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妖魔記

作者: ginsui

  一の章


 野中を吹く風に、静かな死臭がある。

 ひとつの影が野を横切り、羅城門へと向かっていた。

 月も星も青黒い雲の中に沈み、深野を浸す虫の音のみが空との境界をそれとしるした。

 影は闇にとけ、ゆるやかに進んだ。

 水王みずおう、と影は呼ばれていた。人間が魔とみなすものたちの中で。

 羅城門の前の葉叢が、ふいにざわめいた。

 凍てついた獣の目が、丈高い草の間から覗いて消えた。

 水王の気配をかぎとって、弾かれたように逃げ去ったのは、痩せた数匹の野犬だった。

 そのとき雲が切れ、月が葉のそよぎを照らし出した。

 狩衣をまとった、うら若い男の姿があらわになった。髪を後ろ背にたらし、青白い額には裂けたような傷跡がある。人間でないものの妖しげな美しさが月光に冴えた。

 野犬を引き寄せていた獲物は、無傷のままころがっていた。被衣かつぎにくるまれた乳飲み児である。

 水王が足先でつつくと、乳飲み児はかすかに身動きした。

 捨てられてからどれほどたつのか、泣き声を上げる力はないものの、まだ生きている。

 このみじめな生きものの強靭さに、水王は皮肉な笑いをうかべた。いずれ野犬が始末するだろう。

 乳飲み児にはかまわず、水王は羅城門の中に入って行った。

 上層に登ると死臭は一段と強まった。

 弔いもかなわなかった骸が、人間の名残をようやくにとどめて打ち捨てられている。

 それらをこともなげに乗り越え、帳を開くようなしぐさをすると、闇が割れてほのかな光がさした。

 おびただしい梅の木が光の中に匂い放ちながらつらなり、遥か果てに寝殿造りの館がある。


「これは常陸の殿」

 雑色ぞうしき姿の鬼が水王を出迎えた。

茨木いばらきはいるか」

「いえ、大江山に」

酒呑しゅてん童子のところだな」

 急ぎの用事があるわけもない。

 水王は茨木を待つことにした。一日だろうと十年だろうと、妖魔にはさして変わらぬ時なのだ。

 茨木の館は、人界のものの豪奢な模倣だった。

 庭園の広い池面に浮かぶのは、龍を形どったほっそりとした二艘の船。舟首の龍の目は紫水晶、きらめく鱗は一枚一枚が薄い貝細工だ。

 築山には彩り豊かに四季の花々が咲きほこり、可憐に小さな蝶々が花びらのように舞っている。

 屋根の瓦はすべらかな青磁、紫檀の柱、絹張りの壁、調度小物のひとつひとつ、贅の限り美の限り・・これらすべて、創り出した時と同様、茨木が手を一振りすれば消え失せる幻だとしても。

