第六話 悪魔の可能性
かつてない更新速度。多分。ぎりぎり年内。
幸福になれないのなら、きっとその生に意味など最初からなかった。
森を、武装した騎士の一団が駆けていく。
「……リノリア姫様?」
「ああ……バクス。どうかなさったの」
長い黄金の髪を麻紐で乱雑に纏め上げたリノリアは、片手で器用に馬を繰りながらもう片方で剣の位置を調整している。声を掛けられて一瞬横に逸れたが、視線は既に正面を見据えている。昼前であるのに森の木立は仄暗く、おまけに全く風がない。
「いえ。笑っていらっしゃったので」
厳密に言えば、リノリアは基本的に心掛けとして穏やかに笑っている。だが時折冬のような無慈悲さが混ざり込むのがバクスには気になっていた。
「そう。――このペースであればあと四半刻もあれば着きますわね。第二大隊は足が速くて助かりますわ」
リノリアの思いがけない賞賛に、彼女を挟んでバクスの反対側を並走する第二大隊長メンシスは得意げに笑う。
「そりゃあ、第一大隊よりも出撃回数多いですからな!慣れですよ、慣れ!」
単純な戦闘力の話をするのであれば第一大隊の方がよく鍛えられているが、リノリアは大概第二大隊と出撃する。個人的な仲はともかく、リノリアも各大隊の扱いは平等に、むしろ第一大隊の方を優先しているが、最終的に連れて行くのはいつも第二大隊である。緊急性の高い案件ばかりで騎士団を連れまわすリノリアのために第二大隊は機動力を底上げした。
「第一大隊も、悪くはないのですけれど」
彼女は必ず、第一大隊に声を掛けてから第二大隊に声掛けする。だが第一大隊は選べない。理由は単純である。一瞬でも返答を躊躇えば、連れて行かないと決めているためだ。このルールは第二大隊でも共通である。
「しっかし、意外でしたなあ。姫があんな小僧の同行に許可出すなんて」
メンシスがちらと荷馬車に視線を送り、つられてバクスが後方を見る。あんな小僧ことリノリアの婚約者アントゥポールは、馬に乗れないということで護衛と共に荷馬車に放り込んだ。
「まあ。小僧とは失礼ですわ。私の婚約者ですのに」
仮にも、という言葉は口の中に押し込めて、リノリアはぷくりと頬を膨らませる。嬉し気な笑い声が木立の中で反響し、何羽もの野鳥が飛び立った。
「うるさいな、メンシス」
「わりぃ、わりぃ。姫があんまりにもかわいいから、つい、な。でも、姫。あれはひどい。確か姫と同い年なんでしょう?それなのに馬に乗れないってどういう了見です?」
誰にでも得意不得意はあるだろう、と彼女は考えている。そもそもリノリアが馬に乗れるのは、誰とは言わないがとんでもない師匠に散々訓練させられたためである。
「……姫?どうかしましたかな?」
「少し、大変だった記憶を掘り起こしただけですわ。お気になさらないで。どういう了見かとあなたは仰るけれど、私やお兄様が例外ですのよ。これが普通だと思ってもらっては困りますわ」
「いいや、姫。お言葉ですが思わせていただきましょう。姫や若の婚約者たるもの、学は大人よりも、かつ芸事に通じ、剣は近衛騎士ですら及ばず、馬に乗せれば人馬一体の美人でなけりゃあいけません」
「どこにいますのそんな姫君や殿方」
「少なくとも、クォーツェに。われらにとっちゃ、それが全てです」
狂った価値観にリノリアは苦笑する。騎士の中でも別格の腕を持つフィリグラフ公爵領の騎士達に近衛などへの栄転の話が来ないのは、彼らを御せるのがクォーツェだけだと彼ら自身が知らしめているためだろう。事実、先の帝国との戦ではフィリグラフの騎士は王国軍に編入されなかった。彼らは力を持つものを尊ぶ。特にそれの顕著な第二大隊は、リノリアに力がある限り、彼女以外を選ばない。
「まあ……では、私と地獄を生んでくださる?」
黄金の髪が一房、風に流れる。小さな身体に抱えきれないほどの業と共に、リノリア・フィリグラフと煉獄の騎士団は森を駆け抜けた。
