可哀想な人
「というか若葉。田中さんっていう人と、一体何があったんだ?」
ややあって投げられた質問で、甘ったるい空気は消え失せた。
「そうだ! 麗さんは、あれからどうなって――」
『俺はこれから田中と話さなきゃならんから、出る』
父の言葉を思い出す。彼女は今、どこにいるのだろう。警察署? 私の家? それとも父と共に働いているという会社の会議室にでもいるのか。
「あの人なら、一度警察に連れていかれたが、今は会社にいるって話だ。あの人、親父さんの部下なんだって? 親父さんが警察署に迎えにいったらしいぞ」
私の父は、会社でそれなりに地位のある立場らしいから、部下を犯罪者にするわけにはいかなかったんだろう。
警察官の前で、「いやー全然大したことじゃないんですよ。お騒がせして申し訳ない」と頭を掻く父の姿が、簡単に想像できた。
となれば、麗さんが逮捕されることはないはずだ。私が異議を唱えない限りは。
ホッと息を吐いた私を、八代は不可解そうに見る。
「若葉は、あの人に殺されかけたんだぞ。何でそんな安心したような顔してんだよ」
「だって麗さんは――可哀想な人だから」
私は、彼女が八代の父の友人である田中の娘だということを話した。
そして、手記の内容と麗さんの言葉を、出来る限り鮮明に伝えた。
全て話し終わった時には、八代も私と同じ面持ちになっていた。
「正直田中さんの存在は、今の今まで頭から抜け落ちてたよ。能力を親父に移して、望みどおり幸せな結婚をしたんだと思ってたし。……でもそうじゃなかったんだな」
八代は目を閉じて、長い息を吐く。麗さんの境遇を憂いているようだった。
しばしの沈黙の後に、私が口火を切る。
「それにしても、今日会う約束してて良かったよ。八代が来てくれなかったら、今ごろどうなってたか……」
私は、麗さんを殺していたかもしれない。逆に私が逝っていた可能性もある。
八代に家に来てもらう約束をしていて、不幸中の幸いだった。
「もっと早く――薬を盛られる前に若葉ん家に着いてれば良かったんだけどな。そしたら若葉に苦しい思いをさせずに済んだのに」
彼は悔しそうに、拳を膝の上で握りしめる。
「インターホン鳴らそうとしたら、騒がしい気配がして――嫌な予感に駆られて、急いでリビングに向かったんだ。――マジで間一髪のところだった……あと一分でも遅かったら、危なかった。本当に良かった……」
声を震わせて、たどたどしく語る。
私は手を伸ばして、彼の頬を撫でた。
「心配かけちゃったね。ごめん」
「謝んな」
彼がムッとしたように、撫でている手を掴む。
「でも――もう勘弁してくれ。心臓がいくつあっても足りねぇよ」
そう言うと、私の肩に頭をもたれさせた。
「うん」
私ももう、病院のお世話にはなりたくない。
そのまましばらく、互いの吐息を間近に感じていた。
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