 水王は、酒を釣殿に運ばせた。

 美麗な幻の女たちがかしずいて来たが、水王は無言で彼女らを消した。ひとり、玻璃の盃を傾ける。

 が、思いのほか早く茨木は帰って来た。

 水王は、彼が抱えるものに眼をとめた。

「それは?」

「人の子だ」

 茨木はにっと笑って腰を下ろした。

 烏帽子さえつけていれば、そして髪の間からのぞく角さえなければ、都の貴公子とも見まごう美丈夫である。

「羅城門の下で拾ってきた」

「わたしも見た。虫の息だろう」

「死なすにはおしい。愛らしい顔をしているぞ」

「どうするつもりだ」

「育てるさ」

「育てて稚児にでもするか」

「悪くなかろう」

 水王は、興味なさそうに酒を口に含んだ。

「ものずきなことを」

「忘れたか、水王。わたしも酒呑童子の拾い子だった」

「鬼が一匹、また増えるわけだな」

「そう言うな」

 茨木はくっくと笑い、ぐったりとした赤子をもう一度眺めやった。

「乳がいるな。どこぞから乳母をさらわせよう」


 二の章


 異界の時は、ものやわらかによどんでいた。

 梅の花は絶えず咲きつづけ、梅の紅に染まるかのような乳色の空は、にじむような光を含んだまま暮れることはなかった。

 変化は、梅王と名付けられた子供にばかりおとずれた。

 茨木が満足する可憐さで梅王は成長した。 茨木は梅王を連れ、好んで梅林の中を歩いた。

 幼いころは肩に乗せ、少年となってからはその身を抱くようにして。

「ここは、そうだな、人間界のほころびのようなところかな」

 梅の木を見上げながら茨木は言う。

「人が怖れ、嫌うところには、居心地のいいほころびができるよ。魔が巣食うにはちょうどいい、な」

「魔?」

「人に禍なすものだ」

 梅王は、茨木をしげしげと眺めた。

「茨木は、そんなふうには見えないけれど」

「おまえにはな」

 声をたてて茨木は笑った。

「だが、他の者たちには違うのさ。魔はあさましく恐ろしい。人の世におこる悪しきことは、すべてわれらの仕業らしいよ」

「本当にそうなの?」

「まさか。たまにちょっかいを出すくらいだ。退屈しのぎにな」

「じゃあ、どうして・・」

「そう思いたいのだろうさ」

 人の世は、梅王にも見ることができた。

 梅林の中に小さな池があり、眼をこらすと澄んだ水面は望みの光景を映し出した。

 茨木が側にいない時など、梅王はつれづれに池に身を乗り出し、人界を眺めた。

 梅王にとっては、都路を横切る麗しげな牛車も、河原に倒れた疫病人も、めずらしさにかわりはなかった。

 貴族らはしきりに物忌みし、そのあいまに官位を競った。

 きらきらしい仏会が催され、典雅な恋歌がとりかわされ、たいていの夜は盗賊が横行し、野犬が死肉をむさぼった。

 人界は大がかりな乱雑さで動いているようだった。

 行ってみたいとは思わなかった。

 梅王はここでの生活に充分満足していたのだ。

 池は梅王とは無縁のうつろいを、ただ従順に映しつづけた。

 その時までは。

 その時も、梅王は池の端にいた。

 水面はあいもかわらぬ人界のなりわいを見せていた。

 それは、しごくささいな光景だった。

 ひとりの女が家の庇に座り、赤子に乳を含ませている。女は下級官人の妻でもあるらしく、身なりも家屋も質素このうえないものだった。

 が、赤子を抱いているそれだけの行為が、えもいえず美しく梅王には見えた。

 記憶のどこかを、赤子の和毛にこげのようなものがひとなでした。あわいやさしい感情が高まった。

「梅王」

 茨木の声で我にかえった。

 茨木の側に見慣れぬ姿があった。

 青白い若者の顔は冷ややかに美しく、瞳ばかりに老人のような倦怠がある。

「これがそうだ」

 茨木は水王に言った。

「つつがなく育ったものだろう」

「そのようだ」

 水王は、肩をすくめてうなずいた。

 ここに来るまで、茨木が拾った赤子のことなどすっかり忘れていた。あの時と同じような気紛れで、ふらりと羅生門を訪れただけのこと。

 時の流れには無頓着な妖魔も、赤子のしたたかな成長ぶりに、なかばあきれる思いがする。

 梅王はしかし、水王へのとまどいよりも水面の光景の方に心を奪われていた。

「あれは?」

 茨木は梅王の指先を見て眉を上げた。

「ただの母子だ」

「おやこ?」

「母親は子供をなす。それだけのものだ」

「わたしの母親は──」

 言いかけて身をすくめた。

 水王の、射るような視線が向けられていたのだ。

 冷たい怒りをたぎらせたまま、水王はきびすをかえして歩み去った。

「おろかなことを、な」

 茨木は梅王を引きよせ、ささやいた。

「水王には母という言葉が禁句なんだ」

「なぜ?」

「憎んでいる」

 その昔、と茨木は言った。

 その昔、常陸に住むひとりの娘が大地の気を受けて子を孕んだ。

 生まれた子供は神の子として娘の一族にまつり育てられることになった。しかし、その育ち方は尋常でない。半年もしないうちに十才の童子ほどにも成長した。