既に隊は展開を終え、邪魔になるアントゥポールを後方の陣へと追いやって、リノリアは眼下の砦町に剣を抜く。頭の奥で殺せ殺せと悪魔が囁くのを必死に耐えても、彼女は結局町一つを灰燼へと帰さなくてはならない。前世よりも救い難い戦場に胸を痛めることすら彼女は止めた。裏切ったとはいえ、彼らも本を正せば自領の民でしかない。心を砕いていてはいつか彼女自身がこの国を滅ぼしてしまう。
「全て、焼いてしまってよろしいわ。――作戦開始」
騎士団は静かに進軍する。山と森に囲まれたこの砦には大した価値もないが、折角あるものを燃やしてしまうのを心の奥底でリノリアは惜しんでいた。森に紛れて突入隊は砦に近付く。リノリアもまた観測地点を離れて分隊を引き連れ門へと進む。何人かの一般人が出入口付近で門番と談笑しているのを確認して、リノリアは最も門に近い木の陰から少し後方に合図した。
掛け声も無しに、二十騎の騎兵が砦に突入する。加えて五人が歩兵として砦に駆け入った。少し遅れてリノリアも騎兵を従えて砦へと入る。門の外では控えの六騎が展開していた。
手始めに、リノリアは門番を民間人ごと切り捨てた。そのまま隊を二つに割り、自らを含む五騎で砦中枢に向かって一気に駆ける。ごく小規模ながらも砦町として続いてきた複雑な路地を迷いなく突き抜けて、砦の中央区へ辿り着いた時点で三騎、さらに別方面へ向かう。ただ護衛のバクスのみを伴って、リノリアは騎乗したまま建物内部へ踏み入った。
「ごきげんよう、マゴーニス連隊長。外は良い陽気に御座いますわ。御覧になりまして?」
指令室に侵入して早々連隊長の腹心の首を刎ね、床に血溜まりを描いてからリノリアは穏やかに微笑む。背をかがめて無理矢理屋内を走らせてきたものの流石にバクスは室内で下馬し、扉を閉めてリノリアの傍らに並べば、指令室の執務机の前で何かの書類を胸にへたり込むマゴーニスが情けない顔を晒していた。
「な、何者だ!俺を誰だと思っている!さがれ、さがれえ!!無礼だぞ!!」
「まあ」
一度剣の血を払って、リノリアは平時と変わらない甘やかな声で驚きを示す。部屋の外に少ないながらも兵が集まり始めていることを意識しながら彼女の脇を固めるバクスは最早見慣れたリノリアの凪にも似た静かな殺しを待つ。
「おかわいそうに。私が誰だか、お分かりにならないのね」
「俺が貴様のようなガキを知っているわけがないだろうが!誰かこいつらを捕らえろ!早くしろ!」
男の喚きを端から端まで無視し、リノリアは馬上から血を払った長剣の先でバクスとは反対側の横の書棚を小突いてみせる。ちらりと横顔を窺ったバクスは、すぐさま視線を真っ直ぐに戻した。
「外の皆様であれば、もうすでにお亡くなりですわ。何のために私達が馬に乗ったまま此処まで来たと思っておいでですの」
マゴーニスの顔がさあっと青ざめる。微かに漏れ入る花のような匂いが気のせいではなかったのだと理解して、慌てて窓の方を見る。
「一つ、お伺いしますわ。――あなた、紅い蝶を御覧になりまして?」
「紅い蝶?なんの話だ」
呆けた顔をして、マゴーニスが返答する。リノリアにとっては、それが全てだった。
急につまらなさそうな表情になったリノリアに、ひゅっと喉の奥から息が漏れる。似たものを、かつて彼は戦場で見た。そのときの恐怖は、その戦に参加していた全ての兵が目撃し、同時に心に深く刻まれた。
「アンペルゲア王国軍第三師団所属、第二十六連隊連隊長マゴーニス・コクニオ。あなたは我がフィリグラフ公領においてヴァレン帝国へと通じ、敵方の軍勢を引き入れんと画策しました。よって、私の名の下に、あなたに罰を与えますわ」
年の頃に合わない凛とした声は、すぐさま言葉にならない怒声に掻き消された。扉の外で兵士が突入してくる気配はなく、バクスは作戦の成功を確信する。
「私は、プルーフ子爵、リノリア。フィリグラフを支配するクォーツェの第二子にして、地獄の使者」
