第三話 赦される可能性
歌が、聞こえる。しらない言葉、しらない旋律の歌が。
歌う声は酷く優しかった。歌っている姿は見えなかったが、美しいひとなのだろうと思った。
――大丈夫だよ。
暗闇の中で目を醒ます。声に導かれて進み、真っ黒な世界にぽつんと孤島のように取り残された花畑で立ち止まる。紅い薔薇の上で紅い蝶が戯れている。いつの間にか頭上には大きな満月が浮かんでいた。
――私が傍にいよう。
紅い蝶が飛んでゆく。歌の聞こえる方へ。それを追いかけて花畑を出ると、陽炎の花々は消え去った。辺りを見回す。誰もいない。何もない。ただ、歌だけが何処からともなく響いてくる。歌の方角は既に見失われていた。
再び周囲の様子を探る。呼吸の音は聞こえないのに、生温かな生き物の気配がする。ぬるりとした感触が指先を覆った。気持ちの悪さを飲み込んで歌を求めて走り出せば、ぬめりに足元を掬われる。正気を保っていられるうちにと慌てて立ち上がり、ぐちゃぐちゃに撒き散らされた血溜まりから、走って逃げた。上も下もないこの真っ黒な世界で、歌だけが立ち方を、走り方を教えてくれる。
――大丈夫だよ。そう、そのままに。歌が聞こえるのだろう?……そう、いい子だね。
歌が、聞こえる。歌が、聞こえてはいけないはずの歌が、優しい歌が、知らない歌が、どうしようもなく心を掻き立て、憎悪も嫌悪も哀愁も憤怒も飢餓も寂寥も忘れさせる、罪の証が、聞こえる。聞こえてしまう。
歌を、聞いてはならなかった。
たとえば、と、視察先の領都から最も近い村へ向かう馬車の中で唐突に切り出した兄の手持ち無沙汰な右手は、膝の皿を何度も撫でていた。本から顔を上げて兄を真っ直ぐに見つめなおしたリノンベールは、不意にその襟が折れていることに気が付く。
「おまえが自分の正義に疑問を抱いたとき、どうする?」
馬車の中では静かな森が延々と続いている。森を挟んで向こうにある行先のクシューツェル村は豊かな土壌を持つ反面災害に見舞われやすく、領内で不作が生じるとすればまずこの村が異変に襲われる。
「どうするんだ?リノン」
兄は問いを繰り返した。密やかな溜息と共に先への不安が零れ落ちてゆく。
「どうもしませんよ」
リノンベールは、麗姫は運命に逆らわない。逆らえない。運命こそが彼女の正義であり、流れが変われば彼女の正義もまた変わる。人は、それを日和見主義と呼ぶ。
「兄上、正義は信じるものではないんです。だから疑うこともない。正義は定めるものでしょう、兄上。信じたりはしない。決して、絶対に」
「なら、定められた正義を変えなければならないような状況に陥ったら?」
「変えます」
リノンベールが断言すると、鳩が豆鉄砲を食らったかのように碧い目をまん丸にして、ウィネグスは弟を凝視した。ぱたりと読みかけの本を閉じ、森のような瞳が薄く笑う。
「変えますよ、必要なら。勝てば官軍、負ければ賊軍とも言いますからね。正義なんて所詮、そんなものです。あれは大人の玩具なのだから」
吐き捨てて、リノンベールは窓の外に視線を移した。木々の深いこの森は、領都近くにある山地から続いている。真昼、道を通って抜けるのにはそれほど苦労の要らない森だが、迂闊に子供が迷い込めば危険だろう。夜には確か、熊も出る。
「迷っているんですか、兄上」
ふいに、視線を中に戻して弟が尋ねた。完全に隙を突かれる形となったウィネグスは、答えを考える時間を見失ってしまった。
「わた……しは」
「――大丈夫ですよ、兄上」
リノンベールの両手がウィネグスの右手を取る。白く、まだ小さい手は、驚くほど温かかった。
「私が手を握っていてあげます」
馬車はもうすぐ、森を抜けようとしていた。
