第十一話 普通という特別
学校は、何も変わっていなかった。
朝の校門にはいつも通り生徒が流れ込んでいて、昇降口には湿った靴音が重なって、廊下には寝不足そうな顔とやたら元気な声が入り混じっている。教室の扉を開ければ、誰かが小テストの範囲を確認していて、誰かが昨日のバラエティ番組の話で笑っていて、誰かが提出物を写させてくれと騒いでいる。
昨日までと同じだ。
あの白い研究棟も、透明な核も、観測装置の向こうでざわめいていた研究員たちも、そんなものは最初から存在しなかったみたいに、学校の朝は普通に始まっていた。
僕だけが、少しだけうまくその中へ戻れずにいた。
「新、おはよ」
顔を上げると、雅がいつもの調子で立っていた。鞄を肩に引っかけて、妙に爽やかな顔をしている。こいつは本当に、どんな朝でも同じ顔で現れる。
「……おはよう」
「何その反応。低血圧?」
「おまえほどじゃない」
「俺、朝強いからなあ」
知ってる。知ってるけど、今その自信満々な顔を見ると少し腹が立つ。
雅は僕の机の横に寄りかかりながら、何でもないみたいに言った。
「昨日、あんま寝てないでしょ」
その声は軽かったけれど、僕は少しだけ肩を強張らせた。
「……分かる?」
「分かるよ。おまえ、考えごとしてるとき分かりやすいし」
そう言って笑う。
昨日のことを、ここで言葉にはしない。教室のざわめきの中ではなおさらだ。でも、言わなくても分かっている顔だった。
そのとき、後ろの方から椅子の引かれる音がした。
「おはよう」
純香が席につきながら、僕と雅を見た。黒髪を指先で耳にかける動作まで、やけにいつも通りだ。
「おはよー、篠宮」
「おはよう」
僕が返すと、純香は一瞬だけ僕の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。ただ、その視線だけで、少しだけ気づかれていると分かる。
少し遅れて、教室の前の扉が勢いよく開いた。
「やっば、ギリ!」
彩葉が息を弾ませて入ってくる。明るい髪が朝の光を拾って、教室の空気が少しだけ動く。いつも通り目立つし、いつも通り周囲に「おはよー」と返している。
そのまま席に着いて、鞄を置いて、ふっとこちらを見た。
一瞬だけ、目が合う。
それだけで十分だった。
ああ、昨日のことを覚えているのは僕だけじゃないんだ、と分かる。
それなのに、世界の方は、やっぱり何も変わらない顔をしている。
◇
一限目は物理化学だった。
黒板に書かれていくのは、エネルギー準位だとか、結合状態だとか、安定条件だとか、そういういつもの言葉だ。先生は教科書をなぞるように説明していく。分かりやすい。整っている。正しい。
でも、昨日見た透明な核は、そのどこにもぴったり収まらなかった。
石でもない。結界でもない。単なる失敗でもない。再現すら曖昧なのに、観測記録には確かに残ってしまった何か。
「鳴海、次」
急に名前を呼ばれて、僕ははっと顔を上げた。
「え」
「だから、ここの式変形」
教壇の先生がチョークを向けている。教室の何人かが振り返った。
「あ、はい」
慌てて立ち上がる。問題自体は分かる。分かるのに、ほんの一瞬だけ反応が遅れた。
黒板の前へ出て式を書きながら、教室の空気を背中に感じる。別に誰も何も知らない。ただ、少しぼんやりしている生徒が一人いるだけだ。
それでも、前の僕とは少し違う気がした。
席へ戻るとき、雅が小さく言った。
「珍しいじゃん」
「うるさい」
「ちゃんと戻ってこいよー」
その言い方が妙に軽くて、でも少しだけありがたかった。
◇
昼休み、僕たちは教室の窓際に集まっていた。
いつもなら食堂へ行くこともあるけれど、今日はなんとなく教室でパンを食べる流れになった。たぶん、誰か一人が言い出したわけじゃない。ただ、四人とも、今日はあまり人の多いところへ行きたい気分じゃなかったんだと思う。
「ねえ」
彩葉がメロンパンの袋を開けながら言った。
「こういうのってさ、逆に顔に出ない?」
「何が」
雅が聞く。
「秘密持ってる感じ。なんか、隠してる人って隠してる顔してるじゃん」
「橘、それ自分で言ってて分かってる?」
純香が呆れたように返す。
「今まさに“隠してます”って顔してるわよ」
「え、まじで?」
「少しだけ」
「うわ、やだ」
そう言って彩葉は笑った。
でも、その笑い方は昨日までよりほんの少しだけ慎重だった。
僕は紙パックのジュースを手に持ったまま、窓の外を見る。校庭ではサッカーをしている男子たちがいて、グラウンドの端では女子が輪になって座っている。どこを見ても、普通の昼休みだ。
「……話せないって、変だな」
気づけば、そんなことを言っていた。
「うん?」
雅が僕を見る。
「いや……あんなもん見たのに、今ここで“昨日さ”って言えないの、なんか変だなって」
「言ったら一発で終わるわよ」
純香が即答する。
「御影先生に」
「それは困る」
彩葉が真顔で言った。
「ほんとに困る。うち今、普通の昼休みもけっこう大事なんだけど」
「普通の昼休みって」
「大事でしょ。パン食べるとか、だらけるとか、そういうの」
それは、たしかにそうだ。
あの日見たものが本物だったとしても、昼休みは昼休みだし、パンはパンだし、明日の小テストは勝手に来る。
「新」
純香が小さく名前を呼んだ。
「何」
「考えすぎない」
「……はい」
「返事だけはいいのよね」
「それ毎回言うな」