突如、窓の外で大きな爆発音が響いた。パニック状態のマゴーニスが窓へ這いより、壁の内側に前触れもなく開いた地獄の蓋を恐怖と共に知ることをリノリアは止めない。馬上の小さな体は少しばかり暑そうに揺れている。
「誰か、殺せ!おい、誰かいないのか、こいつを殺すんだ!!悪魔が、悪魔だ、フィリグラフの悪魔がここにいるぞ!!――ああ、あああやめろいやだ来るな俺は、俺は、いやだいやだ俺はしにたくな――」
微かな空気の震えと共に、長い長い銀色が円弧を描く。ずり落ちた首をバクスが拾い袋に入れて馬に括り付けると、少女の馬が反転した。扉を蹴飛ばし、護衛の騎乗を待たずにリノリアが部屋を飛び出す。バクスは慌ててその後を追った。おちおち作戦の成功に息つく余裕もない。
「今回はど派手にいきましたねっ、姫!」
建物を出てすぐ、二人は途中で別れた三騎と合流する。その内の上機嫌に声を掛けてきた一人が大事そうに抱えた木箱に、リノリアは満面の笑みを浮かべた。
「御安心!姫からのオーダー、全部きっちり回収してきましたとも!」
「素晴らしいわ、ユーリス。やはりあなたに任せて正解だったようね」
リノリアが命じた回収物は三十六項目にも及んでいた。ある程度場所の目星をつけていたとはいえ、この短時間で全て手に入れることは至難の業である。事も無げに成し遂げてみせたユーリスに手放しの賞賛を与えて、リノリアは再び剣を構えた。部下が役目を果たしたのならば、指揮官もまた、仕事を果たさなくてはならない。
「ユーリスはアシテールと共に一度帰投。ネメルはモキリスとナティシアをこちらへ呼んでくださるかしら。合流地点は山側の門の前ですわ」
第二大隊の狼煙は少々芸が込んでいる。それもこれもリノリアが騎士らしからぬ山賊まがいの手法を強い続けた結果だが、それに便乗する凝り性の騎士を一人、リノリアは知っている。煙に様々なものを混ぜたり何色もの煙を同時に発生できるようにしたりと、手口が多様で符号さえ作っておけば伝達できる情報量が明らかに他所よりも多い。今回もネメルが隊特製の発煙筒でリノリアの命令を伝え、三騎となった少女らは次の作戦のために山側の門に続く通りの入り口へと向かった。
「ひめー、ひめー。今回も皆殺しでいいんです?いいんです?」
「ええ、勿論ですわ、ネメル。それとも、民間人をこんなに殺すのは嫌かしら?」
「や―じゃないです。ひめがお望みならー、ぼくってば、やーなことないですし。ないですし」
騎士の中でも一際若いネメルのあどけない顔が、にこにこと笑う。リノリア同様面覆いをしていないため戦いの最中も素顔が晒されたままだが、「常に笑っている」ことで相手に与える恐怖は屈強な騎士を超えるものがある。しかし騎士の中では誰よりも彼は戦いにひたむきだった。
「じゃー、ひめ。はじめますねー」
砦本部を脱出する一仕事を前に、ネメルは舌なめずりをする。直後、彼の馬が高く両前足を上げ、強く草地を蹴り駆け出した。そのまま植木に突っ込み、飛び出してきた三つの人影を同時に斬り伏せる。柔らかく地に落ちる首は、彼の性格を思わせるようだった。
後方でわずかな石を踏む音が鳴る。リノリアは素早く踵を返して、逃げる雑兵の心臓を一突きした。引き抜きながら手綱を操り、馬で背後を蹴り上げる。
「ひめー、ひめー、すてきです!」
「ありがとう、ネメル。あなたの剣も素晴らしいわ」
はにかむ騎士に極上の微笑みを投げてリノリアは馬を駆る。事実、ネメルは最年少ながら公爵領の騎士団の中で最も強い。騎士の中ではネメルと特別親しいリノリアはその才能を高く買っている。性格にやや難があるものの素直で忠義に厚く力もあるネメルだが、当初シュベールは彼を敬遠していた。それを拾い上げたのはリノリアで、更に鍛えたのはウィネグスである。
襲い来る敵兵や時折現れる民間人を斬って捨てながら三騎は市街戦に突入した。ここから先は民間人が一気に増える。リノリアはネメルを先行させバクスを殿に立てた。正規の騎士であるネメルは三人の中で一番体力がある。