バクスを護衛に、シュベールとウィネグスから離れたリノリアは村の人間に断って幾つかの畑を見学させてもらっていた。少女とも呼べないような年頃の貴族の娘がたった一人の護衛のみを連れて村中を見て回る姿に村民は驚嘆を顕著にしていたが、一刻も過ぎれば次第にそれも収まった。少量の土を小瓶に詰め、ラベルに何かを書き込み、騎士の持つ大きな木箱に仕舞いながらそれぞれの畑の具合を確認し、事細かに記録する。土地管理人のようだ、とバクスは考えた。作業中、リノリアは最近にしては珍しくにこりともしなかった。
「お兄様のもとへ戻りますわ」
「かしこまりました。箱は如何いたしましょうか」
「持ったままに。ご迷惑をお掛けしますわ、バクス」
「いいえ、リノリア姫様。この程度は迷惑とは申しません」
彼女は人使いが非常に上手く、その分要求する仕事もレベル、量ともに高水準だが、存外に福利厚生を徹底している。バクスは護衛任務に就く直前にしっかりと休憩と食事をもらっていた。荷物を持ちながら護衛をするぐらいはむしろ軽い。
「ひとつ、お伺いしても?」
「ええ、構いませんわ」
村長の小さな屋敷に戻る僅かな道のりの中で、バクスは抱えていた疑問を解消することにした。感情の無い返答に多少面喰いつつ、騎士の矜持で平静を保ち言葉を綴る。
「何故、お一人でこのようなことをなさるのですか?」
彼女が、王家の血を継いでいることを除いても普通ではないことは、出会った当初から理解していた。彼女が普通の貴族男子以上の教育を受け、次期フィリグラフ当主のウィネグスと共に父シュベールの仕事を手伝っていることも知っている。だがいつだって彼女は、父と兄の陰に潜むようにして活動してきた。完全に二人を離れて独自で動いたことは、今までただの一度もない。
「ああ……それは単純なこと。人手不足だからですわ」
あぜ道の中央に塞ぐようにしてできた水溜りを器用に避けて、黄金の髪が涼風に揺れる。柿色の簡素なドレスの裾には作業中付着した土がそのままになっていた。
「お父様もお兄様もお仕事が山積しているというのに、こんな手間ばかりで実入りの少ない案件にお手伝いいただくだなんて申し訳なくて。でも他に代わる方もおらず……ですから私が動くのですわ。私はそれほどお仕事がありませんもの」
暇を持て余しておりますの、とリノリアは笑った。実際は違う。当主に近い者たちしか知らないが、今のフィリグラフ公爵領は実質シュベール、ウィネグス、リノリアの三人で回っている。
「ああ、くだらない。みな、どうしてこんなつまらないことをするのかしら――」
最後に零れた彼女の本音は、秋を予感させる土の匂いの風にかき消された。
耳障りな、甲高い女の喚き声が聞こえる。木箱を持ったままのバクスを伴って、リノリアは秒毎に騒がしさの増す村長の家へと足を踏み入れた。二刻ほど前には整っていたはずの応接間は物が散乱し、壁には幾つもの傷が走り、何より村長とその妻が捕らえられて床に伏している。他にも何人かの村人が失神して部屋の隅に転がされていた。溜息をついたリノリアに苦笑して、彼女を待ち構えていたウィネグスは肩をすくめる。
「想定以上に暴れましたわね」
「それはそうだろう。誰も彼もがわたしやおまえのように合理的に生きていけるわけじゃないさ。特に、彼らには本当にもう後がなかった。なら、こうなるのは必然だ」
「私が――合理的かは置いておくとしても」
リノリアは改めて室内を見渡す。その荒れようは彼女が初め想像していた何倍も酷い。時を置かずしてこの有様は近隣の町村にも知られることとなるだろう。
「り、リノリア姫さま!」
悲痛さの滲む叫びが密やかに話し合う二人を遮った。取り囲んでいた騎士が毛を逆立てるのを目線で押さえて、リノリアはくるりと後ろを振り返る。
「リノリア姫さま!どうか、どうか公爵閣下を、お父ぎみをおいさめください!我々はこのような扱いを受けるいわれはありません!このような……」
「まあ」
