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紅き蝶は永遠を告げる  作者: 鳥兜
第一章 壊れた人形
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第五話 愛される可能性

大分間が空いた自覚はあります。理由は一つ。全ては課題が悪い。

 その剣は、酷く美しかった。藍色の剣身は諸刃で、真っ直ぐ長く伸び、しかして剣先の曲線は優美で、中央には一筋、金色の輝きが走る。銀の鐔は大鷲を象って、剣身と同じ藍色の柄は大胆に銀装飾があしらわれている。

 ただ、最も目を引くのはそれが師に振るわれているときだった。そうでなくてはただ綺麗なだけの剣に過ぎない。師の剣の最も特徴的な部分は、兎角速いことだった。速く、重く、無駄がない。速度を乗せることで重くしているのだと師は言った。速い剣が威力に欠けるのは、剣を軽くしたからではなくて、剣に振り回されているからだと。

 速くすればそれだけ手管も増えると言われて、速さを鍛えるとともに様々な技を叩き込まれた。その数は明らかに異常で、およそこの世全ての技を覚えたと思ったのに、しかし師はこれはまだ全てではないと告げた。加えて、師の師は更に何倍もの技を使い分けたと。どうしてそこまで徹底して技を教えるのかと聞けば、死んでほしくないからだと師は答えた。

 剣は嫌いではなかった。師の剣は美しく、むしろ好きですらあった。ただ、剣は恐ろしい。騎士の剣とは違う、師の言う「殺すための剣」は決してひとに優しくはなれないから。

 師の剣がどうしようもなく美しいのは、その剣が人殺しを知っているからだと気が付いてしまったから。



 陽光を目一杯取り込むように設計された一の応接間に通されて、上等な紅茶と共に庭を眺めていたアントゥポールは心臓の過剰な拍動を抑えるために一つ深呼吸する。先触れののちに扉が開き、父と共に席を立った少年は穏やかな笑みを顔に貼り付けて屋敷の主人の入室を待った。

「随分とお待たせしたようだ。すまぬな、グリシエス卿」

「いえ、いえ。御壮健でいらっしゃること、お喜び申し上げます。シュベール卿」

 曰く父の学園時代の先輩であるというフィリグラフ公爵は、元後輩の父グリシエスに軽く謝意を示して背後の小さな影を手招きする。響くヒールの主が、今回の主要人物だろう。今回わざわざフィリグラフ本邸へと足を運んだのはアントゥポールと彼女の婚約を内定するためだった。

「御紹介する。我が娘、リノリアである。二人目の妻、ロザンマリアとの子にあたる。――リノリア、こちらはイーフェウ侯爵家次期当主のグリシエス卿とその御子息のアントゥポール殿である」

 少女が一礼し、少年の顔は仮面ごと凍り付いた。

 最高峰の人形師でもこれほど美しい作品は生み出せないだろう。腰ほどまである艶々と輝く純金の髪は結い上げずに緩くまとめて背に流し、新緑色の瞳は宝石のように煌めく。薄く紅を引いただけで化粧気のないながらも完璧な造形美を誇る貌は、覚書などに表せるべくもない。ただ微笑んでいる。彼に向かって微笑むその姿を喩え表すだけの言葉を少年は持ち合わせていない。

「これは、また。噂以上の御美しさとお見受けします、姫君。お会いできた幸運に感謝を。イーフェウ侯爵家、エピストのグリシエスと申します」

「御丁寧な御挨拶、恐れ入りますわ、グリシエス卿。フィリグラフ公爵家、クォーツェの第二子、リノリアにございます」

「ア、アントゥポールと申します」

 大人のグリシエスが動揺する相手に子供のアントゥポールがまともに挨拶できるはずもない。噛まずに名前を告げるので精一杯で、家名を名乗ることすらできなかった。反面、綺麗な挨拶を終えた少女はたじろぐ少年を微笑ましげに窺っている。失望の気配がないことにアントゥポールは安堵した。

「まずは御足労に感謝する。隣接するとはいえ、コクニアからセプレクトまではそれなりの長旅となったであろう」

 席へ戻り、若い公爵の老成した声に違和感を覚えながらも、アントゥポールの意識は目の前の美貌の少女に完全に傾いていた。当のリノリアは少年には大して興味を示さず、親同士の話し合いに耳を澄ませている。

