅が片手を上げる。
「おはよ。何その顔」
「どの顔?」
「絶対さっきまで人のこと言ってた顔」
「バレた?」
「バレるでしょ」
彩葉はそう言って笑ってから、新を見た。
「鳴海も今日ちょっと静かだね」
「湿気に負けてるらしい」
雅が横から言う。
「それ神代が言ったやつ?」
「うん」
「雑だなあ」
四人で少しだけ笑う。
笑い終わったあと、一瞬だけ静けさが落ちた。
誰も口にはしない。でも、その沈黙の中には同じものがあった。研究機関の観測室で、四人がもう一度見た、あの透明な何か。
教室の方は何も変わらない。けれど、自分たちの方は少しだけ変わってしまっている。その感じが、雨の日の薄暗さの中ではいつもよりはっきりしていた。
◇
午前中の授業は、ずっと雨音を背に進んだ。
板書の音。ノートをめくる音。誰かの咳払い。その向こうで、一定の調子で窓を打つ雨の音が鳴り続けている。
物理化学では結合エネルギーの話をした。魔法科学では媒質の安定化の話が出た。どれも新の好きな範囲だったし、内容も理解できる。けれど今日は、教科書の中の説明が妙に綺麗すぎる気がした。
教科書に載っているものには、名前がある。定義がある。条件がある。
でも、自分たちが見たものにはまだそれがない。
「鳴海」
先生に呼ばれて、新ははっと顔を上げた。
「今の説明、簡単に言い換えるとどうなる?」
「あ、はい」
新は立ち上がって答えた。内容は分かる。ちゃんと理解している。先生も小さく頷いて、すぐに授業は先へ進んだ。
座り直したとき、純香がほんの少しだけ振り向く。
その視線が「また別のこと考えてたでしょ」と言っているように見えて、新は小さく視線を逸らした。
◇
昼休みになっても、雨は止まなかった。
校庭はすっかり濡れていて、芝の上には小さな水たまりができている。食堂へ行く気分でもなくて、四人は教室の窓際で昼食をとることにした。
「で、今日どうする?」
最初にそう言ったのは彩葉だった。パンの袋を半分だけ開けたまま、三人を見る。
「どうするって?」
新が聞き返す。
「放課後。公園、今日は無理でしょ」
「ああ」
雅が窓の外を見る。
「この雨じゃベンチまでびしょびしょだな」
「今日は休みでもいいんじゃない?」
雅が軽く言うと、彩葉がすぐ眉を上げた。
「えー」
「何」
「なんか、それはそれで落ち着かない」
「分かる」
新は思わず言った。
「最近、放課後に集まらないと一日終わった感じしない」
「それ、少し危ないわよ」
純香が言う。
「放課後前提で生活組み立てはじめてる」
「言い方が厳しいな」
雅が笑う。
「でも、まあ、否定しきれない」
少し間が空いた。雨の日の昼休みは教室に人が多くて、周りでは普通の会話がいくつも流れている。その中で、自分たちだけ少しだけ声を落としているのが妙だった。
「図書室は?」
雅がそう言った。
新が顔を上げる。
「図書室?」
「うん。外でやれないなら中。実験できないなら調べ物」
「神代が真っ当なこと言ってる」
彩葉が言う。
「失礼だな」
「でも、悪くないかも」
純香が頷いた。
「ちょうど少し整理したかったし」
「何を?」
雅が聞く。
「見たものに近い記述がないか」
純香は短く答える。
「理論書でも、古い研究記録でも、何でも」
「それ、いいな」
新が言う。
「物質転換まわりとか、結界補助錬成とか、その辺を見たい」
「うわ、急に頭よさそう」
彩葉が言って、少しだけ笑う。
「でも、行くなら行く」
そうして、放課後は図書室へ行くことになった。
◇
放課後の図書室は、雨の日のせいかいつもより静かだった。
木の扉を開けると、本の匂いと乾いた暖気がふわりと流れてくる。窓の外ではまだ雨が降り続いているのに、ここだけ時間の進み方が違うみたいだった。壁際の書架は高く、閲覧席の灯りはやわらかい。誰かがページをめくる音さえ、やけに小さく響く。
「思ったより落ち着く」
彩葉が小声で言う。
「橘、図書室苦手かと思ってた」
雅が言う。
「苦手っていうか、縁が薄いだけ」
「年一回来るか来ないかくらい?」
「そこまでじゃない」
「でも月一ではなさそう」
新が言うと、彩葉がじろりと見る。
「鳴海まで何」
「なんとなく」
「なんとなくで刺すのやめてほしい」
純香はもう検索端末の前に立っていた。
「遊んでないで探すわよ」
「はいはい」
雅が返す。
「了解」
新も続く。
「図書室でその返事ちょっと恥ずかしいんだけど」
彩葉が笑った。
検索語を入れていく。
物質転換。
高密度錬成。
結界補助。
異常錬成。
再現不能。
既存分類不能。
「思ったより出るな」
雅が端末の画面を覗き込む。
「学校にしてはかなりある方だと思う」
新が答える。
「夢見が丘、地味に本気なのよ」
純香が言う。
「“地味に”ってつける必要ある?」
雅が聞く。