リノリアの登場に妻が黙したかと思えば代わりに騒ぎ出した村長に目を遣って、彼女は穏やかに微笑んだ。縋るような、しかして蔑視の織り交ざる、一縷の希望を孕んだ疎ましい眼差しから逃れるように右の手は扇を求めて宙吊りになる。気の付いた騎士の一人が彼女の扇を取りに馬車へと戻った。土集めへと出掛ける際、馬車に愛用の扇を置き去りにしてしまったことをリノリアはすっかり失念していた。
「そうね。あなたがたが捕らえられていることはとてもとてもおかしな話ね」
「姫さま……!!」
村長は感涙に噎び、妻もまた安堵したような面持ちを見せる。対して、彼らを捕縛した騎士達は困惑していた。
「捕らえるのではなくて、殺すべきだったわ」
馬車から戻ってきた騎士から扇を受け取り、口元に広げた少女は、朗らかな声で宣告する。希望に満ちた表情から一変、青ざめた村長とその妻を見下ろして、リノリアは一歩後退した。一部の騎士の顔は蒼白になり、ウィネグスの海の瞳の奥には動揺が微かに見て取れる。
「ひめ……さま……?」
少女は更に後ろへ下がる。何度も何度も。彼女にはその自覚がない。
「仕方のないことだわ。お父様とお兄様を裏切ったのだもの。――どうして、私は捕縛だなんて甘いことを言ったのかしら……?」
扇の奥でリノリアが困ったように笑う。事実、生かしておく価値など一欠片もなかった。まともに裁判をしたところで彼らの極刑は免れない。捕らえておいたところで使い途のあるわけでもない、見せしめに殺してしまったほうがむしろ有意義ですらある。彼女には本気でその理由が分からなかった。何故、裏切り者を生かそうと思ったのか、その理由を今のリノリアは理解できない。
「そうね。そうだわ。生かしておく必要はないのだもの。殺してしまった方が良いわ。――そうよ、その方がきっともっと上手くいく。ああ、計画に修正が必要だわ。ねえ、お兄様」
「リノ、おまえ」
ウィネグスの人形のような端正な顔が当惑に歪む。その反応にリノリアもまた戸惑って、愛らしい黄金の頭をちょこんと傾けた。
「どうなさったの?お兄様」
「おまえ、どうして急に」
「急に?……どうしてかしら。でも、その方が話が良く進みますわ。お分かりになるでしょう?」
「リノ、だが」
「……お兄様?」
ウィネグスはふらりふらりとリノリアに近づいた。逃げもせずに彼女は兄をただ待って、黙って兄の抱擁を受け入れた。
「だめだ。だめだ、リノ、それは……」
「お兄様?ねえ、どうなさったの」
「だめなんだ。それはいけないんだ、リノ」
「分からないわ。何がいけないの、お兄様。どうしてだめだとおっしゃるの」
わからないわ、と繰り返すリノリアの右肩は、炎を帯びたかのように熱かった。
次の街へと向かう途中、ウィネグスとシュベールの乗った馬車は重い沈黙に包まれていた。双方話を切り出そうとして、様々な考えが過ぎり結局失敗する。話が途絶えてから既に半刻が経過しようとしていた。
「昨日のリノンベールを、父上はどうお考えですか」
半ば自暴自棄といった印象が拭い切れないが、先に成功したのはウィネグスの方だった。漸く動き始めた時間に対して嘆息し、シュベールは何度も脳裏をよぎる昨日の息子の姿を心に押し留める。
「そうだな。元々リノンベールは人間に対して冷酷な面が強い。だが……昨日のあれは、明らかに今までのそれとは違った」
彼の企画した計画は情に欠ける。それが初め、シュベールが承認を渋った最大の原因だった。
リノンベールはウィネグスとは異なり、他者の心を理解できないタイプの天才ではない。彼は十全に相手を理解し、その心に寄り添い、それを利用する。リノンベールはある意味で、他者を思いやる心が卓越している。それがシュベールの四年分の印象だった。
