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大学前のバス停から市バス59系統に乗り込み、河原町通りを南下すること約15分。
河原町二条の京都市役所前が最寄りバス停だった。
目的地は『ネーデルラント京都』という名の最高級ホテルだ。なんでも世界規模でチェーン展開をしているホテルブランドの京都支店らしい。
第一種奨学金を満額借りている私のような庶民には、宿泊はおろか訪れることすらままならないだろう。
本来ならば。
目的は宿泊ではない。と肝に銘じつつ、少しだけワクワクしていると、湊が「千景」と私を呼んだ。
「遊びに行くわけじゃないぞ」
「う……」
またもや図星だった。彼には私の庶民性も全てお見通しというわけだ。
「分かってるわよ」
そう彼に言うと、私はスマホに目を落とした。ホテルの情報をもう少し調べたくなったのだ。
ネーデルラント京都は二条大橋の畔、鴨川右岸に面していて、市役所前バス停から徒歩5分程度はかかる。
地下2階、地上5階建てのこのホテルは、グレーを基調とした非常に京都らしい外観で、対岸から撮影された姿は鴨川の穏やかな景観によく溶け込んでいて上品だった。
『次は、京都市役所前。京都市役所前』
宿泊客のレビューを読み漁ったり、予約サイトで豪華な客室の写真や桁違いの宿泊代を見て目を剥いたりしていると、車内にアナウンスが響いた。
どうやら間もなく到着らしい。
我先にと近くの降車ボタンに手を伸ばしたが、惜しくも湊に先を越されてしまった。
バスを降りてすぐ、ホテルのある方角へくるりと体を向けると、私達は歩き出した。
銀杏並木と湊の姿を左手に捉えながら歩道を進む。すると突然、一陣の強風が顔に吹きつけた。
「さっむ……」
条件反射のように呟くと、白い息が眼前に細く現れて霧散した。
京都の冬は寒い。
ダッフルコートに身を包み、大判マフラーをぐるぐる巻きにしていても尚、風が鋭く身に染みる。
道行く人々はみな、肩をきゅっと縮めていて、私も無意識に前傾姿勢をとっていた。
だというのに、隣を歩く男の出で立ちは、およそ京都の冬に似つかわしくなかった。
ライトベージュのパーカーの上に、黒いブルゾンを一枚だけ羽織っている。見ていると更にこちらが震え上がりそうで、
「ねえ、湊。そんな格好で寒くないわけ?」
と、堪らず訊ねた。
ちらりとこちらを見たかと思えば、湊はあからさまにそっぽを向いた。しばらく黙ってから一言。
「寒い」
見たことか。カチカチと歯のぶつかり合う音が聞こえている。
その様子が何だかおかしくって、私は少し意地悪してやりたくなった。
「手、繋いであげよっか?」
「ばっ……!」
湊が勢いよく振り向く。耳を赤くして、声にならない声を上げた。何か言おうと口をパクパクさせているが、言葉にすらなっていない。眉間には皺が寄り、片眉が小刻みに上下している。
「なに、照れちゃったの?」
「ざけんな」
そう吐き捨てると、湊は足を速めた。
想像通りの反応だった。いつも鼻につくことしか言わない幼馴染を、こうやって揶揄うのが昔から好きなのだ。たまにはこちらからも攻撃に打って出ないと、バランスが悪い。
「ばーか、なに本気にしてんの」
先を行く背中に投げかけると、
「別にそういうわけじゃない。いきなり気色悪いことを言うから驚いただけで、別にそれ以上でも以下でもない」
二度〝別に〟と言っていることに突っ込むのは野暮というものだろう。これくらいにしておいてやるか。
私はコートのポケットに忍ばせていたカイロを前方に投げた。湊が振り向きもせずにそれをキャッチする。
「最初からそうしとけ」
ぶっきらぼうに言うと、彼は歩みを緩めた。
湊が再び隣を歩く。
「諸々片付いたら、服屋に行くよ。大学生なんだしコートくらい持ってないとね」
「はぁ。わぁったよ」
それから私たちは言葉を交わすことなく、現場のネーデルラント京都へ足早に向かった。
「お疲れ様。警部が中で待ってるよ」
最上階の508号室の前に着くと、黄色い規制線をくぐって一人の刑事が私達に声を掛けた。
出口翔。
今年、めでたく交番勤務から京都府警捜査一課に配属された巡査部長で、26歳。
当然の事ながらおじ様の多い刑事の中では最も私達と年齢が近いため、特に親しくしてもらっている。
