第2話
私の頭の中では、たった今言われたばかりの言葉が、嵐のように渦巻いていた。
『僕が好きだったエリザベラは、こんな陰気な女じゃない……』
それほど過激な言葉ではない。
世の中には、もっとひどい悪口が、いくらでもある。
しかし、ショックだった。
どうでもいい人に言われる悪口と、自分にとって大切な人に言われる悪口では、その重みが全く違う。……優しかったバーナルドが、私を軽蔑するような瞳で見て、冷たい言葉を浴びせてきたのは、事故直後の怪我の痛みや、記憶が戻らないことよりも、遥かにつらかった。
……『こんな陰気な女』か。
バーナルドのこれまでの話から察するに、記憶を失う前の私は、飛びぬけて元気で明るい、行動的な女の子だったらしい。……今の私とは、まるで正反対だ。バーナルドが私を『陰気な女』呼ばわりしたくなるのも、わからないでもない。
わからないでもない。
わからないでもない。
わからないでもない。
でも。
悲しい。
涙が、後から後から溢れてくる。
肩を震わせ、泣き続ける私を、ダンストン先生は優しくベッドに横たえた。
「少し眠りましょう、エリザベラさん。睡眠には、昂った神経を鎮める効果があります。寝れば、辛い気持ちも、少しは楽になりますよ」
「先生……私、今度眠ったら、もう起きたくありません……バーナルドを怒らせて、自分も、こんなに悲しい思いをするのなら、このまま、眠るように、死んでしまいたい……」
「駄目ですよ、そんなことを言っては。体の方は、どんどん良くなっていますから、いずれ杖なしでも歩けるようになります。その頃には、記憶だってきっと戻っていますよ。だから、今はただ心を楽にして、眠りましょう」
「はい……」
ダンストン先生の、上品で落ち着いた声色は、まるで子守歌のように、私の気持ちを慰めてくれた。瞳を閉じても、先生が病室を出て行く気配はない。
……私が眠るまで、一緒にいてくれるのね。
ダンストン先生の優しい気遣いに包まれ、私は穏やかな気持ちで、眠りについた。
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そして、さらに三ヶ月が経ち、事故から半年というところで、とうとう私の体は完治した。
足もすっかり元通りで、当然杖は必要ないし、走ることだってできる。ずっと残っていた肘から先の痺れも取れ、健康であることのありがたさを、私は文字通り全身で享受していた。
……しかし、肝心な記憶の方はサッパリだ。
退院し、家に帰っても、まるで他人の家に住んでいるような気分である。
だけど、両親はとても私を気遣い、優しくしてくれた。父のことも、母のことも、どうしても思い出せず、申し訳ない気持ちにもなったが、それでも二人の愛情は、私にとって、大きな心の支えだった。
バーナルドと会う機会は、極端に減った。
いや、『皆無になった』と言った方が適切かもしれない。
入院中も、ある時期からバーナルドは、お見舞いにすら来なくなったし、退院時にも、会いに来ることはなかった。私の体は元気になったが、それでも『今の私』は『以前の私』とまるで性格が違う。そんな『今の私』に、バーナルドは会いたくないのだろう。
……こう言っては何だが、それは、私にとって救いだった。
私も、なるべくならバーナルドに会いたくなかったからだ。
彼のことが、嫌いなった――とまでは言わない。記憶喪失直後の一番不安な時に、何度も励ましてくれたことは、今でも感謝している。
だけど、もう『まだ記憶が戻らないのか』『いつ元に戻るんだ』『昔のきみは、もっと元気で……』等々の言葉を浴びせられるのが、辛いのだ。
責められることそのものも悲しいし、彼の期待に沿えないことも、苦しい。……恐らくだけど、このまま私とバーナルドは疎遠になり、しかるべき時に、婚約は解消されるだろう。
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私は今、長い間お世話になったダンストン先生の病院で、看護師の見習いをしている。失った記憶を取り戻すための催眠療法や、運動機能回復のリハビリで病院に通ううち、自然と、ここで働いてみたいと思うようになったのだ。
記憶を失う前の生活に、戻る気はなかった。
かつての友人たちはきっと、すっかり人が変わってしまった私を見て、『昔のあなたはもっと元気だったのに』と、バーナルドのようなことを言うだろう。それが嫌だったのだ。
事故の後、最も長い時間を過ごし、一番心が落ち着くダンストン先生の病院は、私にとって理想の環境だった。
看護師のやらなければならないことは多種多様であり、思った以上に忙しい。でも、仕事に没頭していると余計なことを考えずに済むので、必死に記憶を取り戻そうとしていた時より、精神的にはむしろ楽だ。
いつしか私は、別にこのまま、記憶が戻らなくても良いのではないかと思うようになった。仕事にはやりがいを感じるし、毎日充実している。
両親も、私を温かく見守り、限りない愛情を注いでくれている。
……私は今、幸せだ。これ以上、何も望まない。
ダンストン先生が厚意で、毎日、仕事が終わった後に、記憶を取り戻すためのセラピーをしてくれているのだが、先生も忙しいのだから、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないだろう。私は思い切って、セラピーの打ち切りを提案することにした。
「あの……先生。私、もう、記憶を取り戻すためのセラピーは必要ありません」
二人きりの病室。
その日のセラピーが終わった後、突然そんなことを言いだした私に、ダンストン先生は目を丸くする。それから先生は、柔和に微笑んで、私を諭した。
「確かに、あまり効果が出ていませんから、セラピーにうんざりする気持ちはわかります。でも、こういうことは、長い目で見てやっていかないと。そうすれば、いずれ効果が……」
「いえ、そういうことじゃないんです。……ハッキリ言います。私、もう、このまま記憶が戻らなくてもいいって思ってるんです」
「どうしてそう思うのか、理由を聞かせていただいてもよろしいですか?」
ダンストン先生は、真剣な表情で私に向き直った。
私が自暴自棄になって『セラピーをやめたい』と言っているわけではないことに気づき、じっくり話を聞こうとしてくれているのだろう。