 母親はついにおそれをなし、息子に高杯を投げて追い払った。

「水王の額に傷があったろう、その時の傷だ。まだ消えない」

「……」

「母親にさえ捨てられらければ、水王は神霊のひとつになっていたはずだった。しかし、母親を殺し、魔に堕ちた」

「わたしの母は違う」

 梅王は、必死で言った。

「わたしを追い払ったり、しないだろうし、わたしだって──」

「おまえとて捨て子だった。親に捨てられた子供が鬼になるのさ。ここにいれば、おまえにもいずれは角がはえる。このわたしと同様にな」

「違う! 憶えているんだ、確かに」

 言っているうち、記憶は、溢れるようによみがえってきた。

 かすかな子守歌の調べ。自分を眠らせてくれた、その温かい膝の上。やさしいひとの面影が。

「ああ。乳母だな、それは」

 茨木は、ようやく思い出したように言った。

「乳母?」

「さらってきたのさ、おまえのためにな。まだ若かった、おまえが三つぐらいまでここにいた」

「それから?」

「おまえが育てば無用の女だ。京の街中に捨てさせた」

 梅王は、茨木にすがりついた。

「会いたいんだ。会わせて」

「どこにいるかもわからんさ」

 茨木は、あっさりと首を振った。

「生きているという保証もできん。あきらめるんだな」

 だが、あきらめることはできなかった。

 梅王はうつうつと日をおくった。

 茨木の側にいても、彼の眷属たちと蹴鞠や舟遊びをしても、むかしのようには楽しめなかった。

 梅王は池の端に佇み、様々な母子の姿を映し出しては嘆息をついた。

 池に、水王の影がさした。

「それほど会いたいか」

 水王は冷ややかに言った。

 梅王は強くうなずき、一途な眼をまっすぐに水王にむけた。

 黒ぐろとした美しい瞳がうるんでいた。

 心をうたれたわけではない。

 水王は、ただ残酷な好奇心にかられただけだった。

「この館を離れても、おまえの乳母を探し出したいか。二度と戻れなくとも?」

 一呼吸間をおいて、梅王はこくりとうなずいた。

「よかろう」

 水王は薄く笑い、片手をひらりと動かした。空に濁った闇が開き、驚く間もなく梅王は闇の中に押しやられた。

 帳はすぐに閉ざされた。

 梅王は、闇と死臭のこもる羅城門にただひとり立っていた。

        

「哀れよな」

 池を眺めながら茨木が言った。

「ふん」

 水王は、冷たく答えた。

「連れもどしに行くほどの執心もあるまい」

 茨木は乾いた笑い声をたてた。

「まあ、それはそうだが」



  三の章  

              

 京の街中に向かって歩きだしたものの、梅王にとっては、人間界こそが異界にちがいなかった。

 人々の眼に梅王は、捨てられた白痴の童子か物狂いのように映ったかもしれない。

 公卿の車の前を横切っては、牛飼いに殴られた。道の端に腰を下ろしては口さがない子供らに囃たてられ、石を投げられた。

 いつのまにか衣までもはぎとられ、半日もしないうちに乞食同様のありさまになっていた。

 空腹と傷ついた身体をひきずって、梅王は街の市に入って行った。

 市に人はあふれている。

 人さがしは容易なことではないようだった。人界は市よりはるかに広く、まして梅王は乳母の名すら憶えていない。

 市の片隅に、ふと梅王は眼を止めた。

 一様にみすぼらしい身なりの人々が、ひとかたまりになって立っている。誰もが寒々として生気ない。季節は、間もなく冬をむかえようとしているのだ。

 梅王は、むきだしの両腕をこすりあわせて彼らのところに歩みよった。梅王の姿は、いかにも彼らの中こそがふさわしかった。

「何をしている?」

 梅王は近くの男に声をかけた。

「見ればわかろう」

 男はどんより曇った眼を梅王に向けた。

「身を売るのよ」

 路頭に迷った者たちが、やむにやまれず自分を売ろうとしているのだ。自由を奪われた奴に堕ちても、餓死するよりはましというわけで。

 確かに、彼らの前には、品定めしているような連中がいた。

 見目好い女でもいたら、東国に売り飛ばそうと目論んでいる人買いや、近在の荘園から、使い惜しみする必要のない働き手を求めに来た者たち。

 その時、誰かが梅王の腕を乱暴に掴んだ。

「華奢だが、年寄よりは使えるだろう」

 いかつい顔つきの男が、梅王を横柄に見下ろしていた。

「ありがたくついて来い。飯だけは食えるからな」

 それが梅王の買手だった。

 大和の長者のやっこに梅王はなった。


 茨木が去った後も、水王は池の側を離れなかった。

 梅王の運命に、いつしか興味以上のものを感じている。

 梅王に、何を期待しようというのだろう。

 水王はふといぶかった。

 梅王が抱いているのは、母親の幻想でしかないというのに。

 これから先、梅王が乳母に会えるとは限るまい。たとえ再会できたとしても、彼女が梅王の想像通りのものかどうか。

 しかし、水王は梅王を見つめつづけた。

 口の端にうっすらと自嘲めいた笑みをうかべて。

        