短めの黒髪とキリッとした目鼻立ち。まだあまり着慣れていないのか、ネクタイのずれた黒いスーツと、チャコールグレーのコートに身を包む彼は――歳下の私が言うのもおかしな話ではあるが――爽やかな新米刑事といった風な容姿だ。
「今日は非番だったんですか?」
湊が出口刑事に訊くと、彼は白い歯を見せて笑い、
「そうなんだよ。久しぶりの非番で刑事ドラマを片っ端から観るぞ~! って意気込んでたら警部から電話が来て大慌て……って、なんでそれが分かったんだ?」
目をまん丸にして訊ねた。
「まるで整っていない髪の毛とその緩んだネクタイですよ。髪はいつもワックスで固めて、ネクタイは締め過ぎなくらいに締める出口刑事が珍しい。しかもネクタイに至っては位置がずれている。おまけに、ところどころ髭剃り跡にムラがありますね。全て、先程まで家にいて、慌てて出てきた証拠です。この時間まで家にいたということは、非番だった可能性が高いでしょう?」
「寝坊しただけかもしれないじゃない」
当然のように語る湊に少しムッとして、私が横槍を入れると、彼は即座にそれを否定した。
「今は昼の2時過ぎだぞ。寝坊したとしても精々10時か11時ぐらいだろうし、この現場に臨場するまでに全て整えることができたはずだろ? 真面目を絵に描いたような出口刑事がずっと身なりを放っておくはずがないし、捜査一課に配属されたばかりで張り切っているのに寝坊するってのも考えにくい。扇警部じゃないんだから」
寝坊ではないと考える理由をつらつらと述べると、湊は私と出口刑事の反応を待たずに、「それでは、失礼します」と言って規制線の向こう側へ入っていった。
湊の背中を見送りながら、出口刑事が私の横に立つ。
「いやあ全く、湊くんの言う通りだったよ。一目見ただけで的確に当てちゃうなんてすごいなあ。刑事として、僕も見習わないと」
腕を組み、大袈裟に頷きながら出口刑事は呟く。
私に同意を求めているのだろうか?
そう思って、私は彼を見上げた。
「隠してるつもりで隠し切れていないあのドヤ顔、めちゃくちゃ腹が立ちませんか?」
「いやあ、すごいなあ。すごい」
「……聞いてないし」
しきりに感心し続ける出口刑事に見切りをつけ、私も規制線をくぐり抜けた。
客室に足を踏み入れると、すぐに大きな背中が立ち塞がった。
「お疲れ様です」
その背中に声をかけると、主は首だけをこちらに捻って、ひょいと片手を上げた。
「おお。来たか、千景ちゃん」
ボサボサ頭と無精髭、だらしなく結んだネクタイの上に型崩れしたスーツを着ている彼の名は、扇浩二。
京都府警捜査一課強行犯捜査四係、通称『扇班』の班長を務める警部で、年齢は51歳。
面倒臭がり屋でヘビースモーカーと、出口刑事とは何もかもが正反対だが、叩き上げのベテラン刑事だ。
そして、昼休みに湊に連絡をよこした張本人でもある。
賢明な方々にはもうお分かりであろう。私達は、この扇警部の依頼を受けて、主に殺人事件の捜査協力をしているのだ。
湊と私は、〝幼馴染の大学生〟という顔の他に、所謂〝探偵〟と〝助手〟という顔を持つ。警察の依頼を受けて、これまでにも幾つか事件解決に助力した。
何故そのような協力関係を結ぶに至ったのか、その理由はおいおい記すこととして、話を元に戻そう。
「早速ですが、遺体の様子は?」
「もう湊が調べ始めてるよ」
扇警部が体を横にずらして初めて、室内を一望することが出来た。
最初に目に飛び込んだのは、一番奥、壁一面に設けられた大きな窓だった。
鴨川や東山三十六峰の姿が窓の外に拡がっている。左側のカーテンが閉まっているが、それでも迫力は十分にあった。
窓際には、二脚のラウンジチェアと一脚のラウンドテーブルが置かれている。あれが所謂リビングエリアというものなのだろう。大きな液晶テレビなんかも壁に掛かっている。
ふん、おばあちゃん家の縁側にも、ああいう感じの椅子とテーブルは置いている。まあ、もっと背が低いし年季が入っているけれど。
リビングエリアの手前がベッドルームになっており、入口から見て左手の壁側に、6人は優に座ることができるであろう深いブラウンのソファが置かれていた。その向かいには、キングサイズの白いベッドが設けられている。