「いえ、いえ。それは当然のこと。今回の婚約の打診を御受けいただき、大変ありがたく思っております。本来であればお断りなさるような条件でありますから」

 ヴァレン帝国に対する国境線強化の連携を目論む今回の婚約ではあるが、イーフェウが差し出したのはいずれ爵位を継ぐ長男ではなく次男のアントゥポールだった。表向きは青いアネモネのリノリアを領外に出したくはないだろうというフィリグラフへの気遣いだが、実際は色々と噂の多い彼女を未来の侯爵夫人には据えたくないというイーフェウの忌避である。断られるだろう、という予測もあった。だが、フィリグラフ公は断らなかった。

「そうであるな。故に条件を付けた。十五まではこの婚約を明かさぬ。内定ではあるが確定ではないことを心得なさるがよろしかろう」

「肝に銘じておきましょう」

 図に乗るな、こちらはいつでも婚約解消しても良いのだと暗に脅し、シュベールはふと、笑みを零す。

「アントゥポール殿はリノリアと同い年であったか。同じ年の頃であっても随分と違うものであるな」

 共に零れた言葉に含みはなく、純粋に微笑ましく、或いは面白く感じているようだった。もう一人の異端(ウィネグス)を抱えるシュベールには、ある意味でまともなこどもがいない。横に座るリノリアが不思議そうに父を見上げ、シュベールはますます笑みを深める。

「いや、なに。我が娘は聡いのだが、些か可愛げが足らぬ。対してそちらは素直な御気性のようだ。大変、好もしい」

「まあ、なんて酷いことをおっしゃるの、お父様」

 途端に頬を膨らませて、美貌の少女は、ねえ、と少年に同意を求めた。アントゥポールの顔が朱に染まり、まあ、と少女は転がる鈴のように笑う。

「お前に可愛げがあるのならば、虎とて子猫のごときものであろう」

 曲がり間違っても実の娘――特にリノリアのような美しい娘に対するような表現ではない。それが本気の言葉なのだと、イーフェウの二人は微塵も思わなかった。

 公爵のその言葉をアントゥポールが理解したのは、その二日後のことだった。

 元々がリノリアと親交を深めるようにと計画された今回のフィリグラフ領行きは、三日目で先にグリシエスが秘書を置いてイーフェウ領へと戻り、残りの四日間をアントゥポールのみがフィリグラフ領で過ごす予定だった。だがスケジュールを変更してグリシエスは戻らず、最後の日まで付き合うと決定したのが二日目の夜、それをアントゥポールが知ったのが三日目の朝、つまりつい先程である。

 顔合わせをした滞在初日以降、グリシエス自身は夕食以外でリノリアと接触しなかったものの、彼の様子をしきりに確認していたことから、アントゥポールは今後上手くいくかを酷く気にしているのだろうと考えていた。

 理想と現実が乖離することは、往々にしてあることではある。

 予定変更を聞かされたアントゥポールは父の不安を軽減するため三人で――公爵は今日用があって屋敷を離れていることを知っていたので――昼食を摂ることを提案しにリノリアを訪ねた。彼女は朝食の後一度私室に戻り、公爵の執務室でなにやら用事を済ませてから彼に会いに来る。今ならば執務室の方にいるだろう。アントゥポールは足早に彼女のもとへ向かった。

「これは、アントゥポール様。リノリア姫様へ御用向きでございますか」

 扉前に控えていたのは、常日頃彼女の護衛として側を離れないはずの騎士のバクスだった。珍しく同じ部屋ないことに驚嘆の目を差し向けると、意を得た騎士はほろ苦く笑う。

「執務室には、許可を得ない限り立ち入りを禁ずると、閣下とリノリア姫様からの厳命でございますゆえ」

「驚いた。護衛のものが他にいるのか?」

「さあ……ただ、閣下の仰るようには、『竜に勝つものであれば、或いはアレを突破できるか』、と」

「竜?」

 この世に竜なるものは存在しない。御伽噺に登場するのみで、強いもの、恐ろしいものの象徴とされる。不明瞭な物言いに内心首を傾げつつも、アントゥポールは追及をやめた。あるいは、蛇が出るような予感がしたためかも知れない。