「ここからはー、ぼくだって少し気合を入れるんです。入れちゃうんです!」
そう言って、ネメルは腰に差したままだった二振り目の剣を抜いた。良く手入れされた長い刃の返す光に、リノリアは目を薄める。
静かに、血の帳は下りる。柔らかな刃の光に、慣れた筈のリノリアですら戦慄を覚える。
人の居る場所に合わせて馬がじぐざぐと走る。馬上の主は手綱を手放しているのに彼の馬は良く応える。二振りの刃は切っ先に引っ掛けるようにして片端から頸を裂く。彼の剣はあまり動かない。ほんの少し、振り子が揺れたかと思えば、既に喉を掻かれている。スイッチの入った彼に置いていかれないよう二人もまた、必死で食らいついた。とかく虐殺は骨が折れる。縋る目を見捨て、絶望の眼差しを意識から外して、ネメルが斬り損ねたものを震えを抑えた腕で殺していく。わざわざ仕留めるほど丁寧には斬っていないために、彼らの通った路地にはまだ息をしながらびくりびくりと動く死体の成り損ないがごろごろしていた。
やがて路地は炎を纏い始めた。瓦礫が散乱し、生者の数は減り、炎に巻かれた死者の数ばかりが増えていく。やっとの思いで生き残った子供や、母親が身を挺してまで守ったであろう乳飲み子すら余すことなく殺し、三人の進んだ道には生者の影が無かった。
「ひめー、ひめー。かなしいんです?さびしいんです?」
馬を走らせながら唐突に放たれたネメルの問いに、リノリアは答えを躊躇った。
「いえ……ただ少し、空しいだけですわ」
もしも殺さずとも救われる術があるのならば彼女とてそちらの手を採っていた。だが、彼女には何も無かった。殺し尽くす以外の選択肢が無かった。この世界のどうしようもない在り様に、他に救いようのない生き様に、前世あらゆる悪徳を眼前にした麗姫でさえも絶望した。何故この世界は殺すことでしか救われないのだろう。何がこれほどまでに世界を歪めてしまったのか。世界の裏側、未来の記憶すら持ちながら、彼女にはそれがどうしても分からない。
「ぼくってば、頭がとても悪いんです。悪いんです。でも、ひめが空しいのはやーです。だからもし、ひめがもう全部いらないって、空しいのはやーだっておっしゃるんなら、ぼくってば、なんでもできますし。できますし……わかといっしょに、全部ぶちこわしたっていいんですし。だから、ひめ……その」
「……ネメル?」
彼が何かを躊躇うのを、リノリアはその時初めて見た。
「泣かないで、ひめ」
燃え盛る炎の中で、森の色の瞳に雨が降る。
剣身で矢を弾き、勢いを失った切っ先に再び速度を乗せる。剣戟の合間に纏わりついた血を振り払いながら淡く紅色に輝く剣を敵の間で走らせる。
「化け物が――」
そう叫んだ敵兵の首が飛んだ。対象を喪った剣を反転させ、真っ直ぐに後ろに突けば、背後を取らんとしていた兵の喉笛を貫く。髪が返り血で頬や額に貼り付いて、だが拭おうにも敵の数が減らない。騎士らしく向かい来る相手を潔く袈裟斬りにし、不意打ちを狙う兵を素早い剣捌きで返り討つ。先程払った矢を最後に、後方の弓兵は首を落とされていた。踊るように馬を駆りながら、走り抜き去った騎士の胸を裂き、半ば飛び掛かるように斬りつけてきた男の剣を屈んで避ければ、血しぶきが頬を打った。
「終わりか」
門から合流したモキリスが鋭く尋ねると、護衛を優先し状況を俯瞰ぎみだったバクスが短く肯定する。
「リノリア姫様。狼煙も予定通り上がっております。帰還いたしましょう」
「ええ。本陣へと戻りますわ」
血に塗れた自らの馬の背を撫で、リノリアは部下の言葉に頷いた。
本陣こと観測地点へ戻ったリノリア達はまず先にメンシスのもとへと向かった。今後の予定を伝え、続いてバクス、おまけのネメルと共に放置した挙句忘れかけていたアントゥポールを閉じ込めている天幕へ移動する。
「これは、なんのつもりだ!説明しろ、リノリア姫!」
血塗れのリノリアを見て刹那絶句し、彼女に噛み付くアントゥポールの瞳は義憤に濁っていた。