雅がそれを聞いて笑う。
彩葉も笑う。
僕も、少し遅れて笑った。
昨日までと同じような、でも少しだけ違う昼休みだった。
◇
五限のあと、移動教室へ向かう途中で、後ろの方から女子の声が聞こえた。
「最近あの四人、よく一緒にいるよね」
「あー、分かる」
「神代くん、篠宮さん、橘さん、あと……鳴海くん?」
「なんか不思議な組み合わせじゃない?」
「でも篠宮さんと鳴海くんって昔からなんでしょ」
別に悪意のある声ではなかった。
噂というほどでもない。ただ、見えているものをそのまま言葉にしただけの感じだった。
僕は少しだけ歩く速度を落とした。
周りから見れば、僕たちはそういうふうに見えるんだろう。
よく一緒にいる四人。
少し目立つ神代雅。
成績上位の篠宮純香。
明るくて目立つ橘彩葉。
そして、その中に混ざっている僕。
でも、その見え方の中に、あの日見た透明な核も、黒焦げの残骸も、外部機関の観測室も入っていない。
当たり前だ。
入るはずがない。
そう思うと、少しだけ不思議な気持ちになった。
周りから見える僕たちと、僕たちの中にある僕たちは、たぶんもう少し違う。
◇
放課後、僕たちはいつもの公園へ行った。
誰かが「行こう」と言ったわけじゃない。
気づけば四人とも自然に同じ坂を上っていた。
夕方の光は柔らかくて、ブランコの鎖が風に揺れている。見慣れた公園だ。第六話で小さな透明体が生まれたのも、この場所だった。
でも今日は、誰もすぐにはノートを開かなかった。
ベンチに座って、ただ風の音を聞いている。
「今日はやんないの?」
雅が先に言った。
「毎日やる気?」
純香が返す。
「いや、別にそういうわけじゃないけど」
「だったら静かにしてて」
「はいはい」
そのやり取りに、彩葉が少し笑った。
「毎日命がけみたいなことしてたら、ほんとにそのうち怒られるしね」
「もうだいぶ怒られるラインは越えてる気もするけど」
僕が言うと、
「今それ言う?」
彩葉が眉を上げた。
「ちょっと空気よくなってきたのに」
「ごめん」
「素直だなあ」
雅が笑う。
何もしない放課後、というのが少しだけ新鮮だった。
ここしばらくは、公園に来れば実験か、その準備か、その反省だった。
でも今日は違う。
ただ四人で、同じ場所にいるだけ。
それでも、意味がないとは思わなかった。
「日常までなくしたら駄目よ」
隣に座った純香が、ふいにそう言った。
「え?」
僕が聞き返すと、純香は前を向いたまま続ける。
「最近のあなた、ちょっとそっちに行きかけるから」
「そっちって」
「考えすぎて、今ここにあるものまで全部薄く見る方」
少しだけ、胸に刺さる。
図星だった。
透明な核のことを考えていると、授業も、昼休みも、放課後の風景も、全部が少しだけ“手前のもの”に見えてしまう瞬間がある。
でも、本当はそうじゃない。
今こうして座っている公園だって、僕たちが戻ってくる場所なんだ。
「……今日は、少しちゃんと戻ってる」
純香が言う。
「ぼんやりはしてるけど」
「ひどくない?」
「ひどくない」
「そこ即答なんだ」
「即答するわよ」
僕は思わず苦笑した。
その横で、彩葉がスマホを見て小さく息をつく。
「帰ったら妹の宿題見なきゃなんだよね」
「また?」
雅が聞く。
「また」
「大変だな」
「まあね。でも提出物終わってないとうちも詰むし」
そう言って肩をすくめる。
名前のない現象を追っていても、帰れば生活がある。
宿題もあるし、家のこともあるし、学校のこともある。
たぶん、それでいいんだと思った。
全部を捨てて追いかけるようなものじゃない。
むしろ、こういう普通の毎日の中にあるからこそ、放課後のあの時間は意味を持つ。
「なあ」
雅がブランコの鎖を軽くつつきながら言った。
「次、いつやる?」
「もうその話?」
純香が呆れる。
「いや、別に今日じゃなくてさ。聞いただけ」
「……でも、やるならちゃんと考えてからにしたい」
僕が言うと、三人がこっちを見た。
「この前みたいに、ただ勢いで行くんじゃなくて」
「へえ」
雅が少しだけ笑う。
「ちゃんと学んでる」
「うるさい」
「でも賛成」
彩葉が言う。
「うちも次はもうちょい落ち着いたときがいい」
純香も小さく頷く。
「そうね。中間テストも近いし」
その一言で、一気に現実へ戻された気がした。
「あ」
僕が言う。
「忘れてた」
「忘れないで」
純香が真顔で返す。
「私は覚えてるし、橘さんもたぶん覚えてるし、神代はたぶん余裕ぶってるけど」
「余裕ではある」
「それが腹立つのよ」
彩葉が吹き出す。
雅は肩をすくめて、僕を見る。
「新は、まあ、頑張れ」
「雑だな」
でも、その雑さも少しだけおかしかった。
◇
帰り道、公園を下りながら、僕は少しだけ後ろを振り返った。
夕方の光の中に、ブランコとベンチが静かに残っている。
何も変わらない風景だ。
でも、何も変わっていないからこそ、そこへ戻ってこられる。
学校は昨日までと同じように続いていく。
授業があって、昼休みがあって、テストがあって、帰り道があって、放課後がある。
その普通の中に、僕たちはもうひとつ別のものを持ってしまった。
透明な核。
名前のない現象。
四人だけが知っている、でも四人だけの秘密ではなくなりはじめている何か。
それを抱えたまま、それでも朝は来るし、学校は始まる。
たぶん、それが今の僕たちの日常だった。
日常に戻ってきました