「まあいいか。リノリア姫に会わせてくれ」

「申し訳ありませんが、自分が出るまで何者も通すなとの御命令にございます」

 高位貴族であるアントゥポールに、バクスは不敬なほどはっきりきっぱりと断った。多少面喰って彼が再度願っても、騎士は同じ態度で撥ねのける。

「では俺が来たことを伝えてくれ」

「わたしもまた入室を禁止されております」

「外から声を掛けるくらいはできるだろう」

 いささかむっとした声でアントゥポールが問い掛ける。バクスは頑として首を縦には振らなかった。

「叶いません。外からの接触は人命の関わる事態以外断固として拒否するとのことです」

 人命が関われば別だというあたりが、彼女の優しいところだと彼は考えている。一方ですげなく断られたアントゥポールはもはや意地のようになっていた。

「もういい。俺が相手であれば、リノリア姫もそう怒ったりはしないはずだ。通させてもらおう」

「なりません、アントゥポール様。お下がりください」

 止めようとして伸びてきたバクスの大きな手を、アントゥポールは容赦なく払いのけた。もし仮にこの科白をウィネグスが聞けば、彼は鼻で笑い飛ばすだろう。見目も良く、周囲から、特に女性陣から甘やかされてきたアントゥポールは、優しくしてくれる女というものは皆大なり小なり自分に好意を持っていると考えている節がある。特に、リノリアは人に惚れられやすい。哀れにも彼女の笑顔に夢を見た少年は、自分が彼女の特別になれると信じて疑わなかった。――ある意味では、それも間違っていないのだが、それは彼らの預かり知らぬところである。

「お下がりを、アントゥポール様。何者も通すなとの厳命にございます。御理解いただけない場合、不本意ではありますが少々手荒なことをしてでもお止めいたします」

「きさま、無礼だな!俺を誰だと思っている!」

 扉前であることを忘れ怒鳴りつけたアントゥポールは、即座に自分の居場所を思い出して慌てて口を塞いだ。朝に弱いのか、昨日も今日もリノリアは朝食の間微かに機嫌が悪かった。今此処で騒ぎ立てれば幻滅される可能性が高い。

「そう申されましても――」

「お静かになさって。アントゥポール様、バクス」

「……リノリア姫様」

 真紅のドレスに身を包む姫君は、羊皮紙の束を抱えて大層不機嫌な様子で現れた。氷のような冷ややかな眼を、たった二日接しただけのアントゥポールは知らない。対してリノリアとは付き合いの比較的長いバクスは騎士らしからぬ悲鳴をやっとの思いで呑み込んだ。黄金の刺繍を蹴り飛ばすように品無く部屋から進み出たリノリアは研ぎ澄まされた剣のような美しさを湛えている。

「騎士団に命令を。出撃いたしますわ。大隊一つを連れてゆきます。一応は第一大隊をに声をお掛けしますけれど、嫌がるようなら第二大隊を使いますわ」

「……やはり」

「ええ。詳細は追って連絡いたしますけれど、お急ぎになって。半刻で御用意を」

「拝命いたします」

 リノリアが一番上に乗っていた羊皮紙を渡し、バクスは長い廊下を早足に去る。その背中が見えなくなった頃に漸く、急展開に目を回すアントゥポールを思い出したリノリアは向日葵の大輪のような笑顔で彼の手を取り、先程の冷たさが嘘のような温かな声で彼の名前を呼んだ。

「事情をご説明いたしますわ。グリシエス卿のもとへと御案内くださる?」

 やっとの思いで頷く少年の手をリノリアは引く。足早に歩きながらも床の上を滑るような動きに、やはり先程の彼女は見間違いだったのだと思い込むことにした。少女の足元で何匹もの金色の蝶が舞う。

「不安に思っていらしたのなら、申し訳ございませんわ」

 リノリアはぱっと少年の手を離した。温もりの消えた手をさすり、アントゥポールは目尻を下げる。

「あ、い、いや、そんなことは」

「まあ。お強くていらっしゃるのね。先程のバクスのことはできればお許しくださる?あれも私の命令故にございますの」

「それも、もう気にしていない」

「ああ、よろしゅうございましたわ。身分のある方ほど強硬的に入ってこようとなさる方が多くて……多少威圧的にでもお断り申し上げるようにと命令してありますの」

「そ……そうか。大変だな。その、部屋の前で声を荒げたりして、悪かった」

「私こそ、お見苦しいものをお見せいたしましたわ。しかし、あまり此方の棟へはいらっしゃらないでくださいませ。機密も多くございますもの、万が一にでも見られてしまってはとても困りますわ。――ああ、そういえば、まだ御用向きをお伺いしておりませんでしたわね」

「それは……閣下はいらっしゃらないが、今日の昼食会に父もご同席いただきたくて。その許可をもらいにきたのだが、その……あ、待った。父は今恐らくサロンではなく庭に降りていらっしゃる。百合がお好きで、ここの庭にもあるんだろう?」