 日々はおわりなくくりかえした。

 日の出から日の入りまで休みなく働き、わずかな食事を与えられ、下人頭の笞に脅える日々だった。

 何も考えないでいることが生きていく一番の方法だということを、梅王はとうに理解していた。

 しかし夜、ぐったりと疲れた身体を湿っぽい寝小屋の床に横たえる時など、人々が魔と呼びならわすものたちのことがたまらなく懐かしく思い出されてくる。

 なぜ、人界に来たりなどしたのだろう。

 茨木のもとにさえいればよかったのだ。捜し出せるはずのない者のことなど忘れて。

 人間は、闇を忌み嫌う。

 だが梅王は、闇にこそ手をさしのばして助けを求めたかった。魔が闇の底にひそんでいるものならば。

 大和に来て、一年が過ぎようとしていた。

 救いは、別のところから訪れた。

 その日、田仕事を終えて寝小屋に帰ろうとしていた梅王の前を、一台の牛車が通りかかった。おつきの者たちを従えた、品のよい女ものの車だった。

 仲間の奴たちとともに梅王は道を開けて頭を下げた。

 牛車はなぜか、その場を動こうとはしなかった。

 牛車の細く開いた物見窓から、すすり泣くような長いため息がもれた。梅王の耳にはとどかなかったけれど。

 翌日、あるじの長者が梅王を呼びよせた。

「つくづく運のいいやつよな、おぬしは」

 あるじは、あきれたように言った。

「おぬしを欲しいといわれるお方がおる」

 国守の北の方が、梅王の姿をかいま見た。梅王は、先年病いで亡くなった国守夫婦の息子にそっくりであるという。

 梅王は、その日のうちに国守の館の住人になった。

 奴時代の垢をおとし、真新しい水干に着替えた梅王は、館の誰もが眼をみはるほど涼やかな童になっていた。

「くる日もくる日も長谷の観音にお願いしていたのです」

 梅王を前にして、北の方ははらはらと涙を落とした。

「いま一度、あの子に会わせていただきたいと。おまえを見たのもその帰り・・観音のお導きに違いない」

 北の方は、梅王をかたときも離さず側においた。

 まるで梅王が生きかえったわが子であり、眼を離せば再び消えてしまうとでもいうかのように。

 北の方は美しく、かぎりなく優しかった。

 これが母親というものなのだろう。

 北の方を見る度に、梅王はそう思うようになっていた。

 北の方の側にいると、いつか見た母子のように自分たちがやわらかな光の中につつまれているような気がする。

 乳母には会えなかったにせよ、梅王は幸福だった。

 自分が求めていたひとは、はじめからこの北の方ではなかったろうか。

 息子が死んで以来ふさぎがちだった妻の笑みを見て、国守もひとまず安心した。

 だが、時がたつにつれ、彼の胸にほの暗いものがよぎりはじめた。

 息子に似ているとはいえ、梅王はもはや子供といえる歳ではなかった。


 水王は、池から眼を放した。

 ここで満足してもらっては困る。

 水王が見たいのは、梅王と乳母の再会だった。

 羅城門を出た水王は、大和に向かった。

 闇にまぎれ、梅王に姿を変えて北の方の寝所にしのんだ。

 翌朝、梅王は放逐された。


  四の章       

 