「あるわ」
結局、分担して探すことになった。
新は物質転換の理論書と応用魔法学の基礎資料。
純香は研究紀要や過去の報告集。
雅は実験記録と実例集。
彩葉は古い雑誌や回想、雑録のような本。
「うちだけ毛色違わない?」
彩葉が聞く。
「理論に載らない違和感は、その辺に残ってるかもしれないから」
新が答える。
「それ、褒めてる?」
「かなり褒めてる」
「珍し」
「失礼だな」
そう言いながらも、彩葉はちゃんと古い雑誌の束を抱えて席へ向かった。
◇
調べ始めてしばらくは、四人ともほとんど喋らなかった。
新は理論書を開き、目を走らせ、気になる箇所があるたびにノートへ写していく。物質転換の記述は思った以上に厳密で、前提としている知識の層も深い。高校生向けではない頁も多く、何度か読み返さないと掴めないところもあった。
だが、その中に、明確に引っかかる記述があった。
――複数の結界を同位相で重ねるのではなく、わずかに位相をずらして積むことで、内部に異なる干渉層を同時に成立させる手法を積層型結界という。
新はそこで指を止めた。
頁をめくる。続きには、結界そのものを強化するのではなく、内部空間に複数の働きを同時に持たせるための技法だと書かれていた。
分離。
隔離。
収束。
変質補助。
単一の結界では順番にしか行えない処理を、層ごとに分担させる。
「……これかもしれない」
新が小さく呟くと、少し離れた席から雅が顔を上げた。
「何が?」
「ちょっと来て」
雅と純香が寄ってくる。彩葉も雑誌を抱えたまま席を立った。
新は該当箇所を指さした。
「積層型結界」
雅が読み上げる。
「初めて聞いた」
「私も」
純香が頁を覗き込む。
「でも、理屈は分かる」
「これ、単に結界を強くする話じゃないんだ」
新が言う。
「結界の中に“違う役割”を同時に持たせる話なんだと思う」
「分離と収束と変質補助……」
純香が順に読む。
「つまり?」
彩葉が聞く。
新は少し考えてから言った。
「僕たち、最初は石の核を補助結界で支えようとしただろ」
「うん」
彩葉が頷く。
「もしあのときの結界が、ただの一枚じゃなくて、たまたま位相の違う薄い層みたいに重なってたとしたら」
「中で別々のことが同時に起きる?」
雅がすぐに言った。
「そう」
新が頷く。
「分離して、集まって、変質しかけて、それを一緒に抱えた空間が一瞬できたのかもしれない」
「だから石でも結界でもないものが出た?」
彩葉が聞く。
「仮説だけど」
「でも、かなり近い気がする」
純香が言った。
「少なくとも“ただの補助結界”よりは説明がつく」
雅は頁をもう一度見て、少しだけ口元を上げた。
「面白くなってきたな」
「そういう言い方すると軽く見える」
純香が言う。
「でも実際、ちょっと筋が通ったわ」
「だよな」
雅が言う。
「新っぽい」
「何それ」
「変な発想だけど、変にちゃんとしてる」
その評価に、新は少しだけ眉を寄せた。でも否定はしなかった。
◇
そのあと、新はさらに頁を追っていき、別の記述に行き当たった。
――安定相へ至る以前、極短時間の中間核が生じる場合があり、専門領域ではこれを過渡核と呼ぶ。
「……過渡核」
新は今度ははっきりその言葉を口にした。
「何?」
彩葉が聞く。
「名前」
新は頁を見たまま答える。
「少なくとも、似たものに対して使われてる名前がある」
「どれ」
雅が覗き込む。
「ほんとだ」
純香も視線を落とす。
「中間核、か」
続きには、通常は専用設備下でしか観測されず、安定保持は難しいこと、視認報告は少ないことが書かれていた。
自分たちのケースと完全に一致するわけではない。
でも、あの透明なものに近づくための言葉が、ここにあった。
「先に積層型結界があって、その結果として過渡核っぽいものが生まれた、って流れ?」
雅が聞く。
「たぶん」
新が頷く。
「結界がたまたま多層化して、その中で分離と収束と変質が同時に走って、安定しきらない核が一瞬だけできた」
「それがあの日の透明なやつ」
彩葉が小さく言う。
「まだ仮説だけど」
純香が念を押す。
「でも、今までで一番まっすぐかもしれない」
そのとき、彩葉が「あ」と声を上げた。
「それなら、これもつながるかも」
彩葉が持ってきたのは、黄ばんだ雑誌の記事だった。地方研究会の記録をまとめた短い文章で、そこにはこうあった。
――結界補助下にて、異様な高密度微小核を認む。形状は安定せず、無色透明に見えたとの証言あり。再現不能につき記録保留。
「これだ」
雅が言う。
「さっきのやつ」
「うん」
彩葉が頷く。
「最初は“似てる”だけだったけど、今だと少し意味が変わるよね」
「補助結界が、意図せず積層型結界に近い働きをした可能性」
純香が言う。
「その結果、透明な核が見えた」
