尊い
よく見ればグレーに白色が混じった子ネコは、優の両手の平の上でちょこんと座り元気よく鳴いていた。
「これ。ネコ」
優から放たれた一言は、文明を自らの意思で断ち続けている南米アマゾンの部族のような物言いであったが、ワシも気が動転していたのだろう、優がなぜ子ネコを持って帰ってきているのか、なぜそんな泥まみれで顔が傷だらけなのかを尋ねることもなく、
「うん。ネコ」
とだけ返答した。
一瞬にして我が家の玄関が南米になった瞬間でもあった。
優曰く、ウォーキングをしていたらネコの鳴き声がしたので草むらを掻き分けたところ、この子ネコが現れたそうだ。そしていくら離そうとしてもベッタリくっついて付いて来るので情が移り、仕方なく連れて帰ってきてしまったとのこと。
「ではなぜそんなに泥まみれで顔が傷だらけなんだ?」
普通にドブにはまったそうだ。
おぼつかない足取りでニーニーと鳴きながら、リビングを歩き回る子ネコ。その様子を80のじじいと50のおっさんの二人で黙って見続けた。
我が家に動物がいるのは不思議な感覚だった。妻のさゆりが大の動物嫌いであったため、イヌやネコはおろか金魚すらも飼ったことがなかったからだ。
「名前、どうする?」
飼うつもりらしい。しかも家長であるワシに飼ってもいいかや、飼わせてほしいといったくだりは全くなく、彼の中ではそれら全てをクリアしたものとなっている。
「いやいや。優、あのな」
「……ミーちゃん」
そして彼の中で今名前が今決まったらしい。ミーちゃんといういかにもイケてない50代のおっさんが付けそうなネーミングだった。
「母さんが怒るぞ?」
それは"生きていれば"ということではなく、なんとなく今もどこかにいてワシたちを見守ってくれている気がしていたからだ。それに名前を付けると完全に情がわき手放せなくなってしまう。
ワシは81歳。今は元気だが、これ以上元気になることはまずないと考えてよい。そして間もなく介護も必要になるだろう。
そしてお前は職にも付いていない中年ニートの56歳。親の年金で食わせてもらっている56歳なのだ。もうここまでくればちょっとやそっとじゃ就職などできない。誰が一癖二癖もある中年のお前を社員として欲しがるというのだ。
つまりだ優よ、お前は今後も社会的自立は難しい。ワシたちは世間でいう8050問題ど真ん中なのである。だから今は少し先の未来を考え、他にやらなければならないことを優先立てて取り組まなければならない。子ネコを飼ってる場合ではないのだ。
そう言おうとしたところ――
「母はもういない」
優がそう言ったので、
「さゆりは……。母さんは今も俺たちを――」
そう言い始めたとき、あぐらを組んで座っているワシの膝の上に子ネコが乗ってきて、一層強くニーニーと鳴き始めたのである。
「……だからさゆりは――」
「ニー! ニー!」
「さゆりは……」
「ニー! ニー!」
「…………」
もしかして、さゆりか?
"この子ネコはさゆりの生まれ変わりかもしれない"
そんなはずはないことくらい百も承知である。周りの老人仲間に言えば笑われ馬鹿にされるに違いない。ただ妻を亡くしてからワシの心は日に日に弱ってきている。そこへ刺してこのタイミングだ。完全に心を持って行かれた。
「名前は"さゆり"にしよう」
「ミーちゃんだよ。それに母が怒るよ?」
優の言葉はワシには届かなかった。この親にしてこの子ありとはよく言ったものだ。子ネコを両手の平に乗せ、目線の高さまで持ち上げた。
「お前は今日からさゆりだ」
笑顔で子ネコにそう伝えると、まるでワシの言葉を理解したかのように一際大きな声で「ニー!」と鳴き、力を出しきったのかそのまま眠ってしまったのである。そのなんとも愛らしい寝顔は、黒く重いワシらの生活を払拭してくれるかの如く、光り輝いていた。
この寝顔をいつまでも見ていたいと思うと同時に、「ニー!」と鳴いてみせてほしい思いが混じり合い、齢81歳にして初めて湧き出る感情であった。
「父よ。今こそあの言葉を言うタイミングですぞ!」
優が興奮気味に言っているが、何のことを言っているのかさっぱり分からなかった。
「なんと言うんだ」
「尊いと言うのですぞ!」
なるほど。"尊い"か。
久しく感じることがなかった感情なだけに、ここは優の言うとおりにすることにした。
81歳のじじいと56歳のおっさんが顔を寄せ合い、眠っている子ネコの前で、
「「尊い……」」
妻も笑っている気がした。
第3話へと続きます。