中秋の名月
『人がやれるのはやれることだけだ。それをやるからこそ夜に眠ることができるし、明日また続けることもできる』 ――アルベルト・シュバイツァー
「フランスの哲学者じゃて」
「…………ふーん」
「ノーベル平和賞も貰っとるんじゃて」
「ふーん」
会話はそこで終わった。
優は「ごちそうさま」も言わず足早に2階の自室へ上がって行ってしまった。
階段を上っている途中、屁を2回もこいていたが笑う気にもなれなかった。むしろさっきの「ふーん」も屁だったのではないかと思うと、
「はあ……」
ため息が漏れた。
こんなとき妻が隣に座っていてくれたなら、二人で目を合わせ優の屁を笑ったに違いない。
妻が自宅で息を引き取ってから早3ヶ月が経過し、宅配弁当の味にも大分と慣れてきた。が、56年間連れ添った妻の味にはやはり敵うはずがなかった。
空腹は満たされるのに何か肝心なものが足りない。毎日何かを失っていく喪失感。その何かは"愛"であると早期に気付いていたが、気付いたところで何も……。何も変わることはないことも理解していた。
庭に出て、慣れない手つきで洗濯物を取り込んでいると、今日が中秋の名月であることに気付く。
こうして夜空を見上げ、光輝く月や星々を見るのはいつぶりだろうか。
「そっちでは元気にやっているのか?」
思わず出た声に対し返答がないことなど百も承知であったが、両の眼にじんわりと涙が溜まる。この頃は本当に涙もろくなった。赤ちゃんのオムツのCMを見るだけで泣けてくる始末だ。
涙が頬を伝ってしまわないように、取り込んでいる洗濯物で両目を拭っていたところ、
「なあ」
背後から声がした。
優が2階から降りて来ていたのである。涙を拭うのを即座に止め、優に背中を向けたまま洗濯物の取り込み作業を再開した。
「どうした?」
「タオル」
優は2週間ほど前からダイエットをしており、毎日夜の9時から1時間ほどウォーキングに出かけている。先日体重を計ったところ120kgあった体重が118kgになっていたとのことで、それ以来ダイエットの申し子とも言わんばかりに体重計に乗っては上がり下がりする数値に一喜一憂していた。
ちなみに優がダイエットを始めてから風呂に入る回数と洗濯物が増え、その家事に追われるワシは3kg痩せた。
取り込んだ洗濯物を入れるカゴの中からタオルを探しだし、
「気を付けてな」
と一言添えて手渡すが優からの返答はなく、タオルを首の回りに巻き玄関の方へ行ってしまった。上下とも真っ黒なジャージはパンパンに膨らんでおり、伸縮する生地の悲鳴が今にも聞こえてきそうである。
「あなたは優に甘すぎるのよ」
妻が息を引き取った和室で洗濯物を畳んでいると、よくそう言われていたことを思い出した。確かに自分でもそう思う。本来なら親として、優の社会的自立を促さなければならない。その点、妻は優に厳しかった。この部屋で息を引き取る間際も、
「優……」
と蚊の鳴くような声で優を呼んだ。
往診に来てくれていた医者や看護師からも「最後のご挨拶を」と言われたこともあり、優は大声で「母ー! 母ー!」と泣き叫んでいた。そんな優の頬を優しく撫でながら妻は口パクで、
「(は)(た)(ら)(け)」
と言い、そのままこの世を去った。
優は後日ワシに、
「父よ、母は最後の最後まで私に『ありがとう』と言ってくれた」
と自慢気に語っていた。思い出を補正するのも大概にしろと言いかけたが、ぐっと堪えた。
しかし最後の最後まで優に「働け」と言っていたことは、妻がいなくなってようやく理解できるようになった。自分はもう81歳。優は56歳なのである。もし自分が今後体調を崩したり命に関わる事故が起こった場合、優は一人でどう生きていくというのか。息子のことを本当に心配し、愛していたのは妻の方なのだ。
(優が帰ってきたらこれからの話をするか)
そう思い、畳み終わった洗濯物をタンスの中に入れ込んでいたところ、慌ただしく玄関のドアが開く音が聞こえた。
「父ー! 父ー!」
大声を上げ、ワシを呼ぶ優。
普段は黙って帰ってくるため、尋常ではない何かが起こっていることは間違いなかった。急いでタンスを閉め、玄関の方へと移動する。優はハアハアと息が切らせながら玄関の上がり框のところで突っ立っていた。よく見ればジャージはドロドロであり、顔面のいたるところに擦過傷ができ、血が滲んでいた。
「何があった!」
その問いに優はすぐに答えず、ハアハアと息を切らすばかりであった。何があったか言わないと分からないじゃないかと言おうとしたところ、優が両手をスッと前に出し、
「コレ」
と言った。
ワシは優の顔から視線を落とし、その両の手を見た。
「ニー! ニー!」
そこには小さな小さなグレーの子ネコが乗っていたのである」
第2話へ続きます。