ただその思いやりの合理性を冷酷さと呼ぶのならば、彼は確かに冷酷なのだろう。思いやりの果てに人を利用するのならば、それは確かに優しさではないのかも知れない。だが、彼の動機は常に極めてシンプルだった。リノンベールは自らの行動の原因を他者には見出さない。彼の求めるところはひたすらに、「彼にとって心地の良いこと」である。
「父が苦しむのは心地よくない。兄が悲しむのは胸が痛む。人をやたらと傷付けるのは、どうにも不快な感じがする。多分、あの子は人に対する共感能力が高過ぎるんだよ。だから人の心を読むのが巧いし、他者を簡単に操れる。だけどね、共感能力が高いってことは他人の負の感情すら伝播しているということに他ならない。それは本人にとって酷く『不快』なことなんだよ、シュベール。わかる?だからあの子の思いやりは冷酷で、自分勝手なものかも知れないけど、他者を傷付けるようなものにはならない。それが、自分のための思いやりなら」
仮面の友人にそう言われて以来、シュベールはずっとリノンベールの「思いやり」に気を配ってきた。彼の言う通り、リノンベールのそれは他人を傷付けることをしなかった。彼が不快なものを避け続ける限り、彼は他人を徒に苦しませたりはしない。
「あれは」
昨日のリノンベールは違った。彼は村長夫妻を絶望の沼に叩き落し、あまつさえ簡単に殺そうとした。ウィネグスの胸中に気が付かなかった。
「あれが何であったのか、それは私にも分からぬ。だが……そうだな、あの二人を殺すべきであったというのは、そうであろう。あの計画には情が無かったが、甘さがあった。昨日のリノンベールにはそれが無かった。逆を言えば」
昨日のリノンベールには、心が無かった。
佐竹麗姫は裏切り者の名前を知っていた。全てではない。裏切りの中核となっている人物、それも一部だけだ。そうでなくては、いかな白桜の加護を受け、麒麟児と呼ばれる器であっても全ての裏切りを炙り出し、提出したような証拠を揃えることは不可能だった。実は、証拠集めにはあの仮面の男を頼っている。存外に万能なあの男は、頼まれた夜会に潜入し、密談を盗み聞きし、取引の物証を回収するという割と無茶ぶりのような案件まで軽々とこなして見せた。一度目の証拠は彼に。二度目の証明は兄に任せた。四つ年上のウィネグスは集められた証拠の更に裏付けを取り、見事彼女に差し出した。三度目の確定は自身が。リノンベールとしては経験不足でも、佐竹麗姫は人の言動を骨の髄まで――魂の髄にまで沁みて良く知っている。三歳の一年間を犠牲にして集めたそれらの証拠と情報を精査して、彼女は裏切り者のリストと捕縛の計画を練り上げた。
(だが、足りないな)
一人きりの馬車の中で微睡んで、麗姫は遠い過去に思いを馳せる。既に手の届かない彼女の親友、花塚柚季の話と照合すれば、この世界が『青き歌は戦場に響く』であることは疑いようもない。ならば彼女に聞かされた裏切りはまだ続く筈だ。世界の全てを破壊する許容しがたい欺瞞は、その全てを麗姫が踏み躙らない限りのさばり世界を食らう。
「このゲームって、裏切りがけっこう鍵になってると思うわけだよ、僕は」
ゲームのパッケージを見せながらのんべんだらりと解説する柚季はいたく楽しげだった。裏の人間関係がかなりドロドロなんだよ、と笑う彼女に、乙女ゲームとはそういうものなのか、と訊けば、違うよ、と答えは返ってきた。
「物語に深みを持たせるために過去がー、みたいなのはあるけど、こーいうのは普通ナイナイ。ってか、これだって別にはっきりそーいう設定ありますよーって言ってるわけでもないわけで」
酔っていたのか、グラスを傾けた彼女の顔はほんのりと色づいていた。これが家飲みで良かったと麗姫は心底安堵していた。
「んー、あくまでこれは僕の解釈なんだけどサ」
一休み、と断って柚季はローテーブルに自分のグラスを置き、ソファに寝転んだ。滑らかな肌の生足を背もたれに掛け、腕をだらりとぶら下げて何事もなかったかのように話を続ける。