ソファとベッドの間、少し手狭なその空間に、湊はしゃがみ込んでいた。
傍らには、帰らぬ人となってしまった女性の姿が見える。
私は白い手袋を装着し、現場を荒らさないよう、慎重に彼の元へ向かった。
湊のすぐ側に立つと、彼は私を見上げて一言、「千景か」と呟いて、顎をしゃくった。
遺体を見ろということだろう。
素直に従って、視線を湊から遺体の方へ移す。
「ひっ……」
何度も殺人事件の現場に居合わせているが、遺体を間近で見ることには、未だ多少の躊躇いがある。
だから、遺体を前にしても常に冷静沈着でいられるところは、湊の数少ない尊敬できる点だった。
とはいえ、捜査協力を依頼された以上、怖がって投げ出すわけにはいかない。
私は一度深呼吸をして、気持ちを落ち着かせることにした。
「すぅ……はぁ……。すぅ……はぁ……。――よし」
「いい加減慣れろよ。何回目だ」
「うっさいわね」
相変わらず口こそ悪いが、湊のおかげで緊張はかなり和らいだみたいだ。
しゃがみ込んで、私はようやく遺体の観察を開始した。
うつ伏せで横たわっている遺体の頭は入り口の方を向いていて、両の手を前に投げ出している。右腕には高級そうなブレスレットが嵌められていた。
生気を失った顔は青白かったが、それでも非常に整った綺麗な顔立ちだ。
生前は誰もが羨む美人だったのだろうと、勝手に想像する。
「ん?」
首の周りに青紫色の線がぐるっと一本入っている。
索条痕だ。
被害者はロープのような何かで絞殺されたのだと、一目で分かった。
しばらく遺体の様子を見ていると、背後で扇警部が事件の詳細を説明し始めた。
「ここの宿泊客は片瀬斗真。俺はよく知らねえが、有名な芸能人らしいな」
私と湊は一時、観察を切り上げて立ち上がり、扇警部の方を向いた。
いつの間に客室に入っていたのか、扇警部の隣で出口刑事が続ける。
「ええ。空中浮遊やらすり抜けやら、摩訶不思議なことをやってのける人で、スペースアーティストなんて自称しています」
「スペースアーティストだぁ?」
扇警部が突っ込むと、出口刑事は呆れたように「ある日突然、夢に羊が現れて〝宇宙の力〟とやらを授けられたんですって、彼」と応えた。
「羊が力を授けるのか……?」
湊が神妙な面持ちで呟いている。そこは多分考えてはいけないところだと思うよ。
「このホテルにチェックインしたのは昨晩のこと。片瀬は今夜開かれるディナーショーに出演するため、前乗りしていたようです」
「はあ、胡散くせぇ。ただの手品師だろ」
扇警部が鼻白んだ風に吐き捨てた。
全くだ。
片瀬斗真の名は耳にしたことがあるし、テレビでその姿を見たこともある。SNSのフォロワーは確か、数十万人ほど。かなりの人気を誇っているようだが、しかし……。
どうも私は、ああいう全てを見透かしたような、得意気な顔で話す人間のことを好きになれない。
あれ。そんな奴が今、私の隣にいるな。
「なんだよ」
「いいや。なんでもない」
ふん。片瀬に比べたら、湊なんて可愛い方である。
「まあ、いいや。被害者は片瀬のアシスタントメンバー、須藤理沙。二人は男女の関係にあったらしい」
扇警部が頭を掻きながら言った。
ふむ。片瀬と交際していた須藤が、片瀬の宿泊していたこの客室で殺害されていた。
それだけ聞くと、至極シンプルな事件であると言う他ない。
よくある痴情のもつれというやつで、片瀬が須藤を絞殺した。常識的に考えれば、それ以外に答えはないだろう。
だとしたら何故、警部は私達に捜査協力を依頼したのか。
不謹慎ではあるが、このような事件などそこかしこで起きている。扇警部もそんな事件の担当を、文字通り星の数ほど務めたことがあるはずだ。
黙って俯き、思案に耽っていた湊が、突然顔を上げた。
どうやら、湊も私と同じ疑問に突き当たったらしい。
「で。何故僕達を呼んだんですか? このような事件なんて毎年日本中で起こっているでしょう」
湊の言葉に私も頷く。
扇警部と出口刑事は顔を見合わせた。どちらが先を話すのか、目顔で話し合っているのだろう。
しばらくして、出口刑事が口を開いた。
「それがね、湊くん。片瀬の言い分を信じるのなら、これは完全密室殺人なんだよ」
私と湊は口を揃えて反応した。
「完全密室殺人……?」