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紅き蝶は永遠を告げる  作者: 鳥兜
第一章 壊れた人形
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第四話 証明されない可能性

 冷たい床の上に、裸足で立っているような気分だった。辺りは暗闇で、自分の手ですら見ることが叶わない。

 初めは手探りに、何にも足元を取られないように気をつけて進んだが、歩くうちに妨げるものはないのだと理解した。慎重さをかなぐり捨てて、ただなるべく速く、なるべく遠くに進めるように走り続けた。不思議と疲労は感じない。代わりにどこにも辿り着かない。

 何処に向かっているのだろう、と思った。違う、初めはこの暗闇から抜け出したかったのだ。なのに進めば進むほど分からなくなる。

 変わったのはいつからだろう。紅い蝶が現れた。蝶は気まぐれに進んだり戻ったりするが、しばらくは蝶を追い掛けることに決めた。何も目指さずにこれ以上走るのは、無理だった。心が壊れてしまいそうだった。

 ――私が手を握っていてあげます。

 寂しかった。悲しかった。怖かったし、泣き出してしまいそうだった。

 救われたと、思っていたい。

 今は、温かな森の中で巨木に寄り掛かって蝶と戯れている。




 馬車は小高い丘を越えて、プルーフ子爵邸に辿り着いた。フィリグラフ公爵家本邸ほどではないにしろ、領内でも上位の有力者というだけあってその門構えは大きく華やかである。

「ようこそいらっしゃいました、閣下。ウィネグス様に、リノリア姫も。歓迎いたします」

 人好きのする笑顔を浮かべて一行を丁寧に迎え入れたのはこの屋敷の主人であるプルーフ子爵である。フィリグラフ公爵領はその広大な土地を五つに分割し、領都を含む一つをフィリグラフの一族が、他四つを王家の名の下にフィリグラフ公爵が爵位を与えた二人の子爵と男爵が管理することで成立している。任せた四つの土地の内、プルーフ子爵の管理する一帯は最も繁栄していた。

「領都からはそれほど距離がないとはいえ、皆様お疲れでございましょう。ひとまずはお部屋でおくつろぎくださいませ。落ち着かれました頃に晩餐とさせていただきます。また湯浴みの用意もございます。どうぞお気の向きましたときにご利用くださいませ」

「うむ、感謝する。ウィネグス、リノリア、先に着替えてくるように」

「はい、父上」

「お言いつけの通りに、お父様」

 それぞれの案内役と護衛と連れ立って屋敷の奥へ消える二人を見送って、公爵は子爵に向き直る。穏やかだった緑の瞳は剣呑さを湛え、子爵は居住まいを正した。

「話がある。プルーフ子爵」

「……ええ。私も、幾らかお伺いしたいことがございます」

 渇いた声が出たものだ、と子爵は思った。シュベールを応接間へ案内し、紅茶の準備を侍女に命じる。応接間の浅黄色のソファに厳かに座るシュベールからは、深い草木の匂いがした。紅茶を待って、二人の会談は始まった。

「ここ七年で、随分税収が落ちた」

 予期していた問いではあった。事実、近年不作が続き、子爵が管理する地域の税収は下落し続けている。去年の税収は最盛期の七割まで落ち込んだ。むしろよく今まで追及を逃れてきたともいえる。

「申し開きのしようもございません。ただ、近年原因不明の不作が続いております。その点をご考慮いただきたく」

「知っている。では何故不作か」

 子爵の弁明を公爵は切って捨てた。子爵もまた不作の原因を学者に調べさせたりしたものの、めぼしい理由を見つけることは叶わなかった。

「知らぬであろうな。では質問を変える。随分前に小麦の品種を変えたな。報告が上がっていないが、どういったつもりか」

 子爵は浮かせたカップをソーサーに戻した。公爵の瞳は動かない。

「小麦の……品種を変えてはおりません」

「嘘であろう。我が博識なる友が断言した。プルーフ子爵のところで育てている、あれは違う品種であると」

「その者の勘違いでございましょう。我が管理地において育てているのは、ヨグネ種のみでございます」

「――ハルネ種」

 子爵はカップをソーサーごとテーブルに置いた。白く湯気を立てるそれから公爵は無為に目を逸らす。

「我が友は言った。あれはハルネ種である。むしろ、もはやあの地でハルネ種以外の小麦は育たないとな。なるほど、ハルネ種とヨグネ種はほとんど差がないと聞く。誤魔化しにはうってつけであったか」