「俺でも知っているぞ。ここは王国軍の駐留するイハデ砦だ!それを、こんな――」
「強襲したうえ、焼き討ちにするなど、と?」
「そうだ!町には領民もいるのに――」
「殺せば良いのですわ、そんなものなど」
澱みなく答えるリノリアの狂気を、正義に燃える少年は理解できなかった。魚のように口をぱくぱくさせて、周囲を見渡す。彼女を取り囲む大人は何の疑問も抱いていないように、寧ろ少年を憐れむか蔑む目で見ている。
「そんな、もの?」
「ええ。腐った果実など、必要ありませんわ」
「きさま――よくもそんなふざけたことを!!」
目を血走らせて吠える婚約者を嘲笑し、リノリアは欠伸を噛み殺す。彼女の胸倉に掴み掛らなかったのが最後の理性だったのか、ひとしきり罵声を浴びせたアントゥポールは陣営から単身飛び出した。バクスに目配せし、一時的に護衛の任を解いて後を追わせる。代わりにネメルを従えたリノリアは血糊を落とすために水場を求めた。
「ひめー、ひめー」
「どうかしたのかしら、ネメル」
顔を洗い、結い上げた髪を一度解いてリノリアは長い頭髪の先を桶に張った水に浸す。慌てて桶を抱え上げて洗髪を手伝い始めたネメルに微笑んで、彼女の騎士に先を促す。
「もうここには誰もいないんですし。ぼくってばひめがいちばんだから、ひめがヒミツっておっしゃったらちゃんとヒミツにできますし」
水面に映ったネメルの顔が、リノリアには分からない。黄金の髪を丁寧に右手で梳いて次第に色付く桶の中身に騎士の姿は映らない。
「秘密に、してくれるかしら」
「ひめがそうお望みなら」
「そう……」
「ねえ。どうしてみな、裏切るのかしら」
渇いた森に雨の匂いがした。姫君は背後で己を手助けする騎士をただの一度も振り返らない。顕れる黄金にネメルはいつでも満たされてきた。彼は決して裏切らない。裏切りなどという高尚なことができるほど、ネメルは高等な生き物ではない。リノリアの告白は、もっと大きなものに対して与えられているような気がした。
「裏切らなければ、殺さないのに。殺さなければ、滅ぼさないのに」
彼女の殺した最初の裏切り者は、忠臣と名高かった筈のプルーフ子爵だった。変に噂が錯綜し、彼女が直接手を下したとも言われているが、実際にはリノリアは罪科を明かしただけだ。それすらも彼女はギリギリまで待った。
「沢山死ぬわ。沢山殺すもの。そうしなくとも、沢山死ぬのだから」
姫は人死にがお嫌いだ、と第二大隊長は言っていた。ネメルもそれは感じている。人死にの嫌いなリノリアが、人を殺して壊れてしまわないために公爵は敬遠していたネメルを彼女に付けた。彼女を悲しませてでも、彼女の心を壊さないために。
「ひめ――」
「だから、私は殺すわ。殺さずとも死ぬのなら、その前に私が殺すわ」
真っ赤に濁った桶を脇に置き、真っ白なタオルで髪を拭く。防具にかからないように払った水滴がばらばらと地面に散らばった。桜色のタオルが風になびいて彼の頬を打つ。流動する黄金はネメルの手の中から零れていった。
「ひめー、ひめー。お願いがあるんです。いいんです?」
髪を簡単に結いなおして、道具を全て放り出したネメルは品よく切り株に座すリノリアの前に跪いた。なあに、と黄金の姫君は朗らかに笑う。
「ぼくを――」
森の瞳が、笑っている。
夏の真っ白な砂浜が、降り立てば炎に変わってその身を焼くように。
冬の真っ赤な夕日が、描けばただの真円へと成り下がるように。
愛されているのだと思っていた。愛されているのだと思っていたかった。
だが、この結末はなんだ。この有様は。
夥しい死体に埋もれて、綺麗に整備されたはずの石畳の道は足の踏み場もない。生きた人間の温かみの痕跡が残る中で、ただ立ち尽くしたところで彼らが生き返るわけでもない。並ぶ家々には炎が残り、時折爆発する音が響く。
目を逸らしてはならないのだと、内なる自分が叫んでいる。この悪逆を赦してはならないのだと。