「あ、その前にメインキャラはっきりさせとく。主人公――デフォ名がたしか、セフィユナ・リューカ・タビオー・オウィディシス・ロナ・アンペルゲア、だったかな。普段出てこない名前ですけどさー。長い……。これが王女ね。婿探ししてるの。あれ、ざっくりした話したっけ?」
「加護が、というあたりは聞いたな」
「んじゃあ、その辺カットで。基本の攻略対象が五人。アントゥポール、イーフェウ侯爵家次男。スウェニオ、プルトゥミニ辺境伯家三男。キシュテール、テオン公爵家分家。ウィネグス、フィリグラフ公爵家長男。エイネール、ミュオー伯爵分家。友人枠は……いいや。悪役令嬢枠が一人。リノリア、フィリグラフ公爵家長女。ちなみにウィネグスの腹違いの妹」
「悪役令嬢……ということは、何か悪事でも働くのか」
「あっはっは。するよ、する。むしろ“悪事”とか可愛い。どんな悪逆非道もお構いなしよ。やっちゃうぜー」
ひとしきりけらけらとソファの上で転げまわって(といっても寝返りを何度も打つだけだが)、柚季はむくりと起き上がった。麗姫もまたグラスと少量のつまみを持ってソファの方へ移動し、背もたれに腰掛ける。麗姫から皿を受け取っ柚季はナッツをかりかりと齧る。
「まあ、表向きの話だけど」
抑揚のない声に、麗姫は目を丸くした。ゲームの話をしているときに彼女がこれほど熱の無い声を出すことはない。
「表向き?」
「そ。まあでもその話は今はいいよ。後にする。で、この攻略対象ども、みーんな誰かを裏切るか、過去に裏切ってるんだよね。やあ、面白いよ?いっそ笑えてきちゃう。そんでもってそのとばっちり食うのは全部リノリア。かーわいそ」
「大変な役回りだな」
「まあね。でもリノリアはそれを一人で乗り越える。乗り越えなきゃいけないから。だってそうしないと――人が大勢死ぬって、多分リノリアは知ってるから」
柚季はグラスを煽った。空になったグラスをテーブルの端の方に追いやって、今度はチーズをちまちまと食べる。
「“多分”――公式設定ではないのか」
「そーだよ。公式じゃない。だからもし僕の解釈が正しいとしたら、このシナリオ書いた人、設定に相当拘って作ってるね、絶対。さっき人が大勢死ぬって言ってはみたけど、これもそんな描写ないのサ。でも、そうだって分かる。分かる人になら、必ず」
「――面白いな。私にも分かるか?」
「分かるよ」
断言して、柚季はほんの少し唇の端を吊り上げた。
「分かる。――むしろ、麗姫に分からないはずがない」
「光栄だな」
「謙遜しなくても麗姫はすごいよ」
穏やかな肯定は心地が良かった。空になった皿に追加のナッツとチーズを乗せて、麗姫は空いているソファに座り込んだ。
「前提条件として、アンペルゲア――あ、舞台になってる王国ね。この国って割と北にある設定なんだよね。更に三つの国と海に接して、あと、特に大きな隣国のヴァレン帝国は技術大国って設定」
「アンペルゲアはそれほど大きくないのか?」
「大きくない。中堅……って呼ぶにも少し弱いくらい。加護のおかげで王が代々優れてて、土地がすごい豊かって特徴が基本だからね。まあ、農業国ってとこよ」
「有能でも野心家はいなかったということだな。ヴァレン帝国の土地は豊かではないのか?」
「豊かじゃない。加護は王家の名のもとにアンペルゲアにしか影響ないから、ヴァレンは土地痩せてるよ。きっと、アンペルゲアの土だけが黒いんだね。まあ、ヴァレンは技術力で収穫量増やしてるけど。――品種改良で」
「……なるほどな。少し読めてきた」
夜も深くなり、大通りに近いこのマンションも静けさに包まれつつある。反して柚季の瞳の色は淡さを増した。既に台所に並んだ空き瓶の数は七本を数え、肴も底を尽きかけている。
