第3話
私は小さく頷き、話を続ける。
「半年前に記憶をなくしたことで、婚約者であるバーナルドとの関係が壊れてしまい、私は凄く辛い思いをしました。でも、その心の傷はもう、ほとんど癒えましたし、実家の両親も『無理に過去を思い出さなくていい』と言ってくれて、とても優しくしてくれます」
「…………」
「この病院で働かせてもらって、新しい生き場所を得て、毎日がとても充実しています。……私、今、幸せなんです。記憶が戻ったら、その幸せが壊れてしまいそうで怖いんです」
「なるほど。記憶を失ったとき、エリザベラさんの世界が一変してしまったように、今度は記憶が戻ることで、今の世界が一変してしまうかもしれないことが、恐ろしいのですね」
「はい。でもセラピーをやめたいのは、それだけが理由じゃありません。……私のセラピーのせいで、毎日、仕事が終わった後に、一時間近くも先生を病院に引き留めていることが、心苦しいんです。だから、今日でセラピーをやめて、これからは、私のために使っていた時間を、奥さんや子供さんたちのために使ってあげてほしいんです」
ダンストン先生は、一瞬きょとんとした後、おかしそうに笑いだした。それから、照れくさそうに微笑んで、言う。
「残念ながら、私は独身です。妻も子供もいませんよ」
私は純粋に驚いた。
私の知る限り、この辺りで独身の医者はいないからだ。
医師は公私ともに忙しいので、若いうちに結婚し、奥さんに色々とサポートしてもらうのが、この地方の常識だった。だから私は、ダンストン先生にも配偶者がいると、すっかり思い込んでいたのである。
「えっと、その、ごめんなさい、私、てっきり……」
「いえいえ、お気になさらず。この辺りの常識で言えば、二十歳を過ぎて独身の医者など、まず存在しませんからね。……でも私は、医者だからといって、『若いうちに誰でもいいから結婚してしまえ』という風習は乱暴すぎると、常々思っているんです。実際、不本意な相手と慌てて結婚し、かえって不幸になった医師を、何人か知っていますから」
「そういうことも、あるんでしょうね」
「地方医師会の会長から、もう三度ほど縁談を持ちかけられましたが、すべて断っています。自分の愛する人くらい、自分の意思で決めたいですからね」
「ふふ、でも、そんなにかたくなな態度を取っていたら、そのうち、医師会の会長さんに睨まれちゃうんじゃないですか?」
「そうなんですよ。そのうちどころか、最近は会長の態度が露骨に厳しくなってきて……」
私とダンストン先生は、その後もたっぷり長話をした。
記憶を失ってから引っ込み思案になってしまった私は、あまりおしゃべりが好きではなかったが、優しいダンストン先生と話すのだけは、大好きだった。
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結局、記憶を取り戻すためのセラピーは継続することになった。
ダンストン先生が、『記憶はこれまで生きてきた証なのですから、やっぱり、少しずつでも思い出す努力をした方がいいと思います』と言ってくれたからだ。
これまで生きてきた証、か。
確かにその通りだわ。
前向きになった私は、今までより積極的にセラピーを受けた。その甲斐あってか、最近ちょっとずつ、幼少期の頃を思い出してきた。特に、父と母に関することが、かなりハッキリと分かるようになった。これは、大いなる前進だ。
「やりましたね、エリザベラさん。さあ、ここまでくればあと少しですよ。一緒に頑張りましょう」
ダンストン先生がそう言って、自分のことのように記憶の回復を喜んでくれるので、今まで以上に頑張れる。なんだか、とても良い気分だ。やっぱり先生の言う通り、思い出す努力を続けて良かった。
そんなある日のこと。
家の近くの十字路で、視界の先に、私は偶然バーナルドを見つけた。
少し前までなら、バーナルドと会うのは気が重かったが、今の私は気持ちが前向きだし、記憶が戻りつつあることを報告したら、バーナルドもダンストン先生のように喜んでくれるに違いない。
そう思い、私は笑顔でバーナルドの名を呼んだ。
だが……
バーナルドはこちらをちらりと一瞥すると、まるで『嫌な奴に会った』とでも言いたげな表情をして、足早に行ってしまった。
私は、その場に立ち尽くした。
これまでも、バーナルドに厳しく当たられ、そのたびにつらかったが、それでも彼の厳しさは、記憶を失う前の私を愛していたことの裏返しだと思うと、耐えられた。
しかし、今バーナルドは、完全に私を無視した。
処分の面倒な粗大ゴミを見るような目で、一度だけ見て、無視した。
私の中で、何かが音を立てて壊れた。
これ以後、私は道でバーナルドを見かけても、決して声をかけることはなくなった。もちろん、バーナルドの方から私に話しかけてくることもない。私たちは、事実上の絶縁状態となった。
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それから、三ヶ月が過ぎた。
ダンストン先生が『ここまでくれば、あと少しですよ』と言った通り、一度記憶の扉が開くと、私は次々と昔のことを思いだし、今では、ほぼ完璧に『元の私』に戻ったと言っても、過言ではなかった。
それに伴って、引っ込み思案だった性格も、快活で強気だった『元の私』の性格へと統合されていくのが、自分でもよくわかった。まるで二つの人格が合わさっていくような、不思議な気分だった。
小説やお芝居などではよく、記憶が戻ると、記憶を失っていた際の人格や思い出が消え去ってしまうことがあるが、私の場合はそんなことはなく、記憶喪失中にやったこと、されたこと、聞いたこと、感じたこと――そのすべてを、私はハッキリ覚えていた。
これは、私にとって大変幸福なことだった。
……どうしても、覚えていたかったから。
記憶を失った私を、深い愛情で見守ってくれた両親の優しさ。右も左もわからない私に、丁寧に仕事を教えてくれた病院の先輩看護師さんたち。そして、長い間、一度たりとも私を見放さず、親身に接してくれたダンストン先生。
皆から受けた温情――その記憶は、どれもこれも、どんな宝石よりも価値のある宝物だ。私は一生忘れない。たとえもう一度大事故に遭ったとしても、今度は絶対に忘れない。