不意に、子供の呻き声が耳を打った。道の端で、小さな瓦礫の下になって人形を抱き締める幼子が目に入った。慌てて子供を助け出し、髪や服に付いた土をぱたぱたと払ってやる。火傷があったが、すぐさまどうにかしなければならないということでもなさそうだった。
おかあさん、と口が動いたのが分かった。後ろで見張っている騎士が何を考えているかは分からないが、話をすれば通じるように思う。
「リノリア姫には言うな」
騎士が頷く。彼は他のものほど彼女の行為に賛成しているようではなかった。幼子を連れて来た道を戻る。
卑劣で、残虐な行いを見た。止められなかったのは自分の責だろう。せめて生きていてくれたこの子供を守りたかった。もう二度とこのような悲劇を起こさない覚悟の証に。
守りたかった。救いたかった。それは本当だったし、嘘ではなかった。
嘘では、なかったのだ。
リノリアが身を整えて戻ったとき、丁度飛び出していったアントゥポールが帰ってきたところだった。
「町はもうよろしゅうございますの、アントゥポール様」
「うるさい。だまれ」
反抗的な態度をリノリアは咎めなかった。バクスに通常の任へと戻るよう命じて、嫌悪に狂うアントゥポールを置き去りに、リノリアは後始末のためテントへ戻ろうとする。――が、思い至って反転し、彼の向こうの茂みへと分け入った。
「ま、まて!何を――」
「ああ、やはり。分かりやすくていらっしゃるのね、アントゥポール様」
少し繁りの激しい低木の陰に血糊で身を固めたリノリアよりも更に小さな子供が一人、へたり込んでいた。後ろを振り返ると、バクスがついと視線を逸らす。
「ち、ちがう、その子は――たのむ、見逃してやってくれ!その子は何も悪くないはずだっ!!」
眼前に飛び出し、必死に子供を背中にかばうアントゥポールを、少女は憐れんだ。彼のそれは正義感だ。平時であれば賞賛されてしかるべき義憤である。かつて柚季は攻略対象たちを愚かではないと評した。それは彼女もまた肯定するだろう。アントゥポールの背中に隠れてじっとこちらを窺う不安げな緑の眼がじんわりと涙に濡れた。年の頃は三つか四つに思われた。煤けたうさぎの人形を抱きしめて、やわらかな薄茶の髪を揺らしている。
「……ネメル」
「はい、ひめ」
素直に頷いて、ネメルはリノリアの横を通り過ぎ、アントゥポールの襟首を掴んだ。騒ぐ少年を引きずって、彼を子供から引き離す。婚約者を騎士に任せてリノリアは残された幼子の正面に立つ。子供がちらりと背後のバクスを見た。つられて冬の森の瞳が護衛の騎士を見る。周囲では大人達が成り行きを見守っている。
リノリアがすらりと剣を抜いた。
「まさ、か――」
お前は美しいよ、と、かつて仮面の騎士は言った。何故、と尋ねれば、優しいから、と彼は答えた。
「やめろおおおぉ!!」
それは嘘だろう、とリノンベールは答えた。
物言わぬ骸となった子供をいつまでも抱きしめて泣きじゃくるアントゥポールにいい加減嫌気のさし始めたリノリアは、彼から子供を引き離して陣営の奥へと運ばせる。怒号と呪詛を撒き散らす婚約者を引き摺り馬車に放り込むのはネメルの仕事で、彼がアントゥポールの襟首を掴むまで泣き声は止まらなかった。リノリアは子供の遺体を街に戻した。婚約者を先に屋敷へと帰し、第二大隊と共に街の至るところに油を仕込む。
「葬送」
彼女の合図と共に街が再び火に包まれる。屋敷から運んできた油を惜し気もなく振る舞ったため山火事でも起こっているかのような大きな炎へとたちまち成長した。
「花を」
騎士が一人一人、馬車に積まれた小さなブーケを手にして、炎に投げ入れる。可憐な花はあっという間に灰と帰し、焔の奥へ奥へと運ばれていった。最後にリノリアが紅い薔薇の一輪混ざったブーケを投げて、一礼する。
「裏切りに悲しみを。死者に優しさを」
「総員、抜刀」
リノリアの悼みとメンシスの命令を受けて、静かな燃え上がりに騎士たちは剣を捧げた。
服を着なおしたリノンベールは、兄の横へ再び腰を下ろしてちらと男を見る。