「……ええ、閣下。ハルネ種とヨグネ種はよく似ております。ですから、そのご友人も判別を誤ったのでございましょう」

 濃緑の双眸が子爵を見据えている。静まり返った部屋で、女神を象る壁掛け時計だけが常と同じように時間を刻んでいる。

「閣下。我が管理地における小麦は、全てヨグネ種でござございます。ハルネ種であるとおっしゃるのであれば、どうぞ、証拠をお見せください」

 子爵には確信があった。公爵はこの場で証拠を得ようとしている。断定的に話ながらも証拠を示さない、先ほどからの言い回しの不自然さはそのためであろう。彼が失策を犯さなければ、公爵は証拠を得ることができない。彼は、何としてでも小麦の品種を隠し通さなくてはならない。

「土の色である」

 虚を突かれた子爵は、反論も疑問も忘れて口を半開きにし、公爵を見つめ返した。断言する公爵の顔色に迷いはない。

「あるいは、もみ殻でも良い。いずれも偽ることは叶わぬ。謀は破綻したのだ、プルーフ卿」

 公爵は紅茶を啜った。毒を盛られている可能性など微塵も考えていないような飲みっぷりだった。子爵は確信が崩れ去るのを感じていた。

「お前は、敗けたのだ」

「閣下。わたしには分かりません。何を――」

「あがくか。無駄である。お前の裏切りの証左は既に我が掌中、いかようにもならぬ」

 子爵が瞠目するのを公爵は虚ろな心地で受け入れる。彼は貴族として大した力は持っていない。そのために彼は罪が暴かれることを殊更に恐れた。権力で誤魔化せる範囲が狭いゆえに、彼の謀略は酷く慎重に進んでいた。調べるのには苦労しました、とは公爵の息子の言である。こともなげに証拠を揃えてきたわりに、子爵の話をする彼には独特な陰りがあった。

「――なるほどな。惜しい、か」

 子爵の瞳は揺れていた。彼の赤髪は数年前のような艶がない。そこまでしてなぜ彼が国に反逆するのかその理由を息子は頑なに語らなかった。何よりも、シュベールの誇るべき友が直接聞きだすことを強く勧める。あの男は貴族のことなど何も知らないふりをして、誰よりも上流階級の人間を理解している。

「お前がこの地とプルーフ子爵位を継承したは、十七年前であったな。こちらの調べでは、裏切りに手を染めたのが丁度十年前。だがお前は十七年間この地を良く治めた。ここ七年は随分税収を落としたが、それでも良くもたせたと言えよう。……聞かせよ、プルーフ卿。十年前、お前がフィリグラフを、否、アンペルゲアを捨ててでもヴァレンの皇帝に助力した所以を」

「ああ……ご存じなのですね、本当に。閣下。ええ、お話ししましょう。全て……わたしが十年前見たものと、わたしの裏切りの全てを」



 始まった、とリノンベールは言った。

「プルーフ卿は早々に折れたのか」

 部屋に入って即座に侍女達を追い出し、動きにくいドレスを早々に脱ぎ捨て、わざわざ人に隠れてくるようにと言って招き入れた割にやる気なく、長椅子に身を投げ出した弟に問い掛けて、ウィネグスは少し離れたカウチに腰掛けた。

「あの男も貴族だ。少しは粘ると思ったんだがな」

「それはどうでしょう。子爵は惜しい人間です。彼には貴族として生きていく有能さがあったのに、覚悟だけが足りなかったので。哀れな男です。彼は貴族になんかなるべきではなかった」