 何が起こったのかまるで見当のつかないままに、梅王はとぼとぼと京への道を歩きだした。

 知らず知らずのうちに北の方の勘気をこうむったのなら、どんなつぐないでもしたかった。しかし北の方は梅王に会おうともしないのだ。

 あまりに深くしずみこんでいたので、その男がいつから自分と並んで歩いていたのか梅王は気づかなかった。

「いやにふさぎこんでいるじゃないか、若いの」

 その声でようやく男の顔を見た。

 梅王とさして背丈の変わらぬ中年の小男だった。にやつきながら値踏みするようにこちらを眺めまわしている。

「おれは、鬼童丸きどうまるだ。あんたは?」

「梅王・・」

「もうすぐ日が暮れる。行くあてはあるのかい?」

 梅王は、首を振った。

「じゃあ、ついて来ればいい。泊めてやるぜ」

 このとらえどころのない男を信用したわけではなかったが、心細さには勝てなかった。梅王は彼の誘いに従った。

 鬼童丸は梅王を、京の街はずれにあるひなびた家へと導いた。

 三十路を少し過ぎたほどの、あでやかに美しい女がひとり、二人を出迎えた。

白鷺しらさぎだ」

 鬼童丸はささやいた。

「いい女だろう」

 白鷺は、梅王ににっこりと笑いかけた。

「いらっしゃい。きれいなお客さまだこと」

 鬼童丸の妻だろうか。ちらりと梅王は考えたが、どうもそうではないらしい。

 白鷺は酒膳をはこび、かいがいしく梅王をもてなした。

 彼女の艶冶な笑みに誘われて慣れない盃を重ねるうち、梅王はいつしか不覚に陥った。鬼童丸の姿はとうになかった。

 夜半、鋭い痛みで目が覚めた。

 身を起こそうとしたが動くことはできなかった。

 手足をきつく縛られている。

 閨をともにしたはずの白鷺はかたわらにいなかった。かわりに水干姿となった彼女が笞を手にして梅王を見下ろしていた。

 燈台の火明かりが、不思議な笑みをたたえた彼女の顔をゆらめかせた。細められた瞳の奥が、妖しげに燃えていた。

 白鷺はむきだしになった梅王の背に再び笞を振り上げた。

「痛いかい?」

 白鷺は高らかに笑った。

「この痛みで俗世をはらいおとすと思ってごらん。そうしたら、あたしの仲間にしてやろう」

 梅王は、言葉も出なかった。

 肉が裂け、血がほとばしった。苦痛は脳髄を貫き、快楽にも似た空白がおとずれた。


 白鷺は、京の街を暗躍する盗賊の首領だった。

 彼女には鬼童丸をはじめ、数十人の配下がいた。

 鬼童丸は、白鷺のもとに若い男をつれて来る。

 白鷺との一夜で、あえなく命を落とす者もいた。彼女に服従を誓わない者も、即座に殺される。

 梅王は、白鷺の前にひれふした。

 他の男たちと同様、白鷺の命令ならばどんなことにも従った。

 白鷺は闇に君臨した。

 彼女は絢爛けんらんたる色彩の氾濫だった。

 物を盗み、火を放ち、やがてこともなく人を殺せる男に梅王はなった。

 時おり、羅城門の前を通りかかった。

 羅城門は野ざらしの風をうけ、何事にも無頓着にそびえたっているだけだった。

 淡い光に満たされた梅林を思い出すのはまれだった。

 夢の中に追いもとめていた優しいひとが、顔もさだかではないその人が現れ、胸に鈍い痛みを覚えることはあった。

 だが、そんな時、目覚めればいつでも白鷺の豊かな肉体が待っていた。

 梅王はもはや白鷺の不在を考えることはできなかった。

 気がついた時には鬼童丸をしのぎ、白鷺の片腕となっていた。

 鬼童丸がそれをこころよく思わないのは当然だ。

 いずれは決着をつけねばなるまい、と梅王は密かに考えていた。

 その時はじきに訪れた。

 京にいくつかある隠れ家のひとつだった。鬼童丸がついに白鷺に刃を向けたのだ。

「このごろのあんたは、公平とはいえないぜ」

 鬼童丸は、一瞬の隙をついて白鷺を背後から押さえこんだ。刀のきっさきを彼女の鼻先にちらつかせながら、

「そりゃあまあ、若いのがお好みなのはわかるがね」

 数人の盗賊が、下卑た笑い声をたてて鬼童丸方についていることを示した。あとの者たちはどちらにつくべきか決めかね、なりゆきを見守っている様子だった。

 梅王は歯噛みしたが、白鷺が鬼童丸の手にある以上どうすることもできはしない。

 鬼童丸は仲間に顎をしゃくって合図した。彼らは梅王を捕らえようと、せせら笑いながら近づいて来た。

 と、鬼童丸の腕の中で白鷺の身がひるがえった。