 サロンに向かおうとしていたリノリアを曲がり角で引き留めて、アントゥポールは窓から見える庭園を指した。一つ頷きを返す彼女に胸を高鳴らせて、少年は再び少女の後ろにつく。

「リノリア姫は、すごいな」

 蝶が不規則に舞う。金刺繍とはいえ、赤地に蝶とは勇気があるとアントゥポールは思っていた。

「貴女に会うまでに様々な噂を聞いた。頭が良くて、美しいフィリグラフの姫君。兄君のウィネグス卿と並ぶフィリグラフの次代の双璧だと」

「色々と噂されていることは存じ上げておりますわ」

「良い噂ばかりではなかった。正直、俺は貴女に会うのがとても怖かった。特に、その」

「四年前の事件ですわね。私の噂の大半は、其処を起点に発生しておりますもの。アントゥポール様がお聞きになった『噂』も、殆どが『悪い噂』であったことでしょう」

 屈託なく笑うその姿には、噂に聞くような恐ろしさは無かった。悪評に対する卑屈さも、皮肉めいたところも無い。噂は噂なのだ、とアントゥポールは考え始めていた。おどろおどろしい獣が、実は臆病であるように。

「それは……そう、だな。俺が聞いた中で一番怖かったのは、貴女が先のプルーフ子爵を殺して()()()()()()()()()()()という話だ」

「まあ」

 リノリアはただ曖昧に笑った。

 フィリグラフの姫君、リノリアについては様々な憶測や評判が飛び交っている。最古のものでフィリグラフの麒麟児という二つ名に始まり、その容姿を讃えるもの、次代の双璧と呼ぶものもある。だが最も有名であるのは、四年前、彼女が領内に巣食っていた最初の裏切り者を断罪した事件にまつわるものであった。

 曰く、先のプルーフ子爵は、リノリア・フィリグラフに嵌められたのだと。

 反逆が発覚し、直後自死した彼の後任は彼の血族のいずれでもなく、当時四歳だったリノリアだった。完全なフィリグラフ公爵の支配下にあるプルーフ子爵位ではあるが、それを自らの、それも長兄を差し置いて幼い娘に与えるなどと誰が予想しただろう。公爵の奇行には無関係の宮廷までもが荒れに荒れた。しかし世間の想像に反し、彼女は良く所領を管理している。一時期は最盛期の七割まで落ち込んだ税収も今では完全回復し、むしろ上回る勢いですらある。一部では公爵の付けた人材が優秀なだけだと僻んでいるが、見るものが見ればそれがリノリアの手腕であることは疑いようがない。

 そこで話が終わるのならば、これは良い噂、美談となるべきだった。

 終わらないゆえに彼女は嵐の中に立つ。複数の国に跨るような大商会を三つ。それほどまでではないものの、国内で幅を利かせていた商会を一つ。彼女はこの四年間で潰している。地方郷士を十七人。焼いた村は四つ。裏切者には領民であろうと容赦しなかった。それでもそれを補って余りある救済で、彼女は常に赦されてきた。彼女からすれば身中の虫を殺したに過ぎないだろうが、彼女の断罪は年の頃にしては異常が過ぎた。

 曰く、リノリア・フィリグラフは人殺しを愉しむ異常者であるのだと。

「貴女はすごい人だ。俺と同い年のはずなのに、いろいろなことをしている。だから、聞かせてくれ、リノリア姫。貴女はどうして――」

「――知って、どうなさるの」

 背筋が凍り、総毛立った。その声を聴いた瞬間、今まで聞いていたあの優しく甘い声を思い出せなくなった。

「知って、どうなさるの。あなたのお父様にお伝えなさるの?それとも、私のことを御嫌いに?」

「どうして、そんなことを言うんだ。俺は、ただ」

 貴女のことを知りたいだけだ。貴女のことを理解したいだけだ。貴女の理解者になって、貴女を守りたいだけだ。たったそれだけの事を伝えるだけで良かった筈が、彼女の視線に封殺される。

「これだけはお教えいたしますわ。――私は、裏切りが、大嫌い」

 アントゥポールには、どうして、も、どういう意味、も、何も言えなかった。少女の瞳は雪降る森のような色をしていた。

「アントゥポール様も、私を裏切りますわ」

 未来は確定している。その将来(さき)を、佐竹麗姫は知っている。

 庭園から漏れ入る春の気配はウィネグスを学院に奪われたリノリアを余計に苛立たせる。彼女の言葉に返すものを失って、後ろをただ歩くだけの木偶と化したアントゥポールの消沈が不愉快であることこの上ない。お気に入りの紅いドレスはせめてもの慰みにすらならなかった。立て続けに神経を逆なですることばかり起こり、しかし回避する術もなく、さしものリノリアも心の平穏を失いかけていた。大人びている、というのは、何も感じないということではないということが世の人間には理解できない。

