日本ってやっぱり人治主義だよって思った話
筆者は人権というのを、絶対の物とは思っておりませんが、制度の前提条件として守られなければ社会秩序が維持困難になると思っています。
他者に対して、人徳を求めたがる風潮が嫌いだったりします。
ハリウッドセレブも愛想笑いを求められるらしいので、こうした事は万国共通にあるんでしょうね。
先日、ネット記事で岐阜刑務所が老齢の受刑者に訴えられたという記事がありましてね。内容は原告側は老齢になり歩行が困難になったために車椅子の貸与を申し出たけれど、録な説明も無いままに訴えを却下されて、不自由な生活を強いられ、数年たって歩行具を貸与されるも、歩行具が身体の不具と合っておらず、腕などを鬱血や出血するなどして、再度の車椅子貸与の申請をするも、やはり何故出来ないのかの説明なく無視されたとの事で、これに対して刑務官などに人権侵害と不自由を強いられたことなどで損害賠償を求めたというものでした。
これは原告側だけの主張ですから、勿論、岐阜刑務所側の主張を聞かなければ事実はわかりませんが、とりあえず原告の主張が事実だと仮定するなら、この訴えは当然なんですよね。
なんですが、そのネット記事のコメント欄が酷くて、刑務所に入れられた犯罪者なんだから、その程度の苦痛は我慢しろ、犯罪者のくせに何、楽しようとしてる。苦しむのが当たり前、果ては刑務所とはそういう所、なんて、本気で言ってるのかと思うコメントが溢れてて、なかにはこの訴えが正当なものだと言うコメントもあったし、私もそうしたコメントをしたんですが、私のコメントはグッドの倍はバッドがついたし、他のコメントだとバッドだらけなんてのもあって、対して原告を叩くコメントはグッドの嵐。
あー、日本はやっぱり人治主義というか、文化的に徳を求める精神が強いなって、改めて思いましたね。
悪いことだけでは無いんですが、最近は悪い側面が目立ってるように思うんですよね。
まあ、日本に限った話とも言えないかもしれませんが、少なくとも日本人の文化としては根強いんだと思います。
さて、この岐阜の件。私が人治主義だと思ってしまう理由を話していきます。
まず、受刑者が不当に苦痛を与えられたことに対して、「刑務所とはそういう所」といったコメントは理解し難いです。
犯罪者が被害者と同じ苦痛を味わうべきだという心情は理解できますが、刑務所を苦痛を与える所だと認識しているのは間違いですからね。
服役刑はあくまでも社会秩序の維持のために規範を外れた人物を隔離し、反省させ、社会復帰のための訓練を施すことが目的ですからね。
コメントには原告の訴えは刑務官の仕事じゃない、介護職員じゃないなんてのもありましたが、普通に刑務官の仕事ですよね。服役中に体調不良で刑期を全う出来なければ、司法の定めた罰を履行出来なかったことになりますから、また、受刑者にも人権はありますから、受刑者の体調管理は刑務所の義務ですよね。
例えば、刑務所が満員になっていて、刑務官の仕事が追い付かなくなっている現状を踏まえて、刑罰の在り方や、刑務官の補充などを議論するならわかりますが、「刑務所とはそういう所」って、司法権限のない刑務官に受刑者に罰を与え、苦痛を与える権限を与えていいと言うことになる。
それは現行犯で逮捕された犯罪者なら、現場で警察官が殴り殺してもいいと言ってるのに等しいことを理解してないんですよね。
実際には緊急措置であっても発砲はおろか、制圧のための暴力すら、警察官は叩かれるのが実情ですよね。そこは当然、賛否あっていいとは思いますが、少なくとも日本は三権が分立しているんですから、「刑務所とはそういう所」というのは絶対におかしいと思わなければ「法治国家の人間」として「法治」を理解しているとは言えません。
我が国では犯罪被害者の権利が低く、救済が遅れていると思うことは多いです。ですから、犯罪者に対して、被害者に弁済すべき、被害者の苦しみを味わうべきという考え方自体は理解できます。
しかし、司法は被害者の報復権の代理執行という側面も踏まえて、判決を決める訳です。懲罰的な量刑は認められず、実損主義ではありますが、それでも量刑に幅があるのは被害者感情に添うためでもあります。
犯罪者には人権などない。その気持ちはわかるんですが、それを認めれば、人権思想を前提とした法治国家の枠組みは全て壊れてしまいます。犯罪者にも人権はあり、そして、正当な裁判を受ける権利もあれば、裁判する権利だってある。
岐阜の裁判がどうなるかはわかりませんが、「犯罪者は黙って我慢してろ」が罷り通る世の中こそ、犯罪が蔓延る温床になると思います。
それは、ミスをした人間、他者に迷惑をかけた人間は際限なく叩いて構わないという社会に他ならないからです。
人治主義的な文化でも構わないのです。ただ、人に徳を求める以上に自分自身に相応の徳を求めたいものです。
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