第8話 冒険者登録──最下位からの一歩
# 第8話 冒険者登録──最下位からの一歩
仮眠室の朝は早い。
まだ薄暗い時間に、廊下の足音と水桶を運ぶ音で目が覚めた。藁の寝台は体に合わないし、背中が痛い。
けれど、雨風をしのげるだけでも十分だと思う。昨夜決めたとおり、今日はまず食堂の雑用をこなしてから、いよいよ冒険者登録だ。
「ふあ……」とあくびを噛み殺しながら、俺は洗面場で顔を洗った。冷たい水が頭をしゃっきりさせる。
女神セラフィーナは、淡く光る姿で隣に寄り添う。
「よく眠れましたか?」
「まあ、背中は痛いけど……寝不足で動けないほどじゃない」
「それならよかったです。今日は“人間の世界”での肩書きを手に入れる日ですからね」
◆
食堂の扉を開けると、すでに職員が厨房を動き回っていた。
「おはようございます。では、さっそくですが皿洗いと床の掃除をお願いします」
俺は頷き、桶にたまった昨日の食器を受け取った。冷たい水に手を突っ込み、こびりついたソースをこすり落とす。手が赤くなり、指先が痺れる。だが「食住の代わり」と思えば、不思議と体は動いた。
皿を片付けたあとは、床に散らばったパン屑や野菜の切れ端を掃き集める。雑巾を絞って通路を拭くと、石畳の床が少しだけ光を取り戻した。
「ありがとうございます、助かりました」
職員の女性が笑顔を見せる。
「大したことはしてないよ」
「いえ、こういう雑用を嫌がらずにやってくれる人は貴重なんです」
短いやりとりだったが、胸の奥が少し温かくなった。
食堂の空気は清潔になり、厨房からは朝のスープの香りが漂ってきた。
「まずは一歩ですね」とセラフィーナが囁く。
「小さなことの積み重ねが、やがてあなたを支えるのです」
◆
朝の雑用を終えたあと、俺は冒険者ギルドのカウンターへ向かった。
まだ依頼掲示板に人影も少なく、若い職員が帳簿を整理している。
「すみません、冒険者登録をお願いしたいんですが」
俺の言葉に、職員はぱっと顔を上げた。
「はい、初めてですね? ではこちらの記入用紙に名前をお願いします」
渡された羊皮紙には、名前、出身、得意分野などの欄が並んでいる。俺は少し迷ってから、名前の欄にカタカナで「ユーマ」と書き込んだ。本名をそのまま名乗るのは抵抗があったし、言いやすい方がいい。
「出身は?」
「辺境の村です。……まあ、訳あって出てきたんですが」
「なるほど。得意分野は?」
「……今は特にありません」
ペンを置き、深呼吸する。正直に言えば俺は何のスキルもない。魔法も剣も経験なし。ただ、裏側で“監視と改変”ができる。それを人に言えるはずもない。
職員はにこりと笑い、用紙を受け取った。
「ではユーマさん、本日付けで冒険者登録となります。ランクは最下位の“灰等級”です。依頼の大半は荷運びや清掃といった雑務になりますが、それでもれっきとした冒険者です」
「ありがとうございます」
言葉にすると、不思議な安堵があった。昨夜は“ただの流れ者”だった俺に、今は肩書きがある。たとえ最下位でも、世界に組み込まれた感じがした。
◆
「ではさっそくですが……」と職員が一枚の依頼票を差し出した。
「本日の灰等級向けは、荷物運搬が二件、書庫整理が一件です。どれになさいますか?」
俺は迷った。
「荷物運搬の方を」
「了解しました。ではこちらの依頼主へ向かってください。納品所まで荷を運ぶだけです。報酬は銅貨三枚、加えて昼食券が付きます」
昼食券。
その言葉だけで、多少マシになったと思った空腹が急に前に出てきた。
「……それでお願いします」
依頼票を受け取り、俺は軽く一礼して出発した。
◆
依頼先はギルド近くの倉庫だった。
大きな木箱を手押し車に積み込み、納品所まで運ぶ。ただそれだけの仕事。
「ふぅ……」
押すたびに汗がにじむ。体力に自信があるわけではないから、地味にきつい。
途中で思わず心の中でつぶやく。
「こういう仕事でも……ダンジョンみたいに“監視アイテム”って出たりするんだろうか」
けれど、頭の隅にダッシュボードを意識しても、何のログも流れてこない。
「……やっぱり、外では駄目か」
空を仰ぎ、小さく独り言つ。
隣でセラフィーナが、柔らかな声を落とす。
「監視と改変の権能は“特定の場”に結びついています。外の営みは、人々自身の手に委ねられているのです」
「だよな」
納得とも、少しの安堵ともつかない声が漏れた。外の世界にまで俺の手が及んでいたら、責任の重さで押し潰されていただろう。
◆
昼前には納品を終え、銅貨三枚と昼食券を受け取った。
ギルドの食堂に戻ると、職員が食券を受け取り、温かいスープと固いパンを出してくれる。
「……うまい」
思わず声が漏れた。パンは歯ごたえがあり、スープは薄いけれど具が入っている。空腹の腹には十分だった。
「生きるためには、まず食べなければなりません」
セラフィーナが隣で囁く。
「ですが、あなたがまず目指すものは“宿”でしょう?」
「そうだな」
銅貨三枚を掌に載せる。宿代には遠い。だがゼロではなくなった。
「今は小さな目標だ。屋根の下に安定して眠れるようにする。それからだ」
女神は静かに微笑んだ。
「積み上げる順序を間違えなければ、あなたはきっとこの世界でも歩んでいけます」
◆
午後は書庫整理を引き受けた。積み上がった羊皮紙を棚に戻し、古い依頼票を分類するだけの作業。埃で鼻がむずむずしたが、手を動かすごとに不思議と心が落ち着いた。
「……こういう仕事なら慣れてるな」
元の世界でも、データやログを整理するのは得意だった。違うのは、目の前が紙とインクだということだけだ。
セラフィーナが隣で見守っている。
「監視と整理は似ています。雑多なものを分類し、意味を与える。あなたの強みは、きっとこういうところにも発揮されるでしょう」
夕方になり、再び銅貨三枚を受け取った。
これで手元には計六枚。まだ宿には足りないが、確実に近づいている。
◆
日が暮れる頃、ギルドのカウンターで今日の報告を済ませる。
「ユーマさん、本日で二件の雑用を完了です。真面目な働きぶりでしたので、推薦状を一枚つけます。宿泊先を探す際に提示すれば、多少は安心してもらえるでしょう」
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。推薦状──それはただの紙切れかもしれないが、流れ者の俺には大きな後ろ盾だった。
ギルドを出ると、石畳の上に夜の灯が揺れていた。
遠くに酒場の笑い声、近くで犬の遠吠え。
俺は銅貨を握りしめ、胸の中で小さくつぶやいた。
「今夜は管理室で仮眠だな……明日こそ宿に泊まる。」
セラフィーナの声が、静かに返ってきた。
「ええ。そのために、また一歩を積み重ねましょう」
小さな一歩。それでも確かに前へ進んでいる。
俺の“冒険者生活”は、こうして最下位ランクから始まったのだった。