「元々の気質も相まってか、ヴァレンは好戦的な国でさ。ちょくちょくアンペルゲアにちょっかい掛けてきたりとか、舞台になってる時代も小競り合いして休戦してって感じなんだけど、王女始め国上層部のほとんどは反戦的な風潮なんだよ。ただ、リノリアだけがちがう」
「戦争を……肯定するのは難しいな。なにせ人が死ぬ。他にも弊害はあるが。だが反面、否定することもまた、難しい」
「あー、やっぱりね。麗姫もそー思うんだなあ。そ、リノリアもそんな感じだよ」
「戦争賛成派……違うな。反戦派ではない、か。戦争は一つの手段だから」
「大当たりぃ!なら、必要なら採るんじゃない?その手段」
麗姫は黙りこくった。彼女はその言葉に是とも非とも返せない。おさけ、と柚季が嘯いた。酒の追加を求めセラーへ向かう彼女の足取りは踊るかのようだった。麗姫にはできない。彼女では転んでしまうだろう。
「んー、どれにしようかな。――……ねえ、麗姫はさ、なんでヴァレンが戦争するんだと思う?」
ガラスと金属の触れ合う音が繰り返し響く。照明を絞ったリビングで、次から次へとワインの銘柄を確認する柚季の姿だけが麗姫には明瞭に見えた。麗姫は自らのワイングラスを手に取る。軽く傾けて明かりに透かすと、底に微かな澱が溜まっているのが見て取れた。
「今までの話を統合すれば――ヴァレンはもう長くもたないだろう」
民を飢えさせないほどの収穫量を得るため、ヴァレンは痩せた大地を技術――品種改良で補った。それは一時彼らに夢を見せただろう。痩せた大地でも生きてゆけるのだと民衆は自信を持っただろう。だが、恐らく大地そのものは変わっていない。そのまま彼らが農業を続ければ、時を置かずしてヴァレンの土地は力尽きる。
ヴァレンはいずれ大量の餓死者を出す。その前に農地を確保する必要があった。
「幸い隣には女神の祝福を受けた王国がある。王家を丸ごと呑み込んでしまえば、ヴァレンの土地も回復するだろう――とでも考えた筈だ。そしてリノリアもまた、その可能性に勘付いた」
祝福を彼の地に。だがリノリアは国を見捨てることができなかった。そもそも祝福を受けた王に軍事で敵うべくもない。ならば、ヴァレンを取り込んでしまえばよいのではないか。戦争で死ぬ数よりも、餓死者の方がずっと大規模で、残酷なはずであるゆえに。
「かなしいかな、王女は愚かじゃなかったよ。攻略対象どもも」
セラーの扉を静かに閉めて、ボトルを二本抱えた柚季はソファの前のローテーブルにそれらを置き、新たにショットグラスを二つ出して一つを麗姫に差し出した。
「ああ――そうか」
グラスのワインを麗姫は飲み干す。残留する澱はグラスの壁にへばりつき、最後の飲み口は一等苦みが感じられた。柚季が新しく開けた赤ワインをなみなみと注ぐ。澱は底へと沈んでいった。先ほどよりも濃い赤は、まだ開ききっていない影響でひどく刺々しかった。
「悪役令嬢には主人公が邪魔だったんだな」
悪役令嬢は戦争をしたかった。主人公も攻略対象も、戦争をしたくはなかった。止めようとした。そのために悪役令嬢をだまし、裏切り、傷付けて、それでもリノリアは多くを生かすために戦争を推し進めようとする。その逆もまた、成立する。
「そーだね。そう……それが悪役令嬢側の事情。まー、あくまで推測なわけですけれども。なら、主人公たちは?これがまたすごいのサ。いや何がすごいってこれだけの情報量を裏に潜ませたシナリオライターが。……主人公にも攻略対象どもにも事情があったわけで、その理由がとんでもない。そりゃーもう、相関図作ったら真っ黒になるくらい」
裏切りのオンパレードなんだよ、と言ったときの親友が、酔った笑顔の裏側に一体何を思っていたか、今の麗姫には知る由もない。
またヒロイン出てこなかったぞ……!!
いや、柚季が出てきたんでいいんですけれども。へい、この作品二番手のキーパーソン、ここでやっとお披露目だぜ。
感想、評価、あと感想(←ここ大事)、お待ちしております。うぇるかむ!