 白鷺は、鬼童丸が突きつけていた刀の刃をしっかりと握っていた。

 ふいをつかれた鬼童丸は力を抜いた。白鷺はすばやく刀を奪い取った。

 「あたしを誰だと思っているんだい」

 盗賊たちを眺めまわし、白鷺は艶然と笑った。

 刀を握ったままの白い指の間から、ようしゃなく血がしたたっていた。

「おまえたちなど、ちっとも怖くはないね」

 白鷺はほこらかにいった。

「あたしはね、鬼と暮らしたこともあるんだよ。羅城門の鬼とさ。人でありながら人の棲めないところに行って来たんだ。それからはもう、怖いものなしさ」

 白鷺は刀を持ち直し、血にまみれた手でゆっくりと鬼童丸の頬を撫で上げた。

 鬼童丸は憑かれたようにうっとりと立ちつくし、白鷺のなすがままになっていた。

 笑みをたたえたまま、白鷺は鬼童丸の胸に深々と刀を突き刺した。

 梅王は喰い入るように見つめ続けていた。白鷺の、その顔を。


「どうしたのさ」

 その夜、いつものように梅王を臥所に迎えた白鷺は、彼の青ざめた顔を不思議そうに覗き込んだ。

「ほんとうなのか」

「なにが?」

「さっきあんたがいったことだ」

「ああ」

 白鷺は思いをはせるように視線を空にさまよわせ、くっくと低い笑い声をたてた。

「ほんとのことさ。そういえば、あのときの赤子もあんたと同じ名前だったっけ。不思議に美しいところだった。鬼といっても、怖くもなんともなかった。嫌な人間よりは、ずっとましさ」

 梅王は、歯をくいしばったまま、白鷺の独り言のような話を聞いていた。

「人界に戻ると、夫は新しい妻を見つけていたよ。他に行くあてもなかった。尼になろうとも思ったが、あたしは魔というものをしたたかに見てきたからね、仏さまは色あせるばかり。だったら、人間界の魔になってやろう、そう考えたのさ」

 白鷺は、梅王に顔を近づけた。

「どうだい、なかなかさまになつているだろう」

「ちがう」

 梅王は叫び、激しくかぶりを振った。

「ちがうんだ・・あんたなんかじゃない」

 梅王は白鷺の首に手をまわした。

 白鷺には、あがらう間もなかった。

 女の身体が冷たく動かなくなると、梅王は顔を覆ってすすり泣いた。


「結局」

 水王はいいかけて口をつぐんだ。

「結局?」

 茨木は首をめぐらして水王を見つめた。

 水王はうつむき、低く笑った。それは茨木の耳にもうつろに響いた。

 軽く額の傷に触れ、水王は池の水面に背を向けた。


  終章      


 夜更け、その盗賊はひとり羅城門の前を通りかかった。

 星も見えない闇の夜だった。羅城門の上層にちらと光がよぎったような気がして、彼は立ち止まった。

 上層にともるほのかな光は眼の迷いではなかった。盗賊はその光に導かれ、羅城門を登って行った。

 床に置かれた紙燭の明かりが、折り重なった死体をうかびあがらせていた。

 何かがうごめいたので、盗賊はぎくりと身がまえた。

 小さな老婆がひとり、背を丸くしてうずくまっている。側にあるのはまだ新しい女の死体だ。

 老婆は死体の艶やかな黒髪をしなびた手にからめ、根気よく引き抜いているのだった。

「怪しいものではございませぬよ」

 盗賊に気づいた老婆は、歯をむきだしにしてにやりと笑った。

「日ごろお仕えしていたお方の弔いに参った者でございます」

 盗賊は、せせら笑った。

「髪を抜くのが何の弔いだ」

「これは哀れな方でございましてな」

 老婆は悪びれもせずに話をかえた。

「まこと、因果なことでございますよ」

 老婆の女主人は貧しい貴族の娘だった。

 両親はすでになく、頼りにしていた男は彼女を身ごもらせ、地方に赴任したままそれきり帰ってこなかった。

 彼女はついに子供を捨てて武士の後妻になることにした。その武士もあっけなく死んでしまい、以来この老婆と細々と日をおくっていたという。

 顔つきばかりはしみじみと、老婆は髪を抜く手を休めなかった。

「二十年まえ御子を捨てた羅城門、こんどはご自分が、のう」

 梅王はぼんやりと立ちつくしていた。

 が、とりあえず生きねばなるまい。

 女の髪は幾らかの金になるはずだ。

 梅王は無言で刀を引き抜いた。

 闇の片隅を、淡いひらめきがかすめ飛んだ。

 梅王の目に、その時節はずれの花びらが見えるはずもなかった。


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