 この世界(そら)には柚季がいない。前世では彼女だけが麗姫の調律師たりえたが、今世の状況はなお惨い。逃所は無く、素でいられるウィネグスは今や学院。彼女でなければとうの昔に暴発していただろう。自由気ままにあちこちを飛び回っているらしい仮面の剣士が羨ましかった。ちなみに彼は今世における調律師候補筆頭である。

(何が、そうさせる)

 人を無意識に不安にさせたのは、前世の高校時代ぶりだった。淡い春の花がガラスの向こうで風に揺られているのをリノリアは意識から追いやる。グリシエスは百合が好きだとアントゥポールは言った。あの口振りでは、親子ともどもそうなのだろう。どこまでも相容れない、とリノリアは思う。

(殺さなくては。戻さなくては。()はいらない。()はいらない。――問題ない。外交(今まで)も、そうだった。これからも、そうすればいい)

 百合園に一番近い出口から庭に降りて、二人は見頃の遠い薔薇園を抜ける。湿り気の強い風が梢を鳴らす先に温室はある。半透明のガラスに影が三つ、映っていた。

「御観覧のところ、失礼いたしますわ。グリシエス卿」

「これは、リノリア姫」

 春の化身のような姫君の登場に多少面喰らいつつ、グリシエスは礼を返す。息子の異変を感じていても、自分を優先したことにリノリアは僅かに評価を上方修正した。

「いかがなさいましたかな」

「一つ、お詫びを申し上げに参りましたの」

 百合園の人工的な暖かさに、この国をリノリアは重ねる。人間のために作られた大地、中の人はそれを疑問にすら思わず、飽きられればみな捨てられゆく儚い楽園。麗姫は特段百合は嫌いではなかった。リノリアは嫌う。

「本日の昼餉と晩餐に御一緒できなくなりましたの。少々領内の騒ぎを収めてまいります。ですが、御安心くださいませ。恐らく私は遅くなりますけれど、晩餐までには父が戻りますわ」

「姫君が、御同行なさる?」

 奇妙なことだと、普通の人間は思うだろう。通常女は戦場には出ない。子供は家で待ち、指揮をする親も率先して戦場を駆けたりはしない。だが、フィリグラフでは当然の出来事である。リノリアには、領内騎士団の優先指揮権が公爵直々に与えられている。

「ええ。この身はフィリグラフの、本家(クォーツェ)家名(いえな)を継ぐもの。領を預かる責任がございますわ」

「しかし、姫君がお出ましになる必要はないのでは?騒ぎ、ということは荒事でございましょう。危険です。騎士団にお任せになればよろしい」

 リノリア・フィリグラフを知っていて止めているのならば大した度胸だが、彼はただの無知である。リノリアはグリシエスの評価を元に戻した。

「では、こう申し上げますわ。私は、フィリグラフ公爵領が一画、ペルティエナを管理するプルーフ子爵、リノリア。その身で騎士団へ出動要請を出しましたの。私が行かないということにはなり得ませんわ、グリシエス卿」

 焦りや不安の尽きないグリシエスに微笑みかけて、リノリアは退出の礼をする。

(小物だな。まあ、楽でいい。問題はこっちの子供か)

 ここに植えられている中でも、一際香りの強い百合が揺れた。リノリアが視線を送るとアントゥポールが慌てて花粉を払ってる。言葉を待ってやるためにリノリアは足元の蝶を揺らさないように振り返った。

「俺を連れて行ってくれ」

 瞳の緑が深みを増す。

「何故?」

 アントゥポールの小さな握りこぶしが震える。払い損ねた黄色の花粉が指先を汚し、皮肉にも血の気のなさを誤魔化している。

「貴女と同じものがみたい」

「私と、同じものを、見たい?」

 自分で誘導しておいて、リノリアは刹那少年の正気を疑った。彼が本気であることは分かっている。動機など、訊くまでもない。淡い恋心だ。すぐさま砕け散る。理由はリノリアが叩き割るからに他ならない。

 彼女は、その先を知っている。

 砕け散った初恋の最果てに、彼は王女と共にリノリアを殺すのだ。

長いので一回切りました。切るつもりは正直無かった。

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