 答えるリノンベールは、だらりと片腕を椅子から落とし、ぼんやりと天井画を眺めている。高さのない長椅子から零れた金色の髪は毛先を絨毯に沈めている。

「兄上は、何故ヴァレンが戦争をするんだと思いますか」

 いつかの問いをウィネグスに重ねて、リノンベールはごろりと寝返りを打つ。綺羅綺羅しい照明は不要だと言って、ウィネグスが来る前にリノンベールは簡素な明かりに切り替えてしまった。

「大きな要因はヴァレンの土地そのものの限界だろう。土地は年々痩せ細り、技術だけでは補えなくなってきている」

「他には?」

「他は……王家の血か。今の話にも繋がるが、王家の祝福を手に入れれば大陸征服も夢じゃない」

「大陸一つ手に入れても心底邪魔なだけだと思いますが、そうでしょうね」

 広大な土地は幸福だろうか。麗姫が知る限り、前世、広大な領土を手に入れた国はその悉くが長続きしなかった。

「こう考えたことはありませんか、兄上」

 扉の向こうが騒がしい。結論は導かれたらしい。子爵の計略は暴かれた。

「アンペルゲア王国は本来存在してはならない国である」

 薄暗がりに解けてしまいそうなほど希薄なリノンベールの気配は、飛び込んできた騎士にかき消された。



 彼がその可能性に気が付いたのは、まさしく偶然の産物だった。

「失礼、旅の方とお見受けします。あの……大丈夫ですか?」

 家の者と狩りを楽しんでいた少年は、山中の道を外れたところで休んでいる数人の集団を見つけた。一見すればひたすらに怪しい一行ではあるが、その中心人物と思しき青年が誰かに似ているような気がする。そう感じたのが、少年が声を掛けた理由だった。

「……何者だ」

「ええと、失礼しました。わたしはカシミスです。ここのご領主のフィリグラフ公からプルーフ子爵位を賜った、キトニス・ディリュの息子です」

 武器を持った一団に警戒する彼らに配慮して、少年は素直に身分を明かした。誰とまでは分からないが誰かに似ているということは、この中心の青年はアンペルゲア貴族の一員である可能性が高い。最悪この国の人間ではなかったとしても、現在ヴァレン帝国が内戦中であり、その余波で周辺国も荒れていることを考えれば、あまり間者という線は濃くないだろうという判断もあった。

「そちらの方がけがをしているご様子でしたので、なにかお手伝いできればと思いまして」

 折角の綺麗な金髪であろうに、血と土で汚れてしまっている青年を見遣って、カシミスは自分の意図を説明した。よくよく見れば旅装といえども高価そうなものを身につけており、周囲の人間もきちんと武装している。これは訳ありの貴族だな、と踏んで、恩を売っておこうと思ったことは否めないが、八割方は親切心からである。