「記録保留ってのも、分かる気がするな」
雅が言った。
「見たけど、説明がつかない」
「今のうちらだね」
彩葉が苦笑する。
「ほんとに」
新は雑誌の記事と理論書の頁を交互に見た。
断片だったものが、少しずつ線になりはじめている。
もちろん、まだ確定じゃない。
でも、ただの偶然よりは、もう少し形のあるものになってきた。
◇
さらに調べていくうちに、彩葉がまた別の文章を拾ってきた。
「鳴海、これも見て」
回想録の一節だった。
――術式の中心に、結晶にも似たる無色の芯がひと呼吸だけ現れた。あれが物質であったのか、結界であったのか、今も私には名づけられない。
「また“名づけられない”だ」
雅が言う。
「うん」
彩葉が頷く。
「こういうの、理論書じゃなくて、“見ちゃった人の文章”って感じする」
「見ちゃった人」
新はその表現を繰り返した。
「たしかにそうだな」
理論書は定義の言葉をくれる。
でも、見たときの手触りまでは書いてくれない。
その手触りを残しているのは、こういう曖昧な文章の方だった。
「橘、こういうの拾うのうまいな」
新が言う。
「え、そう?」
「うん。理屈そのものじゃないけど、そこに行く前の違和感を拾ってる」
「それ、かなり褒めてる?」
「かなり褒めてる」
「珍し」
「失礼だな」
彩葉は笑った。その笑い方が、少しだけ照れているのが分かった。
◇
窓の外は、いつの間にか夕方に近い色になっていた。雨はまだ止まない。図書室のガラスを叩く音が、さっきより少しだけ強くなっている。
四人は長机に資料を並べて、今日拾ったものを見比べていた。
理論書。
古い研究記録。
地方研究会の断片。
回想録。
どれも決定打ではない。
でも、今日手に入ったのは大きかった。
積層型結界。
過渡核。
その二つの言葉が、あの日見たものに初めて輪郭を与えていた。
「これさ」
雅が椅子にもたれながら言う。
「昔にも似たものを見たやつがいたとしても、それが俺たちと同じとは限らないよな」
「うん」
新は頷く。
「完全に同じじゃないと思う」
「でも、“補助結界の中で透明な核が出た”方向ではかなり重なる」
純香が言う。
「しかも再現不能」
「それが一番やだな」
彩葉がぽつりと言う。
三人がそちらを見る。
「見たのに、分からないまま終わる感じ」
彩葉はそう言って、頁の上に視線を落とした。
「今のうちら、ちょっとそれに近いじゃん」
図書室の静けさが、少しだけ深くなった気がした。
新はしばらく黙ってから、ゆっくり口を開いた。
「嫌だな、それは」
三人の視線が集まる。
「何が?」
雅が聞く。
「分からないまま終わるの」
新はノートを見たまま言う。
「今の段階で全部説明できるとは思ってない。でも、“たぶんこんなものだった”で終わるのは嫌だ」
言ってから、自分でも少し恥ずかしくなる。
でも、雅は笑わなかった。
「うん、それは俺も嫌だな」
「私も」
純香が言う。
「曖昧なまま放っておくの、好きじゃないもの」
「うちも嫌」
彩葉が続けた。
「もやもやだけ残るの、普通にむかつく」
その言い方がおかしくて、四人は少しだけ笑った。
でも笑い終わったあとに残ったものは、たしかに同じだった。
理由は少しずつ違う。
けれど、“このまま終わらせたくない”というところでは、四人とも揃っていた。
◇
閉館前の放送が流れて、四人は慌てて本を片づけはじめた。
新は頁番号と引用箇所を写し、純香は出典を整理し、雅は雑に見えて意外と正確に必要な本だけを分ける。彩葉は最後まで「字が小さい」と文句を言いながらも、拾った記事の掲載誌名をきっちり控えていた。
図書室を出ると、廊下の空気は少し冷たかった。
「ねえ」
階段の前で、彩葉が立ち止まる。
「今日見つけたやつさ、全部同じものじゃないかもしれないけど」
「うん」
新が答える。
「“名前のつかない何か”を見た人が昔にもいたかもしれないって、ちょっとよくない?」
“よくない”ではなく、“悪くない”の方の意味だとすぐ分かった。
新は少し考えてから言った。
「……少し、孤独じゃなくなるかも」
「それ」
彩葉が笑う。
「そういう感じ」
雅が肩をすくめる。
「じゃあ、俺たちもちゃんと記録残さないとな」
「ええ」
純香が頷く。
「曖昧でも、拾ったものは消さない」
「うん」
新も頷いた。
あの日見たものは、まだ名前がない。
でも、名前がないまま立ち止まった人間は、自分たちだけじゃないのかもしれない。
それは、確かに少しだけ救いだった。
昇降口の扉を開けると、冷たい雨の空気がまた流れ込んできた。
四人は傘を開き、濡れた地面に揺れる校舎の灯りを横目に、ゆっくり歩き出す。
答えはまだない。
それでも新は思った。
考え続けることそのものが、あの日の続きなのだと。
現象の真実に近づいてきました




