逃げられた
「若葉! 警察にかけてくれ!」
「あ、うん! わかっ――」
た、と言う声が、地の底から響くようなうなり声にかけ消される。
警察、という言葉に反応した男が、逃げ出そうともがいていた。
八代が激しく暴れるそいつを、一層強い力で押さえる。
地面から数センチ浮かび上がっていた男の頭がガツン、と軽い音を立てて、再び地についた。
その衝撃によって、今まで頑なに崩れなかったフードが外れ、男の顔があらわになる。
現れた顔は予想通りだった。間違いない。以前帰り道で付きまとっていた少年だ。
「ああっ!」
私と幸の声が揃う。火事場の馬鹿力というやつなのか、少年が拘束を抜け出すことに成功してしまったのだ。
「待てっ!」
走り去ろうとした少年の腕を八代が掴んだ。
しかし少年がポケットから出した物に仰天する。
ナイフだ。少年は手にしたそれを、八代へ向けて大きく振りかぶった。
駄目!
八代はのけぞってナイフをかわした――ように見えたけれど、本当のところ私たちの位置からは、よくわからなかった。
ドスン、としりもちをついた隙に、少年はナイフを持ったまま脱兎のごとく逃げていった。一瞬のうちに消えていく。
「八代!」
「エリちゃん!」
血相を変えて駆け寄り、至近距離で八代の顔を覗き込む。
八代は呆然としていた。心ここにあらずという言葉がぴったりな様子で、虚ろな瞳は、真正面の私さえ映していないようだった。
「八代! 大丈夫? なんだか様子がおかしいけど……」
「どこか怪我してるの? ねぇエリちゃんってば」
幸が遠慮がちに揺さぶる。それでようやく八代は現実へと帰ってきた。
「あ、ああ。避けれたよ、なんとか。危なかった」
八代は呼吸することを思い出したように、ふーっと長い息を吐き出した。
その拍子に、前髪が数本八代の膝にパラ、と落ちた。
ぎょっとして、食い入るように八代の額を見る。
「ちょっとだけかすったみたいだな」
あまりに軽い口調で、彼が言う。何でもないことのように前髪を撫で付ける八代が、拍子抜けだった。
「それより幸は何ともないのか?」
「うん。二人が来てくれたおかげで、追いかけられただけで済んだ。というか二人とも、一緒にいたんだね」
パチパチと瞬きをしたあと、私に向き直って説明する。
「悠ちゃんなら、私がいる場所もわかってるし、悠ちゃんの家から場所も近いから、来てくれるんじゃないかと思って――。警察にどこにいるか説明する余裕なんて、なかったから」
幸は身体を震わせていた。恐怖がまだ尾を引いている。それどころか増していっているのかもしれない。
私はたまらない気持ちになって、彼女の全身を包み込むように、抱き締めた。
「大丈夫、大丈夫。もう大丈夫だから」
幸の脳に浸透させるように、しきりに繰り返す『大丈夫』は、まるで自身に言い聞かせるようでもあった。
幸の震えが治まっていき、代わりに私の首筋に熱い水滴が落ちていく。
私もこっそり一粒だけ溢した。
間に合ったんだ――。
実感できた瞬間、ここまで走り抜いてきた疲労が一気に襲ってきた。