「分かってるよ、森の子。そう焦ることもないだろう?というか、肝心の海の子がまだ現実に帰ってきてないんだけど」
だから今蝶を見せるのは嫌だったのに、と文句を垂れて、男は新しい木苺を口に放り込む。
「昔から色々と不安の残る子だったのに、更に残念な感じに」
「陰口なら本人の居ないところで叩いてくださいませんか」
間髪入れずにウィネグスからの苦情が入り、仮面の人が肩をすくめる。
「さて……最後の質問に答えようか、海の子。お前の目の前に座る、私は誰か。まあ、職業的な話をするなら、傭兵のようなものだね。八年前のヴァレンとの戦争にも参加していたし」
怪訝な顔をするウィネグスに男は人差し指を振る。傭兵を名乗る割に筋張ったところのない滑らかな手は、ついと果実の盛られた木皿の縁を撫でた。
「――あなたは」
「無理をする必要はないよ、海の子。その話し方は使いにくいんだろう?」
「……おまえは、誰だ」
「言ったはずだよ。その問いは少し面倒だと。それは私の本来の立場もあるけど――それ以上に、お前達はものを知らなさすぎる」
雷に打たれたような心地だった。他人にものを知らないと言われたことがウィネグスには生まれてこのかた一度だって無かった。
「私はね、戦争がしたいんだよ」
眠りを誘うような声だった。柔らかさとも違う、男の声に、ウィネグスはなつかしさを覚えた。
「私は人の悪徳。世の不条理。私こそが神の悪行。いずれ嫌でも理解するだろう。白き桜と青きアネモネの真理へと辿り着いたとき、私が何故顕れたのかを」
立ち上がる男の首に、黄金の髪が絡みつく。美しいリノンベールの髪よりもさらに艶やかなその金糸は、秋の小麦畑のように輝いている。
「『讃えるがいい、我が罪を。たとえ神が赦そうとも我が赦さぬ。常世の楽園への道を閉ざされ、永遠に地獄を生かむとも、我らは傍らの人に愛を囁き、生存を謳い、願いのために立つ。歓喜するがいい、我が威光に。我が剣を見よ、我を畏れよ』」
どこか、雪の匂いがした。
「我はこの世全ての悪逆。ただひとり。神を喰らうものである」
春の柔らかな野花を踏みにじるように。
秋の豊かな実りを焼き払うように。
外交官として世界を飛び、白き桜という人外の理を手に入れても、ただの一つも人を救う手立てが顕われないのだから、最早人間は救われるべきではないのだろうか。
夥しい死者に囲まれて、黒ずむ血は無人の家の壁に惨劇を描く。悲しいと思う心すらいつか潰え、積み重ねた死の上に理想を築く。人は砂上の楼閣にすら夢を見る。音のない亡びが隣を歩いている。
「夢は嫌いかな、森の子」
薄青の裾が風に翻る。嫌いではない、と答える声に、幽かな怯えが滲んだ。黄金の長髪が淡く炎の輝きを反射する。雲一つない青空は曇ってよく見えない。
「私は、好きだよ。人が夢を見るのも、人が人を信じる姿も」
声のする方へ顔を向けようとして、鋭い光に目を逸らす。丈の長い上衣はひらりひらりと風に踊って、緩やかな曲線が繰り返し変化する。
「私は、お前が好きだよ。美しいお前が。優しくて甘いお前が好きだよ」
嘘だ。これは嘘だろう。
かつて美しい剣に魅せられた。それは内側から湧き出づる命への冷酷さが剣に纏われて輝く故の美だと教えられた。何故、嘘をつくのだろう。求めた言葉はそれではなかった。腰に提げた藍色の剣が嘘をつくべくもない。蝶のように舞って、風のように撫でていくその切っ先が、何物も裂かずにはいられないように、常に真っ直ぐで、だからこそその剣は美しい。
太陽は鈍く光っている。騎士の世界に似合わない硝煙の臭いが鼻腔を抜けていき、積み上がった瓦礫が目の前で崩れ去った。
「……大丈夫だよ」
そんなはずはない。
泣かないで。
悲しまないで。
ゆるさないで。
救えなかった私を、決してゆるさないで。
「約束だよ」
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