「カシミス様、あまり勝手をなさってはお父上がまたお怒りになりますよ」

 護衛が後ろからそっとささやくが、カシミスは頭を振って引かなかった。そのやり取りを見ていた青年が近くの一人に何かを耳打ちする。

「もし休む場所が必要であれば、屋敷の部屋をお貸しします」

「いいや、カシミス殿。御厚意には感謝しますが、それには及びません」

「ですが、その……」

「しかしもしお持ちなら、傷薬をお分けいただきたい。こちらの手持ちがもう、無いのです」

 相手の返答を受けて、彼はすぐさま薬箱を持たせている従者を呼び寄せた。白い木肌の箱から数種類の傷薬を取り出し、目の前でほんの少し使ってみせる。

「どうぞ、こちらを」

「ありがたく」

 薬を同行者に渡した瞬間に、青年が微かに笑んだのをカシミスは見た。花が咲むような顔のほころびは彼の心に影のように焼き付いた。

「この身が言うべきことでもなかろうが、カシミス殿」

 木に寄り掛かったままの青年が初めて少年に向かって口を開く。低く響く声は見た目の年齢通り若いが、妙な重厚さと人を容易く陥落させるような甘やかさがあった。

「もう少し、警戒心を養われるがよろしかろう。後ろの家人が気を揉んでおる。そうやすやすと、かような出で立ちの人間に声をかけるものではない」

 そう言うと、やはり青年は僅かに口元を緩める。本人はそう言うが、彼らに敵意や害意はなく、また悪い人間であるようにも感じられない。

「機会があれば、この恩は必ず返すものとしよう。感謝する、カシミス殿。――ゆかれよ。日の暮るる前に山を下らねば、この山は獣の出る、その身も危うかろう」

「……ご忠告ありがとうございます。そうします。どうか、道中お気をつけて」

 旅の無事を祈って、彼は山を下った。

 少しして、カシミスは学園の高等部に進学した。そこでようやく、彼は青年が誰に似ていたのかを思い知り、同時にとある疑惑に至る。四年後、高等部を卒業して父の手伝いをするようになってなお、その疑惑はふとしたときに頭をよぎった。むしろ、卒業後の方が疑念は酷くなっていった。

 学園を卒業して八年後、彼はプルーフ子爵位を継承する。父キトニスがヴァレン帝国との戦争で戦死したためだった。子爵位を継いでますます彼の心は軋みを上げた。さらに七年経ち、彼の人生二度目の戦争で彼は所領の防衛のため戦場に立った。その時点で既に、彼の疑惑は忠誠を濁らせるまでに拡大していた。

 彼は防衛のための戦場で、あの時の青年と再会した。刃を交えたわけではない。轡を並べたわけではない。ただ、カシミスは密かに彼に接触をした。そしてほんの少し話をしたに過ぎない。

 疑惑は確信へと変貌した。ゆえに、カシミスは王国を裏切った。

「戦が終わり、わたしはヴァレンとの裏取引を始めました。しかし……気が付いたのでございます。小麦の収穫量が、激減していることに」

 彼は――プルーフ子爵は、すぐさま対策を練った。このまま税収が落ちれば、公爵からの監査が入り、裏取引に気付かれる。そこで目を付けたのが裏取引の中で手に入れたハルネ種だった。ハルネ種はヴァレンが自国の貧しい土地で小麦を育てるために開発した品種であり、滅多なことでは凶作にならない。

「小麦の品種に気付かれるわけにはまいりませんでした。出所は裏取引でございましたから。ここから先は閣下もご存じの通りでございます」

「……分からぬ。その裏取引でお前は何を得たか」

「……何を。何を、得たか……。ええ、ええ、強いて申し上げるならば、()()。何も得るものなどございませんでした。ただ、あのお方のためだけに。そのためだけに」

 公爵は沈黙した。

「……閣下。お聞かせください。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――お前」

「恐れながら、閣下ではないことは明白でございます。これは勘のようなものではございますが、お話の最中の言葉は、閣下のものではないように思われました」

「…………」

「閣下はわたしの“理由”をご存じではなかった。わたしの“疑惑”をご存じではない。誰でございますか」

「言えぬ」

「ではこうお聞きすれば答えていただけますか。――紅い蝶を見たのは、誰でございますか」

 紅い蝶、と聞いた瞬間、シュベールの思考が弾け飛んだ。元々彼はこの件に関して多くを聞かされていない。これが理由か、とシュベールは心の中で呻いた。

「やはり。……でも、よかった」

 会談を始めてからずっと苦悶していた瞳がふと、和らぐ。

「閣下。ご忠告申し上げます。――紅い蝶を、決して見てはなりません。わたしの気付いた『疑惑』に、決して至ってはなりません。どうか、お気を付けください。わたしの裏切りに気が付いたものは、既に紅い蝶を見ております。いかに閣下の腹心であったとしても、紅い蝶を見た時点でその心は離れている。閣下……どうか、道中お気をつけて」

 子爵の忠告に気を取られていたシュベールが止める間もなく、その動きにためらいはなかった。

 カシミスは自らの頸を掻き切った。

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